〇〇四
勿論、逃げるさ。
二階堂譲治がそう口にするよりも早く、「助けてくれ」と言う絶叫が彼の耳朶を打った。小さなラーメン屋の玄関から飛び出して来たのは高校生らしき少年が一人。その顔は恐怖に青褪め、店先から出て直ぐに足をもつれさせて転んでしまう程に平常心を失っているようだった。
「ん?」
何が起きても反応できるようにゆっくりと後ろに足を下げながら、譲治はその少年の顔に見覚えがある事に気が付く。無謀にも譲治に強盗を働こうとした田中と愉快な仲間達の一人だ。今日はスマートフォンを構えておらず、回りに他の三人の姿もない。
果たして、この出会いは偶然だろうか? なんだか嫌な予感がする。
だが『助けて』と言われてしまった。そのたった一言が譲治の思考を、護衛として良くない方向へと引き摺りこむ。
「あ!」
と。譲治の視線に気が付いたのか、顔を上げた少年と目が合った。軽薄な自信に溢れた瞳はそこにはなく、涙に濡れる眼は年相応かそれよりも幼く見えた。
「おっさん! お前! 田中に何したんだ!」
しかし生意気な口は変わらず。小鹿のように震える足で立ち上がりながら虚勢にもなっていない態度でそんな風に叫ぶ。本当なら目を背けて無視したい所だが、こいつが潜在意識であった場合に決定的な隙を晒す事になってしまう。万が一にもそんな可能性はないのだが、人生とは言ってしまえば万が一の連続であり、油断や思い込みは禁物だ。
「おい! おっさん! 無視すんなよ!」
「ジョージさん、なんか“おっさん”って呼ばれていますけど? 知り合いですか?」
「混乱しているんだろう。錯乱状態なんだ。可哀想に」
玲音の質問を早口にそう断言して、譲治は少年を観察する。見た所外傷らしい外傷はない。ブレザーの学生服が濡れているが、恐らくはラーメンの丼がひっくり返った時にスープがかかったのだろう。丼が割れる音が大袈裟な程に聴こえていたので間違いない。店外で順番待ちをしていた学生達は一切濡れていないから、潜在意識とは無関係だ。
ただ単に巻き込まれの被害者と考えるのは早計かもしれない。譲治よりも短気な人間に強盗を仕掛けて、要らぬ恨みでも買った結果の報復と言う事も十分に考えられる。後者ならば“関係ない”の一言で済むが、前者であれば譲治や玲音に被害が及ぶ可能性はぐっと高くなる。こんな目立つ事をしておいて、まさか目撃者を全員消すなんて事はしないだろう。
「お前が何か吹き込んだんだろ! じゃあなきゃ、あの屑がこんな事――」
黙々と考えを巡らせる譲治に反比例して騒々しい少年の声が止まる。彼の視線は譲治ではなくラーメン屋の入口へと視線を向ける。はっきりとした恐怖を浮かべて。
「酷いなぁ、あんなに強く押すなんて」
内開きの出入り口から少年の声。声の持ち主は何処にでもいそうな少年だ。本当に取り立てて描写する所もない。何処のクラスにでもいるような、友達と馬鹿な話で笑っている高校生以上の印象はない。ただ、右手に持った魔改造された漆黒のAK47とその弾倉から伸びる何本もの刺々しい茨の生えた蔦がブレザーの左胸に突き刺さっている事がその印象を大きく裏切っている。
その名前を知らず、泣いていない彼の声も顔もコレが初めてだった譲治だが、直ぐにあの夜の田中だとわかった。自信に満ちた瞳をして嗜虐的な笑みを作っているが、あの夜から何も変わらない不安と孤独の雰囲気は見間違いようがない。
「田中! お前! こんな事をしてタダで済むと思ってるいのか! 今ならまだ許してやるからやめろ!」
完全に引け腰の少年が高圧的に真智に唾を飛ばす。対象的に、真智は余裕たっぷりに首を横に振って薄く笑いながら答えた。
「僕が止めてと叫んだ時、お前達は止めてくれたか?」
いったい二人の間に何の確執があったか知らないが、絶望に叩き落とすには十分な答えであったのだろう。少年は自分の足では立っていられなくなり、その場で腰を抜かして「止めてくれ!」と心の底から懇願し――
「やだね。U?U!」
――真智が右手に持った冒涜的なAKの銃口を執念の眉間へと向け、引き金を引いた。
ぱぱぱ、と渇いた銃撃音が響くが、その音を耳に出来たのは譲治と真智の二人のみ。だが、突然その場で自分の喉に右手を突っ込む少年の姿を見れば何かが起きた事は玲音にも分かっただろう。
余りに深く腕を突っ込んだからか、少年は泣きながら胃の中身を地面にぶちまけた。まだ消化されていないラーメンの残骸を見て「百足が! 百足が!」と狂乱する様に、玲音は目を堅く閉じて譲治の腕に一層強くしがみ付いた。
「それくらいで大袈裟なんだよ!」
自分の吐き出したゲロをかき分けて何かを探す無様を晒す少年に、真智の顔に明らかな不満と嫌悪が産まれる。AKを模った管理者の銃口を再び頭に突き付け、引き金に指をかける。
「僕はもっと辛かった、もっと苦しかった。理解するか?」
そして再びの銃声。フルオートの射撃音が無味乾燥な音を立てた。
「恋の仮面舞踏!」
が、再びの銃弾が少年の脳天に打ち込まれる事はなかった。絢爛豪華に着飾った燕尾服姿の無貌の管理者、二階堂譲治の潜在意識恋の仮面舞踏が黒光りする禍々しい銃身を純白の手袋を嵌めた左手で掴むと、強引に照準を逸らしたのだ。突然の横やりに真智は対応できず、路地の向こうへと弾丸だけが空を貫いて飛んで行く。
「そこまでだ。止めとけ」
やっちまった。と、心の中で呟きながら譲治は首を横に振る。こんなクソガキを助ける為に、わざわざ潜在意識持ちにつっかかるなんてあまりにも馬鹿げた判断だ。玲音の護衛の範疇を明らかに超えている。
しかし目の前で『助けて』と言う人間を無視できる程に、仕事と私事を分けるなんて譲治には少々高度な問題過ぎた。このアホそうな少年を見捨てる事すら譲治にはできない。
同じくらい、真智を放っておくと言う選択肢もない。
「過剰な暴力は弱さの現れだ。弱さは不利となり、自身を悪化させる。俺はそう親父に教わったし、人生を通してそう学んで来た。安っぽい同情でそのアホそうな奴を助けわけじゃあない。俺の信念の問題だ。それ以上は止めろ」
「あんたは、一昨日の……。なんだ、あんたも潜在意識持ちだったのか」
「俺、今、結構良い事を言ったと思うんだ」
まるで無視された台詞を恥ずかしく思う譲治に、真智は真っ黒な瞳を向ける。
「で? 何で邪魔をするの? 僕が自分の足で一歩踏み込んだら、助けてくれるんじゃあなかったの?」
その黒色が孕む感情は何処でも見慣れたものでほとんが占拠されている。怨恨だ。過去に固執し、過去に復讐し、過去に生きる、人類がその根に持つ薄暗い情動の塊。人類が抱ける感情の中で最も激しく苛烈で強大な物の一つが真智の思考を侵している。
「僕は一歩を踏み出した! おじさんが言う様に、僕には力があった! 僕の苦しみを吐き出し、理解させる潜在意識が! U?U!って名付けたんだ。そしたら、見てよ! 簡単に跪かせる事ができた!」
どろりとした粘度の高い液体を思わせる真智の言葉。少年を見下す瞳にはおぞましく震える歓喜があった。この二人の間にどれだけの確執があったかを譲治は知らないが、その心が抱える闇の深さは嫌でも伝わって来た。
「なのにどうして邪魔をする! 僕を助けてくれなかったくせに、どうしてそいつを助けるんだよ! やっと僕の番が回って来たんだ! こいつらだけじゃあない、僕を助けてくれなかった全員に思い知らせてやるんだ! 邪魔をするなら、あんただって同じ様な目に合わせてやる」
これはどうやら真智の復讐であるらしい。別に譲治は復讐を否定しない。だが、それは過去を否定する物であっては駄目だと考える。起きてしまった事は何をしてもどうにもならないのだから。復讐であろうとも、それは未来の為になければならない。
ああ。気に食わない。こんな物は間違っている。間違いは正さなければならない。玲音を巨大な背中に隠す様に姿勢を変えながら、譲治は瞬きの逡巡の後に口を開いた。
「田中は、助けて欲しかったのか?」
「は?」
「あの夜。お前は俺に助けて欲しかったのか?」
「お前、何を!?」
その素朴な問いの意味を理解できないと真智は口と目をぽかんとさせ、次に譲治の馬鹿馬鹿しい台詞に怒りを燃やした。
「当たり前だろ! 僕は泣いていたじゃあないか! 苦しんでただろ! 辛そうだっただろ! 助けろよ! 大人の癖に! 見て見ぬ振りしてんじゃねーよ!」
その激しい感情に任せてU?U!の弾丸を放とうとしたのだろう。真智は右手に持った機銃を譲治に向けようとするのだが、恋の仮面舞踏に掴まれた銃口はピクリとも動きはしなかった。
「田中」必死に右腕を動かそうと何度も身体を捻る真智に譲治は言う。「俺だって言われなきゃわかんねーよ!」
「逆切れ!?」予想外の譲治の言葉に玲音のツッコミが光る。
「辛いとか苦しいとか知らねーよ! 一々お前の顔色窺う程に俺は暇じゃあないんだよ!」
それは確かにその通りだろう。が、虐めで苦しんでいた人間に対して言う事ではない。だが、譲治は言った。断言した。
「助けて欲しいなら『助けて』って言えよ! 辛い? 苦しい? お前みたいな奴の気持ちなんて、この二階堂譲治様が知るわけがないだろ! どれだけ他人に期待してんだ、ボケ! 気持ち悪いんだよ!」
拳銃を向けられても『怖くない』と言う譲治に、嫌な事は嫌々でもやらないと宣言した譲治に、同級生が怖くて嫌々犯罪行為に手を染めていた真智の気持ちがわかるわけがない。譲治は少しの悪気もなく、真智にも問題があると確信し、自分が絶対的に善であると疑っていない。
勿論、逆も然りだろう。普通の高校生である真智に、あまりにも強い譲治の気持ちがわかるわけがない。
だから、譲治は他人に同情しない。同情なんて大抵の場合が独り善がりな思い込みであり、その対象を個人として見る事無く、自分の価値観だけで判断する個人を侮辱する唾棄すべき行為だと父親に教えられた。
世の中には『困っている』『弱っている』と他人に思われたくない人間だっている。助けられて、誇りを傷つけられる事を嫌う高潔な人だっている。一方的な善意は彼等の精神を無視する、独り善がりの自己満足だ。
だから――
「俺はあの時、お前に『助けて』って言って欲しかったんだよ!」
だから、自分の気持ちはちゃんと言葉にするべきだと譲治は叫ぶ。
「さあ! どうする田中! お前は今も俺に助けて欲しいのか? それとも俺を邪魔だと言うのか? 選ばせてやるよ。ハッキリと言葉にしな、俺にお前は何を期待しているんだ?」
台詞を言い終わると同時、恋の仮面舞踏の手がU?U!を開放し、その長い脚が真智の腹を蹴り押してラーメン屋へと追いやった。
「ぐ、な、何のつもりだ」
何とかバランスを取りながら後退した真智は片手でU?U!を構え、銃口を譲治の頭へと狙いつける。これで、形勢は逆転だ。譲治の手は真智に届かず、銃撃ができる真智がかなりのリードを取った形になった。
「公平に、だ。卑怯さは必ずしも潜在意識の強さとは結び付かないからな。俺達の距離はこれ位が良い。これで俺達は対等だ」
しかし譲治の考えは違うようで、これでようやく五分だと薄く笑う。そればかりか、恋の仮面舞踏の姿すら消し、完全なる無防備を晒す。
まるであの夜の再現のようだ。
「馬鹿にしてんのか? これはちんけなナイフとは違う! 僕は強くなった!」
「親父なら『ゲームじゃあるまいし、人が強くなったりするわけないだろ』って笑う所だ。『世界は少しも変わらない。何と言うか、阿呆らしい気分である』ってな。さ、早く、選べよ。お前は助けて欲しいのか? それとも復讐したいのか?」
「後悔するなよ!」
真智が叫ぶと共にトリガーを引いた。復讐の弾丸は放たれ、
「まず、後悔の仕方を教えてくれよ」
格好をつける譲治の額を貫いた。




