〇〇三
「ポ、潜在意識……ですか?」
足を止めた譲治に合わせて歩みを止めた玲音が半信半疑に呟く。既に恋の仮面舞踏が黒服の男達を制圧した姿を見た(厳密には見ていないのだが)彼女ではあるが、やはり目に見えない物を信じると言う事は極めて難しい。先程までは超能力にはしゃいでいたと言うのに、真剣な表情で何もない空間を指さす譲治に対して困った様に整えられた眉毛を寄せている。
「ああ。見えないだろうが、蝶の形をした管理者が複数舞っている」
「蝶々? それに、複数なんてことがあるんですか?」
「業界じゃあ『群体型』と呼ばれてるな。自己の潜在意識を分裂させるのは難しいらしくてな、それなりに珍しいタイプではある」
姿が見えない故に、どうしても緊迫感を抱く事の出来ない玲音の問いに、譲治は早口に説明をしながら周囲を警戒する。『群体型』で気を払うべきポイントの一つは、目の前にある物が全てと思わないことだ。過去に見た孤独の群れと呼ばれた潜在意識の管理者は細菌状でその数に際限と言う物は存在しなかった。
それは極端な例にしても、十頭の蝶を囮にして本命の一頭が静かに近寄っていると言うことは十分に考えられる可能性だ。
「…………っ!」
譲治の警戒は半分だけ正解だった。
目の前の蝶は全体の一部である事は正に予想通りであり、前後左右と同じような蝶の集まりが無数に周囲に集まって来ていると言うのは、明らかに想定外だ。少なく見積もっても五〇頭を超える数の鮮やかな翅色の蝶々が譲治と玲音を取り囲んでいた。
一頭一頭はアゲハ蝶位の大きさをした可愛らしい模様を持った蝶なのだが、流石にそれが無数に集まって一つの生き物の様に蠢いている様には不気味さが勝つ。
この無数の蝶はいかなる能力を持ち、どうやって譲治を仕留めようと言うのだろうか? 完全に先手を取られた形に加え、玲音と言う潜在意識を視認できない少女を抱えた譲治は圧倒的な不利に立たされていると言えるだろう。
潜在意識を持った者同士の衝突による、他では味わえないこの緊張感に――
「ど、どうしたんですか? ジョージさん。笑って、ますよ」
――譲治の頬はどうしても吊り上がり、歯を見せて笑みがこぼれてしまうのだった。
「いや? あまりにも可愛い管理者だからな」
年下の女の子の指摘に、譲治は冷静さを装いながらも口元を右手で多い、笑みを隠す。別段好戦的な性格をしていると言う自覚はなかったが、何故だが潜在意識同士の戦いには心躍ってしまう。
今はそんな状況ではない。卑劣な連中に襲われる女の子を家に帰すのが目的であると譲治は自身に言い聞かせ、改めて現状を確認する。
先程よりも蝶の包囲は狭まっており、譲治達を中心に不規則に並んだ蝶の輪の半径は二メートルと言った所だろうか。強く踏み込めば一瞬で詰める事の出来る間合いだ。恋の仮面舞踏ならば一息の間に五頭はあの蝶を潰せる。そのまま強引に包囲を突破することも難しくない。
だが、そんな簡単な問題だろうか? 例えば、あの蝶を模った管理者は、毒の鱗粉を所持しているかもしれない。触れた、或いは吸った者を犯す猛毒の潜在意識の可能性も無くはない。卵を植付けて幼虫の苗床にすると言うのもあるかもしれない。
迂闊に触れるのは下策。相手の出方を窺うのがセオリー。
「か、勝てるんですか?」
「勝負に絶対はない。が、この程度は困難の内にもはいらねーよ」
っと、考えるのが素人だ。過去に無数の潜在意識と戦い抜いて来た譲治からしてみれば、こんな物は時間稼ぎが見え見えであり、潜在意識の性質もおおよそ目途が立つ。
「自慢じゃあないが、潜った修羅場が違うのさ」
さっさとこの虚仮脅しの包囲を突っ切ろうと、譲治は自転車に跨ると、自身の潜在意識恋の仮面舞踏を真横に顕現させる。こんな寂れた道路には勿体無い燕尾服で決めた顔のない貴公子は、相変わらず退屈そうに懐中時計の蓋を右手の中で弄んでいた。まるでこの程度の事は、窮地に数えられないとでも言いたげに。
「周防さん。強引に突っ切る。後ろに乗ってくれ」
譲治単身であれば走って逃げるのも考えた。が、玲音と逃げるとなればそれも難しい。足に自信があるようだが、譲治と比べれば玲音の体力は激しく劣り、歩幅にも絶対的な差が存在する。走って逃げる場合、譲治はその脚力を玲音に合わせたレベルにまで落とさなければならない。そんな荷物を連れて走るよりは、転倒等の危険性を考えても自転車を使った方が逃げやすいだろう。
「…………」
「早く。二人乗りしたことないのか?」
「そうじゃなくて、家族で見に言った熊牧場で自転車に乗った熊さんを思い出しちゃって」
確かに、スーツを着た大柄のこの男は人と言うよりも、そう言った巨大な獣に見えなくもない。余計な御世話だ。
「ぶっ飛ばすぞこの野郎。早く乗れや!」
幾ら潜在意識が見えていないからと言って、ちょっと余裕過ぎないだろうか? もう少し、空気を読んで欲しい。譲治は玲音に対して初めて外行きの仮面を外して声を荒げる。
「自転車の二人乗り、ばれたら怒られちゃうかも」
見当はずれな事を呟きながら玲音は後輪の上の物置に腰を下ろし、譲治の大きな身体にしがみ付いた。
「…………」
そして譲治は腰に回された玲音の細腕が未だに震えている事を知った。
それはそうだ。恐いに決まっている。見知らぬ男達に追われ、襲われたのだ。一命を取り留めたものの、助けてくれた男は潜在意識等と得体の知れぬ力を使う巨漢。走って逃げることもままならない相手である。譲治が敵ではないと言う保証は、玲音にはまるでない。しかし、それでも藁をも縋る気持ちで玲音は譲治に付いて来ていた。少しでも良い印象を与えようと空元気を回し、無理矢理に明るさを装って。
強い女の子だ。
譲治は内心で玲音に敬意を払い、彼女を必ず家に帰すことを改めて誓う。
そして、魂を震わせるように、己の潜在意識の名を叫んだ。
「突っ切るぜ! 恋の仮面舞踏!」
自らの名を呼ばれ、顔のない貴公子は引き絞られた矢の様に前方へと飛び出す、と同時にその両手で無数の突きを放った。弾丸の様な速度の拳が嵐の如くひらひらと宙を舞う蝶型の管理者を捉え、その愛らしい姿をバラバラに破壊する。
が、敵もただの的ではない。恋の仮面舞踏が三頭の管理者を破壊する頃には、その拳の間合いから逃れようと地上から三メートル程度の所まで高度を上昇させてしまう。五〇を超える蝶の群れの内の三頭を破壊した程度では、損害を与えたとは言い難い。
だが、自転車を走らせて逃げ出すには十分な空間は開けた。
「しっかり捕まってろよ!」
「ひゃあ!」
譲治は腰を上げてペダルを踏み込み、恋の仮面舞踏が抉じ開けた包囲を突破する。顔のない貴公子はそんなジョージと擦れ違い様に姿を消し、それを見た蝶達がゆっくりと譲治が駆る自転車を追いかけ始めた。
が、手のひらサイズの蝶と、へヴィー級ボクサーのような男が漕ぐ自転車の追いかけっこが成立する筈もない。譲治はスピードが乗るに連れてギアを軽くし、ペダルの回転数を上げながら住宅街を駆け抜ける。その速度は自転車が法的に『車両』扱いされて当然な域にまで達していた。
「早い! ちょっと! ジョージさん! ストップ! 止めて!」
後ろに座る玲音に取って、その速度は堪った物ではない。ぎゅっと硬く瞼を閉じ、譲治の身体を抱き潰すつもりでしがみ付き、悲鳴が寂れた住宅街に木霊する。この姿を見た物がいれば、譲治を誘拐犯と誤解したことだろう。
「んなことより、家はどっちの方だ?」
「インター近くのマンションです! 背が高い奴! ひぃ! 今、浮いた!」
悲鳴交じりの玲音の解説を耳に、譲治は頭の中に町の地図を思い浮かべた。開発に大失敗したこの住宅街は、交通の利便性を考えて南に駅、北側に高速道路を持つ形に展開している。つまりインターは北側。そして面接のある会社のあるビルは駅裏。ドラクエの地図の様に北と南が繋がっていれば、玲音を家に帰しても面接に間に合うのだが、そう上手い話はなさそうだ。
だが、北側と言うのは都合が良い。町の北部は高速道路の他に、産業用の有料道路、そして国道が走っている。町の交通はそれなりにあり、車が走っていないなんてことは有り得ない。人目さえあれば、流石に連中も迂闊には手を出せないだろう。
ちなみに、住宅街を南に抜けると、寂しい田園、寂しい町並み、寂しい商店街、寂しい駅周りと人気のない景色が続く為、北側と比べれば治安が悪いと言える。
この住宅街を抜けるのにも、もう三十秒も時間は必要ない。あとほんのちょっと走れば、昼間でもそれなりに交通量のある道路に突き当り、そこから北へと走れば国道に合流できる。
「……問題はそう上手く行くかどうかだな」
無論、敵側も同じことを考えているだろう。上手い事追い込んだ人目の少ないゴーストタウンで拉致を成功させねば後がない。周防巌の耳にこの話が届けば、何かしらの手段が講じられてしまい、次回以降の成功率は今回よりも大幅に低下する。
だから、敵も必死な筈だ。
故に、玲音を誘拐するならばここが最後のチャンスだ。譲治が逆の立場なら、何が何でも此処で仕留める。
「っと、来たか!」
その考えを裏切ることなく、譲治の進む道を塞ぐようにして、前方に真っ黒な大型バイクが停まった。ヘルメットも、ライダースーツも、黒一色で染められている。身長は一七〇程度だろう。大きくも小さくもない。体格から見て男。
そしてその斜め前には、まるで乗用車が立ちあがった様な巨体が聳え立っていた。
「潜在意識ッ!」
譲治やその潜在意識である恋の仮面舞踏も巨躯ではあるが、それは精々『人間として』と言う当然の注釈が付く。が、今現れた潜在意識はその域を超えて巨大だ。単純な全長だけでも譲治の倍以上の四メートルを超え、全身を覆う鈍い灰色をした鈍重そうな鎧の横幅は二メートルに届くだろう。一応四肢が付いているので『人型』の範疇ではあるが、殆どその存在は壁だ。
そしてその巨体を更に大きく見せようと言うのか、フルフェイスの巨大な兜から広がる巨大な耳の様な装飾と、兜の人間でいう視界用の隙間から伸びる二メートル程の長さを持つ鎖と、その先端に取り付けられた棘付きの鉄球が周囲を威圧している。
先程の青い蝶とは違う明らかに戦闘向きの潜在意識であった。バイクに跨る男の雰囲気も同様に荒々しく、ある程度は戦い馴れているのが見える。恐らくは、日常的に潜在意識を暴力の手段として用いるような仕事をしているのだろう。顔を見せないのも、その一環か。
アレは自転車で横をすり抜けられるような相手ではない。そう判断するや、譲治は全力でブレーキを握り締め、折角の面接用の皮靴の底でアスファルトを削りながら自転車を止める。
「ひゃあ! ジョ、ジョージさん?」
「敵だ。少し離れていてくれ」
急停車に驚き目を回す玲音に短く告げ、譲治は彼女の手を優しく腰回りから外す。流石に玲音に抱きつかれながら戦える相手ではない。
「いざとなったら、この自転車で逃げろ」
自転車から降りて、ハンドルを玲音に預けて譲治は男へと向き直る。
「よお。格好良いバイクだな」
敵との距離は一〇メートル弱。恋の仮面舞踏はジョージの半径五メートル前後の距離でしか活動を出来ないことを考えると、この間合いは随分と遠い。
対する相手はどうだろうか? 基本的に人型の潜在意識の活動範囲は精々が一〇メートル前後。あの巨体さであれば、譲治よりも長いと言う事はないだろう。経験からそれは理解している。恐らくは、三メートルも離れてしまえば潜在意識をまともに扱うことは出来ないはずだ。
が、敵は巨体。単純に腕の長さは恋の仮面舞踏の倍はあると考えて良い。そして、顔から伸びる鎖と鉄球。フレイルと呼ばれる武器に似たそれのリーチはまず間違いなく恋の仮面舞踏を寄せ付けずに攻撃が可能だろう。
形勢は不利と言わざるを得ない。
「だけど、どうでもいい」
しかしそんな事は些事に過ぎない。
「俺の潜在意識、恋の仮面舞踏が、今からお前のバイクをスクラップにするんだからな」
二階堂譲治が潜り抜けて来た修羅場では、不利は挨拶代わりのようなものだ。




