〇〇二
野生動物に餌を与えてはならない。
これは常識の様な物だ。野生動物だって馬鹿ではない。一度でも簡単に空腹を紛らわせる方法を学べば、その幸運にもう一度与りたいと考えるのは至極当然の事だと言えるだろう。文字通り、味を占めると言うわけだ。その結果、野生生物によるゴミ捨て場荒らしと言う獣害が発生したり、逆に人間の食べ物のせいで動物自体の健康を損ねたりしてしまうことも有り得る。人間が気まぐれで行った野生動物の餌付けが、双方に取り返しのつかないダメージを与えてしまう。
それは人助けも一緒だ。
二階堂譲治は海外のスラムや戦場、裏の社交場を彷徨う内にそう考えるようになった。
一度助けられた人間は当然の様にもう一度を期待する。一度助けて二度助けないのは不誠実だとすらのたまう。自らの庇護者を完全な物と勘違いし、増長して愚かなミスを犯すこともしばしばだ。
故に、譲治は助けるのであれば最後まで助ける覚悟が必要だと考える。少なくとも自分が安全だと信じられる場所や人物に預けて、初めて『助ける』と言う行為は無責任な自己満足でなくなる。
たった今に助けた少女に対してもそれは変わらない。少なくとも警察か親元に預けるまでは、譲治の『助ける』は終了していない。この場で「じゃ、俺、面接あるから」と言って別れるのは簡単だが、それは無責任極まりないし、直後に彼女がまた攫われでもしたら寝覚めが悪過ぎる。
勿論、それは譲治の無意味な感傷であり、人によっては馬鹿げていると思えるだろう。
が、譲治にとっては重要なことだった。心に残った『負い目』や『罪悪感』は精神的な弱点となる。逆に、無意味でも『信念』や『意地』『執着』は最後の最後に足や背中を支える要因に成りえるのだ。
「初めまして、だな。俺は二階堂譲治。気軽に『ジョージ』と呼んでくれ」
なんとか、面接までにこの一件が解決することを祈りながら、譲治は少女に向き合って名乗った。こうして近くで見てみると、随分と小柄な少女だった。まあ、譲治と比べれば大半の人間は小柄になってしまうのだが。
身長は一五〇を少し超えたかどうか。だぶついたパーカーの上からでもわかる細い体。高校生らしい最低限の薄い化粧やしっかりと整えられた短めの髪。なんとなく小生意気な猫を思わせる瞳が彼女の印象を『お転婆』にしてしまっている。
「え、えっと、はい。私は、周防玲音です。ジョージさん」
と、そんな譲治の印象を裏切る様に、玲音は折り目正しく頭を下げて感謝の言葉を口にした。もっとも、声色に混乱と怯えが色濃く感じられ、これが彼女の素であると言うわけでもないだろうが。
黒服の男達に拉致されそうになったのだから、それも当然か。あの後で平然と自分を維持できている人間がいるとしたら、そいつの脳味噌には欠陥がある。
「周防さんね。取りあえず、移動しようか。歩ける?」
本当なら自転車の後ろにでも乗せ、一気にこの場を離れたい所だが、今の玲音には少しハードルが高いだろう。男性に対する不信を覚えていても不思議はない。
「はい。大丈夫です」
こくこくと、何度も頭を上下にさせて賛成を示す玲音。胸元で握り締めた両手は細かく震えている。
「じゃ、歩きながら色々と教えて貰えるかな」
譲治は自転車のスタンドを蹴って外し、国道に一番近い道へとつま先を向けて踏み出す。その横に、玲音が初めて散歩に出る子犬の様にビクビクと周囲を警戒しながら並んだ。
「まず訊くけど、君は追われているの?」
「……わかりません。友達の家に遊びに行こうと家を出て暫く経って気が付いたんです。あの車がずっと追いかけている事に」
「それは、穏やかじゃあないね」
こんな女の子に気が付かれるような尾行。あまりにお粗末だろう。あの連中はそう言った専門家ではないのだろう。譲治の最悪の想像よりも、幾分か状況は良さそうだ。
「でも、じゃあ、どうしてこんな人気のない方に逃げて来たんだ? 友達の家がこっちなのか?」
「えっと、違うくて、男の人が何人か車から降りて走って来たんです。それで、無我夢中で逃げてたら、ここに」
「良く逃げ切れたね」
「あ、私陸上部なんです。高校の部活って短距離スプリントが華みたいな所がありますけど、私は長距離が得意なんです」
自分の得意分野について話すのが嬉しいのか、少しだけ玲音の表情に光が戻る。ただ、譲治からしてみれば、たかが女子高生一人を捕まえられない男達の体力のなさに対する呆れが大きい。
恐らく、適当に借金のある連中を捕まえて、この拉致を敢行させたのだろう。借金の減額をちらつかせ、非合法な仕事をやらせる事もあると、譲治は妹の漫画で読んだことがある。そんな連中は大抵が自己管理のならない堕落者達だ。酒に煙草は当然の嗜みであり、運動と言ったら腰を振る程度のこと。まともに長距離を走る事ができるわけもない。
「へえ。俺の友達にもいたな、陸上部。スーパーカブに一〇〇メートルなら勝てるとか言ってたな」
「あは。うちの男子達は偶に電車とリレーで勝負していますよ」
時を超えても男子は馬鹿らしい。平和な話だ。
「話を戻そう。走っている内にここに追い込まれたってことかな?」
「あ、はい。そうです」
「なるほどね。それで? 何か追われる様な心当たりはある?」
「…………お父さんかもしれません」
「親父さん、ね」
妥当な心当たりだろう。譲治は一度だけ深く頷く。
相手は借金の為に働く素人ではあるが、拳銃を持っていた。中東ならまだしも、ここは銃の所持が禁じられた日本。何かしらの権力を持った背景がなくては、人攫い如きで銃の所持は有り得ない。
「失礼だけど、お父さんは何をしている人なんだ?」
最も可能性が高いのは暴力団――ヤクザだろう。日本のヤクザは銃を持っていると、妹の漫画で読んだことがある。シマの取りあいや、メンツの為に奴らは争うらしいのだ。
しかし、譲治の漫画で得た知識は今回ばかりは外れた。
「その、衆議院議員です。野党『ダモクレス』の代表。周防巌が私のお父さんです」
「っ! 革新派の筆頭か!」
予想していなかった答えに、譲治は思わず声が大きくなる。日本の政治家の家族が襲われるなんて漫画でも読んだことがない展開なので仕方がないだろう。攫ってどうするんだ、と思わなくもない。
が、それが周防巌の娘となればわからなくはない。
「…………やっぱり、引きますか?」
「いや、悪い。そう言うわけじゃあないが、中東でも名前が通じるビッグネームだからな、驚いちまった」
「ちゅーとー?」
周防巌。
中部地方を中心に大病院を構える医者の一族の出身で、実際に巌自身も脳外科医としての執刀経験を持っている。彼は三〇歳になると同時に某県知事へと立候補し、当選。過激な言動で既存の政治体制を批判すると共に、その辣腕で県政に大改革を齎した。大病の為にメスで肌を裂くのと同様に、傷なくして治療は有り得ないと言うのが巌のモットーであった。その異端とも言える政治的な処置は、結果的に県全体のあらゆる組織の健全化を促した。
県知事を二期務め上げると、そのまま国政へと進み、新党ダモクレスを結成。僅か十二年で与党と議席数を争う大政党となり、彼の政策を支持する文化人は非常に多い。次の選挙で総理大臣になるのでは? と世界中の注目を集めている。
その半面、容赦なく不要な物を切り捨てる姿や、強気な外交態度、そしてワンマン経営的な政局運営から、保守的な人間やアジアの一部からの評判は極めて悪い。非合法組織や非合法なギャンブルや、薬物に対しての取り締まりも厳しく行っておあり、そう言ったマーケットと非常に仲が悪い。二〇年の政治活動期間中に三回も暗殺未遂で入院をしている政治家は巌以外他に日本にはいまい。
そんな政治家の娘であるのならば、誘拐されるのも頷ける。弱みを握り、少しでも優位に立ちたいと思う人間はきっと多いはずだ。
「まあ、兎に角、周防さんが攫われそうになった理由はわかったよ。今回みたいなのは初めてなのかな?」
「はい。でも、お父さんは予想していたのかも。去年の冬……半年前の選挙のちょっと前から、お母さんと私はこっちで暮らすようにって言って、別居しているんです。高校もこっちで受験しましたし」
「なるほどね。うーん。じゃあ、警察には電話しない方が良いかな?」
そんなぺらぺらと個人情報を漏らして良いのだろうか? 譲治は後から色々と追及されたら面倒臭そうだと考えながらも、この先をどうするべきか玲音に訊ねる。最初の考えでは交番に連れて行くつもりだったのだが、政治家の娘が警察の厄介になると言うのは、マスコミの格好の餌なのではないだろうか?
立派な政治的思想を持っているわけでも、巌の応援者と言うわけでもないが、善意の行動が人の迷惑になると言うのは面白くない。助けられた方と言うのは、大抵が図々しいのだ。
「ど、どうなんでしょう? ジョージさんはどう思います?」
もっとも、この玲音はそれ以前に幼すぎる。どうにも今年高校生になったばかりらしいので、そんな判断を任されて困ってしまうのは仕方がないとも言えるが。少なくとも、七年前の譲治はそんなことを訊かれても答えられないだろう。
「取りあえず、周防巌に電話してみな。それから考えよう」
溜息を殺して、譲治は判断を全て見た事もない未来のファーストレディに投げた。女子高生からみれば二十二歳は立派な大人に見えるかもしれないが、二十二歳から言わせてもらえば、彼はまだ大人の自覚など微塵もなかった。
だが、玲音にはそれが素晴らしい意見に聴こえたらしく、「そうだね!」と恐らく素が少し出た砕けた口調で答えると、パーカーのポケットに手を突っ込み「あれ?」と呟きながらジーンズのポケットに指を這わせる。それでも「あれ?」と呟き、足を止めて自分の体をペタペタと触り始める。譲治は無言でそれを見守る。
そして、玲音は肩を落として言った。
「…………ないです。スマホ、走っている時に落としました」
なんとなく、わかっていたさ。譲治は今度こそ溜息を吐く。
「貸してやるよ、スマホじゃないけど」
スーツのポケットから譲治が携帯電話を取り出す。海外で行方不明になる前から使用していた年代物の携帯電話を見て、玲音は驚きに目を丸めながら首を横に振る。
「電番、覚えてないです」
「まあ、そりゃそうだよな」
あんなランダムな数字の羅列を一々覚えていられるわけがない。誰が考えたかは知らないが、電話帳機能を開発した人間は天才と呼ぶに相応しいだろう。
「はあ。しゃーない。家まで送ってくよ。大した距離じゃないだろう?」
「良いんですか?」
見ず知らずの男が家まで送ると言って、玲音は安心したように胸を撫で下ろす。そこは激しく警戒するべき所だと、内心で突っ込む。吊り橋効果やストックホルム症候群ではないが、緊急事態に助けられたことで若干、譲治に対しての評価に補正がかかっているのかもしれない。最初はちょっとビビっていたはずなのに、ちょっと会話しただけでガードが完全に下がっている。チョロ過ぎである。変な大人に騙されないか、心配だ。
「周防さん。今回は特別だけど、あんまり知らない男の人についていっちゃ駄目だぞ?」
年上風を吹かせてそんな忠告をすると、
「へ? 当たり前じゃあないですか」
純粋そうな眼をきょとんとさせて玲音は首を傾げた。
「あの、それよりも、一つ質問していいですか?」
質問よりも前に、自分の危機管理意識を見直して欲しかったが、説教するだけ時間の無駄だろう。流石にそこまで責任は持てない。お父さんの躾が悪かったのかもしれない。もうしそうなら、教育にも力を入れていた巌にとって中々の皮肉である。
「答えられる範囲ならね」
譲治は『お仕事は何を?』と聞かれたらどうしようかと言う焦りを隠しながら平然と相槌を打つ。
「ジョージさんって、超能力者なんですか!? さっき、触らずに男の人を吹き飛ばしていましたよね! サイコキネシスですか!?」
そんな祈りが通じたのか、玲音の質問は予想とは全く違う物であった。ただし、自分の仕事を説明するよりも面倒な物でもあった。その面倒臭いと思ったのが顔に出たのか、玲音は「あ! 一般人には秘密なんですね!」と妙に嬉しそうに頷く。
「秘密ってわけでもないんだけど」
「大丈夫、私、誰にも言いませんから。口、硬いんです」
言って、玲音は右手の人差指で自分の唇の端から端を往復する。
それを信じたわけではないが、「まあ、超能力者であっているよ」と譲治は玲音の言葉を肯定した。こんないたいけな彼女が『二階堂譲治は超能力者である』なんて言った所で、信じる奴はいないだろう。そして、信じる様な奴は敵どころか邪魔にもならないだろう。
「超能力じゃなくて潜在意識って呼ぶみたいだけどな。これはまあ、才能みたいなもんだ。使える奴は生まれながらに使えるし、使えない奴はどれだけ頑張っても使えない。ちなみに、周防さんに潜在意識の才能はない」
「え!」
「君はさっき、『触らずに』って言ったよね。それは違う。俺は俺の潜在意識の管理者でぶん殴っていた。潜在意識の才能がある人間なら、それが見えた筈だからな」
「管理者?」
「潜在意識が形になって現れた物、かな? 妖精や悪霊の類だと思えば分かりやすい。潜在意識持ちは、その妖精や悪霊を自在に動かすことができるんだ」
「へー!」
何が楽しいのか、玲音は潜在意識の説明の一つ一つに目を輝かせて頷く。こう言うのが好きな年頃なのだろうか? 男女差別的な物言いになってしまうかもしれないが、どちらかと言えば男子の趣味のような気がしないでもない。
「それで、他に何かできるんですか? 火を噴いたり、空飛んだり?」
そして玲音は潜在意識に期待をかけ過ぎである。譲治の恋の仮面舞踏は自他共に認める凶悪な性能を持ってはいるが、派手さはない潜在意識である。
「残念ながら、俺のはもっと地味さ」
「そうなんですか?」
露骨に残念がる玲音に、譲治は苦笑しながら首を横に振る。
「ま、周防さんが思うような潜在意識持ちも少なくないよ」
もっとも、そう言った派手な力を持った連中は早死にするのが通例である。
多くの鳥類は派手な羽根を持ちながらも生きる術を長い進化の果てに獲得しているが、潜在意識持ちは違う。突然変異に強力な力を手に入れた結果、能力を過信し、能力の制御方法を学ぶ機会を失い、能力が故に滅ぼされてしまうのだ。
潜在意識持ちに取って、最も恐れるべきは自らの潜在意識であると言う事は珍しくもない。
それは何も潜在意識だけに言えることではない。何事も、自分自身を知り、見極める事が大切だ。恐らくは過酷な運命が待っているであろう玲音の人生に、譲治は警告の意味も込めて哀れな潜在意識の末路を語ろうと口を開くが、
「っと、これ以上はちょっと教えられないな」
直ぐにその言葉を飲み込んで首を横に振った。
「あ、やっぱり能力とかは秘密なんですね」
「いや。そうじゃあない」
譲治は声質を若干冷たくし、自転車のハンドルから右手を離して前方を指さす。
その先には数頭の蝶が舞っていた。日本では滅多に見ない様な鮮やかなブルーをした美しいその蝶は翅を優雅に羽ばたかせながら、風に吹かれるように宙を舞っている。青い羽ばたきはちょっとした芸術品の様な美しさがあり、多少の教養があればその典雅な姿に息を呑むことだろう。
「えっと? 何か前にあるんですか?」
もっとも、その姿が見えれば、と言う前提が必要になるが。玲音は譲治の指が示す道路を見て不思議そうに首を傾げる。彼女の瞳に映るのは、寂しい住宅街の道路だけであった。
「潜在意識だ」




