〇〇一
いわゆる、スタンドバトル物です。
人生は選択の連続だ。
二階堂譲治は今、その決断を迫られていた。
一つは、父親が探して来てくれた企業の面接に行くこと。高校を諸事情により中退。中卒と言う最終学歴。家族旅行先のヨルダンでまさかのテロに巻き込まれて消息不明期間有り。海外不法滞在と言う前歴。その不法滞在中の活動や行動の不透明性。普通運転免許としか書くことができない履歴書。そんなマイナス要因によって、二階堂譲治二十二歳の就職事情はかなり厳しい状況に追い込まれており、コネのある企業への就職面接はとても無視を出来る物ではなかった。このチャンスを逃したら、次の就職は何時になるか。
そんな人生を左右しかねない就職と言う選択肢と並び立つ選択肢とは何だろうか?
一言で説明するのは非常に難しいが、簡単に言えば目の前で人が攫われそうなのだ。
時間を三〇秒遡って詳しく説明をしよう。
その時の譲治は面接場でもある駅裏の複合ビルへと自転車のペダルを踏んでいた。
地元民しか使わない様な招致に失敗した住宅街の小道をママチャリで通り抜けていると、譲治は前方に妹と同年代の女子高生らしい背中を見つけた。ショートカットのその娘は簡素なパーカーとジーンズ姿で必死に全力疾走をしているようで、『青春だねー』と呑気な感想を抱いた――のも束の間、彼女が小さな交差点に差し掛かった瞬間、黒塗りフルスモークのハイエースが彼女の行く先を塞ぐように乱暴に停車したのだ。
その直後、ドアが激しい音と共にスライドすると、黒服を着たサングラスの男が素早く道路に降り、少女の細い腕を掴んだ。少女は何かしら抵抗する素振りを見せたが、大の男に力で適う筈もない。抵抗むなしく、彼女の小さな身体はハイエースへと引き摺りこまれそうだ。
そして、譲治は選択を迫られるている。
面接に行くか、少女を助けるか、だ。
今から自転車を本気で漕げば彼女を助けることが出来るかもしれない。多少暴力沙汰には自信がある。身長は高校の時に既に一九〇センチを超えていたし、身体だって思う所があって鍛えている。伊達に長く海外を不法滞在していない。中東の乾いた大地の路地でストリートファイトは馬鹿みたいにやらされた。
そして不法滞在中には攫われた人間の末路がどうなるのかも知ることとなった。正義や倫理なんて立派な物は持ち合わせていないが、アレを肯定することなど出来る筈がない。
ならば、今すぐにでもペダルを踏みつけ、彼女を助けに行くべきだろう。
だが、それでどうなる? あの少女の運命を変えることはできるかもしれない。が、余計なごたごた巻き込まれれば、面接の時間には間に合わなくなる。少女一人の命と、自分の就職どちらが大切なのかと問われて、直ぐに応えられる程に譲治は人間ができてはいなかった。
面接に間に合わないようなことがあれば、父親のメンツも潰れる。ただでさえ居辛い家の中の空気が更に重くなる。妹が最近自分の事を無視する。どれも人の命と比べれば軽い物かもしれないが、それも譲治の人生の一部であり、軽んじるには近過ぎる問題だ。
それに、本当に彼女を助けることができるのか? 相手が一人とも限らない。調子に乗って助けに出て、逆に拉致されてしまったら笑い話にもならないではないか。そもそも、アレは本当に拉致現場なのだろうか? もしかしたら家で少女を家族の人間が捕まえに来ただけのことかもしれない。
立った二つの選択肢に、どちらを選ぶのが正解なのかは明白なのに、譲治は言い訳を重ね続ける。
が、時間は有限だ。永遠の様に長かった一瞬が終わり、譲治は決断する。
「親父! すまん!」
譲治は首にしっかりとまいたネクタイの根元を緩めると、ペダルを力強く踏んだ。妹の本棚に集められた漫画の主人公をイメージし、腰をサドルから上げ、殆ど倒れんばかりに姿勢を前傾させてハンドルごと車体を左右に振る。見様見真似のスプリントはそれなりに上手く行き、譲治を乗せてママチャリが勢い良く走り出す。
「っ! 助けて!」
その様子を真っ先に見つけたのは少女だった。髪の毛を掴まれ、ハイエースの方へと乱暴に引き寄せられるその姿は痛々しく、馬鹿みたいに悩んでいた自分を譲治は呪いたくなった。少女の助けに口では返事をせず、代わりに更に素早くペダルを回転させる。
それを見た少女は最後の必死の抵抗を試み、譲治が五〇メートルの距離を詰める間の時間を必死に稼ぐ。サングラスの男は譲治の接近と少女の抵抗に「見られた!」と苛立ちを隠さずに吐き捨てると同時、今まで散々引っ張っていた少女の身体を横へと突き出すと、自分の懐へと手を伸ばした。
名刺でも取り出すのかと譲治はその動きに注視し、男が取り出した物に眉を顰める。黒い光沢を持った金属製のそれは、特徴的な形も手伝って見間違えることは有り得ない。譲治も昔、何度も撃ったり撃たれたりしたものだ。
「日本だぞ、ここ」
銃だ。威力よりも携帯性を重視したであろう、玩具の様なサイズの拳銃の銃口を男は少女へと向けた。
「止まれ! 撃つぞ!」
譲治にではなく、地面にへたれ込んで動けない少女を撃つと言う脅しは、古典的な人質作戦ではあるが確かに効果的だった。彼女を助けたい譲治は止まらざるを得ない。グローブの様に分厚い手で左右のブレーキを壊れてしまうのではないかと思う程に強く握りしめる。良く整備されているママチャリは、悲鳴の様なブレーキ音を立てることなく、アスファルトを削る様な音だけをけたたましく鳴らしながら、男まで残り五メートルと言う所で横向きに停車した。
「停まったぞ! その銃を下ろして、その子をこっちによこせ!」
迂闊にハンドルから手を離したりすれば、男が引き金を引くかもしれない。そんな可能性を懸念し、譲治はサドルに跨って右足だけを地面に付けた状態で男へと唾を吐き付ける様に叫ぶ。これで周りの民家の誰かが気が付いてくれれば良いが、周囲の家の半分以上には生活の跡が感じられず、望みは薄そうだ。
「このまま黙って去れば、見逃してやる! 消えろ!」
交渉の余地などないと、男は少女に狙いを付けたまま言った。ハイエースからは二人目の黒服が降車し、少女を車内へと引き摺りこもうとしている。大きなスライドドアは銃口を向けられて委縮している少女一人を攫うには十分な大きさをしていて、彼女の救助にはもう一刻の猶予もないだろう。
「…………平和的な交渉の余地はないか?」
最後に、もう一度だけ確認を取る。同じ人間なのだ、話し合いで解決できればそれに越したことはない。
「ない! 消えろ!」
が、相手の返事は想像通りに取りつく島もない。
「ふーん。あ、そう」
だと言うのなら、これ以上の交渉は無意味だ。互いが互いに違う結論を持っている時、話し合いでは何も解決しない事を、歴史が今も証明し続けているではないか。
「じゃあよ、お前、コイツが見えるか?」
ならば、ここからはもっと原始的で粗野で、人間らしい交渉の時間だ。譲治はハンドルから右手を離すと、その親指で自身の右隣りの空間を示す。
「動くな! ハンドルを握ってろ!」
譲治のその僅かな行動に、男は拳銃を主張するように一度だけ右手を揺らす。そしてサングラス越しに目を細め、譲治が親指で示した空間に注視する。勿論、そこには何もない。寂れた住宅街の、寂れた道路の一部があるだけだ。
「見えないのか? 見えないんだな?」
しかし、譲治の脳は全く別の景色をそこに見出していた。何時の間にか、自転車に跨る譲治の真横には、それが当然である様に彼と同じ体格をした何かが控えているではないか。
それの印象を短くまとめるなら貴公子。宇宙にも似た漆黒と輝きを放つ燕尾服に、その中で際立つ純白の穢れなき蝶ネクタイを締め、上品そうな印象を与える柔らかな白い手袋。その手の中には精密な内部構造が透ける懐中時計が収まっており、それは退屈そうにフタを開けたり閉めたりしている。
だが、その貴公子を人間と見間違える者は一人とていないだろう。
頭がないのだ。
限りなく人に近い形をしてはいるが、しかし人を人たらしめる顔が存在しない。その異質さは見る物に恐怖を与えると同時に、ミロのヴィーナスの様な不完全な美しさも備え、人型をしながらも、決して人であるとは思えない神々しさに溢れているようだった。
「俺の潜在意識! 恋の仮面舞踏がよ!」
その台詞を引き金にして、異形が動いた。恋の仮面舞踏と呼ばれたそれは、懐中時計を懐へとしまうと、右手の拳を握りしめ、銃を握る男へと迫ったのだ。恋の仮面舞踏の動きは疾風が如く。
とは言え、五メートルと言う距離がある。銃を相手に真っ直ぐに殴りに行くにはあまりにもそれは長い数字だ。
が、男は譲治の掛け声に警戒心を高めはするものの、目の前から迫る恋の仮面舞踏に気が付く様子がない。男の視界には既に鼻先までに迫った白い手袋の拳は見えておらず、その鼻が砕かれて激痛が走り、両目から意思とは関係なく涙が溢れ出してからも、自分が殴られた事に気が付くことすらできなかった。
「え?」
それはハイエースのドアにしがみついて必死の抵抗を試みる少女も、少女の腰に抱きつく二人目の男も同様だ。二人は揃って口をポカンと開け、突然に背中から車体に叩きつけられた拳銃の男と、自転車から降りてスタンドを立てる譲治を交互に眺める。しかし二人の視線が恋の仮面舞踏の優雅にして奇異なその姿を捉えることはない。
「お前! 何をぶっ!?」
半ば放心していた男が正気を取り戻し譲治に唾を飛ばそうとするが、恋の仮面舞踏の拳がそれよりも早い。躊躇なく放たれたアッパーカットが顎を叩き、続けて放たれた左ストレートがそのまま車内へと男の身体を吹き飛ばす。その衝撃でハイエースが大きく揺れ、扉にしがみついていた少女はバランスを欠いて道路へと大げさに転がり落ちた。
「ひゃん!」
「っと。ちょーっとだけやり過ぎちまったかな?」
少しもやり過ぎたなんて思っていない笑みを口元に作り、譲治は最初に殴り飛ばした男の手に合った拳銃を指の間で挟む様にして拾い上げ、セーフティをかけた状態で車の中へと投げ返す。シートを取り外して広々とした車内には、今しがた投げ込んだ男以外にも運転手が一人と、他にももう一人男が乗車しているのが見えた。サングラス越しのその瞳には怯えの色が見えた。
譲治は「ふん」と男達の態度に鼻を鳴らすと、地面に這いつくばる男の襟首を乱暴に両手で持ち上げて車体へと乱暴に投げ込む。と同時に、恋の仮面舞踏が車内へと意気揚々に侵入し、残る運転手でない黒服の顔面にその白い拳を叩き込む。見えざるその拳は何の躊躇もなく男の意識を刈り取ることに成功した。熟練の大工が指先で木材の僅かな歪みを見つけられるように、この譲治はどれくらいの力と角度で殴れば人が気絶するのかを感覚で理解しているようだ。
「殺しはしないさ」
口元に笑みを貼り付けて、譲治が完全に委縮してしまっている運転手に静かに告げる。場外れに明るい、しかしどこか冷たさを感じる口調で。
「過剰な暴力は卑劣の象徴に他ならないからな。卑劣さは精神の弱さに繋がり、無用な窮地を招く。それは、お前の仲間がたった今、その身で学んだことだろう? ま、今回は見逃してやるよ。事情も知らないし、興味もないからな」
『今回は』をやたら強調するように譲治は男に告げ、一旦運転手の男から視線を外した。それは黒服の男をまったくの脅威に思っていないと言う、これ以上なく分かりやすいパフォーマンスであろう。勿論、隙が出来たからといって運転手の男にできることはない。
余裕と優位を所作に滲ませ何の恐れもなく、譲治は足元で茫然としている少女へと手を伸ばす。「立てるか? 帰るぞ」少女はその台詞に何度も頭を上下に動かすと、譲治の手を取ることなく立ち上がるとハイエースと譲治から勢い良く二歩離れた。
「あらら。怖がらせちまったかな?」
大してショックでもなさそうに譲治は口元をシニカルに歪めて肩を竦める。そして、改めて視線を運転手へと戻し、「ま、とにかくだ」と続ける。その声色には先程とは比較にならない冷たさと同時に、押し潰すような圧力が籠められており、譲治と言う人間の持つ冷徹さだけで構成されているようにも思えた。
「消えろ。わかったな?」
確認、と言うよりもそれは命令だった。どちらが上で、どちらが下であるかを、その言葉は嫌と言う程に周囲に知らしめる。その迫力は直接その矛先を向けられていない少女にすらも十二分に伝わり、譲治との距離が更に広がった。
「…………お前、何者だ? 誰に雇われた?」
「ああ!?」
誰にも雇われてはいない。絶賛就職活動中である。最有力の就職先は恐らく、面接に行けそうにもない。何気ない男の一言であったが、今この瞬間、譲治の神経を最も逆なでする台詞であった。あまりにもムカついたので、譲治は恋の仮面舞踏で男の眉間に思いっきりにデコピンをぶつけてストレスを吐き出す。
「ひ!」
何の前触れもなく眉間に走った衝撃に小さく声を漏らす男の姿に、多少は溜飲が下がったようで、譲治は「はっ」と嘲笑を上げる。
「質問は許してねーぞ。想像しろ、自分の脳味噌でな」
そして「じゃあな」と、スライドドアを勢い良く横に滑らせる。男達の意識を刈り取るのと同じくらいに乱暴な音を立ててドアは閉じられ、同時にそのスライドドアを幽霊が如く通り過ぎて恋の仮面舞踏が降車し、譲治の横に並び立つと、その姿が足元から霧散していった。どうやら、この謎の貴公子はそこにいるようでいて、そこにいないらしい。もし、譲治以外の目にも映るのであれば、大層な驚きの声を上げさせたに違いない。そんな仮定は無意味なことだが。
中々走り出そうとしない車に譲治は遠慮のない蹴りをブチ込み、如何にも怪しい雰囲気を放つハイエースの車体に三〇センチ近い足跡が幾つも描かれる。このままドアを吹き飛ばしてしまうのでは? と、馬鹿に出来ない不安が頭を過る頃になって、ようやくハイエースのエンジンが音を鳴らし、狭い路地を勢い良く走り出した。突き当りを左に折れたのを見届け、譲治は「ふう」と溜息を洩らす。
「さて、じゃ、説明願おうか?」




