プロローグ
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
そう言ったのは漱石だったか。夏目漱石という人物は何を思ってこう記したのだろうか。
言われて見れば納得はするだろう。賛同する人も多かろう。だが、なかなかどうして。ここまで的確な言葉は無いだろう。
俺は思う。この世界で本当に生きている人間とは果たしてどのくらいいるのだろうと。2人に一人、5人に一人。いやはや、もっと。もっと少ないのかもしれない。
そういう意味で、まさしく俺は生きながらに死んでいる人間なのだろう。呼吸する、食事する。だが、存在が希薄だ。影が薄いという話ではない。自身が思う自身に明確な実体がない。まさに、生きながらに死んでいるのだ。
働いている。税金を納め、人と話す。引きこもりという訳ではなく、外にも出るし友人とも遊ぶ。
それでも。それでも、自身の姿に実体を感じえず、生きているという感覚が分からない。
小さいころはそうでもなかったように思える。世界は色に溢れ、明日を思いながら日々を、まさしく生きていた実感がある。その実感が、俺の世界に影を落とす。
年を取った。世間から見たらまだまだ若造でしかない俺ではあるが、それでも、年を取るたび色は消え灰色の景色が俺の世界を覆っていった。
それが何を意味するのか。言葉にすればその世界に確かな実体が生まれた。俺自身の希薄さと引き換えに俺の世界は実体を得たのだ。
そう、俺は生きながらに死んだのだと。