横須賀
今戦いのクライマックスであり、私の乗艦している長門の前にはアメリカの戦艦そして私の後ろにはイギリスの戦艦がならび攻撃目標に次々と主砲を撃ち込み、上官であるモノリス少将は汚い言葉を叫びながらこの状況を楽しんでおり、私はようやくここまで来たのかと思いながらあの時から始まった事を目をつぶり走馬灯のように思い出す。
私は今横須賀にいる。はずだったが仕事で東京湾の第2海保から横浜の港に戻るはずだったが今私は巨大な鉄の城と言っていい物の上に立っており混乱する。
私の名前は金谷正明と言い海の調査をしている会社に勤めており36歳独身、親からは見合いをしろといろいろさせられたが30後半になると諦めたのか時々孫がいればとかいわれるぐらいになっていた。
そんな私が今いる現状にパニックになりそうで周囲を見ていると目の前に少し目線を落とすと旧日本海軍の水兵の格好した人がおり
「金谷中佐大丈夫でしょうかいきなり倒れられたので心配しました、誠に申し訳ありません館長が至急艦橋に来るようにと言われております」と何度か言いながら私を心配そうにみている。
私は訳も分からず水兵の顔を見て映画の撮影かとも考えそこから見える港を見てみると、火事なのか建物が燃え尽きており自分のほほをひっぱったりしてこの見えているものから本来のいた場所へ戻りたいと思ったがただただ痛いだけである。
私は水兵に年号を聞くとビシッと立ち直すと「昭和20年4月20日であります」
そう言いながら私を見つめている。
昭和20年は終戦の年であり、アメリカのB29爆撃機が日本を焦土とかした頃かなと、インターネットの知識を思い出す。この光景は本当かと少しめまいがおきながら水兵にすまないが艦橋に行くので肩を貸してくれといい階段を上がっていく。水兵曰く燃料が回してもらえず艦橋のエレベーターも使えないので申し訳ありませんと昼間の艦橋へと連れていってくれた。
私は水兵の肩を軽く叩くと中へ入ろうとすると下士官なのか私を見て敬礼をしてくれ私も見よう見まねで良いのか分からないか敬礼を返しながら艦橋へと入る。中には艦長なのか中央に立ち先程私が見ていた横須賀の街を見ているようで、私はあっているのかわからないが「金谷中佐入ります」と敬礼をしながらはいると、艦長は私が倒れたと言うことを聞いていたらしく心配をしてくれたので、「一時的か記憶が飛んでしまったようでご迷惑をおかけします。」というと、頷いて本題に入る。
「4月7日に菊水作戦で大和が沈み、呉や横須賀にも燃料は殆どなく作戦を遂行すること叶わず、よって本日4月20日をもち長門は第4予備艦となった。長門を動かすこともできずこのような結果になったことは非常に残念であるが、長門は横須賀の防衛の為に戦うことにする」そう艦長は言うとそのような状態ですまないが艦内を見回り乗組員を見てくれるよう頼まれたので、敬礼をしながら「残念ですが兵一同頑張るように見回ります」そう言いながら艦橋を出て階段横で待っていた水兵と共に上甲板へとおりる。私は階段を下りながら沖縄戦の最中であり大和も沈み終戦まで4ヶ月を切っており私は大変な所へ放り出されたと思い、水兵に記憶が飛んでしまっているが館長の名前はと聞くと「大塚幹少将です」そう答え、さらに私は「私は中佐だが役割は」と聞くと、「長門副長であり前任の大佐が体調不良のため一時的にではあるが中佐が勤めておられます」そう答えながら艦橋の基部にある鉄の扉から中へと入る。
中は176cmある私には少しどころではなく狭い通路であり、中へと進みながら場所の説明と部署の先任を教えてくれたので、私は気落ちせずに訓練を続けるようにとありきたりな言葉で言いながら抜けていくと、対空機銃座の分隊なのか訓練の成果が悪かったらしく先任の軍曹がまだ二十歳前と思われる二等兵か一等兵かわからない水兵を棒でおしりを叩いている所へ出くわしてしまい、本来は中佐はなにも言わずに通りすぎるのが普通で私は変な行動をすると思われているらしいのだが、見てしまったので軍曹を呼び止め「叩くなとは言わないが、叩きすぎて尻の皮がむけ痛さで操作がうまくいかなくなるのも考えものだ。頼むぞ」そう言いながら次への通路へ向かう。言われた軍曹はキョトンとした顔をしており、不味いことをいったかなと思いながら一番船尾の機関室まで見回りながら、機関長は芥川大佐といい戦艦クラスは兵科のトップは大佐になっているようで副長でもペイペイでした。
見回りを終わらせ館長室に戻っていた艦長に報告を行い、艦長は私に明日は横須賀にある海軍病院で見てもらうようにと言うと外出許可をくれた。不馴れなので今日一緒に見回りについてきてくれた上米良上等兵を連れていくことになり少し安心しながら自室である副長室へと戻った。自室と言っても始めて入る部屋なので早速色々中を物色してみると手帳に日記があり几帳面なやつなのだなと思いつつ読み出し、名前は金谷正明と同じであり、出身は東京都品川であり父と母と兄がおり兄はソロモン開戦で戦死したようで前世では一人っ子だったはずが兄がいたことに不思議な感覚にとらわれる。そして日記の最近は山口まことさんと書いてあり一ヶ月ほど前にお見合いをしたらしく率直で真面目な言葉が書き記してあり、この頃の人々は戦争でいつ死んでもおかしくはない状態であるが大っぴらには恋愛をしていないのかなとも思いながら読んでいると上米良上等兵が食事の時間ですと士官食堂へと連れていってくれ、今晩はカレーライスのようで具は少ないが美味しくいただくと他の士官と何を話していいか分からず早々に自室へと戻り今日の事を考えながら少し早いが就寝した。
翌日はランチで横須賀の港に送ってもらい焼け跡の間を上等兵と共に白い壁の海軍の病院へと向かう。一通り診察を受けた後医者からは特に問題はないし一時的な記憶喪失だろうと言われ希望があれば陸に上がることも出来なくはないがと言われたのを断り礼をすると病院を出て町へ向かう。街で食事をと思いながら歩いたが配給制のため食堂にいっても出せるものがないと恐縮されながら港へ戻りランチのお迎えで長門へと戻った。
艦長に報告をすると、「まあ間も動かすことが叶わないのだからここでしっかり治しながら任務に励むように」と言われ感謝をしながら時々病院に診察い行くことの了承を受けると艦長室を出ていき艦内を覚えるついでに巡回を続け、しばらくは同じようなルーチンワークで生活をしながら軍務に必要な知識を覚えていく。
5月の終わりに2日ほど休みがもらえたので自宅がある品川へ帰ってみようと思い前日に電信で家に帰ることをしらせ、当日は白い軍装に着替え簡単な缶詰などをおみあげとしてもちランチとバスを乗り継ぎ横浜から満員の電車に乗りゆっくりとした蒸気機関車に揺られながら品川の駅につくと周りは焼け野はらであり一昨日に品川から見て南西部が特にひどかったようで私は家族の無事を祈りつつ住所を人々に聞いて回りながら家についた。家は半分だけ残ったようで母親が掃除を父親が燃えてしまったものを庭に出しており、私は会うのは始めてだが母親と父親の無事を喜びながら家の片付けを手伝っていると、燃え残った中の玄関があった横の居間を掃除していた母親が嬉しそうな声をあげたので父親と見てみると、女性と少年そして少女を連れて立っておりこの女性が見合いをした山口まことさんであり、弟と妹と荏原区の家が焼け出されてここまでたどり着いたと言うことで、母親は去年の空襲で亡くなっており父親も今回の空襲で行方不明であり申し訳ないが頼ってきたと言うことであった。
母親は大喜びで私が持ってきたパイナップルの缶詰めを開けると3人にふるまい、弟の耕一と妹の真紀は久しぶりに食べた甘い果物を大喜びで食べてしまった。弟と妹は疲れてしまいすぐ寝てしまい、父親と母親そして私と山口さんが居間のテーブルを囲み無事を祝いながら燃えずに残った配給の米と小さい干物2匹を皆でわけながらたべていると、おもむろに母親が父親に「早く」とせっつくと父親が山口さんに座り直すと「不詳の息子でこんな年まで独り身だがよければお願いしたい」そう言いながら私に何か言えとこちらを見たので慌てながら「こんな私だがよければ奥さんになってくださいませんか」そう言うと山口さんは涙を流しながら「ふつつか者ですがどうぞ末長くよろしくお願いします」そう言ってくれ私はすぐ近くに座り直しまことさんの手を取ると「ありがとう」そう言って父親がどこからかだしてきたお酒で「こんな時期だから結婚式をあげるのも叶わないのでこれで勘弁をしてくれ」そう言うとお椀に注ぎ契りとしてその日は焼け残った二部屋に別れて就寝した。
翌日は臨時で開設していた役所にまことさんと弟と妹を連れて向かい婚姻届を提出し配給を貰いにいき家に帰ってきた。明日は長門へ戻らなければならないので両親と弟と妹が気を使ってくれ夫婦水入らずで夜はすごし、翌朝は新婚生活も殆どなく品川駅へと見送りをしてくれながら電車で一路横浜へと向かった。
電車の窓から多摩川をこえて川崎に入っていくと昨日横浜で大規模な空襲があったようで行きと違い焼け野はらになっており、焼夷弾での日本家屋に対する破壊の爪痕はひどく新婚もすべて吹き飛ばしてしまう眺めでバスそして港からランチに乗ると長門へと到着し、早速まことへと手紙を書いて弟や妹の喜ぶ顔を思いながら缶詰や乾パンとともに実家に送った。
6月の最初の日艦橋に集合せよと言う艦長からの命令があり、急ぎ階段をかけ登り艦橋にはいると兵科の長たる大佐などがおりその真ん中に艦長がおり全員揃ったことを確認すると司令部からの命令書を読み始め、長門は特殊警備艦とし、本土決戦用に横須賀鎮守府沖に繋留し、迫り来るアメリカ軍を迎え撃つ又は空襲に対する防空砲台として使用するものとし、主砲以外の副砲や機関銃、マストや煙突などを取り外し長門が岸壁等に見える様に迷彩塗装を施すと言うことを話すと、それぞれの長は嘆き悲しみ怒り艦長に詰め寄ったが海軍総隊司令部からの命令なのでいか仕方なく、今日から直ぐに武装をはずし陸へと運んで来る本土決戦にむけ準備をするようにと艦長は締めくくった。
皆は肩をおとし艦橋から出ていき、艦長はため息を吐きながらまだ残っている私を見て、「金谷中佐はなぜ皆のように悲壮な顔をしていないのか」と言われたので、まさかもうすぐ戦争が終わるとは言えず「長門がここにいる限り悲壮感はなく、あるのは希望です」そう伝えると艦長は作業の責任者として頼むそう言うと艦橋から自室へと下りていってしまった。
私は艦橋から2連装の第一第二主砲がある上甲板を見ていると、各部署の長からの話が始まっておりここから見ても水兵の動揺は見てとれてします、指示と巡回をしなければと思いながら艦橋を出て降りていく。先ずは必要のないものを次々と台船を横付けし降ろし、対空機銃や側面についている単装の副砲を下ろしていき、最後にマストや煙突を解体し、最後に総出で塗装を行い3週間ほどで終わらせた。私は空襲を受ければ守ることも出来ない長門がどう奇跡的に生き残るかと思いながら作業が終われば殆どの乗組員は陸に戦いの場所をうつし長門には最低限の人しか残らないようになっていた。
翌日から次々と水兵が離艦していき出ていく者も残るものも初戦では旗艦であったこの長門を思いながら寂しそうに別れを惜しんだ。翌日からは残ったもので木々などを使い偽装を行ったりしてすごしており、時おり我が物顔で飛び回るアメリカ軍の偵察機を恨めしそうに眺めながらすごす。七月に入っても同じような日々が続き月の半分も過ぎた頃に艦長の進めもあり横須賀の病院に診察をして貰いに向かった。特に何があると言うわけでもなく医者からも経過観察で良いだろうと話していると、防空のサイレンが鳴り響きアメリカ軍の空襲という不意討ちを食らいながら私は隣接する防空壕には入らず、P-51など圧倒的な敵の制空権の中を港へと急いだ。
市街を抜けてようやく長門が停泊しているところに到着すると、長門は艦橋付近に爆弾を受けたらしく黒煙が上がっており、近くで止まっていたランチに飛び乗ったが退避しているらしく乗員は誰もいない待っていても危険なので港に隣接する松林に入り込み停泊している長門を見ていると、アメリカ軍の急降下爆撃機が練習をするように次々と爆弾を落としていく。長門は対空機銃など殆どをはずしてしまっているためなすがままであり空襲が終わるまでさらに1発が艦橋付近に命中し館長の安否が心配になりながら港のランチへ向かうと機銃掃射で沈んでしまっており、手こgボートであるカッターを近くの軍曹に頼み長門まで出してもらった。
長門に近づくと艦橋付近は破壊されておりそこにいる士官は絶望的な状況であり、甲板では残った乗組員は消火と救助をしており、私は長門に接舷すると急いで上甲板に上がってみると金属の破片が飛び散り負傷者等が多数でており、接舷したカッターで負傷者を急ぎ陸へと搬送するように命令を出すと、艦橋へあがるため外階段を登るが途中で破壊されているため配管などを伝い上へと登り昼間艦橋に到着すると爆弾の威力で装甲が歪み中は生きているものはいない絶望的な状況であり、焼けてしまい誰なのかも判別がつかなかった。
下士官に丁重に上甲板まで下ろすように命令をすると外の配管と階段を伝いおりると通信しつへ向かい艦長大塚幹少将以下艦橋要員が死亡したこと、私こと金谷中佐が最先任で有ることを知らせると、海軍総隊司令部よりおって後任の艦長を送ると言う言葉のみで沈黙してしまい我々には指示もないので、破片の後片付けと、艦橋までの階段の簡単な修復を頼むと部材等の調達のため横須賀の鎮守府に向かう。負傷者を搬送していたカッターに便乗し鎮守府へ向かうと爆撃にさらされたらしく建物が崩れており、その回りで救出が行われており部材等の調達は無理と判断し長門へ戻る。
翌日もまだ鎮守府としての機能は回復しておらず長門に戻りできる範囲内での補修作業を行ったが部材がないのでたいした補修も出来ずにいたが、翌日には借りで復旧したので艦長代理として材料の手配をお願いしたが、予備艦として優先順位が低いのでまず無理だろうと担当の中佐より言われたが書類は上へと回してくれることになった。同時期米内光政海軍大臣より内々に長門は出航出来るかと聞かれたので、艦橋が爆弾3発を食らい長門は中破のため補修をしないと難しいを答えると軍務局第三課の大尉は渋い顔をしてきてなんとかならないかと食い下がってきたので昼間鎮守府の補給担当官に言われたことを伝えるとそのままランチに乗り込み陸へと戻っていってしまった。後で聞いたところによると戦艦長門と重巡洋艦利根をソ連に引き渡し代わりに燃料等を貰えるように海軍大臣と軍務局が考えたことだが長門を動かせないと言うことで流れてしまったと言うことだった。
それから一週間すると新任の艦長が決まり明日にも赴任してくると言うことでできる限りの清掃と、前任の艦長の私物を片付け到着を待った。後任は杉野修一大佐でありどうやら私でも本で読んだことがある日露戦争の有名な杉野曹長の長男であり広瀬中佐の「杉野は何処だ」という歴史の1つであり、あらためてタイムスリップしたんだと言うことを自覚される。艦橋要員も艦長の移動にあわせて移動になっていたが人員が足りないのか半分ほどしか移動になっておらず予備艦と言うことを残っていた士官は思い知らされた。
鎮守府から軍楽隊が派遣され乗組員は上甲板に並び杉野大佐が乗るランチの到着を待つ。接舷したようで軍楽隊の歓迎の音楽が鳴り響き上甲板へ随行の士官と共に現れ乗船許可を貰うとこちらに来て艦長としての申告をもらい代理としての任務を終え副長としての地位に戻った。式の後は現状の報告と修理は材料が回してもらえないのでこのままになることを伝え、本土決戦(無いことは知っているが)の時にタグボートで東京湾の浅瀬に移動し海底に自沈した後陸上砲台として相模湾に上陸してくるアメリカ軍を迎撃する事についての作戦要項等の説明をそれから行っていく。
それからは杉野大佐の元兵器は動かせないが水兵達の習練は行えるということで剣道及び柔道そして鎮守府代表として名を馳せた相撲を毎日行うようにしており、私は神奈川にある日吉の連合艦隊司令部に出向き本土決戦のために長門の早期の修理をお願いしにいったり、厚木の海軍航空隊に援護をお願いしたりと行いながらあの日になってしまった。
朝から外出せず待機をするように横須賀鎮守府から通達があり士官や下士官そして水兵は何事かと皆で集まり話をしており、正午前になると士官は連合艦隊の旗艦であった頃に使われた作戦室に艦長を中心として集まる。私はこの瞬間にここにいる自分に興奮しており周り艦長は私の顔が薄く赤みを帯びているのを黙ってみており、それに気づいた私は落ち着くように言い聞かせているとスピーカーから始まった。
天皇陛下の声が聞こえてきて前世ではテレビで終戦の日8月15日には聞いた玉音放送が聞こえてきており、受信状況が悪いのかテレビで聞いたよりも聞き取りにくいが、皆最敬礼でこうべをたれ陛下からの終戦の言葉を聞く。私は戦争が終わりこれからどのように生きていくのか、その事を玉音放送を聞きながら考え始め気がつくと放送は終了し作戦室は静寂に包まれており皆ショックで言葉も発することも出来ない。私はゆっくりと顔をあげ艦長を見ると顔色が悪く他の士官も同様であった。
おもむろに砲術長である大佐が「この放送は何だ陛下は何を仰られているのだ」そう我々に問いかけるが皆黙りこんでいる。私は言いたいことを会えてのみこみ同判断をしていくのかと思いゆっくりと見ていくと、機関長がぽつりと「大日本帝国は戦争に破れたと言うことだ」そう言うと艦長の副官を勤めていた大尉が顔をあげると機関長に向かい「日本は神国であり鬼畜米英に負けるはずない、これも憎き米国と組んだ者達の仕業であり、負けるはずない」そう詰め寄るが、機関長は「それでは陛下の言葉を疑うということか、それが日本海軍の士官としての行動か」そう言い返すと作戦室の中は言い合いが始まり私は後ろに下がるとゆっくりと艦長の横に向かう。
私は小さい声で「杉野艦長」と何度も言うとようやく私の顔を見ながら絶望した顔で「金谷中佐どうしたらいい、我々はどうしたらいいのか」と言われたので、「米軍が長門を受け取りに来るまで職責を全うすべきでしょう」そう答ええると、小さな声で「任せる」そう言うと席にゆっくりと座ってしまい、私は言い合いをしている士官に「日本海軍の士官たる貴官の狼狽えようを陛下が知ったら嘆き悲しむぞ、静まれ」そう言い皆が静になりこちらを見たので、「艦長からの命令を伝える。どの様な事になろうと我々はこの長門をしっかり管理維持し任を解かれるまで職務に励むようにとのことだ、以上解散」そう言うと私は艦長を助け艦長の自室に戻るとベットへ寝かしつけ、兵卒に後を頼むと作戦室以上の喧騒に包まれている艦内へと戻っていった。