診療所A ①
診療所A
①
彼女は駆け込むわけでもなく、錯乱しているわけでもなく、いたって当たり前に診察を受けに来たような恰好だった。
「わたしをここで隔離してください」
古い事務椅子が軋む。彼女は僕の靴を見ていた。
「隔離していただきたいのです。有り金全てお渡しします」
僕の靴は薄汚れている。買い換えどきかもしれない。
「たまに、ふとした瞬間に、家族を殺す妄想をします」
彼女のブーツもだいぶ年期が入っているようだ。物持ちがいいんだろう。
「夜に、今、この、私以外が全員が寝静まった時に、台所に行って包丁を持ち出してしまえば、殺せるのだわ、と思うのです。最近、いつも、毎日、思うのです。布団の中で。トイレに行くのすら怖い。そのまま台所に行って包丁を持ち出してしまうのではないかと考えてしまって怖いのです、先生」
今日で十一月が終わる。カレンダーをめくらなければならない。
「ここはしがない町の診療所です」
「存じております」
「私は心理学を学びましたが、心理学者やカウンセラーになる道は選びませんでした」
「存じております」
「私には医療の才能はありません。人に触ることが苦手なのです。診察と治療はすべてもう一人の医師に任せています」
「存じております」
「ここは私の父から受け継いだ診療所で、医師ではありませんが所長です。私はここで暮らしています」
「先生」
「なぜか私に診察を依頼する患者さんがいらっしゃいます。意外にしょっちゅう。私はなんだか忙しくなってしまいました」
「先生」
「忙しくなって、いろいろなものがおろそかになっています」
雪が降りそうに寒い。
「住み込みで、お手伝いさんをしてくださると助かります」
「先生」
「お給料も少しですが、お支払いできると思います」
「先生、」
彼女は頑なに組んでいた両手指を少しほどいた。
「先生のことを、殺してしまうかもしれません。患者さまを殺してしまうかもしれません。衝動が止められないかもしれません。私は誰にも会いたくありません」
僕の指の上のボールペンは上手く回りきらず、ポトンと机の上に落ちた。
「僕はこう見えて意外に強いのです。患者さまも守ります。ここにはもう一人医師がいるのですが彼は僕より強いです。大丈夫、簡単に殺されはしません」
少し色素の薄い彼女の目を見つめる。
「僕たちは、誰も死にません」
大丈夫。まだ。雪が降るまでにじゅうぶん、冬支度はできる。
「……これから、お願いいたします、先生」
彼女は深く頭を下げて、形の良いつむじが見えた。
「こちらこそ、お願いいたします。僕は料理が苦手なものですから、作ってくださる方を探していたのですよ」
「私も料理はそんなに得意ではありません、先生」
「じゃあ、一緒に作ってください。一緒に覚えましょう」
「……はい」
母が使っていた部屋なら、比較的綺麗だ。軽く掃除すれば使えるだろう。わくわくするなあ。誰かと一緒にご飯を食べるのはひさしぶりだ。きっと楽しい。今日の患者さんは彼女が最後だ。はやく正面玄関の戸締りをして、彼女を部屋に案内しよう。
「お前さん、そりゃあプロポーズじゃねぇか」
翌日、同僚の医師の名子に口を曲げて言われてもさっぱり意味はわからなかった。師走の忙しいシーズンから働いてもらえるなんてタイミングがばっちりだと思って、僕は浮かれて、指の上のボールペンは回り切らずポトンと机に落ちた。
つづく。