Truth is stranger than fiction.①
ただひたすら純粋に、幸せを願っただけだった。
それが嘘でも構わないからと普遍的な幸せを望んだだけだった。
普遍的、ただ普通の幸せ。誰かのためと言い訳して、自分のためにそれを望んだ。
その結果、得た力は結果的に普遍を運ぶにはあまりに無能な力だった。
■
元来、創造主という奴は、二パターンいる。
一つ目は生まれながらにして魔法の力を持った天性の創造主。これは大体魔力が大きい。
二つ目は生まれてきてから何かのきっかけで魔法の力を持つことになった創造主。このタイプは天性に負けず劣らずな魔力の奴も居れば、最低限の魔力しか持ち合わせていないような存在すらいる。ふり幅の大きいタイプ。
あたしは、二つ目の後者だった。それも、ほんの数ヶ月ほど前にこの力を得たひよっこと呼ぶにも余りにまだ早いほどの人間が抜けきらない、そんな創造主だった。
創造主になってみたらなってみたで大体の勝手は頭が勝手に理解する。それでも思考はついていけない。そんな状況であたしは半ば逃げるように引っ越して、中学に入学した。
引っ越しの理由は単純なもの。両親の離婚で、親父が完全なる有責で、普段ぽやぽやしてる母親が慰謝料諸々を鬼の形相でふんだくって緑色の紙を叩き付けた。あたしはその顛末を全てが終わった後に知る。
でも別にどうでもいいかなと本気で思っていた。
自分が世界一不幸だと自負するつもりは一切ない。まだマシな部類で、それはそれはありふれたことだろうと思う。
それでもその上で、なんとなくついてないなと思うくらいは、まぁ、許容範囲だろうと信じたい。
とにかくそんなこんなで真新しい紺色のブレザーに青色チェックのスカートに、下ろしたばかりの革靴に身を固め、入学式も淡々と過ごし、晴れて名実共にJCへとなったあたしは茫然と文庫本をめくるのに忙しい。
歳を食って身分が上がっても何かが変わるわけではなかった。どれほど頑張ったところで地軸の傾きは一ミリもあたしの思い通りにはならないし、太陽は爆発しないし、突然地球が逆回転することだってないのだ。
それを理解したからかどれほど足掻いても変えることのできない世界をあたしはただひたすらにどうでもいいと思うようになった。
自分を取り巻く環境がどう変わろうが、正直何が起ころうがどうでもいい。ただ目立たずにひっそりと消え去れたらそれでいいかなとすら思うようになった。
どれほど正義の味方を目指しても、世界は少しも変わらない。目前の悪は排除できても、世の中に溢れかえる悪いことは溢れかえったままだし、むしろ増えているのかもしれない。
否、そもそも悪だの善だの、そういう定義すらもただ一個人の感情論に過ぎないのかもしれない。世の中という大衆の感情論だからこそ、それが定義になってしまっただけ。もっとも他人の立場に立って同情する気などもないのである。
だって、それが例え、どんなにやむにやまれぬ事情でも人を殺せば人を裁くのは無機質な法であり、秩序であり、大衆の自己愛だ。情状酌量の余地はあっても罪を償わずに済む都合のいい世界などありゃしない。だからこそ、あたしたちは平和という怠惰に身を沈める。
くだらない。思考の波を振り払うように頭を軽く左右に振る。我ながら馬鹿げた話だと思う。
自分の髪を指にくるくる絡めながら窓の外を眺めていると視界の端に何かがちらりと映り込んだ。顔をしかめる。ここ数日嫌というほど見たうちの学校の男子制服、詰襟の学生服だ。
どうせ通り過ぎていくだろうとただ人を寄せ付けない道具でしかないもののページをぱらりとめくる。紙の上で踊る文字はちっとも頭の中に入ってこない。
――この時点で、あたしは自分の身に降りかかる思いもよらぬ人生最大にして最悪の出会いを予兆していたのではないだろうかと今では思う。
「なぁ」頭上から声がかかる。まさか、と思っているとこともあろうに目前の人物はしゃがみ込むと机に顎をくっつけて「なぁってばぁー」とあたしを覗き込んだ。
予想通り、うちの学ランを着た男子生徒だった。同級生であろう。黒縁メガネの奥の瞳がまるで子犬のようにあたしを捉える。
「……なによ」
愛想よく返すつもりが随分突っ返すような言い方になってしまった。これは事故です。
しかし彼の方はめげることもなく、首を傾げた。
「さっきからずーっと本読んでるけどさ、何読んでるわけ?」
「桃太郎の入った桃の上手な割り方」
あっさりこぼれおちたあたしの嘘に彼は身を乗り出して「そんな本あるんだ」と興味深そうに告げる。
本当に人懐っこい犬みたいな奴だとあたしは内心舌打ちした。何を隠そうあたしは猫派なのだ。犬はノーサンキュー。
ぱたんと本を閉じる。会話に不要だからと思ったわけではない。面倒くさくなっただけだ。
頬杖をついて窓の外を見る。お前との会話はもう終わったぞ。そう告げる意味を持っていた。
ところがこのわんこ君(仮名)はあたしの視線の先に潜り込んで「おーい聞こえてますかー」と手を振っている。超うぜぇ。うざさのあまり無視しちゃうくらいウザイ。
なるべく相手にしないように視線を逸らしてもそれでもなおしつこくあたしの視界に入ろうと犬野郎(仮名)はちょろちょろとあたしの周りを動き回っている。何か異形のものに絡まれているような気すらしてちょっと怖くなる。
「なんで無視すんだよー!」
そのうち我慢できなくなったのかゆさゆさ体を左右に揺らされた。
「ちょ、何す、やめ」
「やめない! お前が俺の相手をしてくれるまでやめな」
「やめんかぁ!」
ごっ、といい音を立ててあたしの作った手刀が奴に直撃する。
ぎゃあと短い断末魔をあげて奴が机に突っ伏した。じんじんと痛む手を振りながら「つーかあんたマジ誰よ」と顔をしかめた。
申し訳ないが顔と名前を一致させるのが人より苦手なんだ。新しいクラスメイトの名前などまだ覚えてはいない。
それを簡潔に申し伝えると彼は「ああ、そりゃ知らないだろ」と笑った。
「だって俺別のクラスだから。今はじめて話したよね」
……何言ってんのこいつ。
別のクラスの会話もしたことのない異性にあんなになれなれしく絡んでいたというのか。同じクラスならお節介という範疇で納められたのにここまで来るとただの電波さんだ。あまりの台詞に硬直していると始業を告げるチャイムが鳴り響く。うお、と奴が方向転換する。
「放課後さー色々おしゃべりしよーぜお姉さん!」
お断りだ電波さん。
心の中であたしが盛大にお断りを申し上げたにも関わらず、相手の心に響いては居なかったようで学活を終えたあと、キラキラした顔であたしを待ち受けていたのは白馬に乗った王子様ではなく、電波さんだった。
電波の仲間入りを果たして自分まで電波になるなんて御免だ。心の底からそう思ったあたしは自分が創造主であるという事実を思いっきり棚上げしながら「あ、いたー!」なんて嬉しそうに声をあげやがってる電波を完全無視することに決めた。
創造主の使命からはなかなか逃れられないのかもしれない。しれないが、サイコな電波にあてられて、これ以上必要ない要素を増やすつもりはさらさらない。
よーっと慣れ慣れしく手を伸ばしてくる彼の横を素通りして階段の方へを向かう。無視だ、こういうのは無視に限る。構ったらその瞬間にずるずると引きずり込まれるんだ。これはそういう類だろう。
スクバの持ち手を握りしめ、決意を固めていると「無視すんなって、お前と俺の仲じゃないですかー」第一印象最悪の出会って一日も経っていない電波野郎との間に紡いでやる友情などない。
あたしはこの手のしつこい人種が死ぬほど嫌いだ。電波など尚更お断り物件だ。
さっさと上履きから履き替えるべく、下駄箱の方へと向かう。どうやらご近所さんだったようで反対側の下駄箱へまわって行ったがそれもすぐに合流してくる。
「あ、つーか名前! 名前聞いてないし言ってないわそりゃ警戒されるよな」
違うそうじゃないと喉元まで出かけた言葉を飲みこむ。危なかった。
「俺、東雲結城。東の雲に結ぶ城って書きます」
名乗れとも言ってない。
しかしこっちの心境なぞお構いなしのその東雲という輩はまくし立てるように続けた。
「中学入学するのと同時にこっち越して来たからまだ友達っていう友達いなくてさ」
「だったら同類と友達になるのを勧めるわ」
校門を抜けた辺りで我慢できなくなって応答してしまった。でも突き放す類の台詞なんだしいいよな。
ところが、東雲はあたしの言葉にぱぁっと嬉しそうに顔を輝かせる。ドMか。
「よかった! 俺のこと全然見えてないのかと思った! 超焦ってたんだぞ俺!」
どうやら性的嗜好じゃなくて純粋にあたしに相手してもらったのが嬉しいらしい。
ばしばしと感動のあまりか背中を叩いてくる。これもかなりうざい。
微妙な痛さに顔をしかめながらこのうざい輩をいかに視界から排除しようか考えつつ歩を進めた。
とことことついてくる。餌を求める捨て犬のようだと思ったがそれほど可愛くも思えなかった。
その間にも東雲はしきりにあたしに話しかけてくる。
「なぁ俺も名乗ったんだからお前も名乗れよ。平等に行こう」
「別に名乗ってくれなんて頼んでない」
「じゃあ俺が頼むから! お願い名前教えて!」
「誰が教えてやるか」
ふんと鼻で笑いながら一蹴するとうぐぐとでも言い出しそうな表情を浮かべながら東雲がこちらを見つめている。ざまぁみろ。
そういえば座って相手をしているときは気付かなかったがあたしと大して身長が変わらないようだ。目線が同じ高さにある。男の癖に。
ほんの少しだけ優越感を覚えていると「じゃあ」と悩ましそうに彼が言う。
「俺はひとまずお前を『お嬢』と呼ぼうと思う」
「……なんで?」
あたしは一般家庭に生まれた極々普通な平民です。ちょっと前に創造主になった以外は。
やっぱりこっちにはお構いなしに東雲結城はあたしの両手を唐突に握りしめた。
「ん?」
急なことに硬直していると東雲は今までのふざけた口調とは変わって、もっともらしい口調で告げる。
「俺と、相方になってくれませんか」
「お断りします」
秒速で、今度はきちんと口に出してお断りしてするりと手を放す。何言ってんだこいつは。くだんねーくだんねー。帰ってニュースでも見てる方がよほど為になる。
あたしの神業にさすがの東雲も動揺したのかぽかーんと立ち尽くしてから「ちょ、おま!」と慌てて後を追ってくる。
「断るにしてもそこはもっと話を掘り下げてから断るもんだろ!」
「うるさいあんたのせいで貴重な人生の時間をかなり無駄にしたわ。もう帰って寝る」
「おかしいって! ほら、もっとあるだろ? 『相方? 相方ってなんの相方?』みたいなやつ!」
おかしいのはお前だ電波野郎。
振り返って東雲を睨み付けてから舌打ちする。それに彼がさらに吠える。
「舌打ち! 舌打ちしたなお前!」
「うるさいな喚かないでよ」
耳障りだ。
ぐしゃぐしゃと前髪を押さえながら「あーもう分かった聞く聞く。なんの相方?」面倒くさくなって問いかけるとそこでようやく、東雲結城は口を閉ざした。
なんだ、聞けと言っておいていざ聞いてやったらだんまりかと文句の一つでも言ってやろうかと口を開きかけ、それをやめた。
いつの間にか、東雲結城の手に、巨大な弓矢が握られていたからだ。
その顔には不敵な笑みが浮かんでいる。でもなぜか、人間の卑怯さのようなものは感じさせない。どこかで柔らかい笑みだった、ような気がする。
弦を思いっきり引いてからすでにつがえられていた矢を放つ。まっすぐな軌道を描いた矢がどこかに突き刺さり、鼓膜がわずかな断末魔を聞いた。人間のものじゃない。まだ数回しか聞いたことないそれだった。
「創造主としての相方」
たった一撃で呪祖を沈めた創造主が、そう言ってあたしの目の前で笑った。
創造主として相方が居た方がいい。それもまた本能的には理解していた。していたものの、では実際に作る気があったかといえば答えはNOである。
なぜかと問われると回答も困るのだが、とにかく誰かと組んでやろうという気はなかった。一人でやっていける。いやむしろ一人がいい。こんなところだった。
一矢で呪祖を倒すような創造主がとんでもない奴だということはあたしにだって分かる。
どう考えたって普通じゃない。
そしてそこに生じるあたしとの力量の差もである。
顔を引きつらせながら「冗談でしょ」と声を放つ。虚勢を張れていた自信すらない。声は多分震えていた。
凄いとか憧れるとかじゃなかった。あたしが彼に抱いたのははじめて見た自分以外の創造主へのただ純粋な恐怖。自分が底辺の方にいたことを分かっていたはずなのに
「なんつったらいいのかな」と東雲。一歩近づかれたので一歩下がる。周りには気付いたら誰もいない。
「俺は天性型なんだけど、その、魔力の素質ってのが普通の創造主よりずっとあって」
自分の手を見つめてから「何百年、何千年に一度、生まれるか生まれないか。そういう奇跡的な魔力を持った創造主。それが俺」と楽しそうに自分を指差した。
天才。
その二文字が脳裏をよぎる。こいつは、天才なんだ。あたしとは違うんだ。
なるべくしてなった創造主なのだろう。あたしみたいに偶然何かの事故でなってしまった中途半端な奴とは違う。
だからこそ、先ほどの言葉の意味が理解できない。
なぜあたしなのか。その疑問だけが浮かび上がってくる。
とにかく分かったのはこいつはあたしが思っている以上にやばそうというそれだけだ。
そうと決まればやることは一つだった。
「あ、あー!」
「ん?」
「そ、空飛ぶヤギが琵琶食いながら屋根の上に登ってるー!」
「嘘!?」
あたしの名演技によってばっと身を乗り出す東雲。その視線が離れた隙に猛ダッシュでその場を離れた。無我夢中だった。
逃げ切れば勝ち。家に帰れば勝ちだと。我ながら馬鹿な考えに基づいてである。
ぬかった。翌日登校して来て、我が物顔で人の席を占領している天才を見て素直にそう思った。
そもそも同じ学校に通ってるんだから逃げようにも転校でもしなきゃ逃げ切れないわけで義務教育を放棄して今後の人生を無駄にする選択を取るとそれはそれで負けが気がする。
声をかけてどけと伝えるのも面倒だったのでカバンは横にかけながら机の上に腰を下ろす。手には文庫本を持って、である。
あたしに気付いた東雲が不満げな声をあげる。
「いなかったぞヤギ」
「へーそりゃよかった」
「……そんなに俺の相方は嫌ですか」
ぽつんと言われて顔をしかめる。
「嫌っていうか、お断り」
我ながらいい笑顔だったと思う。
「俺、自分で言うのもあれだけど相当強い方だからな? 組んどくと後々絶対役に立つよ?」
「自己評価が高いのは結構だし、他人から見てもそう思うわよ」
でも、と笑いかける。
「あたしとあんたは根本的に合わないわ、多分ね」
とてもじゃないがあたしはこの男の相方を長い間勤められる気はしない。
直感的にそう思うだけでこれといった理屈もないが。とにかく合わない、そう思えて仕方ない。
そうか? 不思議そうに東雲が首を傾げた。
「俺は結構合うと思うけど」
あたしの目をまっすぐ見ながら言っている辺り、あたしと彼のことを言っているんだろう。頭おかしい。
日本語で話しているのに会話は通じ合っていない。いや、通じ合っているけれど根本的なところで完全にすれ違いを果たしている。
お互いにお互いの主張を見て見ぬふり。これは長期戦だなと溜め息を吐いた。
「まだ創造主になって三ヶ月もないお前からしてみりゃ俺は敵に回したくはない同業者だろ?」
思わず、奴の目を見据えた。
なぜだ。なぜ知ってる。
いや、そもそも目前の問題にばかり気を取られて、何も思わなかったがよくよく思い返せば妙なんだ。なぜ、こいつはあたしが創造主なのを知っている。しかもまだなって半年どころか三ヶ月にも満たないということさえも。
無論ながらあたしは東雲と交流は一切ない。つい昨日、電波の一方的な送信を受けるまでは名前さえも知らなかった。そしてまた彼も言った。『あたしは東雲を知らなくて当然』だと。
話してもいない。あの一件があるまではあたしは彼を頭の螺子が足りてないだけの人間だとすら思っていた。
「なんで知ってるの」
分からないことは聞くに限る。
あたしの問いかけに東雲はあの不愉快なくらい人懐っこい笑みを浮かべながら「それは内緒」と人差し指を口元に当てた。
「相方になってくれたら手の内明かしてもいっかなぁって感じ」
「そんな見え透いた商法に引っかかるほどあたしは馬鹿じゃないっつーの」
失礼しちゃうわぷんすか。
始業を告げるチャイムが鳴り響く。う、と顔をしかめた東雲は人の席からようやく腰を上げると「俺はこう見えて結構諦めが悪いんだ」その宣言は嫌な予感しかしない。
しかし、そう言われると。
「あたしはこれでも負けず嫌いでね」
こう返したくなるのがあたしという人種である。
にっと笑って「面白いじゃん」と言い放った東雲はそのまま教室から出て行った。ようやく返ってきた生ぬるい椅子に座りながら手に持っていた文庫本は渋々カバンの中にしまった。なんとなく、小説を読むような気になれなかった。
間もなく担任が入ってきてありがたくも面白味はない話を垂れ流している。朝から疲れ切ったあたしには眠気を誘うのにちょうどいいBGMくらいにしかならなかった。
頬杖をつきながら建前的に眠気と戦っているとつんつんと肩を突かれた。重くなっていた瞼をあげて、振り返ると隣人が手を挙げながら人のよさそうな笑みを携えていた。
「えっと」
間を誤魔化すためにそんな言葉がこぼれる。確か、名前は。
「あ、えと、神泉くん?」
よかった隣人の名前くらいはさすがのあたしも覚えていたらしい。
その彼は「ああ、いずみでいいよ。い、ず、み」と下の名前を改めて小声で告げてから「めんどくさそうなのに絡まれてるよね」眉を寄せる。
「めんどくさいっていうか、電波?」
「でも東雲結城って有名人だよね。創造主を人って呼んでいいかは分かんないけど」
驚いて彼を見返す。
「……同業の人?」
「ということはおじょっちも創造主か、ま、そんな気はしてたけど」
どうやらうっかりあたしの素性を知らせてしまったらしい。というかおじょっちって、「ゆー」「おーまいごっと」中学一年生の限界的英語力を行使しながら会話を続行された。
「俺は創造主じゃないんだよねぇ、部類的には近いかもしれないけど」
「へぇ」
他の創造主に出会ったのも東雲がはじめてだったし、こうして創造主関連じゃない他の人外に出会ったのも実はこれがはじめてだ。この中学にそれなりに人外がいるって言うのは聞いていたもののだ。
それゆえか、身を乗り出すといずみっち(対抗してこう呼ぶことに決めた)は「死神」ひっ、と身を引く。
「みたいなやつ? いやー神様なんて御大層なもんじゃないのよ。ゆーきのが強いしね」
そう続いた彼の言葉にふーんと顔を引きつらせながら返した。隣人怖い。というかゆーきって東雲以外考えられないし。仲良しこよしだったのか、仲間か。
警戒していると「俺、ゆーきと仮入部おんなじとこ行ってるけど悪い奴じゃないと思うよ?」
溜め息を吐く。
「だから嫌いなのよ」
「……ほほう」
どうやらいずみっちの方は東雲よりよほど物分りがいいようだ。
担任から「聞いてるー?」という問いが飛んできたので「いいともー」という凄く関係ない台詞を吐き出して怒られてみることにした。
黒板に舞い踊る白い文字は手招きしながらあたしを睡眠の世界へと誘おうと画策している。
理解できない数字の羅列を見ながらその誘いに乗ってやるのも悪くないかもしれないと思っていた。さながら悪魔のようにあたしに三大欲求を満たせと囁くのだ。
隣の死神(自称)はすでに優しい眠りに身を委ねている。羨ましい。シャーペンをノートから離しながら頬杖をつく。何、簡単だ。不安も、焦りも煩わしいことは何もかも全て忘れて、目を閉じて本能が赴くままにタイムスリップすればいい。邪魔するものなんて『……え、ますか』何も、な、かった、はずなのに。
塞いでいた視界を再び開きながら直接脳内に流れ込んできたもう聞くだけで腹の立つレベルに到達していた声に顔をしかめた。どうせテレパシーの類だろう。いくらひよっこでもこれくらいは分かるし動揺なぞするもんか。
あたしがそんな顔をしているとは少しも思っていないのかさらに奴の言葉が続く。
『きこえますか……創造主さん……同じ創造主です……今……あなたの……心に……直接……呼びかけています……。いいですか……授業を受けている場合では……ありません……相方です……相方になるのです……』
こいつ直接脳内に……!
勧誘方法を変えて悪徳業者よろしく絡まれながら眠気の世界へ突っ込んでいた片足を完全に引っこ抜くとどうしたものかと考え込む。下手に返事をしても面倒くさいループなだけだ。
だったらこちらだってそれなりの対応はせねばなるまい。
『お念話ありがとうございます、これより音声ガイダンスに従ってご希望の番号を押してください』
『は、え……!?』
動揺した声が聞こえてくるがざまぁみろと心の中で舌を出しつつさらに追撃。
『パインサラダを期待して戦闘に赴く方は『一』を、この戦争が終わったら結婚する方は『二』を、もう何も怖くない方は『三』を押してください』
『薄々気づいてたけどやっぱりめんどくさい奴! あのなかなか本題に辿りつけないめんどくさい奴! しかも全部俺死ぬ!』
それが分かったならさっさと念話を諦めてくれ。
眠ってしまう気にもなれなくなったので黒板の文字をのろのろとノートに書き写しているとあたしのガイダンスに一蹴されたにも関わらずめげずに奴の声が流れ込んでくる。
『なぁ、お嬢ー野球しよーぜー!』
「んあ……」
「おはよういずみっち」
「うっす……」
『ちょ、俺というものがありながらすでにいずみまで手を伸ばすとはなんたる悪魔! 魔女!』
イライラが溜まる一方である。
お前は授業を受けなくていいのかとか色々と思うところはあるのだがあたしが突っ込むより早く『じゃあしりとりやろーぜしりとり』いや、授業とも思ったがこれで黙るなら安いもんだとそれを受け入れてみることにした。
『んじゃ、俺から。はい、画鋲』
『うざい』
『ま、まぁいいや……えと、い、いかだ』
『黙れ』
一瞬の沈黙。そのあとに、
『レンタルビデオ』
『おたんこなす』
『す、スープ』
『ぷー太郎』
『宇宙!』
『鬱陶しい』
『……意気地なし』
『死ね』
数秒の間の後に遂に我慢できなくなったのか東雲が一際でかい声を飛ばして来た。
『俺への罵倒でしりとりすんの禁止!』
『別にあんたへの罵倒とかあたしの素直な気持ちだなんて一言も言ってないじゃない』
『ド直球!』
『うざい』
『しりとりはもういい!』
残念だ、せっかくのって来たのに。
『私の授業で念話を飛ばすとはいい度胸だなぁ?』
突然割り込んできた低い女の声に肩を跳ね上がらせる。
この声は聞き覚えがある。今、まさに黒板の文字を解説していた声だ。
生徒に人外が多めの学校ならば、教師だってそれなりでなければならない。
学年主任、朝霧ヤマトもその一人だ。黒い髪を揺らしながら彼女がじっとこちらを見据えていた。
その正体は、一応この学校に入学した時に聞いていた。この周辺の土地を治める土地神の狛犬だと。
『あ、朝霧先生……』
すっかり困惑しきった様子の東雲の声が脳内に響く。あたしも内心焦っていた。というかなぜ怒られなきゃならんのかというわけで。
急いで言い訳を述べる。
『ちょっと待ってください先生、あたし一方的に送られてきただけですし被害者ですし』
『おま』
『人の授業中にしりとり楽しんでいた奴が何を言うか』
『……楽しそうに聞こえました?』
問いかけてみると一瞬だけ間を空けてから『とにかく、話は聞こうじゃないか。あとで職員室。東雲も』
全部お前のせいだ! 東雲にそう叫んでやりたいのを抑えながら机に突っ伏した。
思い返せばあたしという人間は表向きこそ実に模範的で大人しい子供として過ごしてきたように思う。勿論このときは、これから先の人生で職員室に呼ばれることなど二度とあるまいと誓っていたのが実際には常連になろうことなど知る由もないのである。
手のかからないいつもにこにこしている子供。それは親教師に反抗したいという気持ちより、面倒に巻き込まれたくないというどこか事なかれな、平穏な日本人らしい考え方なのかもしれない。
それが今日はどうしたというのだろう? 目の前で足を組み、あたしたちを交互に睨み付けるように見ている朝霧先生に威圧されながら決まり悪く視線を逸らす。
「で?」
こんこんと机の隅っこを叩きながら彼女は不機嫌そうに首を傾げた。
いくら他に比べて人ならざる者が多くて、待遇されている学校とはいえどその大半の生徒は何も知らないただ人としてのほほんと生きている人間なのだ。それらを配慮した上で人外に課せられるルールと指導は当然重くなる。
東雲の方もすっかり萎縮しきって何も言わない。お前が悪いんだろうと蹴り飛ばしてやりたい気にもなるがそれをやると朝霧先生の雷が落ちるのは必至だ。
「私も色んな生徒を相手にしてきたが四月ですでに授業中に念話飛ばしてる馬鹿共ははじめてだ」
低い声があたしたちを叱責する。だから一方的な迷惑念話なのに、と言い訳を口に出して火に油を注ぐような真似はしない。
朝霧先生は深い溜め息を吐く。
「東雲結城、噂通りの曲者だな」
自分の名前が出たことであはは、と東雲が苦笑する。それに構わず、あたしを見た彼女はどこか嘲り笑うような調子で続けた。
「お前たちはきっと相性がいいよ」
あんたまでそう言うか。
思わず顔をしかめていると「そう怖い顔をするな」と言葉とは正反対に楽しそうにくくくっと噛み殺した笑い声をあげながら朝霧先生はさらに、
「色々考えてみたが、どうだ。ペナルティ代わりに一つ頼まれてみてはくれないか」
お断りだ。反射神経的にその言葉が喉元までせり上がる。吐き出さなかったのはそれより先に隣にいた馬鹿が「何をですか?」と問いかけてしまったからだ。
「何、大した話でもない。瀬ノ沼という沼があるだろう」
「ああ、電車で行ったところの」
現住所と学校とスーパー以外の場所への土地情報が全くなかったあたしに代わってドアホが答えるとああ、と朝霧先生は小さく頷いた。
「そこで人を引きずり込むなどという粗相をしてる輩が、それも呪祖がいるようでな。近いうちに私が退治に行くつもりだったのだ」
と、あたしたち二人を見据えながら「が、気が変わった。呪祖なら貴様ら創造主に任せれば解決だ。しかも片方は未曾有の大天才東雲結城ときた。負ける要素がない」
要するに、よりによってこの、電波と呪祖退治に行けと。彼女はどうやらそう言いたいようだ。
「そんな大天才さまならお一人でも呪祖が退治できるんではなくって?」
嫌味のつもりはなかったがどこか嫌味ったらしくなった口調でそうあたしが返せばこれまたおかしそうに朝霧は声をあげて笑う。
「お前ら二人で行かねばお前の罰にならんだろう」
……なるほど、理屈は分かった。
学校側からの指導を面倒だから嫌だからと跳ね除けられるほどあたしは図太くない。溜め息を押し殺しながら「分かりました」とだけ小さく返す。
隣の天才が満面の笑みを浮かべていたのが大変気がかりでした。
あんたのせいよ! 一度制服から着替え、荷物をまとめ直して駅で東雲と合流した瞬間、あたしの口から飛び出たのはそんな叱責の言葉だった。
面白がってしりとりやってたあたしにも責任の半分があるのは分かっているがそれにしてもそもそもは東雲がいなかったらこんな面倒にあたしが巻き込まれることなんて絶対なかったんだ。
わしゃわしゃと髪をかき乱しながら顔を歪めていると珍しく項垂れた東雲が「ごめん」とだけ本当に申し訳なさそうに告げた。
てっきり言い訳の類か逆ギレが待ち構えているに違いないと思っていたあたしは途端に拍子抜けして「へ?」と奇妙な声をあげてしまった。
「え、何よ、突然」
「いや、正直お前まで巻き込まれると思ってなかったから結構反省してる」
切符を飲みこませて、改札を抜けながら告げられた東雲の言葉に言葉を詰まらせた。
なんだか、そんなあっさりと謝られるとかえって調子が狂う。
その顔が捨てられた子犬のように見えて、ついバツが悪くなる。自分も改札を抜けながら「反省してるならいいわよ別に」と視線を逸らす。
「いいけど知り合いだと思われたくないから離れてくれる?」
「一々酷いなお前……」
と言いながらもきちんとあたしと距離を離して歩いている。
存外素直なのかもしれない。感心するばかりで態度を改めようとはこれぽっちも思わないが。
タイミングよくやってきた電車に乗り込みながらあたしは扉の横にもたれ、東雲は反対側の壁の前に立っていた。扉の分だけ隔てた距離。それすら今のあたしには居心地が悪い。
気付けば逃げるように文庫本を取り出していた。適当に本棚から見繕ってきた本に書かれた『嘘』というタイトルに顔をしかめた。吐き気がする。妙に生々しい感覚に襲われて、舌打ちしてからカバンに本を放り込んだ。
「読まないのか?」
ややあって東雲から発せられた問いに「そんな気分じゃなくなったわ」と窓の外に流れていく景色を見た。
それで会話を終わらせればいいのに手元に本がないせいでこの沈黙が耐えられない。気が付けば自分から口を開いていた。
「目、悪いの?」
車輪がレールを走る音がする。
独特のがたんごとんという心地いい音の中で自分の眼鏡の話だと気付いたのか「あー昔から。多分遺伝」と東雲は告げた。
「そう」
「母親が眼鏡でさ。俺、母親似だから。どうも父親には似なかったんだよなぁ」
とそれからあたしの方を見て「お嬢は?」どちらかに似ている、そう言い放てば終わった話題なのにあたしの口からこぼれた答えはそのどちらでもなかった。
「どうかしらね」
父親なんていない。心のどこかでそう悲鳴をあげた。あれは他人だ。
言わなかったのはどうしてそう思うのか的確な言葉を並べられないからだ。
車内アナウンスが無機質に目的の駅の名を告げる。まっすぐこちらを見つめていた東雲に「行くわよ」と告げ、駅に立つ。
なぜだろう、このまっすぐな瞳があたしには酷く突き刺さる。いつかあたしを壊すのではなかろうかと疑わずにはいられない。
そしてその予想が奇しくも当たることになろうとはまだあたしは知らなかった。
沼。池や湖ではなく、その表現がしっくりくるような沼だった。
水辺をびっしりと背の高い植物が埋め尽くし、水面にはぷかぷかと水草が舞い踊る。淀んだ水色がどこか陰湿な雰囲気を醸し出す。
小石を蹴り飛ばしながら「しっかしこんなところにいるのかしらね」と荷物を抱えながら疑いの目を水中に向けつつ水辺に駆け寄った。
今思うと迂闊だった。これがひよっこの油断なのか。
ばしゃりと水音を立て、水しぶきを上げながら水中から黒い腕のようなものが飛び出したのを視界に捉えた。
そのときにはもう遅く、ずるりと不愉快な感触と共に体が引っ張られた。
「な、おじょ」
慌てて伸ばされた東雲の手を握ろうとしてももう遅く、派手な水音を立てながらあたしは沼に落ちた。
ぼこり。口からこぼれた空気が濁った水の中で白く吐き出される。苦しい。
その手を振り払うために辛うじて動く左腕を水中で横に薙ぐ。
どこからともなく現れた銀色の鎖が水中で伸び続けていた腕を振り払う。解放されたその瞬間、水面に向かおうと懸命にもがくも体は思うように上へと進まない。
どうでもいいだのなんだのと言っていた割にいざ死にそうになるとまだ生に縋っていたくなる。でも無力なあたしはただ光へと手を伸ばすことしか出来なかった。
そんなことしても誰も助けてくれないし、無駄だと頭の中で思いながら。
まだ生きていたい。ただそれだけの欲のために、伸ばされた腕を今までは居なかった存在が引き上げた。
ぐっと引っ張られながらやがて誰かに自分の体を支えられながら、さっきまでの奮闘が馬鹿馬鹿しくなるほどの速さで水面に浮上する。
太陽の光が目を焼いた。「げほ、ごっほ!」口の中に入り込んだ水を地面に吐き出すと「よか、いきてた……!」と隣の誰かが声を発する。
水浸しになりながら東雲結城が心底安心したようにこちらを見つめていた。その顔に物足りなさを感じて少し考えてから「あ」と気付く。
「あんた、眼鏡……」
「ばっか俺の眼鏡なんかどうでもいい!」
怒られた。心配したのに怒られた。
怒鳴り付けられてどうすればよいのやらとおろおろしていると「ほんと、よかったぁ」と心の底から安堵したように呟かれた。
……ばっかみたい。そんな冷めた台詞が最初の感想として心の中で浮かび上がった。
何やってるんだこいつは。不注意で落ちたあたしなんかに構わずにさっさと退治してしまえばよかったものを。それこそ小説の主人公でもあるまいし、魔法があるからヒーローでなければいけないだなんてことはない。自分のことだけ考えてくれていた方があたしだってやりやすいのに。
人は自分勝手だ。そんなのガキのあたしだって知ってる。自分のために息をして、何かを思って、嘘を吐く。呪祖はその自分勝手の象徴だと、あたしはそう思っていた。
けれどこの目の前の奴からはそれを不思議と感じられない。自分勝手なのに、根本が何か違う。だから嫌なんだ。どこかで人間の部分を残したあたしはそこに恐怖すらも感じていた。
何を言うでもなく、顔を俯かせるあたしに構わず右手に弓を握りながら立ち上がった東雲は沼の中央でうねうねと動く呪祖の手を細めた目で見ながら頭を抱えた。
「当たるかな、眼鏡なしで。動かれたらアウトだな」
「……的が止まってるなら大丈夫?」
問いかけると驚いたように見返された。なんだよ、その顔は。
「こう見えて、拘束魔法だけは得意なの」
にこっと笑顔を張り付けながら呪祖を指差した。
途端に伸びた鎖が散り散りになっていた何本もの手をまとめながらくるくると巻き付いて、一点にまとめて拘束する。
「これならどうよ?」
「お、おお……」
感心したような声をあげながらきりきりと東雲が弦を引く。
その様子を見ながら自嘲気味に告げる。
「信用してるわ、相方」
一瞬だけにっと笑ってから東雲は弦から手を離した。
「おう。任せとけ」
拘束されていた呪祖の中央を矢が貫いた。
歪な声をあげながら消えていくその姿を見ながら「ああそれと」と濡れた髪を絞りながらどうでもいい話をしてみる。
「あんた、眼鏡ない方がいいわ。多分そっちのがモテる」
「マジか」
「マジマジ」
適当なことを言ってやると「明日からコンタクトにしようかな」などとぶつぶつと呟いている。
全く素直な相方だと、思わず笑みがこぼれた。
■□■
その日あたしは死んだ。
■
あの日からあたしは東雲結城の相方として生きていくことになった。相変わらず東雲の方は理不尽だし、めちゃくちゃだし、規格外だけれど呪祖との戦闘という面においては不便することは絶対になかった。
悪くないコンビだと。そう思っていたはずだった。
それを全て覆したのがかつてあたしが父と呼んだそれの再婚の知らせだった。
何とも言えない気持ちになったものだ。母を裏切り、あたしを捨てたそいつがなんとまぁ再婚だのとぬけぬけと。
結局のところそういうものだ。怒りとも虚しさともつかぬ感情があたしの中に燻った。
どれほど頑張ろうと、どれほど正義の味方になろうと正義の味方の隣に居ても。あたしが『主人公』になることは決してない。そう自覚した。
努力をすれば報われる。全てが報われてきた天才の隣に居てあたしはそう錯覚していただけなのかもしれない。
どれほど足掻いても人の幸せには上限がある。それ以上は例えどんな努力を詰もうが最早関係なくなってしまう。そうしてずるい人間がやっぱり得をする。
だとしたらこの半年余り自分がやってきたことはなんだったのだろうかと。創造主としてやらなければいけないことだった。それは分かってる。けれど普通の人間は心のどこかで自らの行為に対する見返りを求めずにはいられない。あたしだってそうだった。
ところがどうだ。結果はこの様だ。自分が惨めだと、情けないと自分自身に罵られているようだった。
そして最後に湧いてきたのはどうしようもないほどどす黒い嫉妬。
自分のないものを持っている誰かさんへの理不尽な怒りとそれを傍に置いておくことで自分のものだと自覚したいという執着を嫉妬という言葉にひとくくりにしてそれがあたしの中に静かに溜まって行った。
ぱらぱらと雪が降って白い絨毯を敷いていた。まだ蕾すらできていない桜の木に寄りかかりながらその白に埋もれていた。
自分の足元は赤く染まっている。全身が痛い。痛みに麻痺した体がどこが本当に痛いのか理解することを拒んでいた。
はらはらと自分の体に積もって行く雪を見ながら息を吐く。真っ白に染まったそれがどうしようもないほどに虚しく宙に散った。
呪祖に突っ込んだ。一人で。ただそれだけのことがもたらしたのは虚しさと自分の無力さの再確認だった。
ここまで傷だらけにならなければ満足に呪祖一匹狩れないという現実が目の前に突き付けられる。いや、それははじめから分かっていたのだ。分かっている事実を覆そうとして一人でもできると言い聞かせた自分に対する虚無感だった。
傷を治すのさえ億劫だ。
「何やってんだ」
頭上から聞こえた優しい声に顔をしかめた。
顔を上げると黒い傘を声の主たる彼がこちらに差し出しながらしゃがみ込み、頭に積もっていた雪を振り払っている。
東雲結城。あたしが希望として、絶望とする相手にはこの上ないほど適任だった。
手がかざされるだけで今までの痛みが嘘のように引いて行って心中に何かが重たく積み重なる。
「なんで一人で行った」
その問いに答えようと口を開いても、上手く言葉にはならなかった。それどころか口の中から飛び出ることさえ放棄していた。
顔を俯かせる。そして耳元で誰かが、あたしの声で囁いた。
「本当は憎い癖に」、ああ黙ってろ。そんなの最初からわかり切っていただろう。
だから関わらないように決めていたのに。誰かを壊すのが嫌だなんて慈善的な理由じゃない。自分が壊れるのが怖いという酷く自己中心的な考えで。
「いつまで夢を見ているの」、そう声が責め立てる。ああ所詮夢だったのよと噛み合わない呟きをこぼす。
ずぶずぶと自分の意思がどこかに片足を突っ込み始めたときには東雲を鎖が襲い掛かっていた。
「……どういうつもり?」
反射的にそれをかわし、弓を握りながらそう告げる彼ににっと笑う。
自然な笑みではない。無理に笑おうとして表れる歪な笑み。形式的な貼り付けただけの笑顔だった。
「あなたが妬ましいの」
不思議だ。あたしの口から出た言葉なのにまるで他人が発しているように思う。
立ち上がり、両手を広げる。真っ白な雪の中で現れたのは淡く輝く同じ色の蝶たちだった。
「だから創造主なんてやめてやりたいのよ。創造主なあたしなんて殺してやりたい」
自分の首元に手を当てながら「でも死なないのよ。人間より頑丈だから」
人間でありたかった。心のどこかがそう叫んだ。人間であればきっと彼と出会う必要だってなかったのに。ただ他人としてすれ違って生きていられたのに。
「それでもたった一つ、殺せるのよ」
「……おい!」
それに気付いたのか東雲が駆け出した。
底抜けの馬鹿で優しくて根本的な人間知らずなお前はきっとあたしを止めるだろう。分かっていたことにすら不愉快を覚えて鎖を向かわせる。
自分に向かって牙をむくそれに矢を放ちながら「ふざけんな!」と叫ばれた。
「呪祖に生むだなんて認めない……なんでいつもこうなるんだよ!」
創造主が呪祖を生む。その瞬間、彼らは少しでもその感情の塊を肥え太らせようとして本能的に自分たちの魔力を与えてしまう。
その結果、魔力を失った彼らは呪祖を外に吐き出して人間に戻るか、創造主として死ぬか、体内に呪祖を生んで体を乗っ取られるか。
どれでもいい。それで創造主としてのあたしが死ぬならどんな末路だって構わない。
惨めに嫉妬し続け、それを抑えつけておかなければならないくらいならはじめからこうしておくべきだった。
どうせ人間としての『平凡』には戻れない。
このまま東雲が死んでも、あたしが殺されてもあたしにとって満足な結果しか得られない。なんて都合がいいんだろう。
笑い声をふつふつと湧き上がらせているとわずかに声が鼓膜を揺らす。
「俺だって……」
鎖をかわしながら東雲はどこか物悲しげに小さく告げた。
「こんな力欲しくて持ってるわけじゃない……俺だって凡才でありたかった! 普通がよかった!」
「そんなの、天才のわがままじゃない」
「だったらお前だって凡才のわがままだろ! 俺がお前をどれほど羨ましく思ってたかも知らないで!」
何を、言ってるんだこの馬鹿は。
これ以上耳を貸していたらまたいつかのように流される。それが怖くて、周りを飛び続ける蝶たちにあれが敵だと示してやる。
風を切り、一気に距離を詰め、襲い掛かって行く。自分の元へと集まってくる蝶たちを振り払いながら「お前ほんっとめんどくせぇ! あったまきた!」と地面を蹴り上げた。
ここであんたを殺したってなんにもならないのをあたしだって分かってる。頭で理解していても抑えが効くほどあたしの呪祖はいい子じゃないらしい。
鎖が波のように一気に東雲に押し寄せる。逃げ道はない、はずだったのに。
こともあろうに東雲は鎖のわずかな隙間に体をねじ込ませ、あたしの前まで一気に距離を詰めてきた。
身を引く暇すら与えずに東雲の手に握られていた刀が首元で光る。
「透視」
ぼそっと東雲が告げる。
目を見開くと「まだ教えてなかったよな、俺の手の内。透視だよ、未来予知から人の情報見るくらい簡単なんだよ」ときっぱり言い放った。
「あはっ」恐怖や焦りを押し殺し、口から出たのは笑い声だった。「あはは」愉快だ。道化だ。自らを殺しかけてもあたしはこの男には決して勝てないのだ。自分の才能のなさにうんざりする。
こいつの前じゃ、全てがそうなのかもしれない。あたしは改めて確信した。
「あんたに殺されるなら本望よ」
目を閉じながらそう言い放った。最後の負け惜しみだった。
ところが東雲はその負け惜しみすらも許してはくれないらしかった。あたしの首元にあった刃を引っ込め、放り投げてからあたしを引き寄せ、そのまま抱き締めた。
不愉快な、それでいて久々な人の感触。温度。色んなものが自分の中に流れ込んでくる。
「なに、や」
文句を言おうとした瞬間、ぐらりと視界が歪み、吐き気がせり上がってくる。
「要するに、魔力が全部食われなかったら呪祖はいつまで経ってもお前の中で雛のままだ」
まさか、と固まるあたしに誰にかも分からない勝利宣言を東雲が言い放つ。
「俺の魔力が食えるもんなら食ってみろ」
この男は、あたしに自分の魔力を送り込んでる。
元々あった創造主の魔力に呪祖の魔力に変換されたもの、そして東雲結城から流し込まれる大量の魔力。天性型ならともかく、後から創造主になって元は人のあたしにはその魔力の大きさに耐えられるほどの器などあるわけがない。
「食い切る前にこいつのキャパオーバーだ」
その言葉の直後、全身の力が仕事を放り出してずるりと倒れ込んだ。
「あんな魔力、熱すぎてあたしには受け取れないわ」
あたしの意識を引きずりあげたのはそんな声だった。
薄目を開けて、必死に声の主を探してから言葉を飲みこんだ。
窓際に立っている彼女は、確かに『あたし』と同じ姿をしていた。
「そりゃそうでしょ」と彼女。その辺りで薬品の匂いが鼻をかすめはじめる。ベタベタと貼られているポスターを見るにどうやら学校の保健室らしい。
「あなたの感情である以上、あたしはあなたの一部なんだから」
ぺたぺたと上履きの不揃いな足音を響かせながらあたしの元へやって来た彼女はそう言いながらあたしの頬に手を触れた。
呪祖。その二文字が浮かび上がる。
「あんた、呪祖なの?」
「に、なりかけたもの」
そう言いながら頬から手を離し、我が物顔でベッドの端に腰かけながら「ああ、さすがあたしとあなたが欲しかった魔力だった。焼き殺されるかと思うほど熱くて貪り食う気になんてなれなかったわ」どこかうっとりとした風にそんなことを言う彼女に同じ顔だというのに寒気すら覚えた。
「じゃあどうするの? 消え失せるの?」
「まさか」
両手を広げながらけらけらと笑う彼女は「あなたが東雲結城と居る限り、あたしは呪祖としてあなたの中に居座り続ける。創造主の魔力と同居する矛盾した呪祖として。嫉妬として、憎しみとして、欲しいという叶わない願いとして」
あの才能へ焦がれ積み重なったもの。それがこれなんだろう。嫌に納得する。
「ああ、でも油断しないでね。別に具現化するのを諦めたわけじゃないから」
ぐいっと顔を引き寄せながらあたしと全く同じ顔に歪な笑みを浮かべながら「うっかりしてるとあなたの魔力全部食って呪祖に変えてやるから。そして東雲結城の隣にあたしが立つわ。覚えておいてね」変態だ。確信した。こいつ本格的に頭おかしい。
これが自分だなんて認めたくなくて顔を逸らしているとぐいっと強制的に向き合わされた。
「だから精々、それまでお幸せに」
こつんと額をぶつけ合わせてから彼女の姿は一瞬で青白い蝶へと変わり、頭上を飛び回ってからやがて消えた。
特に何も変化ないように見えてしまう左手を開いたり閉じたりしながらこの中には呪祖がいるのだという事実をなんとか咀嚼しようと努めた。
東雲結城が血相変えて戻ってくるまでは。
「お、お嬢!」
ばっとあたしの両手を掴みながら「おま、お前あの」くすくす笑う。
「落ち着けっつーに。平気よ、ほら」
「うわああよかった!」
子犬のようにまたあの笑顔を浮かべながらぎゅっと抱きすくめられた。その背中をぽんぽんと叩きながら苦しいアピール。
やっとあたしを解放した東雲は自分のリュックを漁りながら「そ、それであの」と慌てて言葉を紡いでいく。
「その、これは仲直りの印っつーかなんつーかですね」
そう言いながら小さな紙袋を一つ取り出した。
ん、と差し出され受け取ってみる。「開けていい?」問いかけるとこくこく頷かれた。
なんだろうかと袋を開け、そのままひっくり返してみる。
掌にひらひらと落ちてきたのは真っ白なリボンだった。
「髪、縛るのにそういうのどうかなぁって思って。いや物で釣ろうとかじゃなくって! 俺も言いすぎたなと思って! っていうか結構なんだかんだで俺のせいでもあるし!」
その、と視線を逸らしながら「図々しいの分かってるんだけど」とらしくもなく、しおらしくしながら奴が続けた。
「俺と、まだ相方でいて欲しい」
それを頼まなければならないのはあたしの方なのに。
白いリボンを握りしめながら前のめりに倒れ込む。
「うわ、あ、ごめん気に入らなかった!?」
「ちが……おかしくって……」
は、と間の抜けた声がもっとおかしくて腹を抱えて笑った。
笑いを噛み殺し、目尻に溜まった涙を拭いながら告げる。
「ありがとう、結城」