ワンと鳴いてニャンと退く
くぁ、と噛み殺しきれなかった欠伸が口からこぼれ落ちた。
その声を聞いたのか聞かなかったのか、スピーカー越しの声が若干不機嫌になった。
「ねーだからー聞いてるー? にゃんちゃん聞いてるー?」
「その呼び名やめてってば。聞いてるけど買ってこないわよ」
「なんで! 鬼! 悪魔!」
「だってあたしは激しく欲しくないもん」
はーっと溜め息を吐きながら壁に背をつける。
外から金属バッドの音が爽やかに響く。ああ、あたしも部活動行きたい。
「だからなんであたしがヒラムシの食玩なんて買って帰らないといけないのよ」
どうも相手が言うには、あたしに帰りがけ、最近発売されたヒラムシの食玩フィギュアを買って来いってことらしい。ウミウシを平たくした見た目にも可愛いとは言い難い生物である。その食玩を作る会社も頭がいかれてるとしか思えないがそれを欲しがるこの人もなかなかにいかれてる。
まとめてみても意味の分からない要求で前髪をかき上げながら口を尖らせているとスピーカー越しにさらに不機嫌そうな声が響く。
「あんなによくできてるんだよ?」
「益々タチ悪いわ。何が嬉しくてリアルなヒラムシの食玩を」
「あーん欲ーしーい欲しいのー」
子供が駄々をこねるような声に苦笑する。
「なんでよ」
「机に乗せるーヒラムシ館つーくーる。あとレアはフクロムシだから!」
「やめろ」
くだらなすぎる。この人の野望がくだらない。
呆れていいのか、止めたらいいのか分からなくなったので「自分が仕事帰りに買えばいいのに」
「やだ」
即答された。頭を抱えながら「あーもー分かった分かった、買って帰るわよ。一個だけだからね」
顔は見えないのに相手の満面の笑みが思い浮かんだ。
「ありがとう! にゃんちゃん大好き!」
「はいはい安い愛情だこと」
と頭上の時計を確認して「あ、そろそろ仕事戻らないといけないんじゃない?」
「働きたくないでござる」
「働いて欲しいでござる。生活費を稼いでくれでござる」
「ニートになりたい」
「あたし、独り立ちしようかしら」
将来養ってくれとかごめんだ。
スピーカー越しに誰かが彼女の苗字を叫ぶのが聞こえる。叫ぶというより怒鳴っている。
「ほらご覧、怒られてやんの」
「まだお昼ご飯食べてるでしょ! まだ私がお昼ご飯食べてるでしょ!」
「いいから食えよ」
嫌だこの大人。
「つーかまだ食べてなかったの?」
「忙しかったー。今やっと。あ、この煮物美味しいねー」
「甘いの好きねー子供味覚め」
はは、と笑っていると「お黙り」と言われた。ぐっと言葉を詰まらせる。
「とにかくヒラムシさんお願い!」
「覚えてたらね」
肩をすくめながら「じゃあね、働いて稼いでよママ」と通話を終わらせる。
面と向かって話すのも疲れる人なのに通話になると益々疲れる。本当にあの理不尽なところがあたしに似ずに済んでよかったと思う。お黙り、という口癖だけはうつされたけど。
おかげさまで部活に行くのも遅くなってしまった。荷物を担ぎ直し、教室を出ながら携帯の画面をいじる。
不在着信が一つ入っているのに気付いた。母親との会話のせいで繋げなかったのだろう。あの人長電話なんだからと恨めしく思いつつ相手を確認する。
舟生リン、と出てきたのでそのまま電話を掛け直す。
ワンコールで相手は通話に応じた。
「ああ、リンリン? ごめんなさい、ちょっと立て込んでて。どうしたの?」
「あの! 大変なの! し、東雲くんと、周防くんが、あの」
慌てた様子のリンリンの声にただならぬものを感じて眉を寄せる。出てきた名前も気になる。
「どうしたのリンリン、落ち着いて」
「あの、い、今体育館裏に居て、呪祖がその」
とそこまで言い切ったあたりで「きゃあ!?」と鋭い悲鳴が鼓膜を揺らした。思わず離してしまった耳を再びスピーカーに当てながら「リンリン!? ねぇ、リンリン!?」と声をかけるも返答はない。
呪祖が、なんだ。嫌な予感が自分を蝕んでいても立ってもいられずに教室に戻ってから窓を開けてそこから飛び降りる。
地面に着地しながら走り出す。
もし対呪祖戦だったとしよう。東雲結城と周防徹がやられたというのか。そしてそこに一緒に行った舟生リンまでも。
ありえない。あたしの相方はたかが呪祖ごときにやられるような奴じゃない。そう自分に言い聞かせながら必死に走る。
あっという間に言われていた場所に辿りつく。嫌な予感を振り払うかのように叫ぶ。
「結城! 周防! リンリン!」
返事はない。呪祖も逃げたのか気配がない。
何も考えないようにしながら一歩進みながら辺りを見渡す。また一歩。
三歩目を踏み出そうとしたときに、あたしの足が止まった。
見覚えのある弓矢の一式があったからである。
「……悪い、冗談よね」
顔を引きつらせながら崩れ落ちる。
「ねぇ、やめてよ結城。笑えないって……。あんたが呪祖なんかにやられるわけないでしょ!」
誰に怒りを覚えていたのかは分からない。
ただどこかに吐き出さなければ気が済まなくて、間に合わなかったのかもしれない自分を認めるのが嫌で仕方なかった。
「どこかに隠れてるんでしょ? 嘘よね」
東雲結城の死、予想外の事実を認めたくないだけで喉から声を絞り出した。
「おい! ふざけんな!」
あたしを散々振り回してこんな終わり絶対に認めない。
崩れ落ちた体を抱き締めながらどうしたらいいのか分からずに硬直しているとわん、と短い鳴き声が鼓膜を揺らした。
顔をあげると黒い子犬がつぶらな瞳でこちらを見ている。柴犬だろうか、本当に小柄で、まだか弱そうな犬だった。
あん、とまた鳴いた。それがまるでうじうじしてんなと言うようで思わずその頭を撫でた。
よく見てみるとその背中には小さなリスが乗っている。タクシー代わりに使われているのだろうか。
困っているとぐっと肩に重みがのしかかってくる。突然のことにバランスを崩しかけながら横を見てみると真っ白なフクロウが翼を畳みながらあたしの肩にとまっていた。
軽い動物園状態になりながら頭を左右に振って弓矢を拾い上げてから立ち上がる。
まさか、死ぬわけないじゃない。冷静になれあたしよ。
「ありがとう」
確認するかのようにそう礼を述べて、校門の方へと歩き出す。
そのあとを犬が黙ってついてくる。少し歩いてから振り返って「駄目よ」としゃがみ込んだ。
「ついてきちゃ駄目。めっ」
わん、と鳴いて返された。分かってるとはとても思えない。
まだ肩にとまったままのフクロウに「あんたもよ」と声をかければつんと顔を逸らされた。
何がどうあってもあたしを飼育員か何かにするつもりらしい。
仕方ないので子犬をリスごと摘まみ上げて、フクロウとは逆の肩に乗せながら校門の方へと足を向けた。
ひとまず部室に戻ろうと渡り廊下を渡り終えたところで「おじょっちー!」と頼れる声が聞こえてきた。
「い、いずみっちいぃ……」
「どしたの。あれ、つか、それ、ゆーきのだよね」
あたしが持っていた弓を指差しながら指差すいずみっちにこくんと頷く。
何からどう説明したらいいのかと迷っているときゅっとリスが鳴いた。その声にいずみっちは目を見開いてからやがて小さく呟いた。
「リン……?」
は、と顔を引きつらせる。
どういうことだ。リンリンが死んだ現実逃避か。困り果てながら死神に声をかける。
「ち、違うわよいずみっち、それリスよ」
「違うよおじょっち、これリンだよ」
おいで、といずみっちが手を伸ばす。それにリスがぴょいと飛び乗って行く。オカルトだ、いずみっちがショックのあまりオカルトに目覚めた。
固まっていると「おじょー!」と面倒くさそうな声が響いてきた。
忘れていた。リンリンにもし万が一何かあったらやばそうなのがもう一人いたんだった。
ぎりぎりと歪な動きで振り返ると美里さんが慌てた様子でこちらに歩み寄ってきた。
「み、みみみ美里さち、ちちちが」
何から否定しようかと構えていると美里さんはあたしの両肩を見て「あちゃー」と額を押さえた。
「やっぱりー」
「……やっぱり?」
訳が分からず聞き返すと彼女の後ろから黒い猫が走って来た。
猫はあたしを双眸で捉えるなりきしゃあと鳴いてあたしの足に猫パンチ。何度も何度も繰り返す。
それにあたしの肩に居座っていた子犬がわんと鳴いた。下ろせと言っているような気がして渋々地面に下ろしてやると猫にわふと鳴いた。その声に猫はあたしにパンチをかますのをやめて、なーと答えた。ような気がする。
固まっているときゅーきゅーと耳慣れない鳴き声が聞こえて、足元を見る。
黒い翼をぱたぱた動かしながら口ばしをこちらに向けている、動物園とか水族館にいるペンギンという奴が居た。心なしか、あたしの肩のフクロウが怒ってる気がする。
というかいつからエール霧雨学園はエール霧雨動物園へとシフトチェンジしていたのかと戸惑っていると足元に痛みが走る。
「いった!」
思わず声をあげて、ペンギンとは逆方向を見るとがじがじと黒猫があたしの足に噛みついていた。その横で犬が困ったようにおろおろと視線を泳がせている。
流石に猫派のあたしといえど、限度はあるので黒猫の首根っこを掴み上げる。伸びきった爪の生えた短い手をわしゃわしゃ振り回しながらしゃーと毛を逆立てていた。何もしていないのに理不尽な嫌われようだ。
理不尽?
咄嗟に出てきた表現に顔をしかめた。そういえば、いつも美里さんといるうるさいのが二人くらい足りない気がする。
そしてさっきのいずみっちによるリスのリンリン認定。まさか、としゃがみこんで子犬と視線を合わせる。
「あんた、結城?」
わふんとまた鳴いた。
紅茶をカップに注ぎながらうーんと唸る。
カップから上る湯気が揺らめいて優雅に踊っている。今あたしたちを取り巻く環境とは見合わないほど優雅にだ。腹立たしい。
ひとまず三つ用意したカップをそれぞれいずみっちと美里さんの目の前に出して、自分の分をソーサーごと持ち上げる。
立ち上ってくる香りをゆっくり楽しんでいたいところをぐっと我慢して、カップを傾けてから「ごめん、もっかい言ってくれる?」
リスを自分の腕で走らせながらにやにやしている美里さんが「いやだからさぁ」と周りを見渡した。
「例の如く、呪祖のせいで生徒が動物に変えられてる、ってとこかな」
てちてちと自分の手を渡って行くリスを指先で撫でながら幸せオーラ全開で返してくる。
理解に苦しみたいのは山々なのだが呪祖のせい、もっといえば魔法のせいと言えばこのファンタジーな展開もあたしたちは飲みこまざるを得ないのだ。
ぺちんと右頬を叩く。意味はない。なんとなくとりあえず意識をはっきりさせたかっただけだ。
「蒼井っちー俺もリン愛でるー」
「やかっしいーやかっしいー。私とリンの楽しいひと時を邪魔すんな」
「あんたら二人とも窓から放り投げましょうか」
リンリンがリスになろうとなんだろうと可愛ければいいらしい。酷い話だ。
紅茶の入ったカップを机に置いてからあたしの足によじ登ろうと夏菜とは逆の足をよじよじしている結城(柴犬)を抱き上げ、ようやく椅子に腰かける。
足元の夏菜の攻撃が勢いを増した気がするが薙刀で心臓狙われるより遥かに平和なので放っておく。
くぅんと頭を机の上に乗せる結城を撫でながら「んで」とフクロウの方を見る。
「あんたが周防なのね?」
ばさりと翼を広げるフクロウにそれを肯定とみなし、次いできゅいきゅい鳴き続けているペンギンに「んで、あんたは恭子っと」
きゅぴ、と元気よく返事された。それにカップを傾けてからいずみっちがけらけらと笑う。
「しっかし、白咲っちととーるちゃんが同じ鳥類ってやっぱ運命でも」
最後まで言わせまいと飛び出した周防がばさばさといずみっちに飛びかかった。
「ちょ、やめ! やめてとーるちゃん、頭の上でばさばさしないで! 爪痛い!」
「なるほどあんたが周防だって確信したわ」
ついでにそうだよね! やっぱり運命だよね! とでも言いたげにきゅいきゅい鳴きながら目を輝かせるペンギンのこともそうである。
わふっと結城が鳴く。その声に不服そうにいずみっちの上から退いた周防が隣の椅子にとまった。
「あんたフクロウになっても結城の言うことはきくのね……」といっそ感心しながらぷにぷにと彼の肉球を押してみた。そのまま結城の体に頭を埋めながら「あー可愛いー」と感嘆した。
「あんただけ一生犬でいいんじゃない? エルシェと一緒にうちで飼ってあげるから」
わんっと一吠え。えーと唇を尖らせた。
「いいじゃなーい、あんたが犬だと色々平和だしさー」
すりすり頬釣りしていると「つーかなんか通じ合ってるし。さすが相方」と美里さん。
「普通じゃない? 美里さんだって恭子が何言いたいか大体わかるでしょ?」
「あー……うん、まぁ」
うるさく鳴き続ける恭子を見ながら美里さんは重たげに口を開いた。
「『とおるんやっぱりフクロウでもかっこいいね! 種族の壁を越えていきたい! というかとおるんのためならキョウキョウそんなくだらない壁ぶっ壊せるよ! らぶみーどぅー!』ってとこっしょ?」
きゅー、と恭子が鳴く。なんだか申し訳なると同時に悲しくなる。
「ごめん」
「うん大丈夫慣れてるから」
どこか遠くを見ながらそう告げる美里さんを放って「リン、おいでー」と手を伸ばすいずみっちを見て溜め息を吐く。よりによって生き残ったのがこのメンバーとは。
ばしばしと夏菜が足にじゃれてくる。可愛くない。可愛くないんだからね。
「んでさ、冗談はここまでにしてマジでどうするべ? リンがこのままなのは困っちゃうでしょ。俺リスといちゃいちゃしてもいいけどやっぱり人間のリンが好き」
「潔く死ね。んま、多分、大元をぶっ潰せば全部解決っしょ」
「それがわかんないのよね」
結城の小さな頭に自分の頭を乗せながら唸る。
「人を動物にする呪祖なんて聞いたこともないけど」
「そういう願望があったんじゃね?」
「学校を動物園にするっていう?」
くだらなすぎる。
とはいえ、このままうちの領分で好き勝手されても困るし、ましてエール霧雨学園の生徒がみんな動物にされたなんて言ったらうちに文句が回ってくるのは明らかだ。こっちの沽券に関わる。
でも、と腕の中に収まっている相方に視線を落とす。
「あーもー都合よく結城だけ犬のままでいないかなー」
純粋に驚いたような鳴き声が響く。
ぐいぐいと顔を押し付けながらあーと情けない声をあげる。
「可愛いなー、あんたほんと可愛いなー。なんかもう創造主の使命とかどうでもいいかなーあたし魔女だしー」
「なんか一人で洒落にならない堕落始めてる人がいるんだけど……」
困惑したようないずみっちの声が聞こえるが無視。そんなことより目の前の可愛い子を愛でる方が大事なような気がする。
「もううちにいらっしゃいよ、養ってあげるからぁ。貢ぐからぁ」
「駄目だこのままにしとくと本当に駄目な人になりそう!」
ぱっと美里さんに抱き上げられて、手元に居た子犬が取り上げられる。
思わず叫んだ。
「ね、ネロ!」
「勝手に名前つけない! つーかなんでその名前!?」
「ううう、ネロと一緒に公園でボールとってこいきゃっきゃっうふふしたかったのに……」
「だから結城だってこれ! 中身結城だからこれ!」
分かってる。中身が結城だってことくらい分かってる。でも。
「それでも可愛いのよ!」
「駄目だこの人!」
頭を抱え、美里さんが机に突っ伏した。
あまりに反対されてしまったので「分かったわよ」と目を伏せる。
「諦めるわよネロ飼うのは……」
「あーうんありがとね」
その代わり、とあたしの足元にじゃれていた黒猫を抱き上げて叫ぶ。みにゃっ、と歪な鳴き声が上がる。
「スターリングは連れて帰るから!」
「それなっちゃん! というかなんでさっきから飼い主側の名前つけるの!」
「あんたももふもふしてて可愛いのよねー、猫パンチ可愛いなぁ」
ぷにぷにと肉球を押しながらにやにや笑う。みにゃあみにゃあと激しく鳴きながら嫌がられてるもののそれがかえって可愛い。
「おじょっち、とりあえず巴っちが死にそう! すげぇ苦しそう!」
「うへへぇにゃんこぉ」
「普段のお嬢からは想像できない台詞がぁあ!」
殺人毛玉と言われるだけはある。やっぱり犬猫は可愛すぎる。
いっそ二匹とも連れ帰るという手もある。エルシェがいるから三匹になるかもしれないけれどそこらへんは愛でなんとかできそうな気がする。
可愛いもの相手に熱くなれない人間などいるはずはない。
と一人で調子こいてたら頭上に鋭い痛みが走る。それに気付いたとき、視界に白い翼を捉えた。
「ちょ、いた、爪、いたやめ、やめて! 分かった! 反省する! 反省するから爪やめて周防!」
フクロウの爪の脅威から解放されたあたしは椅子の上で行儀よくお座りしている結城とその背もたれにとまっている周防の前で正座していた。
「いや、ほんと、悪ノリが過ぎたと思ってます……超反省してます……」
わふっと結城が吠える。しょんぼり肩を落とす。
「もふるのも駄目?」
わんっと吠えられた。怒られた。完全に怒られた。
「分かったわよ、分かりました!」
うるさいんだから。
視線を逸らしながら唇を尖らせていると「上下関係変化なしっと」といずみっちが呟いた。
文句の一つでも言ってやりたいのだが事実に文句を言えるほどあたしも大人げなくはないので腕を組むだけの留まった。
あたしに散々構われて傷心の様子の夏菜を撫でながら、恭子の翼を持ち上げていた美里さんが「んじゃま」と扉の方を見やる。
「ぼちぼち呪祖退治いきまっしょい」
「行くのはいいけどこいつらどうすんのよ」
まだお座りしたままの結城を示すと「んまぁ、連れてくのが安全だろうねぇ」といずみっち。
仕方ない、と立ち上がってから片腕を差し出して「周防」と呼びかけてみる。
ばさばさとあたしの腕に飛び乗った周防を見ながらぽんぽんと足を叩く。
「結城もいらっしゃい」
わんっと吠えながら椅子から飛び降りた結城がてこてこと扉の方へと歩いていく。
「とりあえずうちの二人はあたしが連れて行くから。あとは分担して」
言いかけてから大変なことに気付いた。
しまった、リンリンがいた。
案の定、「リンは俺が連れて行きます!」「は? リンは私と一緒だけど?」
ばちばちと火花を散らす二人の間でおろおろとリンリスちゃんは視線を泳がせている。可哀想に。
とはいえ、どうしようもないので取り残された二人に「来るなら一緒にいらっしゃい」と声をかけてから扉を開ける。
やはりあの問題児たちと一緒に行くのは嫌だったのかよちよちと恭子がついてきて、少し距離を置きながら夏菜もやって来た。なぜか頭の上にリンリンを乗せて。
部室からは怒鳴り声が変わらずに聞こえてくる。肝心のリンリンがこちらにやってきていることには気づいている様子はない。
まぁいいかとゆっくり歩きだす。歩く動物園状態だった。
少し歩くのが遅い恭子が一生懸命ついてくるのを待ちながら「一応聞いておくわ、あんたたち魔法は?」わふっとご返答。やっぱり使えそうもないか。
なんだか足場が急に覚束なくなった気がして少しだけ怖い。安定した戦力が消え去ったからだろうか。
天才としてあたしの目の前で君臨していた相方が今やただの柴犬に過ぎないなんて。絶望するくらいだ。
「現実的に言えばあんたたちがそのままなのは困るわよね」
ぼそりと呟きながら歩を進める。
あたしが結城に護られて、厄介をふっかけられることはあってもあたしが彼を護らなければいけないという状況はこの数年間の付き合いの中ではじめてだったように思える。護る必要がなかったとも言えた。
閑話休題。遠くで鋭い鳴き声が轟いている。虎か何かだろうか。やっぱり被害を被っているのはうちの連中だけじゃないらしい。こうしている間にもエール霧雨学園動物園化計画は着々と進んでいる。
いずみっちも美里さんもまだ残っているとはいえど、あたし一人でどうにかできるもんだろうか。
そんなことを考える自分にうんざりしてぺちんと両頬を張る。
弱気になって勝てるなら苦労はないさ。
「に、しても」
後ろからついてくる動物たちを見ながら苦笑する。
「なんとなく、あんたたちがそういう動物になってるの納得できるわね」
結城が柴犬で、周防がフクロウ、リンリンがリスで恭子がペンギン、夏菜はいかにも血筋のよさそうなすまし顔の猫、恐ろしいほどに各々のイメージには合っている気がする。
やっと追いついた恭子の頭を撫でながらまた少し前に進む。
「あたしが動物になったらどうなるかしらね」
わふんと吠えられた。苦笑する。
「冗談よ。例え話よ、嫌ねー」
不謹慎だとか怒鳴られてたんだろうなぁ、いつもなら。なんとなく分かるのが悲しいところ。
ふと見てみると恭子と周防が顔を見合わせながら鳴き合っていた。顔を引きつらせる。
「なんとなく悪く言われてるのは分かるわよ」
にしても駄目だ、意思疎通が難しい。というよりこっちの言葉は通じてるんだろうけど向こうの言葉がさっぱり分からない。
辛うじて、思考が単純明快かつ付き合いの長い結城の考えていることはよく考えなくたって八割分かるくらいであとはさっぱりだ。特に周防。こいつだけは元の姿でも考えの読めない奴なのにフクロウになんてなられたらそれこそお手上げだ。別に取り留めて理解しようとした記憶もないのだが。
腹の内が読めない。だからあたしはこいつが正直得意じゃない。好き嫌いの問題じゃない。この周防徹という存在と向き合うという行為そのものが苦手だった。
どうでもいいか、とあたし。こっちの意思が伝わるだけマシだと思えばいい。
「あんたいいわよね、大体お腹空いてるか怒ってるか楽しいかしか頭の中にないから」
ぼそっと目の前で短い手足で前に進む結城に呟いた。
心外だと結城が吠える。そうだろうかとあたしは思う。言わなかったのは面倒だからである。
恭子がまだ遠い。少し立ち止まってから足元に転がっていたボールを見つけて、長い廊下を見ながらひらめいた。
「周防、ここいて」と適当な机の上にとまらせるとテニスボールを拾い上げて手の中で放り投げる。
「ゆーうーきー」
ぽすぽすとあたしの手元に収まるものに気付いたのか彼の目が確かに手元のボールを追っている。
ゆっくりと投げる。
「ほーらとってこーい」
だっと駆け出して行ってしまった。
やっぱり本能は犬なんだと感心しているとにゃぁとすまし顔で座っていた夏菜が鳴いた。頭の上に乗っていたリンリンを差し出してくるので手を出して乗せながら「何よ、そんな顔しないでよ」と言ってみた。
カバンの中を漁りながら「猫じゃらしあげるから」と取り出した猫じゃらしを顔の前でゆさゆさ振ってみる。
馬鹿にするなとばかりにそれを振り払った夏菜だったがはっと顔をあげてからまたワンパン。尻尾が揺れる。
きゅっとリンリンの声が聞こえた。それに答える。
「あたしがなんで猫じゃらしを持ってるかなんて些細よ。夏菜、ちょっと高いわよー」
頭上で揺れる猫じゃらしにも果敢に飛びかかる夏菜についついにやけてしまう。いつもなら死ねとか殺すとか物騒なことしか言わないのに猫になっちまえば可愛いもんだ。
あん、と鳴き声が鼓膜を揺らす。見てみるとあたしの足元にぐいぐいボールを押し付けながら結城がぱたぱたと尻尾を振っている。
おかわりの要求だ。やれやれと思いながら優しい気持ちで再びボールを放り投げる。
まだよちよちとついてきている恭子も可愛い。ああもうあたしこのまま動物園でいい。
と、そこでふと背筋が寒くなるような何かを感じてはっと振り返る。
机の上に乗っていた周防さんが鋭い瞳でこちらを見ている。ぶんぶんと首を左右に振る。
「ち、ちが、違いますぅ! 恭子が来たらちゃんとやめますぅ! だからそんな怖い目で見ないで欲しいですぅ!」
小学生みたいな言い訳をしながら自分の無実を説明する。ちょっと楽しくなってきたとかそんなこと全然ないんだからね!
誤魔化しきれない感情をツンデレに変換していると眉を寄せる。
空気が震える。科学的で御大層な理由じゃない。もっと単純に、人の感情のせいで震えるのだ。不思議なものだ。創造主と呪祖、その狭間にいるからか、誰よりもその空気の変化が分かる。
猫じゃらしをしまい、リンリンを夏菜の頭に戻してからまだよちよちと歩き続けていた恭子を抱き上げる。
周防、と呼びかければさすがは空気の読めることに定評のある呪祖はひょいとあたしの肩に飛び乗った。ボールをくわえて戻ってきた子犬に「結城」と笑いかける。
「さあ、いっちょ行ってみましょっか」
体育館の扉の前でゆっくりと息を吸う。
珍しく一人ぼっちだ。誰かの援護をすることもなければ、誰かに護ってもらえるわけでもない。恭子を地面に下ろしてから手を叩く。
普段の手下とは違う、青白く輝く蝶がひらひらと舞いあがる。彼女はあたしの周りをくるくる楽しそうに飛び回ってから「珍しいお呼びだしね」と吐き捨てた。
ブレザーからリボンを取り出して小さく告げる。
「口を閉じなさい、七号。あたしだってね、あんたなんて呼びたくなかったのよ」
「やっだ冷たいんだから」
鬱陶しく飛び回った彼女はあたしの後ろの方でも飛び回ってから「なぁにこの動物園」と告げた。
「しーらね」
まとめた髪をリボンで縛り上げるとひらひらと結城の前にとまった七号は「皮肉なものね」と吐き捨てた。
「あなたとあたしが欲しくて仕方なかったものが今はただの犬っころだなんて」
「あんたみたいな変態と一緒にしないで」
ぐぐっと腕を伸ばすときゃははと不愉快な笑い声が鼓膜を揺らした。
「普段は手も足も出ない相手を護るという立場の優越感! それもまた、満たされない嫉妬の心をほぐすのにいい薬かもね」
「今度こそその綺麗な羽をもぎ取って標本にしましょうか」
「おっとそれは御免だわ」
手を伸ばせばするりと飛びぬけて行ってしまった。顔をしかめながら「全員護っておいて」とだけ簡潔に用件を告げる。
七号、あたしの手下の中では飛びぬけて強い一匹だ。他の手下たちとはそもそもの性質が違う。ラッキーセブンで七号。その正体を誤魔化すためにそんな名前を形式的につけた。
くぅん、と結城が不安げにこちらを見上げている。ひとまず笑いかけた。
「平気よ、あんたは死なないわ。あたしが守るもの」
どうせなら格好つけようじゃないか。
どこぞのパイロットのような台詞を吐き出して、こんなときどんな顔をすればいいのか迷っている様子の結城を撫でてから体育館の扉を開く。
すっと右手を振り上げればひらりといつもの白い鱗粉が目に入る。何十匹も飛び交う蝶を見ながら「三号、美里さんたち連れてきて。どうせまだ部室よ」アイアイサー! と一匹が飛び出していく。
恐らく彼女たちが三号から話を聞いてやって来るまでには結構時間がある。それまでは持たせなければ。
かつん、と一歩体育館の中に踏み込んだ。自分のテリトリーに踏み込まれたことに気付いたのか人型の何かがゆっくりと振り返る。その足元にはどろどろと青黒い液体が垂れ流れている。
すっかり学校の土地を我が物顔で占領して、といっそ感心しながら告げる。
「残念だったわね、あんたはうちの部員を二人も動物にして勝ったと思っていたんだろうけど」
束ねた髪を振り払いながらにっこり笑う。
「ククク、奴らはしょせん、我が魔法屋最強の二人! うちの部のエースたちよぉ……!」
言ってからそれは倒されたら絶望だったことに気付いた。
自分で言って自分で折りかけた心を保ちながら更に続ける。
「まだ魔法屋最弱のあたしが残ってる限り、安心しないことね!」
率先して安心していい要素になってる。自ら安心材料になってどうするよ、馬鹿。
相変わらず、虚勢を張るのだけは得意である。とんと胸を叩いた瞬間、足元目がけて風を切りながら円盤状の何かが放り投げられる。飛び跳ねてかわしながら天井の柱に鎖を巻き付けてそのまま飛び上がる。
くるりと一回転して、バスケットゴールに足を引っかけながら「ははん」と笑う。
「それに当たると動物になると見た」
だったら話は簡単だ。当たらなきゃいい。
反対側のゴールに鎖を引っかけて蹴り飛ばして移動する。先ほどまであたしがいたゴールには呪祖が飛びかかっていた。
にっと笑いながら地面に降り立つ。そのとき、視界の端にちらと何かを捉えて、思わず舌打ち。
どうやらここにも動物にされた連中がいたらしい。ああもうと叫びたい気持ちを堪えて端っこで呑気に観覧中のヤギを無理やり担ぎ上げる。
体育館の外に放り出せばいい。簡単なお仕事だ、と言いたいところだが。
「あっぶね!」
飛んできた円盤を鎖で叩き落とす。あたしまで動物になんてされたらマジでつんだ、でれない、略してつんでれだ。
「何をどう願ったら動物にしたがるのよ……ふざけた呪祖生みやがってぇ……」
大元の感情を抱いた奴はどこのどいつだ。一発殴らせろ。
などと文句を垂れたところではーい私ですーなどと出てきてくれるはずもない。もう一発撃ち込まれた円盤を弾きながら舌打ちする。あとちょっとなのに。これだから一人は嫌なんだ!
心の中で叫ぶと同時にわんっと実に愛らしい声が響き、あたしの顔が引きつった。
「ちょ、ゆ、馬鹿!」
体育館の真ん中でぐるると言ってる馬鹿犬が一匹居る。
「七号ぅうう!」
「セブンしーらない」
怒りのあまり叫ぶも七号は知らんぷりだ。
一番、最悪なのはそれじゃなくて、何より呪祖の注意があっちに向いていることだ。喜べない。いつもの弓矢握ってる天才ならともかくあの姿のあいつに呪祖の注意が向くのは凄く喜べない。
クソが、とヤギを放り投げてからどうしたものかと思考を張り巡らせる。馬鹿正直に突っ込んでも間に合わない。
だったら、と呪祖を指差す。周りを飛び交っていただけの手下たちが一斉に呪祖に飛びかかった。その間に自分は天井に鎖を巻き付けて地面を蹴り上げてから呪祖を飛び越えて結城を抱き締める。
そのままほぼ直感的に横に転がる。
次にはどがっと円盤のせいで床が捲り上がって、埃が立つ。小さく咳き込みながら腕の中にいる子犬を見てはーっと息を吐く。
「あんたねぇ」
抱きかかえ、上半身だけ起こしながら呪祖を再度、指差した。
今度は鎖が一気に呪祖の体に巻き付いてそれを拘束する。他の魔法が使えなくなるからと一人のときは拘束魔法は使わないようにしていたのだがそうも言っていられない。
「なんかあったらどうする気だったのよ。今のあんたは魔法ないのよ?」
わんっと元気よく応答された。その綺麗な瞳にはぁーと頭を抱える。
何を言いたいのか分かるのがつらいところだ。
「その目はあたしを信頼してたって目ね」
肯定するかのようにまた一吠え。全く馬鹿なんだから、と吐き捨てた。
あたしが見捨てたりすることを一切考えてないんだから嫌になる。信頼しすぎだ。だからあたしはそれに応えなければいけなくなる。天才の要望を凡才なりに飲まなければ。
これが宿命という奴ならば嫌になると神様に怒鳴りつけてやりたい気分だ。これが魔法を抜きにしても有り余る東雲結城の才能だとでも言うのだろうか。だとしたらこんなものを見せつけられてあたしにどうしろと仰るんだ。
我ながら捻くれたことを考えて、さてどうしたものかと思っていたが呪祖の体にレイピアが突き刺さったのを見てああ杞憂だったと視線を背けた。
後ろから「うちのリンが世話になりまして」「やろぉぶっころしてやらぁ!」とか物騒な台詞が聞こえているが無視。相殺。
結城を膝に乗せながらこつんと額をつける。
「やめてよね、ほんと。そういうの」
何に対してなのか、何を思ってなのか。どういう台詞なのか吐き出したあたしにも分からない。意味などなかったのかもしれない。
間もなく、背後で空気が揺れる。今度は爆発的な意味での振動として。
刹那、目の前でもぼふんと軽い爆発が起きて煙が立ち込める。咳き込みながら膝にかかっていた重量が重くなるのを感じた。
「げほ、えっほ! あーもうなんなんだよ今日は!」
煙の中でそんな声が聞こえて、思わず顔を上げる。
あたしの膝の上に乗っていたのは幼気で可愛い子犬などではなく、全国憎むべき創造主ランキング(あたし調べ)毎年堂々の第一位として有名な東雲結城、その人だった。重い。膝が重い。
彼の方もあたしを見上げるから見下ろすに変わったことで自分の身に起こった変化を察したらしくぺたぺたと自分の顔を触りながら「戻った?」と首を傾げている。こくこくと頷く。
よほどそれが嬉しかったのか「おっしゃあ!」と抱き締められた。急な圧迫と膝の痛みに悲鳴を上げた。
「痛い! 結城苦しい痛い! 降りて放して!」
ばしばしと背中を叩いて抗議すると「あ、悪い」と慌てて結城があたしの膝から飛び降りた。
「きゃあーとおっるーん! やっぱりその姿が一番かっこいいー!」
「黙れペンギンに戻れ!」
外の方から騒がしい夫婦漫才と「リーン!」を駆け出していく守護霊たちの声が聞こえるので問題なく元に戻ったようだ。
なんだかなぁ、と苦笑している相方の横顔を見ながらぽつんと呟く。
「あんた犬でも人間でもさして変わんないわよね」
「何それどういう意味だこら」
柄の悪い兄ちゃんにシフトチェンジされたので肩をすくめながらカバンからボールを取り出して投げる。
「ほーらゆーきとってこーい」
「来るか馬鹿!」
べしっと叩かれた。痛い。
ちぇっとわざとらしく舌打ちしながら「でも変わんないわよ、ほんと」とリボンを解く。
なんでだよーと不満げな結城に「教えてやんねー」と笑いながら背を向ける。
「それよりあたしヒラムシ買いに行くから付き合いなさい結城」
「なんでだよ」
「あんたの不始末処理してやった優しい相方に報いなさいよ」
あははと体育館に自分の笑い声がよく響いた。