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創造主な僕たちは華麗な日々しか創れない  作者: 黄昏月ナツメ
一学期:僕たちはまだ夢の中で。
18/36

正義の定義など実に曖昧なものじゃない、と君は言う

 その日、穏やかに放課後を過ごすというあたしが毎日掲げている目標は儚くもすでに崩壊を始めていた。


 そもそも、毎日立てているにも関わらず、この目標が達成されたことなど指折り数えるどころか数えられるほどあるのかという疑問すら湧くほどに少ないわけだが、今日はその中でも特にしょっぱなからへし折られたような気分だった。

「なんで、あんたが、うちの部室に、いるのよ」

 そう途切れ途切れで問うあたしの視線の先には我が物顔でうちの部室の椅子を占領する巴夏菜の姿があった。

 周防徹や舟生リンならまだしも、この女がいかにもここが私の居場所ですとばかりにいるのは何事か。こいつの居場所は生徒会であろう。

 他の連中は居ない。ああ、今日は一人で来て正解だった。頬杖をついた夏菜はあたしを見上げると足を組んだ。人の部室で偉そうにするな。

「遊びに来てやったんだろ? この巴夏菜さまが。感謝しろよ」

「勝手に居座っておいてよくそういうことが言えるわね、あんた」

 腕を組んで睨み付けると夏菜はけらけらと笑い声をあげるだけで、ちっとも反省の色は見られなかった。

 あたしのことを馬鹿にしてるのか、おちょくってるつもりなのか。両方なんだろうなと思いながら諦めてカバンを肩から下ろす。引きずり出そうと思ってこの女を引きずり出せるほどあたしは強くないのだ。

 自分の無力さをなんとなく嘆きながらコンロの方に歩み寄ったあたしは夏菜の方に振り返った。

「あんた、紅茶、何が好きだっけ? アッサム?」

「……は?」

 きょとんと、彼女にしては珍しく間の抜けた声をあげる夏菜にむっと顔をしかめながら言う。

「紅茶淹れてやるって言ってんのよ。あんたのリクエスト聞いて」

「なんで」

「魔女の気まぐれに理由が必要? いいから飲んだら帰ればーか」

 さらっと本音を織り交ぜつつ、そう答える。

 夏菜は口元に手をやって、少しだけ考え込むようにしてから口を開いた。

「ダージリン。あと死ねクソ魔女」

「やっぱあたしとあんたは合わないわ。うるせぇ生きる」

 そう言いながらダージリンの茶葉の入った缶を手に取った。

 蓋を開け、スプーンで茶葉をポットに放り込んでいると夏菜の声が低く告げる。

「最近、どう?」

「どうって。別に変わりなく過ごしてるわよ」

 蒸気を吹き出す薬缶からお湯をポットに注いでいると「あっそう」と案外あっさり会話を打ち切られた。

 なんだよ、どうせ話題を振るならもう少しだけ会話を続けようという意思くらい見せろ。

 しばし、居心地の悪い沈黙が続く。勝手に来てるのはこいつなのになぜあたしが気を遣ってやらなければならないのかと思いつつ、渋々口を開いた。

「ていうか、ほんとになんであんたここに来たのよ。何か用事?」

「用事がなきゃここに来るのはおかしい?」

 つまらんとばかりに欠伸する彼女に眉を寄せる。

「そりゃ、おかしいんじゃない? あんたはあたしが嫌いなんだし」

「……私がお前を嫌いかどうかはさておき」

 不愉快そうに顔を歪める夏菜に首を傾げる。さて置かずともあんたはあたしが嫌いだろうに。

 しかし、あたしに反論の隙など与えずに彼女は言う。

「私は生徒会副会長だ。別に部活動の偵察に来ても何もおかしくない立場でしょ?」

「偵察なの?」

「ううん、全然違う」

「……あんた身勝手ねー」

 がっくり脱力しながらカップを温めていたお湯を捨てる。

 砂時計はもうすぐで全て砂を落とし切るところだった。カップを拭きながらその瞬間を待っていると入口の戸ががらりと勢いよく開く。

「やーおっまたせー! 今日のおやつはロールケーキだ、ろ……?」

 るんるん上機嫌で入ってきたのは我が相方こと、東雲結城だった。

 彼はこの部室にとってはイレギュラー存在である巴夏菜を見つけるなり、顔を引きつらせた。その後、一旦、戸の外に出てから何かを確認した後、深々と呼吸して、戸の外に出て行った。

 何あの面白い光景。などと思いながら砂時計の砂は落ち切ったのでポットの中から紅茶を注ぐ。

 空気を孕み、紅茶の香りが鼻腔をくすぐる。

 つい抑えきれずににやにやしているとそっと開いた戸から結城が、今度はやたら大人しく入って来た。

「よ、よっす、巴。どうしたんだよ」

「え、今なんで東雲くん仕切り直したの」

「それは、その、なんてーか……部室に巴がいるという心構えが欲しくてだな」

 顔を逸らしながらごにょごにょと何かをほざいている結城を放ってあたしは取り出したロールケーキに包丁を入れていた。

 結城の謎供述にむーっと顔をしかめた夏菜が不満げに言う。

「君まで私のことを邪魔扱いするんだね」

「ちが」

 がたっと身を乗り出して、結城が勢いよく首を左右に振る。

「俺は、巴のことを邪魔だなんて思ったことは一度も」

「ぷふ」

 口元を押さえ、小さく吹き出した夏菜が肩を震わせる。

 おろおろと視線を泳がせる結城に彼女はにこりを笑いかけた。

「ごめんね、東雲くん優しいからそんなことないのは分かってるんだけどからかってやりたくなって」

「……一応優しいって理由じゃないんだけど」

 ぼそっと何かを言っていたが夏菜には聞こえていなかったようで「可愛いなぁ、東雲くんって」

 瞬間、顔を真っ赤にしながら結城が吠える。

「かわ、いいって、おま、俺のこと馬鹿にしてるだろ!」

「してないよ。褒めてるんだよ」

「どうだか……」

 そう言ってリュックを背から下ろして椅子に腰かける結城はどこかにやついている。無駄にいらっとする。

 皿に並べたケーキを夏菜と結城の前に出してから、とりあえず馬鹿な相方の足は踏みつけておいた。

「いぎ!?」

 奇妙な声をあげ、机に倒れ込む結城を放って、あたしは窓に凭れ掛かった。

 窓の外は今日も今日とて雨だった。そろそろ梅雨明けが来るとかどうとか言われているが、はてさてどうだか。

 ぼんやり外の雨を眺めているとぽつんと夏菜が声をあげた。

「魔女になっても雨の日になるとそういう顔するのは相変わらずだな」

 カップの縁に口をつけ、傾けてから振り返りもせず首を傾げた。

「どういう顔してる?」

「さあ」

 自分から言っておいて勝手な奴である。

 文句の一つでも言ってやろうかと振り返ったもののケーキにフォークを入れて、口元に運ぶ姿を見て、そんな気も失せた。美少女は何をしても様になるというのは本当のことらしい。

 その夏菜をじーっと見つめながら結城も少しずつケーキを食べ始めた。普段なら勢いよくもぐもぐしてるのに、色恋沙汰とは他人のものを見る分には面白いもんだ。

 また一口紅茶を啜ってから息を吐く。こういうのも、意外と悪くないかもしれない。薙刀さえ持たせなければ夏菜はただの口の悪いだけの美少女なのだから。

 雨の音だけがしとしとと部室の中で響く。けれど先ほどとは違う、安堵の孕んだ沈黙だった。

 無言でケーキを口に運び、時折、紅茶を啜っていた夏菜が、ふとその動きを止めた。それからぱちぱちと長いまつ毛を上下させ、問う。

「東雲くん、私、なんか変かな」

「え!?」

 びくっと肩を跳ね上がらせた結城は首を左右に振った。

「そんな! ただ、その、巴は、やっぱ、綺麗だなと思って」

 後半に行くにしたがって言葉の勢いを殺しつつ、結城がそう答えた。

 ここで照れるなり、黙り込むなりすれば、そりゃもう青春ラブコメとしては文句なしなわけであるが巴夏菜にそんな話が通用するほど世の中は優しくない。普段から可愛いだの美人だのと言われ慣れているのであろう夏菜はカップを傾けてから薄く笑みを浮かべた。

「ありがとう。お世辞だとしても嬉しいよ」

「いや、一応お世辞とかではなくてだな……」

 顔を手で覆いながら悩ましそうに告げる相方に溜め息を吐く。彼が青春ラブコメを手に入れるのは半世紀くらいは後になりそうだ。

 そんなどうでもいいことを考えていると廊下の方から雨の音に混じって複数人の話し声が聞こえてきた。上履きがこすれる音に混じってどこか賑やかだ。

「廊下、やけに騒がしいわね」

「……野次馬しに行く?」

 最後の一口を口の中に放り込んでから結城が悪戯っぽくこちらに微笑んだ。

 それに笑い返しながら「そうね」と空になったカップを机に置いた。

「どうせ暇だしね」

「うっし、決まり。巴も来るか?」

「……いいの?」

 なぜかあたしを見上げる夏菜に肩をすくめた。

「いいも何もないでしょ、野次馬に行くだけなんだから」

 そのあたしの言葉に、一瞬だけ嬉しそうな顔をしてから咳払いをした夏菜は立ち上がって、すたすたとあたしたちをすり抜けていくと戸に手を掛けた。

「んじゃ、行くか」

 そんなに野次馬がしたかったのか、変わった子だ。

 やたら偉そうな夏菜の後に続いて、部室を出る。

 ぱたぱたと廊下を駆けて行く生徒たちが何人かいる。行き先は皆、渡り廊下の方だ。

 それを確認するなり、夏菜はなんの迷いもなく渡り廊下の方へと向かっていく。その背中を追いながら小さく笑う。

 ほんの少しだけこの状況を楽しんでたよ、ああ、認める。

 誰に対してか分からぬ言い訳をあたしが心の中でしている間に巴夏菜は渡り廊下に集まっている一人に声をかけた。

「ねぇ、なんの騒ぎ?」

 その声に、びくっと肩を跳ね上がらせた女生徒はくるっと勢いよく振り返ると顔を真っ赤に染めた。

「な、夏菜さま……! あ、あの、その、神様のお使いがきたとかどうとかで」

「神様のお使い?」

「は、はい……!」

 いつの間にか大半の生徒たちの興味は渡り廊下の外の光景ではなく、今この場にいる副会長巴夏菜の方に移りつつあるようだが。

 その隙に、あたしの方は渡り廊下のガラスに駆け寄って外を覗き込む。神様のお使いか。そういえば昔、そういうのと絡んだ時期もあったけれどそれ以外はあまり見たことがない。

 いつの間にか隣に並んだ結城が「あ、あれだろ」と校門の方を指差した。

 視線を向けると、確かに校門のところに二つ、和傘が並んでいる。校門の外の方を向いているせいで、顔は伺えないが八百万系の神だろうかと悩んでいると傘の持ち主たちが揃ってくるりとこちらを向いた。


 そして、遠目からだったもののその顔を確認した瞬間、あたしと結城は揃って後ずさった。


「どうした?」

「……神様のお使いは確かにいたわ」

 いつの間にか取り巻きに囲まれながら首を傾げる夏菜の問いにそう答える以外の余裕すらなかった。震え声で相方に話しかける。

「ねぇ、あれ、知ってる顔よね」

「ああ」

「なんで、ここに、いるの?」

「さあ」

 いるはずもないものを見てしまった。あたしと結城は心からそう思っている。

 なぜだ。なぜここにあの人たちがいる!

 ぐるぐる考えたところでどうしようもないことを思いながら震えあがる。

 とにかく結論は一つだった。

「逃げよう」

「ああ!」

 冗談じゃない。前からあの人は苦手なんだ。

 くるっと背を向けてとにかく部室に戻ろうと一歩踏み出した。


 瞬間、大きな咆哮が渡り廊下に響き渡る。


 聞き覚えのある咆哮だった。

 焦燥感を煽られて、やべ、と走り出そうとした。

 ――がそのときにはすでに遅く、

「きゃあ!?」

「お嬢!?」

 ぐいっと何かに制服の背中を引っ張られ、持ち上げられた。

 恐怖に支配されながら、なんとか後ろを確認すると、予想通り、二メートルは超えている白い犬があたしたちをくわえていた。

 唖然とする他の生徒たちを置いて、あたしたちは叫んだ。

「いやぁああ出たぁぁあああ!」

「勘弁してください! 頼むから俺の相方食い殺すのだけはご勘弁を!」

 必死に許しを請う結城の努力も虚しく、脳裏に懐かしい低い声が響く。


『久々に会った恩師に向かって随分な言いようだな』


 そう言って、大犬はあたしを床に叩き付けた。背中から叩き付けられたあたしは蹲るのが精一杯で、「おじょー!」と駆け寄ってくる結城に抱き起こされるしかなかった。

「恩師……?」と周りの生徒たちがざわめく。

 そのざわめきを特に気にした様子もなく、大犬は淡い光に包まれながらその輪郭を消していた。

 まるで糸がほつれていくように、さらさらと大きな体が消え去った後に残っていたのは黒い髪を後ろでゆるく縛った女だった。

 紺色のジャージの上に羽織を着たその女はかつかつとあたしの元までやってくると見下すような視線を投げてきた。

「東雲はともかくお前もまだくたばってなかったか、クソガキ。相変わらずしぶといな」

 そう言ってくく、と短く笑う彼女に顔をしかめた。ええ、まぁ、と立ち上がった。


「相変わらず超余計なお世話ですわ、朝霧先生」


 朝霧ヤマト、中学の頃の学年主任がそこにいた。

 神の使いという表現はあながち間違いではない。なんてたって、彼女は土地神、霧主に仕える狛犬なんだから。

「うえええ、朝霧待ってよぉ」

 二本の和傘を抱え、階段を駆け上がってきた狐島先生は見慣れた人の姿を保ってはいたもののその頭には鋭い耳が揺れ、後ろには大きな尻尾があった。その光景を見てあたしは深々と溜め息を吐いた。

 どうやら、今日も目標不達成のようだ。




 立ち話もなんだからどこかに連れて行け、と言い出したのは客人であるはずの朝霧だった。相変わらず遠慮もクソもない人である。

 食堂、とも考えたがそれはそれで面倒なので結局、彼女たちを連れて来たのは部室だった。

 なぜか全く無関係者の夏菜までも堂々と居座っているものの、あれに関しては何を言っても無駄だと判断して、黙って紅茶を淹れ直す。

 部室の外には、生徒たちがわらわら押しかけている。また魔法屋がやらかしただの、ついに神の審判がくだるだのくだらない噂話がますます誇張されそうな雰囲気である。

 その光景を見た朝霧がおかしそうに告げる。

「好奇の目で見られているのは変わらずだな。入学したころはさぞ大変だったろう」

 それに答えたのは結城だった。

「いやー、中学の頃に喰らった朝霧先生の拳骨に比べれば」

「久々に一発喰らっておくか」

「ごめんなさい」

 余計なことを言うな、その人周防よりめんどくさいんだから。

 朝霧と狐島先生の前にそれぞれ紅茶を差し出してから相方の隣に腰かける。

「んで?」

 あたしが首を傾げれば朝霧はくくっとまたおかしそうに笑い声をあげる。それに頬杖をついた。

「んで、とは」

「なんの用かって聞いてるんです。わざわざうちの高校にまで来て」

「可愛い教え子の顔を見に来た、では不満か」

「とっても」

 少なからず、朝霧ヤマトという教師も、朝霧という狛犬も、そういうタイプの輩じゃない。

 ずずっと紅茶を啜って、「あっつ」と肩を跳ね上がらせる狐島先生。この人もこの人でなかなか勝手である。

 と、そのとき、人混みの中から「ちょっとすみません」「ご、ごめんなさい!」……やっと来た。

 また立ち上がり、カップを二つ用意していると部室の戸の前にうちの部員二人が並んだ。

「なんの騒ぎですか」「お、お嬢ちゃん食べられたって聞いたけど大丈夫!?」

 ほとんど同時に口を開いたのは周防とリンリンだ。

 カップを並べながら至極冷静に答える。

「中学の学年主任と副担任が攻め込んできた、食べられかけたけど噛み砕かれてないのでセーフ。とりあえずリンリンはともかく周防おせぇよこの野郎」

 言いたいことを言い切ると息をついた周防が言う。

「すいません、追いかけられてました」

 そんなこったろうと思ってた。

 紅茶を机に並べていると、ここで話に聞いていた以外の来客がいたことに気付いたらしいリンリンが小さく目を見開く。

「あれ? 夏菜ちゃん?」

「どうも、お邪魔してます」

 ふわっと柔らかい笑顔を浮かべる夏菜を横目に「ちゅーわけで」とあたしを睨み付けている狛犬とちまちま紅茶を飲んでいる狐を示す。

「中学の頃の先生。朝霧ヤマト先生と、狐島イナリ先生」

 揃って、ぺこりと頭を下げる二人にふむ、と朝霧は顎に手を当てた。

「呪祖と人間。でも人間の方は訳ありか」

 ああ、と面白そうに朝霧がこちらを見る。

「神泉が憑いてる人間はこいつか」

「そういうことです」

 あっさり返すと彼女はあの噛み殺した笑いを、またしてみせた。

「巴夏菜に呪祖と死神憑きとは、中学の頃と変わらず変なものを周りに固めたなクソガキ」

 そこそこ有名な創造主の名前を、どうやら彼女は知っていたらしい。なんて心底どうでもいいことはさておき、なんだかベリーベリー不本意な評価を受けたようなので慌てて否定する。

「自分でやったんじゃない。勝手に固まったの、特にそこの創造主」

 とマイペースに紅茶を啜りながらあたしを睨んでいる夏菜を指差した。

 じーっと朝霧と狐島先生を見つめていたリンリンが首を傾げる。

「えと、お二人は……?」

「狛犬だ。土地神・霧主の」

 ケーキをせわしなく口に運んでいた狐島先生もごくんとそれを飲みこんでからその問いに答えた。

「私は霧主の神使。妖狐だよ」

「南野?」

「リンリン、そのネタは今時のなうでヤングな女子高生にはちょっと厳しい」

 というか言われた本人さえ首を傾げていた。

 解説するのも面倒なのでこの問題はスルーして、議題を元に戻す。

「で? 結局どういうご用件で?」

 あたしの言葉にようやく本題を持ち出す気になったのか、頬杖をつきながら朝霧が気怠そうに告げる。

「お前たちの大層派手で馬鹿馬鹿しくて素晴らしいご活躍は聞き及んでいる」

「朝霧先生、褒めるか貶すかどっちかにしません?」

 結城が眉を寄せながらそう言えばふむと朝霧は言葉を変えた。

「じゃあ貶す。クソガキ共のクソみたいな活躍は聞いてる」

「いや統一しろとは言ったけどもな!」

 しかし、さすがは土地神の狛犬といったところでいらっと来ている天才など知らんぷりで話を続けてくる。

「エール霧雨学園の特待生二人組がやれ呪祖を倒しただの、有名な一族の家庭崩壊を招いただの、地球滅亡を防いだだの」

「そこまで噂が独り歩きしてたなんて」

 嘆きながら思わず頭を抱えた。多少はあるだろうとは思っていたが学園外にすらそういう話が広がっていたのか。……しかもまるっきり全部が間違ってるとは言えないのが悲しいところだ。

「よく聞くのは『魔法屋』という部活についてだ。なんでも便利屋みたいなことをしてるとかどうとか」

「そこは間違ってないですね」

 周防がそう言えば朝霧はこんこんと机の端を叩いた。


「それはよかった。そこでだ、お前たちに社の仕事を手伝って欲しい」


 ……は?

 びっくりして聞き返す。

「え、今なんて?」

「うちの社を手伝えクソガキ共」

「ナニソレイミワカンナイ!」

 某スクールアイドルをリスペクトしながら答えてれば「朝霧、それは話ぶっ飛びすぎだよ」と狐島先生が呆れたように告げる。

「今度、霧主が少し出かけることになって。土地神がいないと、悪さをする輩も多いから。一日だけ、ね」

「それの退治をしろって訳か」

 あたしが言えば、朝霧がぼそっと、

「ついでに社の雑用なんかも」

 明らかにそっちの方がメインだろ、あんた。

 しかし、あたしたちの言及を逃れるためかぐいっとカップを呷った朝霧は椅子に掛けていた羽織を拾い上げると、立ち上がった。

「今週の日曜だ、頼んだぞ」

 慌てて結城が立ち上がる。

「え、ちょ、俺たち引き受けるなんて一言も」

「案ずるな、東雲よ。理事長殿の許可はいただいた。好きなだけ貴様らを借りていいそうだ。では失礼する。イナリ、帰るぞ」

「Wait a minute!」

 しかし狐島先生の反抗虚しく、朝霧はさっさと戸を開けて歩いて行ってしまった。

 んもー、と口の中にケーキを詰め込んだ狐島先生は立てかけてあった傘二本を拾い上げるとあたしたちに向かって軽く頭を下げたのち「朝霧ぃー! 待っててばぁー!」と小走りで彼女の後を追いかけて行ってしまった。

 なんだか、中学に入ったばかりの頃を思い出す。あの拒否権を与えないやり方。変わってないな、あの狛犬。

「とりあえず、日曜、予定空けておいた方がいい?」

「ごめん、お願い」

 困ったように微笑むリンリンに頭を抱えながら答える。

 そのやり取りをじっと見ていた夏菜がぼそっとこぼす。

「お前って対人運ないよなぁ」

 ……あたしの対人運をびっくりするくらい下げている奴に言われたくない台詞である。




 そんなわけで、次の日曜日。梅雨の晴れ間に私服のあたしたち、こと魔法屋の面子五人(美里さんが喜んでついてきた)プラス瀬ノ宮出身ということで無理やり引きずり込んだいずみっちたちと駅前で待ち合わせをしたのち、渋々、社に向かった。

 社、こと土地神・霧主が主祭神となっているキリノ社は駅からしばらく歩いた場所にある小さな神社だ。

 小さい、といってもそれは霧主の自称なわけで、少なからずそこらへんの低級神の社よりは大きい。


 道を歩きながらどこかわくわくした調子でリンリンが口を開いた。


「でも凄いなぁ、神様のお手伝いなんて。神様と知り合いだなんてみんな凄いよ」

「神様って言っても普通の気のいいおっさんだったけどな」

 な、と結城に同意を求められて小さく頷いた。恐ろしいほど、あの神様は神様らしくない。それは認めざるを得ないだろう。朝霧の方があの横暴っぷりといい、よっぽど邪悪な神様っぽい。

 そうなんだ、とまだ瞳をきらきらさせるリンリンを幸せそうな顔で見つめてから美里さんが不意に周防の方に振り返った。

「そーいや徹さ、頼むから必要以上にうちのバディ不機嫌にするのやめてくれんかね……」

「……なんのことだか」

 ふいっと美里さんから視線を逸らして白々しく答える周防。ああ、なんかしてる。確実になんかしてる。

 カバンを担ぎ直しながら首を傾げる。

「恭子、どうかしたの?」

「朝、徹に電話三十本かけて全部無視かガチャ切りされたって怒ってんの。電源切らずに」

「三十本掛ける白咲もやばいけどそれをガン無視する周防も大概やばい」

 結城がもっともな言葉を投げかければ周防がうんざりしたように答えた。

「日曜のあいつからの電話は大抵『とおるんデートいこ!』っていう押し付けの電話です。電話に応じた瞬間にすっ飛んできますから。あと三十回じゃなくて三十六回」

「なんでカウントした」

「四十回超えるとキャリコ持って乗り込んできますから」

「ごめんあんたたちの愛の形よく分からない」

 頭を抱えているとすっと首筋にナイフをあてがわれた。

「すいませんよく聞こえなかったのでもう一度お願いできますか」

「脅迫反対です!」

 ばっと飛びのいて結城の背に隠れる。

 さすがのバイオレンス呪祖も天才創造主には勝てないと判断したのか黙ってナイフをしまっていた。助かった。

 ほっと息を吐き出しているとぴたりと結城が足を止める。

「久々だな、ここに来たの」

 そう言って腰に手を当てる彼の視線の先には周りを気で覆われた古びた石段の道があった。遠くの方に鳥居が見える。

 この石段を上れば、いよいよキリノ社が見えてくる。うへぇ、と美里さんが顔をしかめた。

「こんな上るのー……?」

「がんばろ、美里ちゃん」

「こんな石段なんでもねぇぜ!」

 簡単な人だ。

 すでに石段に足をかけ始めていたリンリンの手をいずみっちが握った。

「リン、平気? 俺が抱き上げて飛んで行こうか」

「おいこらいずみ何お前リンにお触りしようとしてんじゃ」

「翼のない創造主は黙ってようか、蒼井っち」

「え、いずみっち翼あるんだ」

 どうでもいいことに驚いているとうーんと少し考え込むような動作をしてからリンリンが首を左右に振った。

「いずみ君に抱っこして貰うの好きだけど、ここは自分で上がりたいな」

 リンリンにあっさりフラれたいずみっちは弱々しく笑うと「じゃあ」と彼女の右手を握りしめた。

「せめて手、繋いでよっか」

「うん」

 人の前で堂々といちゃつくバカップルにけっと美里さんがつまらなさそうにそっぽを向いた。

 そんな彼女にリンリンは空いている左手を差し出した。

「ほら、美里ちゃんも一緒にいこ?」

 一瞬で、美里さんの顔に笑顔が咲き、いずみっちの顔が険しくなった。

 結局、三人で石段を上がって行く光景を黙って見送っているとすでに数段上がっていた周防が首を傾げる。

「どうしたんです? 早く行きましょうよ」

「え、あ、そうね」

 それでも一向に踏み出そうとしないあたしを見て、今度は結城が顔をしかめる。

「そんなに手伝いに行きたくないか?」

「いや、そういうわけじゃないのよ」

 吹き抜けていく風が木々の葉を撫でる音を聞きながら溜め息交じりに告げる。

「神社って、要は神域なわけじゃない?」

「まぁ、そうですね」

「あたしみたいなのが入ってもいいのかなって思って」

 仮にも神がつくいずみっちや、呪祖といっても少なからずマイナス方面ではない周防ならともかく、あたしは、魔女だ。

 先ほど言ったように、神社は神域だ。それこそ、分かりやすい部類の神域で、領域内は主祭神の神気で溢れかえっている。少し離れたこの位置からでも分かるほどだ。この場所の空気は澄んでいる。いや、澄み切っている。

 堂々とそびえる鳥居は、大なり小なり、結界の役割を持つ。不純なものを弾き出し、空気を淀ませず、常にこの空気を保っているためだ。

 あたし程度の魔女にこの神社の神気を侵せるほどの力はないし、可愛い元教え子を結界で弾き出すということもないだろうがあたしの気持ち的にはためらう。

 純粋か、不純かでいえば、あたしは後者だ。いくら人が誰しも持っている感情とはいえそれを表出しにしてしまった存在がこの神域に入ることが許されるのだろうか。

 というより、ここにいるせいで自分が不純だと実感するのが嫌だったのかもしれない。いつも通り、自分勝手な動機だ。ずっと前からそんなことを知っている癖にだ。

 普通の神域は、悪いものを浄化する場所だ。あたしは、浄化される立場だろうから。

 思い返せば、魔女になってからあたしは無意識にここを避けてきた。ここだけじゃない。神域というもの自体を、だ。 そんな風にまだグズグズしているあたしを見かねたのか一つ上がったところから結城がぐいっと手を引っ張ってくる。

「いいんだよ、狛犬が来いって言ったんだから。つーか、逆にお前が入っちゃいけない理由がわからん」

「だってあたし、魔女よ?」

「俺は創造主。ほら、問題なし。行くぞ!」

「ちょ、ちょっと!」

 強引にあたしの手を引きながら走り出す相方は、どこか悪戯っぽく笑っていた。


 予想通りというべきか、鳥居を過ぎるとあたしの足は少しだけ重くなった。


「来て早々、なんで潰れてるクソガキ」

 ぜぇぜぇ息を切らしながらその場にへたり込むあたしを見下ろしながらシンプルな袴姿の朝霧がそう吐き捨てた。

 本殿の前の石畳に放り出されたあたしは小さく笑う。

「階段ダッシュして、神域にぶちこまれたら……体もたねぇっつの……!」

「俺は平気だぞ」

「あんたと世の中の一般平均を比べんな……! 一般平均なめんな……!」

 げほげほと咳き込んでいると腕を組んだ朝霧が憐れむような視線を向けてくる。

「魔女になっても虫けらのように弱いどころか神域にすらまともに入れないのか。低級妖怪と同じではないか」

「うっせぇ……!」

 だから来たくなかった。

 おろろとわざとらしく涙を拭ってから「おお、愉快な仲間たちも連れて来たか」と後ろからやって来ていた周防たちを見つめた。

「おー朝霧せんせー!」

「おお、神泉、久しいな。死神業はどうだ?」

「そこそこ。こんな世の中だからねー」

 聞きたくもない世の中の現状を聞きながらやっとあたしが息を整えたところで狐島先生が諸々の掃除用具を抱えながらふらふらと歩いてきた。

「お、おもだぁい……なんでわだじばっがりぃ」

「妖狐の神使など力仕事か狐火で明かり灯すくらいしか出来んだろう」

「覚えてろ狛犬……!」

 ぐぬぬと悔しそうに顔を歪ませる狐島先生は乱暴に道具を地面においた。

 それを見て腕を組んだ朝霧が実に楽しそうに告げるのだ。


「さあて、ひとまず掃除でもしてもらおうか、クソガキ共」


 ひく、と顔を引きつらせながらそれに結城が返した。

「妖怪退治とかじゃないんすか」

「出たら退治して貰うさ。だが、出るまで何もしないのも退屈だろう、手伝わせてやると言ってるまでだ」

「まー朝霧せんせーのことだからそんなこったろうと思った」

 あははと軽く笑ういずみっちに「分かってるなら話は早いな」と朝霧が雑巾を押し付けた。




 そんなこんなであたしに与えられたのが石段の掃き掃除という実に簡単かつ面倒なお仕事だった。

 それも一緒に仕事をするのはよりにもよって周防徹である。

「あなたも随分奇特な人に好かれる」

 放棄を動かす手を止めないまま、周防がそう言った。

 後ろの方から聞こえてくる「戦争じゃおらー!」「上等じゃおらー!」という叫び声を聞かないようにしながら溜め息を吐いた。

「その奇特に自分が含まれてるの知ってた?」

「呪祖が呪祖に惹かれるのは特別不思議じゃないでしょう?」

 にこりと微笑みかけられて、苦笑する。

「すげーわ、今の言い方と微笑は普通の女子だったらおちてたわ。それ無意識?」

「あなたには言っても問題ないと判断して言ったまでです」

「賢い」

 地面に落ちた葉を階段の上から竹ぼうきで退かしているとまた周防が言う。

「神様とその使いにまで好かれてるのは少し意外でしたけど」

「ただの元教え子と教師よ」

 一応そう言ってやれば周防は小さく笑う。ああ、だからこいつと二人は嫌だったんだ。

 嘆きたくなる気持ちを押し殺していると「意外といえばもう一つ」

「何かしら」

「あなたが神域を嫌がるとは。そういうの、気にしないタイプかと思っていました」

 なんとも失礼なことをぬかしやがる。

 顔をしかめながら渋々答える。

「実際嫌なもんよ。自分が神域から歓迎されない存在だって自覚を持つのは」

「彼はあなたがそんな存在とすら思ってないようですけどね」

 石段の上を見ながらそんなことを言う周防にそうね、とだけ返した。

 だから面倒なんだ。

「あたしを世の中の敵と同じとは認めたくないらしいわ」

「その言い方だとまるであなた自身は自分が世の中の敵だと思っているようだ」

「違いないわ」

 身を乗り出しながら穏やかに笑う。

「人は愚かだから。自分を包み込みかねない感情を悪と定義する。その分かりやすい例が」

「嫉妬」

 周防の言葉ににっこり。「よくできました」

「世の中から悪と定義されれば、それは悪だ。それが、あなたの考え方」

「そ。例えたった一人があたしを正義といったとしても、残りの百万人が悪だと言えば大衆からはあたしは悪にしか見えない。だからあたしは結局悪者で、この世から疎まれるべき存在なの。魔女なんて都合のいいものに名前を変えたね」

 ここで周防が呆れたように溜め息を吐いた。

「でもあなたは物事の善悪にこだわるような人じゃない」

「うん、そうね。それも正解」

 小さく頷いた。

 そうだとも。あたしは善悪なんてどうでもいいんだ。あたしがよければ、それでいいんだ。

「でも結城は違うから。あたしが疎まれるのは嫌みたい」

 なんてね、と小さく会話を終わらせて次の議題を放り込んだ。

「それよりよかったの? デート。行きたかったら今から行ってもいいのよ?」

「なんですか急に」

 不愉快そうに眉を寄せる周防に肩をすくめた。

「あんた別に恭子のこと嫌いじゃないんでしょ」

「嫌いですよ」

「んもー、またそういうこと言う」

「あんたは牛ですか」

 溜め息交じりに彼はあたしを睨み付けた。

 けらけら笑いながら石段を一段下りる。鳥居が離れていくごとに、あたしの体は少しずつ軽くなった。

「大事なものって意外と壊れるのはあっという間なんだから」

「……彼のことですか」

「残念、違うわ。これはあたしの人生経験の話」

 またほうきで葉っぱを払いながら空を見上げながら告げる。

「この世に絶対の人間関係なんてないわ。たとえ、人間を捨てたとしても」

 ま、と周防に笑いかける。

「あんたはその辺、分かってるでしょうけど」

「その信頼は重たいなぁ」

「分かって言ってるのよ、馬鹿ね」

 下の段に足を掛けながら「ねぇ、周防」

「はい?」

「……やっぱりなんでもない」

「なんですか、気になります」

「いいの。よく考えたらめちゃめちゃ恥ずかしいし無意味だったから」

 まだしばらくはあたしたちと友達でいてくれなど、するまでもない無意味な頼みである。




 結構な段数があったおかげで時間こそかかったものの、なんとか石段は掃き終えた。

 物凄く嫌だったものの、渋々、また鳥居をくぐり、本殿の方に戻ればまだぎゃーぎゃー言い争う守護霊たちがいた。結城とリンリンは遠くの方で知らんぷりしながら掃除してやがる。

 ゴミ袋を抱えた周防が苦笑しながら二人の仲裁に行ったので、あたしの方は終わったという報告でもしてやろうかと朝霧を探した。

 本殿の裏に回ったところで、彼女はあっさり見つかった。

 木の幹に座りながらぼーっとどこかを眺めていた。腰に手を当ててから声をかける。

「朝霧先生、階段、掃除終わりましたけど」

 あたしの声にぴくりと顔をこちらに向けた彼女は「ああ」とどこか上の空な返事をよこすとばっと幹から飛び降りた。

 すたんとあたしの目の前に降り立った彼女にこちらがびくっと身を引く。

「そこまで驚かなくてもよかろう」

「いや、そんな至近距離に来ると思ってなくて」

 まだびくびくしながら言えば朝霧は溜め息を吐いた。

 しかし、あたしに何か言うでもなく、ごそごそと懐を探ってから財布を取り出すとこちらに押し付けてきた。

「買い物行ってこい。醤油買ってきてくれ」

「まぁた重そうなもんを」

「黙って引き受けろ。好きな菓子一つ買っていいから」

「あたしは幼稚園児かっつの」

 がくっと肩を落としながら「はいはい行きますよ。行けばいいんでしょ」とくるりと彼女に背を向けた。

 本殿前まで戻ると、周防の前で守護霊たちが正座させられていた。さすがだ。やっぱり怒らせないようにしようと心に決めていると後ろから声が飛んでくる。

「お嬢、でかけんの?」

「買い物。すぐ戻るから」

「そっか、気を付けてな」

「ん」

 相方と軽い会話を交わしつつ、あたしは石段を駆け下りた。




 キリノ社の不便なところは、付近にスーパーの類が少ないことだ。

 結局歩いて十数分のところまで買いに出て、醤油を抱えながら来た道を辿っていた。

 さっさと帰らないとまた朝霧に嫌味の一つでも言われてしまう。そう思いながらあたしの足は急いでいた。

 日曜日、休みということだけあって道には家族連れが多い。まさに目の前でも母親と父親の手を握りしめながら小さな女の子がぴょんぴょん跳ね回っているところだった。彼女はしきりに自分の右手を握りしめる父親に楽しそうに話しかけている。

 その光景を横目に、溜め息を吐いた。深い意味はなかった。単に、少しだけ自分にうんざりしただけだ。

 早いところ戻ろう。そう決めて人の少ない道に入った瞬間だった。


「魔女でも過去を思って傷心することはあるんだね」


 低いとも、高いとも言えない声。

 一度しか聞いていない筈なのに、強烈に印象付けられた声だった。

 足を止め、ぐるりと振り返る。それから視界に入った人物を見て、あたしの頭の中は先ほどの気持ちとは一転して、思考することに切り替わっていた。

 朝霧の小言を避けるか。自分の中のもやもやを解消するのが先か。

 選ぶまでもなかった。醤油を地面に置いた。


「会いたかったわ、ヤギ野郎」


 そこにいたのは、体育祭のあの日、あのとき、屋上にいたあの抽象的な顔立ちのヤギ男だった。

 今日はエール霧雨の体操着ではない。金糸の入った白い学ランだった。どこの制服だろう。

「聞いたわ、あんた、うちの生徒じゃなかったらしいじゃない」

「騙すような真似をしたのは謝るよ」

「だったらもっと早く謝罪に来いっつーの」

 腕を組みながら相手を睨み付ける。

 彼は困ったように笑ってからかつん、とあたしとの距離を詰めた。後ずさった方がいいはずなのに、あたしの体は自然と動かなくなっていた。

「あんたは、何者?」

 単刀直入に問いかけた。

 そうだなぁ。額に手をやりながら彼は答える。

「正義の悪魔、かな」

「何それ」

 顔をしかめながら言い放つ。

「もう二人くらい知り合いがいるから悪魔は間に合ってるわ」

 彼はけらけらと笑う。

 悪魔。また変なのに絡まれてる気がする。今さら恐れおののいたりこそしないが。

「そんなこと言わないでよ。君と仲良くしたいんだから」

「あたしと? ご冗談を」

 そこでやっと体が動いた。一歩後ずさり、問う。

「一体何が目的なの?」

「だから言ったじゃないか、君と仲良くしたいだけ」

 するりと、奴の手があたしに伸びる。

 抵抗する間もなく、その手はあたしの頬に触れる。セクハラだ。社会的制裁が必要だ。

 思っていてもうまく言葉が出ない。

「君に興味があるんだよ」

「……悪魔に興味を持たれるようなことをした覚えはないわ」

「東雲結城」

 突然聞こえてきた相方の名前に奴を睨み付ける。くすくすと自称悪魔が笑う。

「睨まないでよ。随分、大事みたいだね」

「彼は、あたしにとっては全てよ」

「そうみたいだね、全てをかけて殺してやろうと思ったほど愛おしいくらい」

 眉を寄せる。

 それは、あたしの呪祖の話と見て間違いないだろう。

 未だ成し得ないあたしの願い。心の中で呪祖して巣食う嫉妬の心。その嫉妬にこびり付く執着。それがあたしの呪祖の全てだ。

「呪祖としての願いを遂げるつもりは?」

「どういう意味?」

「簡単だよ」

 肩をすくめ、あたしから離れた悪魔が告げる。

「悪魔と契約する気、ある?」

 首を傾げる。

「なんですって?」

 いつの間にか現れたヤギをそっと撫でながら悪魔は楽しそうに続けた。

「君の魂を対価にして、君の願いを果たす気はあるか。そう尋ねてるんだよ」

 なんだ。そういうことか。

 口元を押さえながら小さく震える。悪魔が首を傾げた。

「どうし」

「あはっ」

 その問いを遮るようにあたしは吹き出した。

「あはは」そうなれば、まるでせき止められていた水が流れ出すかのように笑いが口から出て行く。「あははははは!」

 腹を抱え、目から溢れる涙を拭い、あたしはひたすら笑い転げた。

 不審そうにあたしを見る彼を見据えた。

「このあたしに、東雲結城を裏切れですって?」

 まだくふふ、と口元を歪ませながらきっぱり、言い放つ。

「よくもまぁ、そんなことを言えたものね。論外よ」

 彼を裏切るなどとんでもない。

 ましてや、対価が高すぎる。一時期のあたしならともかく、今のあたしはあのちんちくりんに魂かけられるほど度胸が据わってない。

 それに。

「多分、あたしの中の呪祖も反対だと思うわ」

 ふわりと、何かが目の前に降り立った。

 そこにいたのは不機嫌顔で、腕を組んだ、『あたし』だった。

「何よ、この不愉快の塊みたいな奴」

 小さく舌打ちまでする七号は「ごめんなさいね、ボク」と笑みを浮かべた。

「あなた程度の奴と契約して殺せる結城なら端っからいらないわ」

 全くだ。たかだが悪魔に魂売ったくらいで死んでくれるほど東雲結城は易しくない。

 彼はぼーっとあたしを見つめてから残念そうに告げた。

「それが君の答えなんだ」

「そうね」

 肯定すれば「ま、今日のところはそれでいいよ」つい吐き捨てた。

「二度とその面みせんなクソ野郎」

「それは約束できないな」

 綺麗な顔に、穏やかな笑みを浮かべながら彼は、

「君が東雲結城を庇い続ける限り、君まで僕の正義の敵になるだろうから」

 どういう意味だ。

 問いただしてやろうと一歩踏み込んだ途端、強い風があたしを煽る。思わず目を閉じ、次に開けたときには、もうその姿はなかった。

 薄々予感していた展開だ。要は、あいつはやっぱり東雲結城を狙っていて、あたしを引き込もうとした。それだけだ。悪魔の契約だなんて格好つけた名前まで用意しやがって。

 髪を振り払ってから七号を睨み付ける。

「というか、あたし、あんたを、呼んでない」

「あたしだって出て来たくなかったわよ」

 くるっとあたしに向き直ると彼女は歪な笑みを浮かべた。

「変な気は起こさないでよね。結城はあたしのものなんだから」

「あいつは誰のものでもない」

「やーんこわーい」

 つんつんとあたしの頬を突いてからくるくるその場で回った七号。

 その動きがいちいち癪に障る。口角をひくひくさせていると「さ、八つ当たりされる前にかーえろっと」と凄い余計な一言と共に、消えて行った。

 どうせ、八つ当たりするために再び呼んでも拒否するだろう。仕方ないので醤油を拾い上げ、溜め息を吐いた。

 何が、正義だ。どいつもこいつも。

 あの言葉の意味を考えようかと一秒だけ迷ったものの、あんなのが敵になるとも思えず、結局、三秒で破棄が決定した。




 何が来たって、あの東雲結城に敵うわきゃないんだ。ただそれだけの結論だった。

 彼こそが、あたしにとっては絶対不変のものなんだ。それで十分。




 石段に足を掛けたところで、あたしはやっとその異変に気付いた。

 先ほどまで嫌になるほど澄んでいた空気がやけに淀んでいる。呪祖とも違う淀み方。どこか重苦しいものだ。狐島先生に近いだろう。

 俗にいう妖気、邪気の類だ。口元を押さえながら溜め息を吐く。次から次へとこう。

 五号、小さく呼びかければすぐさまひらりと蝶が現れた。

「お呼びでしょうか、大佐」

「醤油持ってて」

「え!?」

 珍しく不満げな声をあげる五号を放って、醤油を地面において「よろしくね」と丸投げすると石段を駆け上がる。

 その間にさらに手を叩いて、呼びかける。

「二号」

 またふわりと蝶が目の前を横切った。明るい声が脳裏に響く。

「待ってたぜ、ご主人」

「久々にあんたの結界の力を借りるわ」

「へへっ、オイラにまかしとけこの野郎!」

 この妙に粋がった喋り方をする蝶が二号である。

 手下たちには番号持ちの七匹にはそれぞれ得意分野がある。三号はスピードが速くて、四号は幻術だし、五号はあたしにもっとも従う。七号は論外。

 ではこの二号は。問われればこう答えよう。この子は、結界関連の能力が特別高い。

 逆を言えば、それ以外の能力はどうもパッとしない。しかも喋らせるといちいち声がでかくてうるさいのであまり呼び出さないようにしていた。今日は気まぐれが働いた日だ。神域をどこまで自分の領域にできるかは分からないが。

 なんとか石段を駆け上がるとあたしはこの妖気の正体を知る。


 白い骨で構成された体と頭、三メートルはありそうな巨大な骸骨が周りに一メートルくらいの蝙蝠のような妖怪を連れて鳥居に凭れ掛かっていた。


「何あれ」

「ご主人、がしゃどくろだぜ。ありゃ」

「がしゃどくろ?」

 なんだそのカプセルトイみたいな名前の奴は。

 なんにせよ、鳥居を塞がれていると邪魔だ。「二号、いつも通りやって」とだけ言い残すと地面を蹴り付け、一気に飛躍する。

 それからぐっと拳を握り、骸骨の頭の辺りに到達したところで振り下ろす。

「あたしは今日は特別機嫌が悪いんだオラァ!」

 理不尽に掃除させられたどころか変な自称悪魔に絡まれて、七号と苛々するだけの会話をして。機嫌よく過ごせというのが無理な話だ。

 がらがらと音を立てながら後ろへ倒れていく体を見ながら鳥居の真上を通り過ぎたあたしはくるりと一回転しながら石畳の上に着地した。

 じんじんと痛む手を庇いながらしゃがみ込む。

「めっちゃ手ぇいてぇ……!」

「お嬢……お前、あれ殴ったのか?」

 恐らくがしゃどくろとやらの手下であろう蝙蝠を斬り付けながら結城が戸惑ったように問いかけてくる。

 すでにそれぞれ各々の得物を振り回しながら交戦中だったらしい。まぁね、と頭を抱えて返す。

「想像以上に硬かったわ……」

「そりゃ、骨だからな」

「戻ったか、クソガキ」

 蝙蝠を蹴り飛ばしながら朝霧がこちらを見る。拳にしていた手を解き、ふりふり空中で振りながら答える。

「ええ、ただいま。なんの騒ぎですか」

「なに、土地神の居ぬ間に社を乗っ取ろうとする低級妖怪よ」

 それからあたしの手元を見た朝霧はじろりとこちらを睨み付けた。

「醤油はどうした」

「この状況で醤油の心配する?」

 呆れながら「買って来たけど」

 瞬間、物凄い勢いであたしの体がさらわれた。体に伸びている細く、冷たい感触と目の前にあるがしゃどくろの顔に自分の置かれている状況を理解する。

 どうやらあの大きな手であたしの体を掴まえているらしい。今にも握り潰さんばかりの勢いでだ。

「お嬢!」

 相方の慌てたような声が聞こえる。らしくないな、東雲結城。

 ぐぐっと白い骨を押し返しながら抵抗を試みる。

「まだ死んでないからだいじょ」

 しかし、あたし程度の抵抗を許してくれるほどがしゃどくろは優しくない。

 それより大きな力を込めて奴は手を握りしめた。圧迫され、ごきりと聞こえてはいけない音が聞こえた。

「がぁ……! っ、ぐあ……ろ、肋骨が……」

「……折れたのか」

「……多分いっぽ、いやこれ二本はいってる……! 確実に二本いってる……!」

 それでもちゃんと喋ることができるのが魔女の悲しいところである。

 その間にも、がしゃどくろは手の力を弱めない。みちみちぎちぎちと体からしてはいけない音が鼓膜を揺らし続けた。

 溜め息を吐いてから結城は刀を握りしめ、地面を蹴り付けて飛躍したかと思うとその刃を振りかぶった。


 あたしが殴って痛がっていたのを嘲笑うかのように、彼の刀はいとも簡単に腕の付け根当たりの骨を絶った。あたしを握りしめていた手ごと吹っ飛ばされた。


 地面に叩き付けられた衝撃が骨越しで伝わってくる。

「おじょっち!」

 慌てて駆け寄ってきたいずみっちがあたしの体を握りしめ続けていた指を鎌で取っ払ってくれた。

 げほげほ咳き込みながら「さんきゅーいずみっち。結城」と口元を拭う。

「時間稼ぎとしては完璧だったわ」

 片腕を失い、バランスを崩すがしゃどくろを指差した。

 奴の周りを取り囲むように上空から鎖が降ってくる。同時にぶわりと頭上高くに二号が飛び上がった。

「東雲の旦那! ちょっと大物だから手伝ってくだせぇ!」

 二号の言葉にくるくると刀を回した結城はあたしの鎖にそれを突き刺した。

 確認してからあたしはぱっと開いた掌をがしゃがいこつに向けた。

「それじゃあ久々に行ってみますか」

 ぐっとその手を握りしめるとがしゃがいこつを取り囲む鎖の中に青白い光が輝きだした。

 その光が徐々に、がしゃどくろの体を覆っていく。あっという間に、奴の体が半球に覆われた。

 あたしの張った結界を、結城の魔力で拡張する。大型呪祖相手には時々使う手だ。

 握りしめたままの手をゆっくりと頭上にあげる。手が上がれば上がるほど、青白い半球は大きさを狭めていく。


 そして真上に上がり切った瞬間、ぎにゃあという歪な声と共に、それは完全に消滅した。


 思わず安堵の言葉をこぼす。

「よ、妖怪に効いてくれてよかった……」

 正直ちょっと不安だった。結界に閉じ込めて消滅させるだけの乱暴な方法だし。

 あたしを掴まえていた腕もさらさらと消えていく。主人が居なくなったおかげで蝙蝠たちも、我先にとばかりにこちらに背を向け、飛び去って行く。

「どうします?」

「だいじょーぶ、主人の居ない低級妖怪なんて何もできないから」

 周防の問いにさらっと答えると狐島先生はふぅと息を吐いていた。

 その光景に安心しながら、全身の力が抜ける。ふらふらと地面に倒れた。

「お、お嬢ちゃん!?」

「お嬢!」

 本殿の方に隠れていたのであろうリンリンとそれを守っていたらしい美里さんが駆け寄ってくる。

 その二人に、状況を伝えなければと口を開く。

「お、折れた肋骨が、地面に叩き付けられた衝撃で肺に刺さりました……呼吸が苦しい……死ぬ……」

「ぎゃー! お嬢ー! 死ぬなー!」

 悲鳴を上げる美里さんにあははと弱々しく笑い、言う。

「ぼ、ぼくはしにましぇ……げほ! がほ!」

「死にかけじゃねぇか! 嫌だよ!? 俺おじょっち導くのやだよ!? 休日出勤嫌だよ!?」

「い、いずみ君……」

 口元を押さえると手にべっとり付着した赤いものが見えた。

「な、なんじゃこりゃああ!」

「死ぬ! それ死ぬ! お嬢それ死ぬから!」

 うわぁああと美里さんがやたら騒ぐので楽しくなりながらちらりと相方を見た。

 やっぱりというべきか、不安げな結城におかしくなって笑みがこみあげた。それにあたしを抱き上げていた美里さんがまた悲鳴を上げた。

「ぎゃあ! 笑ってる! お嬢が笑ってる!」

「本格的に俺氏休日出勤の予感!」

「ええいやかましい!」

 朝霧の声でやっと周りが静かになった。

 すたすたとこちらに歩み寄ってきた朝霧は手に盃を持っていた。中にはどす黒い液体が入っている。

「霊薬だ。多少治りがよくなるだろう」

「朝霧せんせ……それ、なんか……めっちゃ……黒いんですけど……」

「沼地の妖怪に貰って以来、台所に三十年近くあった奴だが霊薬に賞味期限はない、ぐいっといけ」

「それ、普通にやばい奴じゃ」

「うるさい大人しく飲め!」

「え、ちょ、あさぎ、おぼぼぼぼ」

 ぐいっと頭を固定され、強引に盃の中身を口に流し込まれた。

 口の中に、強烈な苦みとわずかな酸味が広がり、独特の発酵臭が鼻を抜けていく。どう考えても、やばい味だった。

 肋骨の痛みに耐えながら咳き込んでこそいたものの、気が付いたときには意識を失っていた。




 次に目を覚ましたときには体の痛みは跡形もなく消えていた。

 秘薬というのはあながち嘘でもなかったらしい。普段なら全部回復するのにはまだまだ時間がかかるはずだがすっかりよくなっている。

 でも別に、あんなものなくとも、一時間あれば肋骨の再生くらいはできたのに、と多少不満に思いながら目を閉じて寝返りを打つ。

 そこで違和感を覚えて、顔をしかめた。体の下に妙に暖かい感触がある。

 目を開けてよく見てみると黄色い毛が視界を奪っていた。整った毛皮はふわふわと柔らかい。黙って毛並みに沿って撫でていると突然頭上から声が聞こえてきた。

「あ、起きた?」

 優しい声に顔をあげてからびくっと肩を跳ね上がらせて後ずさる。

「こ、こここ狐島先生!」

 ぴょんと狐耳を生やした狐島先生だった。どうやらあたしは彼女の尻尾を枕にしてすっかりよく眠っていたらしい。

 彼女はあたしの様子にくすくす笑ってから「別に気持ちいいなら触っててもいいのに」と告げた。

 そう言われると、なんだか離れてしまうのが惜しくなったあたしは黙って尻尾に近付いてふよふよと左右に揺れる尻尾を抱き締めてながら「どんくらい経ちました?」

「一時間くらいかな。薬が効いてたみたいでよく寝てた」

 多分ここは社の中なんだろうなとぼんやり考えながらとりあえず言葉を返す。

「ほんとに利きますね、あの薬。くそまずいのに」

 手をグーパーさせているとそうみたい、と狐島先生。

「でも多分あなたの心的なものは取り除けないよ」

「何を仰る狐さん、あたしの心は健康そのものですよ」

「よく言うよ」

 くすくす笑いながらまだ尻尾に掴まったままのあたしを撫で、狐島先生は言う。

「そういう依存体質は相変わらず。先生心配」

「……まだ捨てられたくないんですもん」

 もふもふと尻尾を撫でていると狐島先生は溜め息を吐いた。

「東雲くんはそういう子じゃないでしょ」

「分かってますよ。分かってますけど」

 それを信用してしまうことを未だに心のどこかで恐れているのだ。

 相方としてあるまじきかもしれないが、それでも不安を感じないといえばそれこそ嘘になる。

 沁み付いてしまった考え方と習慣はなかなか治せない。

「エール霧雨学園、楽しい?」

 ぽつんと聞こえてきたのはそんな問いかけだった。

「どうでしょう」

 そんな曖昧な返事をするので精一杯だ。

「朝霧も私も、霧主もちょっと心配してたんだ。東雲くんはともかく、あなたのことは」

 狐島先生と霧主なら分かるが朝霧は信じられない話である。しかし余計なことは言わずに、へぇとだけ言っておいた。

「いじめられてない?」

「今は。最初は散々でしたけど」

 巴夏菜以外に殺されかけたのは一度や二度じゃない。

 狐島先生は、だよねーと笑い返しながら「あなたは確かに東雲結城の相方としてはとても優秀だけど、実力主義のあの学校で生きていくのには厳しいかと思ってた」ときっぱり言い放った。

 別に否定はしない。間違った評価だとも思わない。

「でも、お友達いっぱいいるみたいだし、杞憂で終わってるみたいでよかった」

「そいつはどうも」

 やっと狐尻尾から離れて息を吐く。

 そこでふすまが開き、奥から朝霧がやってきた。

「おお、クソガキ起きたか。さすが沼のあやかしの霊薬、聞きしに勝る効果だったな」

「でもあれ絶対腐ってる」

 ぼそっと文句だけは言っておいた。

 くくく、と低く笑うだけで決して否定をしない朝霧に額を押さえていると「おじょー!」と突然タックルを喰らった。

 耐え切れず、バランスを崩し、後ろに倒れ込む。

 状況が読めずにいるとなぜか微妙に濡れている結城がぐいぐいあたしに頭をすり寄せていた。

「もう起きてて大丈夫か? 生きてるか? あーもう心配したんだからな俺ー!」

「あんたは犬か! ていうかなんで濡れてんの!?」

「雨降ってきたんよ」

 にゃははと笑っていたのは肩にタオルをかけた美里さんだった。

 肝心の結城の方はといえば、あたしの文句を聞き入れる様子もなくひたすらよかっただのなんだの言いながらぎゅうぎゅうあたしを抱き締めていた。

 それを見かねたのか「こら」と周防が結城の頭にタオルをかぶせ、そのまま引きずって行った。

「うなー! やめろ周防ー!」

「駄目です、風邪引きます」

 やっと自由になったので体を起こすとわしゃわしゃと周防にタオルで頭を拭かれている相方がいた。本格的にただの大型犬だった。

「お嬢ちゃん、もう大丈夫?」

「ええ、あのくそまずい薬が効いたみたい」

 苦笑しながら返せばよかったぁ、とリンリンはあたしの両手を握った。

「もう! びっくりしたんだからね! ちゃんと自分の体大事にしなきゃ駄目だよ!」

「……分かった、ごめんなさい」

 ぽんぽんとリンリンの頭を撫でるとやたら突き刺すような視線を向けられたような気がしたので急いで手を引っ込めた。

 やっとわしゃわしゃ地獄から解放されたらしい相方わんこがタオルを顔にかぶったままむーっとつまらなさそうに前を見つめる。

「あんなに晴れてたのに」

「言ったでしょ、梅雨ってそういうもんなの」

「そうだけど、傘持ってきてないし」

 べたーっと相方が畳の上に仰向けに倒れ込む。

 情けないなやら何やらでちょっとだけ悲しくなりながらその上に、折り重なるように倒れ込んだ。

「ちょ、お嬢、重い重い」

「お黙り」

 彼の腹部の辺りに頭を乗せながらいつもの台詞を言い放った。

 やれやれ。諦めるようにそう告げてから相方はぽんぽんとあたしの頭を撫でた。撫でられた部分を押さえながら苦笑する。

「今日は撫でられてばっかりね、あたし」

「え?」

「なんでもない」

 ごろんと転がってから仕返しというわけでもないのだがわしゃわしゃと結城の頭を撫でつけた。

 それから起き上がり、ぼんやりと外の方を見る。

 間もなく、こんこんと戸が叩かれる音がする。懐から葉っぱを取り出して、頭に乗せると一瞬、煙に包まれたのちに、耳と尻尾を消した狐島先生が「はいはーい」とぱたぱた走り出して行った。

 いつの間にやら、あたしたちの方へ歩いてきていたいずみっちが首を傾げる。

「朝霧先生、もう帰ってもいいって言ってるけどどうする?」

「雨が弱まるまでは雨宿りさせて貰おうぜ、俺傘持ってないし」

「だよねー、俺もそうだからちょっと考えてたわ」

 けらけら笑いあう男共に苦笑していると背後から「はぁ!?」と周防の荒らげた声が聞こえてきた。

 純粋な興味で振り返ってみるとあたしまで同じ台詞が口から出そうになった。

「ダーリン! 迎えにきたお!」

「なんでだよ!」

 白咲恭子が、なぜかこの場にいたのである。

 恭子はやたらふりふりのスカートをふりふりさせながら「えーだってぇ」と大きな目を上目にしながら周防を見た。

「今日晴れの予報だったのに雨降ってたから困ってるかにゃーって。妻として気を利かせたんだにゃん。あ、ついでだからみさみさとふにゅりんの分も傘持ってきた」

「うわぁ、その私は心底どうでもよさげな言葉、蒼井さん傷つくわー」

「だって美里のことどうでもいいもん」

「やめろよそういうこと言うの!」

 若干涙目の美里さんを放って、「ちゅーか」と恭子は唇を尖らせた。

「いずみんいたんだ、知ってたらいずみんの分の傘持ってきたのに」

「ああ、俺はいいよ。リンのに入れて貰うから」

 あっさり言ってのけたいずみっちの言葉のせいでまたいらない争いが発生したのは言うまでもない。

 それを横目に、唐突に、なんの前触れもなく、周防が恭子の肩を抱く。

 珍しい光景にぱぁぁっと恭子が顔を輝かせた。


 ――のもほんの一瞬で、肩に回されていた腕は一気に首に回り、ぐいっと彼女を締め上げた。


「ふにゃ!?」

「誰から聞いてここまで来た。お前には何も言ってないはずだよなぁ」

「えーそりゃ勿論、愛のチ・カ……あ、待ってとおるん苦しいにゃん! 落ちるにゃん! ギブギブ!」

 ばんばんと腕を叩く恭子を周防が溜め息交じりに解放する。

「もう、そういうのキョウキョウ嫌いじゃないけどぉ、激しいプレイはおうちまで待ってよねとおるんったらぁ」

「で?」

「ともともが教えてくれたお」

 げ、と顔をしかめる。

 そういえばあのとき、部室に居たんだったあいつ。

 まさか、と振り返ってみると案の定ともいうべきか、巴夏菜が腕を組みながらこちらを見下ろしていた。

「よう」

「……あんたどこまでも追いかけてくるわね」

 夏菜の登場により、今までだれていた結城が一気に体を起こし、ぺちぺちと顔を叩いていた。もう手遅れだよ馬鹿野郎。

「別に。お前を追いかけてきたわけじゃない。ただ東雲くんに傘届けようかなと思っただけだ」

「え、俺に!?」

 びっくりしたように自分に振り返る結城に夏菜はにこりと微笑みかけた。

「うん。こんな馬鹿魔女に振り回された挙句に、雨にまで降られたらいくらなんでもあれだと思ったから。迷惑だったかな?」

「と、とんでもない! ありがとう! その、すげぇ嬉しい!」

 顔を真っ赤にしながら礼を述べる結城だったが多分それ、あたしに嫌味を言いに来るための言い訳だろう。

 まぁ、結城が幸せならそれでいいかと代わりに別のことを問う。

「で、そういうことだとあたしの分はないわけね」

「なんで私がお前の分を用意してやんなきゃいけないんだよ」

「デスヨネー」

 そういう発想の子なのはよく知ってます。

 でも、と視線を逸らしながら夏菜が言う。

「ど、どうしてもっていうならお前の家まで私の傘に入れて」

 しかし、その言葉を遮るようにふすまを開けて朝霧が戻ってきた。

 ほう、と面白そうに彼女は笑みを浮かべる。

「また増えたな」

「こんにちは、徹のお嫁さんです!」

「うるさい」

 余計なことを言って口を塞がれる恭子とあたしへの嫌味だったのであろう言葉を遮られたせいで若干不機嫌な夏菜が頭を下げたところで「まぁ、いい。ついでだ。お前らも食っていけ」と彼女は手に持っていた盆を下ろした。

 乗っていたのはこんがりと焼けた焼きおにぎりだった。

「わあ、美味しそう……」

 リンリンの言葉に朝霧が穏やかに言う。

「昼飯くらい食っていけ。まだ用意してあるから。そこの二人も」

 やけに親切だな、朝霧にしては。口に出さないのは余計なことを言って昼飯を抜きたくなかったからである。

 そろそろと盆の方に近付いた狐島先生がそーっと手を伸ばす。その手をぱしんと弾いてから「お前は私を手伝え、クソ狐」とまた引っ込んで行ってしまった。

「なんだよけちー」

 ぶーぶー言いながらその後を、狐島先生が追う。

 その後ろ姿を見送りながら一つ手に取って、噛り付いた。

 焦げた醤油の味が口いっぱいに広がった。




「それじゃ、ご馳走様でした」

 腹も膨れ、雨もある程度弱まってきたところでやっとあたしたちは帰ることになった。

 ああ、と腕を組んだ朝霧が告げる。

「またこき使われたくなったらいつでも来い」

「冗談じゃない」

 げっそり言えばくくく、といつもの笑いを朝霧が上げる。

 ばさっとビニール傘が広げられる音がする。すでに周防たちは先に出て行ったようだ。そのあとに続こうとすると「東雲くん」と狐島先生が結城に紙袋を差し出した。

「これ。全部持って行っていいから」

「え、いいんですか?」

「うん、うちはどうせ怪我しても霧主の通力で大抵治るからほとんど使わないし」

「……すいません、じゃあ頂いていきます」

 ぺこりと頭を下げる結城に「何貰ったの?」と紙袋を覗き込んだ。中には小さな壺のようなものが入っている。

「霊薬」

「え、あの腐ってる奴?」

「どっかの誰かさんが今日みたいにまたいつ肋骨折って肺に突き刺すとも限りませんから」

 ふんと不機嫌そうな結城に顔を引きつらせる。

「怪我しても、あたし、二度とその腐った奴飲まないわよ」

「ばーか飲ませるんだよ。嫌なら怪我すんな」

 なんて恐ろしいことを言うんだこの相方は。

 気をつけなければとごそごそカバンを漁っていると夏菜が急に喋り出した。

「ところでクソ魔女、傘がないなら特別に」

「あ、あった、折り畳み」

 するりとカバンの奥底に眠っていた折り畳み傘を取り出すと夏菜が目を大きく見開いていた。なんだよ。

「な、なん、なんで、か、傘」

「梅雨の間は天気予報を信用しないことにしてるの。よかった、なかったら結城のに入れて貰わなきゃと思ってたから」

 そのあたしの台詞に、なぜか顔を真っ赤にしてぷるぷる震えてから夏菜は、

「こ、こんのクソがぁ! 死ね!」

「ええ!?」

 なんでだ、あたしが傘持ってるのの何がそんなに気に食わないんだあいつ! あたしなんて濡れて帰ってしまえってか! クソ鬼畜め!

 うわあああ、となぜか泣き声のような声をあげながら飛び出していく夏菜を唖然としながら見つめてからなんだかなぁ、とこぼす。あたし、そんなに嫌われてるのだろうか。

 それじゃ、と二人に向き直った。


「また近いうちに、と、霧主さまにお伝えください」


 ぺこりと下げた頭をあげると、驚いたような目で二人がこちらを見つめていた。

 ちょっとだけ、こんな存在でも神様に弾かれるだけでないと自惚れてみたかっただけだが駄目だろうか。

 やっぱり同じようにびっくりしている結城の肩を突いて「行くわよ」

「あ、お、おう」

 戸惑ったように後からついてくる結城の足音を聞いていると朝霧の声が飛んできた。

「今度は供物を持って来いクソガキ! じゃないと結界で吹き飛ばすぞ!」

 一言余計なんだっつの。

 片手をあげ、それに応じながらもうそれ以上は何もしなかった。




 鳥居をくぐったときのあたしの足取りは、やはりどこか軽かった。


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