何を捨て、何を生かすか。その選択すら僕らには許されない
真面目な学生の皆さんには少々ショッキングな内容です。
鉛色の空は、今日も雨粒を吐き出すのに忙しそうだった。
ここ数日、大体は雨で、気持ちが少しだけ憂鬱になっている。前も言ったような気がするが、とにかく部屋干しにするか外に干すか悩む作業が面倒くさくて仕方ない。
二年ほど前に親戚に貰った真っ白な傘を差して、降りてくる雨に対抗しつつ登校していると雨音に混じって柔らかい声が鼓膜を揺らした。
「おはようございます」
立ち止まって振り返ると黒い傘を差した呪祖がいた。
片手をあげながらそれに答える。
「おはよう」
「今日は一層、物鬱げですね」
「毎日人が憂鬱そうみたいな言い方しないでくれる?」
否定はしないが。
溜め息を吐いてから、回答を簡単に述べる。
「こうも毎日雨だとさすがにねぇ。季節柄仕方ないって分かってるし、雨って嫌いじゃないけど洗濯物面倒で」
「ああ、なるほど」
雨で濡れたアスファルトを踏みつけながら周防は納得したように頷いた。
……ついでのように余計な一言を付属して。
「てっきり僕は今日の魔法学の小テストについての心配かと」
顔を引きつらせる。
ぎぎっと振り返って「そんなのあったっけ」と震え声で問いかけた。周防が顔をしかめる。
「僕はあるって言われましたけど。魔法学、相瀬先生ですよね」
その言葉に頭を抱えながら記憶を探る。ああ、そういえばおととい辺りにそんなことを言われたような気がしないでもない。あと昨日の古典でもなんか言ってたような気がしないでもない。
魔法学――人間からは並外れた力を持つ生徒たちが集うこのエール霧雨学園だからこそ行われる独自授業だ。
学校が言うにはこの教科を学ぶ目的は、自分たちの身近にある力への理解を深め、応用していくため。
というなんともまぁ、将来役に立たないだろという教科の必要性を必死に訴える内容だった。
一言に魔法とまとめてはいるものの、その内容は様々だ。あたしたちのような創造主や呪祖は勿論、西洋や東洋で魔法の種類は分かれるし、そこにはいわゆる妖怪が持っている妖力も含まれる。その中でも、さらに細かく分類され、原理や発祥もそれぞれで大きく異なる。
一年生の頃、学園の生徒は『基礎魔法学』と呼ばれる授業を受け、この世にあるある程度はメジャーな魔法の種類を軽く勉強する。
二年になると『魔法学Ⅰ』に変化して、主に発祥から歴史や軽い原理の勉強をする。一種の歴史学に近い形だ。三年では『魔法学Ⅱ』となり、より詳しい部分に踏み込んでいく、らしい。
その他にも『魔法原理』だとか『応用魔法学』とか色々ごちゃごちゃあるもののそのへんの話は置いておこう。
二年生のあたしたちは魔法学Ⅰを相瀬先生に教わっているわけだが。
「今回の範囲ってどのへん?」
「魔女狩りの辺りです」
「『オルレアンの乙女』!」
「間違ってないですけどそれだけの知識だと間違いなく赤点取りますよ」
分かってらい。
魔法学の厄介なところはぶっつけ本番ではどうしようもないということだ。生まれた頃からそういう教育を施されているならまだしもあたしみたいな小学校卒業するまで魔法の存在も知らなかった上に中学の間、何一つそういったことに触れなかった一般ぷーぽーと同じような生き方をしてきた奴には辛い授業だ。
そして、恐らく同じ教師に教わっているので同じであろう今回の範囲――『魔女狩り』。
「あたし、あそこ凄い苦手なのよね……他人事のような気がしなくて」
赤信号が光っていたので足を止めながら深々溜め息を吐く。
曲がりなりにも魔女を名乗っている身としては自分も異端審問にかけられたら一発アウトなのであの時代のヨーロッパに生まれていなくてよかったと思う。
現代でも魔女狩りは一部の国で続けられている。日本は表立ってそういうことはないので魔女的治安の良さに感謝するばかりだ。
「魔女狩りは中世ヨーロッパだけの話ではありませんからねぇ」
「あーやんなっちゃう」
ぽつぽつと雨粒に傘を殴られながら周防に問う。
「でもさ、『オルレアンの乙女』は冤罪だったんでしょ?」
勿論、本当に魔力を持っていてそれを恐れられて処刑された魔女たちもいる。けれど、同時になんの魔力も持たないのに処刑された例もある。
冤罪で処刑されたことで有名なのは『オルレアンの乙女』――世界史の教科書ではジャンヌ・ダルクとなっている彼女である。
彼女は聖人で、フランスの大ヒロインではあっても魔女ではなかった。なんの魔力も持たない普通の人間だ。
賢さも美しさも、強さも兼ね備えていたあまり、周りの嫉妬のせいで、魔女に仕立てあげられて炎の中で死んでいった。そう言われている。
「一応そういうことにはなってますね。『彼女は本当に魔女であった』、そういう人も少なからずはいるようですが」
「今のあたしにとっては教科書に書いてあって、テストの点が取れることが真実よ」
信号が青に変わる。二人同時に歩き出すと周防がじゃあ、と口を開いた。
「本当に魔女だったから処刑された例は?」
「え、あー……」
こんこんカバンを指で叩きながら唸る。
くすくすと周防が笑う。
「分からないなら素直に言えばいいのに」
「違うのよ、なんかもうこの辺まで来てるのよ、なんだっけ、あのやたら可愛い名前……」
「アリス・キテラ」
「ああ、そう! アリスよ!」
後ろから聞こえてきた声にぽんと手を打ってから顔をしかめ、振り返る。
ビニール傘を差しながら今日は珍しく徒歩通学らしい我が相方が笑顔でこちらを見つめていた。
「おや、東雲くん。おはようございます」
「おっす。んで、なんで急にアリスの話?」
首を傾げる結城になんとなく苛立ちながら答える。
「今日、魔法学、テスト、範囲、魔女狩り」
「嘘!?」
「あー薄々予感してましたけど君も勉強してないんですね」
やれやれ、と呆れ顔の周防に今日ばかりは何も言い返せない。
「あと、正確にはアリスは処刑されてないですからね」
「……あー」
アリス・キテラ。ざっくりいえば夫四人を魔法で殺した美しい魔女。
金持ちの夫と結婚したせいで周りから妬まれ魔女裁判にかけられた説もあるらしいが教科書的には彼女は本物の魔女だ。
もっともアリスは逃亡してしまっているのだ。
「アリスが逃げたせいであたしたちは危うくテストの点を五点くらい落とすところだったわ」
「引っかけ問題になるなんて許せないなアリス」
「いくらなんでも理不尽でしょうそれは」
もう呆れを通り越して同情するような目で見られているような気がするが気にしない。
そう言われる理由はイングランドへ逃亡してから消息が一切掴めなくなったことと彼女の召使い……。召使い……。
「アリスの召使いって名前なんだっけ?」
「あー、あれ、あれだよ、ペペロンチーノみたいな奴だ」
「東雲くん、お腹空いてるんですか」
二人で『ペペロンチーノっぽい名前』というヒントで唸っていたら周防に冷たく言われた。さらに冷たく彼が続けた。
「ペトロニーラ・ディ・ミーズ」
「どこにもペペロンチーノなんかねぇじゃねぇか!」
「あんたが言い出したんでしょうが!」
相方を引っぱたいていよいよまずい状況だということに気付き始めて頭を抱える。
一応話を戻すとそのペトロニーラは捕まって火刑に処された。そのときに『自分は駆け出しの魔女だがアリス夫人ほどの魔女は居ない』などと述べ、抵抗することもなく刑に処された。そのことがアリスを魔女だという人が多い理由だ。
頭を抱えて息を吐く。
「もう駄目……これに加えて『魔女に与える鉄槌』とか覚えられないわよ」
「お嬢、逆に考えろ。いい点を取ろうと思うんじゃない、赤点さえ回避すればいいじゃないか」
「やっぱりあんた天才ね」
ぱちんと二人でハイタッチしながら雨の中、爽やかに諦めることが決定した。もう周防さんも何も言う気が起きないらしく黙ってこちらを見ているだけだった。
小石を蹴飛ばしながら口を尖らせる。
「そもそも魔法学なんて人生に必要ないじゃない……ペドロニラがペペロンチーノだろうがカプチーノだろうがあたしの人生には関係ないわ」
「中学生じゃないんですから。あとペトロニーラ」
「…………」
むすくれながら周防から視線を逸らす。
「嫌いじゃ、周防なんて嫌いじゃ」
「こんなことがあろうかとここに僕がまとめた魔法学のノートがあるんですけど」
「愛してます周防さん大好きです徹くん愛してるマジ有能イケメン呪祖さま」
ぎゅっと周防の手を握りしめながら意味もなくこくこくと首を上下させる。
「ほんと、あなたって現金ですよね」
呆れたように笑いながらあたしの手を振り払った周防ははい、とノートを一冊こちらに差し出した。
「よかったら。東雲くんと一緒に」
「好きだー! 周防ー!」
「はいはい僕も君らが好きですよ」
疲れたように結城にそう言う周防に「ありがと、今度お茶奢る」とだけ感謝を示しておいた。
これでなんとかなりそうだ。ほっと息をついてカバンの中にノートをしまう。
気が付けば、だらだらと校門の前までやって来ていたらしい。さっさと行くかと一歩踏み出そうとしたそのときだった。
「おにーちゃーん!」
まるで小鳥の鳴き声のような、愛らしい声にぴたっと結城が足を止めた。
お兄ちゃん? 不思議に思いながら声のした方向を見ると真っ赤なランドセルを揺らしながら花柄の傘を差した女の子がぜぇぜぇと息を切らしながらあたしたちの前に立っていた。
少し小柄な彼女は切り揃えられた前髪を押さえながら上目づかいでこちらを伺っている。
「結香……どうしたんだよ、そんなに慌てて」
彼女の元へ歩み寄った結城がしゃがみ込んで視線を合わせる。それに彼女は手元に抱えていた包みを渡す。
「お弁当……! 忘れてたよお兄ちゃん……! しかも間違えて私の白衣もってったでしょ……!」
「え、嘘」
お嬢傘持って、とばかりにこちらを見る彼から傘を受け取って差してやっている間に結城は背中に背負っていたリュックを下ろした。中身を覗き込んでから白い袋を取り出してうわぁ、と顔を歪める。
「マジかよ。ごめん、結香」
「もう……!」
弁当箱と交換で白衣を受け取った彼女はほっと安堵の息をこぼした。それから結城を睨み付け、まくし立てる。
「うちで魔法使えるのはお兄ちゃんだけなんだからやめてよね! 私たちは転送とかできないんだからね!」
「うんごめん、ごめんって反省してるって」
「そう言っていつも反省してないのお兄ちゃんはー!」
もーっと頬を膨らませる彼女に困り顔の結城だったがなぜかどことなく嬉しそうだ。凄く腹立つ。
そこでやっとあたしに傘を持たせっ放しだったのを思い出したのか「悪い」とするりとあたしの手から傘を抜き取ると立ち上がり、彼女を示した。
「あー、妹」
「は、はじめまして、東雲結香です!」
ぺこっと頭を下げる結香ちゃん。兄貴と違って随分利口でいい子そうである。
そういえば歳の離れた妹がいる、というのは結城から何回か聞いてはいたが実際会ったのは今日がはじめてだ。結城がうちに奇襲することはあってもあたしが結城の家に行くことはほとんどないし。
「あーんで、結香、こっちが周防。それとこっちが相方の」
「お、お嬢、さん、ですか?」
結城の言葉を遮って結香ちゃんがこちらに歩み寄ってくる。
ええ、と頷きながら視線を合わせる。
「はじめまして。あなたのお兄さんと呪祖退治をやってる魔女です。よろしくね」
手を差し出すとはわわと結香ちゃんは口元を押さえた。なんだ、兄貴と違って握手は嫌いなのか。
みるみる顔を真っ赤にしていく結香ちゃんは「あ、あの、私、その」
「ん?」
「い、いえ、その、す、周防さんもお嬢、さん……も、お、お兄ちゃんをよろしくお願いしますー!」
そう言って結香ちゃんは雨の中、脱兎のごとく、走り去ってしまった。
ゆっくり結城の方を振り返って首を傾げる。
「あたし何か悪いことしちゃったかしら。もしかして結香ちゃんって人見知り?」
「いや、そうじゃないんだ」
頭を抱えながら「お前の大ファンだ」とあたしを指差す結城。えっ。
「えっ」
独白と同じ台詞をこぼしながらまだ走っている結香ちゃんを見る。
「大ファン? なんで?」
「知らん。知らんけどあいつはゆるキャラとお前のファンだ」
「ゆるキャラと同系列なのあたし」
戸惑っていると「物好きな子もいるもんですねぇ」と周防がぼそっと告げた。
「おいこらどういう意味だ」
しかしそれには一切答えずに、周防はさっさと校舎の方へ歩いて行く。
「ちょ、待ちなさい周防! どういう意味よー!」
立ち上がりながら慌ててその背を追いかけた。
雨の日の下駄箱というのはこれもまた憂鬱なものである。
べたべたと泥が散らばって、大体いつも混雑する。
今日も例外ではない。わらわらと下駄箱前に群がる人外たちを遠目に見ながら数が減るのを待っていると「おっはよー!」と後ろから結城とまとめて腕を回された。
体を少しだけ前のめりにさせながら横を伺うとにかっと笑った死神がそこにいた。
「あ、おはよう、いずみっち」
「お、おっす」
「相変わらず近くに居て仲良しねーあーたがた。あ、とーるちゃんもおはよっす」
「おはようございます」
軽くあたしたちと挨拶を交わしたいずみっちは傘立てに自分の傘を放り込んだ。
仲良しといえば、と問いかける。
「リンリンは?」
「今日は蒼井っちにとられた」
先ほどまでの笑顔が嘘のようにぶすっと顔をしかめるいずみっちは「でも代わりに珍しい組み合わせで登校してみた」
首を傾げていると明るい声が響き渡る。
「ぐっもーにんまいだーりん! あいらびゅー! あなたのはにーですお!」
そう言ってツインテールをぴょんと揺らしながら現れたのは白咲恭子だった。
ああ、確かにこの二人は珍しい。あたしが感心している間に周防が吐き捨てた。
「朝からうるさい」
「またまたぁ、そんなキョウキョウが好きなくせにぃ」
「その口今すぐ閉じないと、はぎ取るぞ」
どこからともなくナイフを取り出してちらつかせる周防にぶーっと恭子は唇を尖らせた。
ったく、と気怠そうにナイフをしまってからじっと恭子を見た周防は「なんでお前そんなに濡れてるんだ」
言われてみれば恭子はやけに濡れてしまっている。ああ、と苦々しそうに自分の制服を引っ張りながら恭子は言う。
「家に置いてた傘壊れちゃったにゃん。だからバス停までは差してなくて、さっき会ったからいずみんに入れてもらっちった」
みゃはっと笑う恭子に周防は頭を抱えた。
「お前な」
「えーなになにー? とおるん嫉妬かにゃー?」
「黙れ」
そう言って恭子にハンカチを握らせた周防は掻き消えそうなほど小さな声で続けた。
「帰りは駅までくらいなら送ってやる」
その言葉に突然、耳まで真っ赤にした恭子はばっといずみっちに振り返った。
「ど、どどどどうしよういずみん……とおるんがデレてる……」
「だから言ったべ。徹ちゃん優しいから傘のこと言ったらそうなるって」
「別に風邪でも引かれたら面倒なだけですよ」
それだけ言うと下駄箱に歩いて行こうとする周防の腕を恭子は慌てた様子で掴まえた。
「で、でもでも、私今日生徒会だし……」
「僕も部活だ」
「もしかしたら最終下校越えちゃうかもだし」
「だったら校門の前で待っててやる。とにかくお前は黙って僕について来い」
周防は、恭子の返答も聞かずに彼女の腕を振りほどき、さっさと下駄箱の方へと歩いて行ってしまった。
顔を真っ赤にしながら石化する恭子を見ながら「あいつもデレるのね」なんてこぼしながら自分の上履きを取りに向かった。
その後を結城がぽてぽてとついてくる。犬か。改めてそう思いつつ、下駄箱を開ける。
ラブレターなど入っているわけもなく、ただ無造作に放り込まれている上履きに手を伸ばした。
隣で自分の下駄箱を覗き込んでいた結城がしっかし、と口を開いた。
「ああいう言葉が咄嗟に出るのがさすがイケメンだよなぁ、だからモテるのか」
「そうね、そういうことが言えないからあんたはモテないんでしょうね」
「おい俺がちょっと気にしかけてたことを言うんじゃない」
「そもそもあんたにモテる要素とか一つもないしね」
「追い打ち!」
今日も今日とて、言葉の槍で相方を弄びつつ上履きに履き替える。
雨で濡れた革靴を下駄箱の中に放り込んで、腕を組んであたしたちを待っていた周防と合流する。結城が溜め息交じりに言う。
「よっすイケメン、お待たせ」
「あんまり余計なこと言うと顔面にナイフ刺さりますよ」
「お前ほんと容赦ねぇな」
がくっと肩を落とす結城にふんと顔を逸らす周防。
そのいつも通りの様子を見ながら歩き出すと「んもー置いてかないでよー冷たいだわねー」といずみっちと恭子が小走りでやってきた。
頭の後ろにカバンを回しながらいずみっちが首を傾げた。
「あ、とーるちゃん、今日の魔法学のテスト勉強してきた?」
嫌な話題を振る死神である。
それに後ろを歩くあたしと結城をちらりと見てから周防が答える。
「なんとか。後ろ二人は壊滅ですが」
「うん知ってるから聞かなかった」
さらっと失礼なことを言ってから「白咲っちは相瀬せんせーじゃないんだっけ、魔法学」
顔を俯かせていた恭子があわわと答える。
「あ、うん……うちは日下部せんせーだお」
あーでも、と恭子はがくっと肩を落とした。
「そーいえば宇田川先生が小テストするって言ってた」
宇田川先生。主に二年生の英語を受け持っている教師で、とりあえずテストしたがるテスト大好き教師だ。彼がテストをするといったからには、彼が受け持っているクラスではほとんど同日に同じテストが行われる。
そんな彼が受け持つ英語が今日は確かうちのクラスでもあったはずだ。
実に、嫌な予感がする。恐る恐る結城の顔を見ると彼も同じ結論に行きついているのか顔を引きつらせている。
「ね、ねぇ、結城、そ、そういえば宇田川先生、先週あたりに英語の小テスト」
「シャラップ相方!」
いつもと逆の立場になってしまった。口を押えていると「もしかして」と周防が結城に視線を投げる。
「英語も全く?」
「ハハハ、俺ちょっと周防が何言ってるかわからない」
「右ストレートと左ストレートどっちがいいですか?」
「ごめんなさい全然やってないです」
周防の拳の前では嘘など無意味であった。
呆れると言うよりはもはや憐れむような視線で周防は次いであたしも見た。
「あなたもですか」
「し、仕方ないじゃない……最近呪祖退治忙しかったんだし、家事だってあるし、雨降ってるし」
「左でいいですか」
「言い訳してごめんなさい」
相方に抱き着きながら謝罪すると全く、と周防は階段に足を掛けた。
「いいですか、創造主にとって呪祖退治は大切な使命です。それは呪祖である僕にもわかります。でもそれ以前に学生なんですから少しは学業に集中してください。ましてや表向き、君たちは特待生なんですよ。白咲ですら小テスト前は勉強してるのに」
「だって悪い点取ってお説教なんてされたらとおるんと居る時間なくなっちゃうもん」
なんとも恭子らしい言い分だ。
「とーるちゃんも頭が痛いねぇ」
けらけら笑ういずみっちに周防は深々溜め息を吐いた。
「そう思うなら少し協力してください」
「無理無理。俺も勉強しないタイプだから」
「いずみっちは勉強しなくてもできるもんね」
中学の頃からそうだ。
息を吸い込んでから結城が、
「ま、まーでも英語と魔法学の小テストならなんとかなるじゃないかな。うん、多分大丈夫」
「しのしの、それ果てしないフラグ臭」
「やめてくれ白咲。自分でも気付いてる」
頭を抱える結城に恭子がけらけら笑う。くっそ、テスト一つだけだから余裕だな。
先生が違うせいで英語は周防を頼るというわけにもいかない。なんてこった。
気が付けば、教室の前までやって来ていた。がらがらと引き戸を引く。
「とりあえず足掻けるとこまで足掻いてみるわ」
「ファイトだにゃんお嬢!」
「全力は尽くすわ」
どうせ負けるなら全力で負けようじゃないか。
髪を振り払ってからそれじゃね、と手を振る。三人がそれに手を振り返しながら各々の教室に入って行くのを見送ってから、隣にいる相方と慌てて教室の中に駆け込んだ。
「さて、状況を整理します」
席に着くなり、机をくっつけてきた相方は深刻そうにそう告げる。
こくんと頷くと相方は黒板に書かれた時間割を指差して、続けた。
「今回問題になってるのは二限の英語と三限の魔法学だ。どう足掻いてもこの二教科両方でいい点とるのは無理」
「ええ。異議はない」
となれば、と相方はさらに続けた。
「せめて怒られないくらいの点数のキープが重要だ。それで、なおかつ」
悩ましそうに、結城は言う。
「どっちを優先してどっちを捨てるか、だ」
面倒くさい教科のテストが複数同日に行われるとなったら。普通学生という者はどうするだろう。
どちらの教科も事前に準備して万全の状態で備える。それが本来の、学生のあるべき姿なのだろう。
しかし、どうもそれができない学生というのも悲しいながら世の中にいるものだ。
では、できない奴らはどうするか。
複数ある教科のうちの一つを選び、残りを捨てる。
『捨て戦法』などと呼ばれる昔からあるテスト対策の一つである。複数を同時にやって知識と点数の散乱を避ける。
捨てる部分は怒られないだけのギリギリを保ちつつ、どれか一つに集中することでその一つの点数はある程度をキープする。そうすることで「これだけは頑張ったからセーフセーフ」と自分に言い聞かせ、自らを守るための戦法でもある。
本来ならこんな愚かな作戦を選ばず、二つをこなすことがベストだ。しかし、ホームルームまではあと十分しかない。そこからホームルームの間、休み時間を考えたとしても勉強できる時間は限られてくる。
自己正当したい年頃のあたしたちからしてみればどっちも中途半端になるよりは偏ってでもどれかでいい点を取った方がいい。
選択は、迫られていた。
「英語を捨てるか、魔法学を捨てるか……か。神様は残酷ね、こんな選択を迫るだなんて」
「それがこの世界のルールだよ、お嬢」
やたら神妙な顔をしながら答えてくる相方に「あんたは、どうするの?」
あたしの問いに困ったように微笑んだ結城が言う。
「俺は、お前に付き合う」
「な」
思わず立ち上がる。
「馬鹿ね結城! 自分の成績のことを優先しなさい! あなたはどこまで愚かなの!」
「俺は!」
がっとあたしの肩を掴んだ結城が重苦しく告げる。
「俺は、どっちを落としても大して変わらない……!」
「……いい意味で?」
「逆。小テストでいい点とったところで焼け石に水だ」
さらっと恐ろしいことを言って、微笑んだ相方は優しく続けた。
「それに、俺はお前の相方だぞ? 地獄の果てまで付き合うよ」
「そう。そうだったわね」
椅子に腰をおろし、その手を握りしめながら自分の頬にあてがう。
「あんたはいつでもあたしの相方で居てくれる」
「当たり前だ。俺たち、どっちかいなきゃ駄目だろ?」
「あとあんたはぶっちゃけ実技あれば卒業できるしね」
「それな」
とはいえ、あたしはそうはいかないし、結城だってこれ以上怒られるのは御免のはずだ。
さて。頭の中を切り替える。
「どっちを捨てるべき、か。あたしの成績から考えれば英語をとるのが妥当ね……いい点とっておけばあれはまだ見込みがあるし」
「得意な方を選ぶ辺り、さすがお嬢は堅実だな」
「魔法学やってたくないっていうのもある」
真顔で答えてから、あれ、と顔をしかめる。
そういえば、確か、あたしのカバンの中には……。
ごそごそと中身を漁って、一冊のノートの存在を思い出すとだらだら冷や汗を流す。
すっかり魔法学を捨てる気で、英語の教科書を取り出す相方に震え声で告げる。
「東雲くん」
「なんだい」
「ここに、周防くんから借りた魔法学のノートがあります」
「ジーザス!」
忘れてた。あいつにノート借りてた。
かたかた小刻みに震えながら言う。
「こ、これ、あれでしょ、借りといて悪い点数とったら呪祖とか関係なしに怖い周防の拳かナイフがめり込んでくる奴でしょ」
「ナイフで済めばいいさ……」
震える声で結城が答える。
「何せあいつ、柔道もプロレスもいけるんだぞ。背負い投げとかボディブローとか、ミドルキックとか」
「ひ」
「いや、それすら生ぬるいな……」
頭を押さえながら結城は「デスバレーボムの類が来たらどうにもならない」
プロレスに疎いあたしでもなんとなく知っている。デスバレーボム、相手を担ぎ上げてからその脳天を一気に地面に叩き付ける恐ろしい技。通称、『死の谷落とし』だ。あの周防が、恭子にすら使わない技だ。
当然、あいつがあたしたちにプロレス技をかけてくるのはリングなどではない。校内だ。校内の硬い床に、脳天叩き付けられるのだ。
周防のことだ。あたしたちが生半可な攻撃で死なないことを分かっている分、思う存分ぶちかましてくるだろう。
想像するだけで痛い。
がたがた震えていると両手を口の前で組むというどっかのパパンがやっていたような気がするポーズをとりながら結城に低く告げる。
「終わったな」
「ああ」
テストを殲滅できるだけの力が備わってない。逃げちゃ駄目だとか言ってる心の余裕がない。
「い、今から逃げましょうか、二人で」
「そんなことしたら周防をますます怒らせるだけだ! 冷静になれお嬢!」
周防は邪神か何かかと思いながら、恐れずにはいられなかった。
身を抱き締めながら叫ぶ。
「もう駄目よ、おしまいだわ……! あたしたちどうすればいいの!? どうすればデスバレーボムから逃げられるの!? 英語だってそうよ……あんまり悪い点だとミドルキック必至じゃない……! 捨てるなんてことはじめからできなかったんだわ! 破滅よあたしたち!」
「まだだ……まだ諦めるなお嬢!」
再びぐいっとあたしの肩を掴まえる結城に怒鳴る。
「あんただって気付いてたでしょう!? 周防は適当にやり過ごせる相手じゃないわ!」
「今日の一限はなんだお嬢!」
突然の、相方の台詞に、咄嗟に黒板を見て答えた。
「日本史……」
はっとして結城を見る。
「ま、まさか……」
「日本史の授業中に魔法学か英語を勉強する。んで、休み時間にもう片方を詰める。そうしたら時間が足りるはずだ」
「馬鹿、相手は小町ちゃんよ!」
「それでも!」
あたしを見つめながら結城が告げるのだ。
「それでもやらなきゃいけないときが、俺たちにはあるだろ」
反論できるほど、今のあたしには余裕がなかった。
本当に心苦しいことではあるが、とにかく余裕がなかった。
そうでなくとも、定期テストが年に二回しかないエール霧雨学園では小テストの比重がある程度は重い。できることなら勉強したいのは本音だ。
勉強しなかったことは自業自得とはいえ、このままは本当にまずい。
今日の日本史は本当に必要最低限だけをしよう、そう心に決めながら一限が始まるチャイムを聞いた。
がららと開いた扉から小町ちゃんが入ってくる。彼女がファイルを教卓の上に置いたのを見計らって委員長が号令をかける。それに従って礼を済ませるとばんっと教卓を叩いた小町ちゃんが高らかに言い放った。
「というわけで、今日は抜き打ちテストを行う」
何がどう、というわけなのかは分からないがあたしたちを静止させるには十分すぎるほどの言葉だった。
ちらりと時計を伺った小町ちゃんは「とはいえ、突然もあれじゃからのう。五分やる。勉強せえ」
小賢しいことは考えるな。神様からのそんなメッセージなのだろうか。
相方と視線を合わせてからそっと英語のノートをしまったあたしたちは、必死に日本史の教科書に食らいついた。
そんなこんなで。
結局小賢しい手は使えなかったものの人間というのはやればできるもんである。
半分以上取った小テストを堂々と周防に見せてやってドヤ顔していたら魔法学で相方と揃って『ペペロンチーノ・ティラミス』などというイタリアンな新登場人物を生み出していたことが判明し、たまたま居合わせた小町ちゃんに爆笑されたのはまた別の話である。
今回の話は以下URLを参考にしています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%94%E5%A5%B3%E7%8B%A9%E3%82%8A#.E9.AD.94.E5.A5.B3.E7.8B.A9.E3.82.8A.E3.81.AE.E5.B1.95.E9.96.8B.E3.81.A8.E8.A1.B0.E9.80.80
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10112134965
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%B9%E3%83%90%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%A0