君が心の底から恐れたものはなんだったのだろう
真っ白な羽の付いたシャトルが打ち上げられる。
綺麗な軌道を描いてこちらに落ちてくる。手に握っていたラケットでコルク部分を打てば、再び宙に戻って行く。
自分の方へ戻ってきたシャトルを打ち返しながら学校指定のジャージを着た結城がぼそっと呟いた。
「恐ろしく暇だなこれ」
「知ってた」
体育は種目選択式で、本当に、特に何も考えずにバドミントンを選択したところ、同じクラスで相方の東雲さんもこれを選択してくれていたらしく仲良く課題をこなすことになってしまった。
で、与えられた課題がひたすらにラリーを続けるという普通の真っ当な高校生に話したらぬるいと怒られてしまいそうな内容である。
一回シャトルを落とすごとに校庭を一周するというペナルティつきなのには優しさを感じられないが。
ほとんど機械的に手を動かし、シャトルを打ち返す。
「真面目にやらないと落とすわよー」
「正直俺ら落とさないだろ」
「まぁ、そうだろうけど」
こんな無駄話しながらでもシャトルは飛び続けるくらいにはお互い動きが分かってるつもりなのだ。
「なんか、なんか思ってたのと違うんだよ……もっとこうきゃっきゃっうふふみたいなのがあると思ってバド選んだんだよ俺は」
「悪かったわねいつものペアで」
あたしだって体育の授業中でくらい別の女の子とでもペアを組みたかった。普通の青春が送りたかった!
「こうさ、『落としちゃったごめーん』『いいよ気にしないで』『ありがとうー。東雲くん優しいんだね』みたいな!」
「落としましょうか?」
「腹切れ」
即答に眉を寄せる。
「切腹を許してくれるあたりが武将の鑑」
「俺が斬ってもいいけど」
「どのみち死ぬしかないじゃない!」
ダイオアダイとはこのことか。
それでもネットの上では穏やかにシャトルが行き交っている。
会話の内容とは少しも噛み合わず穏やかに飛び続けるシャトルを少しだけ、恨めしく思いながらまた打ち返す。
「というか、お前の授業に対するやる気のなさがこの悲しいラリーの原因であると俺は考える」
「やる気ないものはどうしたってやる気でないわよ。ゼロに何かけたってゼロなんだから」
そもそも体育という教科が昔から大嫌いなんだ。今でこそ魔法でどうにか身体能力をあげてやり過ごせているものの、元々は運動音痴もいいところだったんだから。
「こうしている間にもあたしのやる気はゴリゴリと減ってるわよ」
「つーかお前がやる気を出して何かに取り組んでいるところを見たことがそれほどなかったことに東雲さんは気付いてしまった」
緩やかな軌道を描き、ラケットに収まるシャトルを打ちながら割と失礼なことを言われたのに気が付いた。
「そんなことないわよ。あたしなんでも一生懸命こなすわよ」
「どの口が言うか」
呆れたような相方に溜め息を吐く。失礼しちゃうわぷんすか。
しかし、思ってもない怒りを心の中で表現するのは大変だ。あるはずもない感情の上塗りはくだらないことでも体力を使う。口に出す方がよほど楽だ。他人に嘘を吐くのと自分に嘘を吐くのとじゃ必要な気力が段違い。
閑話休題。こんなくだらない話ばかりするから本題が進まないのだ。
「だってあんたとつるむと基本的に八割はロクな展開にならない」
「なんだよそれ! どこ調べだ!」
「あたし」
「ちくしょうどこよりも信用できるな!」
当然だ。東雲結城という天才のせいであたし以上に被害を被ってる凡才はこの世にいないと自負している。とても悲しい自負だ。
それでも今日まで人生ハードモード(九割相方プレゼンツ)を立派に生き残ってきたあたしには勲章くらいあげてもいいと思う。
「でも文句言う割にお前相方解消しないよなー」
「報復攻撃が怖いからよ」
「お前の目に俺はどう映ってるんだ」
シャトルを打ち返してからそれには答えた。
「上様?」
「なにゆえ」
そりゃ多分強すぎるのと武器のせいだ。
というのはさすがに心の中に押し殺しつつ「なんとなく」と表面上取り繕った。
「だってあんたひとーつ、とか名乗ってる間に敵を殲滅するじゃない」
「いやさすがの俺も」
とシャトルを打ってから彼は小さな声で、
「相手によってはあり得たごめん」
「うん、あんたはそういう奴よね。知ってた」
だから都合はいいんだけど。
夏菜や周防たちを単に強いという言葉で片付けるとしたら結城はチート性能と呼んでもいいのではないだろうか。そしてそれに迂闊に近付くのは自分の寿命を縮める行為なのではないだろうか。
物凄いことに気付いてしまって頭の中が硬直していると結城の呆れた声が鼓膜を揺らす。
「なぁ、お前今結構失礼なこと考えてるだろ」
「なんのことだか分からないわ」
あたしはただ正当に東雲結城という存在を評価していただけである。
ほんの少しだけ、この間のやり取りが脳裏にちらついて舌打ちした。馬鹿馬鹿しい。
嘘くせーと笑いながらシャトルを打ってきた結城は「そりゃ、俺は強いかもしれないぞ?」
「自分で認めるのが腹立つわね」
「うるさい。強いけど実際、俺は周防のことが結構怖かったりする」
「それは認めざるを得ない」
残念ながらそうなのである。
そもそもこの世に具現化して数年すら経ってないたかだか呪祖が東雲結城と対等とまで行かずともその背を追うことを簡単にこなしてしまうことをあたしも内心ビビってたりする。
あとあいつは拳が重い。重すぎる。正直ナイフいらないんじゃないかなと時々思う。
「よかったわね、今この場に周防がいなくて。いたら今頃あたしたち揃ってぶん殴られてたわよ」
「あいつはどうして、口調は丁寧なのに思考は暴力的かねぇ」
言われてみると確かに周防は結構暴力的なような気がする。特に恭子に対しては。
冷静でいつも落ち着いてるように見えて、そのくせ、話が通じなかったら手が出るのは一番早い。カップラーメンの待ち時間はきちんと待つくせに、説得は苦手な模様。
「年がら年中ニコニコされたらそれはそれで気持ち悪いからあれくらいの方がおんなじなんだなって安心するけどね」
「まー不器用なだけだと思えば可愛いもんだが」
困ったものだとでも言いたげな結城がシャトルを打った瞬間、何かが横切ってシャトルを打ち落とした。
びくっと反射的に体を跳ね上がらせてから落ちて行ったシャトルに歩み寄った。
「え、何、何があった」
混乱した結城の声を聞きながらシャトルの羽を突き抜けて、地面に突き刺さったスローイングナイフを拾い上げ両手に乗せる。
「ふ、不幸な事故でお亡くなりに……」
「事件だ、これ!」
校舎の方を見ながら「周防さん!? 怒ってるの!? おこなの!?」と結城が叫んでいる。応答はない。
ナイフに直撃するという不幸な事故(事件)でこの世を去ったシャトルを見ながらついつい、直撃させるだなんてさすがだななどと思ってしまった。
なんて、呑気にバドミントンをできていたことが今ではすっかり懐かしい。
「なんで雨が降るんだよー」
そう不満げに口を尖らせながら相方は憂鬱そうに渡り廊下の窓から外を睨み付けた。
梅雨という季節に相応しく、雨が降っていた。元々、今日は曇り気味だったので雨が降り出すのは不思議ではないことだった。天気予報のお姉さんも今日は降水確率が高いと言っていた。
「しょうがないじゃない、梅雨だもの」
あたしの言葉にむっと分かりやすいくらい顔をしかめてから肩に引っさげたジャージの袋を揺らしつつ、結城がこちらに振り向いた。
「昨日は降ってなかった」
「あのねぇ」
腰に手を当てながら呆れて溜め息を吐く。
「昨日降ってなかったからって今日が降らないってわけじゃないし。今日のことは今日にならなきゃわかんないのよ、普通は」
「天気予報は曇りだって言ってたし」
「テレビ局を頼るより、あんた自分で未来視た方が当たるわよ」
どうしてこいつはこう、変なところで魔法を出し惜しむのだろうか。
この間の停電騒ぎのように特別強い雨というわけではない。普通の雨だ。
「また傘持ってないの?」
「……お嬢、帰り、相合傘しようぜ!」
「嫌よ」
きっぱり返すと「なんで!」と食い下がってくる。
「あたしが濡れるからよ」
「そんな自分勝手な理由で相方を裏切るのか」
「随分正当な理由だと自負してるわ」
ぐぬぬ、と悔しそうにしていた結城だったが諦めがついたのかあたしの後ろの方に視線を向けると顔をしかめた。
なんだ、どうしたと聞く前に彼は自分の背負っていたリュックサックとジャージ一式をあたしの方へと放り投げてきた。びっくりしながらつい条件反射でキャッチする。
「ちょ、ちょっと!?」
しかしあたしの話など聞く気もないらしい東雲さん。駆け出していくなり呑気に歩いてきていた男子生徒に対し、勢いのまま腕を突き出した。
彼の腕の内側部分はしっかり相手の首元を捉えていた。
ところがそのラリアットを喰らうより早く、相手はしゃがみ込んでその腕をかわしてしまった。
立ち上がりながら、当然ながら、相手は不満を述べた。
「出会い頭何するんですか君は!」
言うまでもなく、ぶちかまそうとした相手は周防徹である。
「うっせぇ!」
結城が吠えた。
「お前のせいでこれでもかとばかりに持久走やらされたんだぞ俺とお嬢は! なんだよ! 校舎から投げたナイフがシャトルに当たるってなんだよ! 変態かよ!」
「君だけは言われたくない台詞ですね」
もっともだ。心の中でそっと周防に同意しながら二人に近寄った。あたしの姿を見つけるなり、周防は軽く頭を下げた。
「どうも」
「ん。体育のときはよくもやってくれたなこの野郎」
怒りのあまり、口角をひくひくさせながらそう言えば周防はきっぱり言い放った。
「なんとなくムカついたからやりました、反省はしてません」
「反省させてやりましょうか」
「お断りします」
せっかくの更生の機会をお断りされてしまった。残念だ。
ああ、そうだ。結城に荷物を突き返しながら自分のカバンの中を漁ったあたしは奥底の方で眠っていたハンカチに包まれたそれを差し出した。
「こちらがあのとき、尊いシャトルの命を奪った凶器になります」
「ああ、ご丁寧にどうも」
包んでおいたのはあのときすっ飛んできたナイフである。
ゴミ箱に捨てるというわけにもいかないので周防に返却しようと心に決めたのだがそのままナイフ単品をカバンに入れておく度胸は持ち合わせていなかったのでこういう形での保管になった。
ハンカチだけ返してくるのでそれを受け取って、再びカバンの中にしまいこんで、やっとひと段落。
結局三人、仲よく並んで部室に向かうことになった。
頭の後ろに腕を回しながらぶーっと不満げに結城が唇を尖らせる。
「つーかなんでかわしちゃうかなぁ、俺の会心の一撃。RPGとかだと防御力無視する奴だからな」
「はいはい」
「言っとくけど俺の不意打ちかわす奴なんてそんなにいないんだからな」
そんな統計が出てしまうほど他人に不意打ちを喰らわせているのかと心配になったが、まぁあたしには関係ないことなのでぐっと堪えた。
代わりに、別の言葉を吐き出す。
「誰かが言ってたでしょ、『当たらなければどうということはない』って」
渡り廊下を抜けた辺りで軽音楽部であろうギターの音が聞こえてくる。もうすぐライブでもあるのだろうかと、行きもしないのに思いを馳せていると部室の前についたのはあっという間だった。
扉に手をかけ、一気に引くと室内から声が飛んできた。
「おお、やっと来たのう!」
思わず、戸を閉めた。
黙って、背を向け、二人を見ると結城が黙って視線を逸らし、周防も頭を抱えていた。
分かっている。彼らはあたしと全く同じことを言いたいはずだ。
あの声の主が自分から部室にいるなんてろくなことがないに決まってる。
「あ、みんなー!」
ぱたぱたと手を振りながらこちらに小走りに駆け寄ってきたのはリンリンだった。
彼女は真っ青な顔のあたしたちを見て不思議そうに首を傾げる。
「みんな、どうしたの?」
「悪魔が部室にいるわ……」
「東雲くんならそこにいるよ?」
あたしの言葉に素で返してくるリンリンにもうツッコむ余裕すらないらしい結城が深刻そうに告げる。
「今日は休み! 帰りにファミレスにでも行くぞ!」
「ですね」
「ええ、異議なし」
三人で頷き合っている間にもリンリンは頭の上の疑問符を増やすばかりだった。
しかし、現実はあたしたちを逃がしてくれるほど優しくなかった。
手で押さえていた戸が反対側からがたがたと揺れる。慌てて向き直って両手で押さえ付ける。
戸を挟んで怒鳴り声が飛んできた。
「なんで閉めるんじゃ!」
「閉めるに決まってるじゃない!」
対抗しながら、怒鳴り返す。
「小町ちゃんが部室にいるときは大抵ろくなことにならない! 絶対ろくなことがない! ろくなことがない!」
松七五三小町。我らが魔法部の顧問である教師でありながらまともに部室に顔を出さない放任主義者。
だからこそ、彼女が部室に居るときは、結城が何かを言い出したときと同等くらいの面倒なことが待ち受けているに違いないのだ。体育祭のときがいい例だ。あれは夏菜も悪かったけど。
「教師に対してなんじゃあその態度は!」
「なんだと思う? 反抗よ!」
「いいから入ってこんか、ばかもんが!」
「嫌よー! あたしはこれからドリンクバーだけで二時間ファミレスに居座るのよー! 女子高生みたいにー!」
パニックのあまり自分でもあまりよく分からないことを叫びながら押さえ付けていると今までガタガタ揺れ動いていた扉がぴたりともしなくなった。
諦めたのか、と驚いていると小町ちゃんの低い声が響く。
「そっちがその気ならよかろう。わっしもその気で行こう」
実に嫌な予感がして顔を引きつらせていると鋭い掛け声が飛んでくる。
「はあぁ!」
激しい音と共に前に倒れてきた戸に押し潰された。
ぶち当たって来た引き戸には勿論、倒れた拍子に背中を叩き付けたのが痛い。下敷きになりながら見てみると小町ちゃんがまだ構えを解かずこちらを睨み付けている。
どうせ蹴るなり殴るなりして戸を壊して来たのだろう。
「お、お嬢ー!」
ぱきぱきと拳を鳴らしながら小町ちゃんにもう無駄な抵抗はやめようと心に誓うあたしだった。
壊れた戸は魔法で直してから、改めて部室に入ると中に居たのは小町ちゃんだけではなかったことが分かった。
部室で、我が物顔で椅子に腰かけ、足を組んでいたのはコバルトブルーのワンピースを着て、サングラスをかけた美人だった。
幸いにも知っている顔だった。丹治志乃、情報科の教師だ。
人の姿に化けているだけでその正体は鶏と蛇の合成獣、バジリスク。バジリスクって雄鶏しかいないんじゃないかと聞いた先輩がみんな一週間以内に、二日間ほど行方不明になったらしいので細かいことは不明である。
人を死に至らしめるほどの猛毒を持ち、その双眸に睨み付けられるのはその毒と同じように危険である。それゆえに彼女は常にサングラスをかけて生活している。理屈は不明だが直視するよりマシになるらしい。
また、雄鶏の鳴き声が弱点らしいので朝、学校にやってくるときは大音量で音楽を流しながらやってくるのもエール霧雨学園内では有名な話だ。
そんな丹治先生は先ほどあたしが淹れた紅茶の入ったカップを傾けてから口を開いた。
「幽霊を見たの」
彼女が放った最初の一言はそれだった。
思わずあたしたちが固まっていると丹治先生は続ける。
「最近生徒たちの間で、部室棟の地下から時々音がするけど、実は幽霊がいるって噂が広まってて」
「ここに地下とかあったんだ」
ぼそっとあたしがこぼすとまぁ、と結城が苦笑する。
「基本的にここにしか来ないしな。下まで行かないから」
「別段用事もないですしね」
周防の言葉に、それもそうかと納得する。
部活棟というくらいだ。この旧校舎には本当に部室と生徒会室しかないといっても過言ではないだろう。
あとあるといえば、せいぜい一階に自販機があったような気がするくらいだが教室から渡り廊下を使ってここまで来ているあたしたちにとってしてみれば、渡り廊下に設置されている自販機で事足りるのでわざわざ下りる必要はない。
そんな、学校のいらないような気がする知識を新しく得たところで丹治先生の話に戻る。
「それで、やっぱり教師側としては確認しないわけにもいかないから見に行ったの」
「そしたら」
「……いたのよ、幽霊」
震える声で彼女はさらに、
「最初はなんてことなかったんだけど廊下の向こう側に小さな丸い光がぽつんぽつんと見えて、気になったから見に行ったのね」
ふぅ、と丹治先生が息を吸い込んだ。
「資料室の方に入って行ったからそのあとを追いかけて行ったら資料室の鍵は勝手にしまるし、中にある棚がガタガタ揺れ出すし、何かを叩くような音がするし」
「いわゆるポルターガイスト、という奴ですね」
「ぽるたーが、いーすと?」
きょとんと自分を見返す結城に周防は苦笑してからもう一度その単語を繰り返した。
「ポルターガイスト。ドイツ語で騒がしい霊です。物が勝手に動いたり、音がしたり、そういう心霊現象のことです」
呆れたような言い方に結城は頭に手を回しながら白々しく言い放った。
「あ、あー、ポルターな! うん、知ってた知ってた! ちょっとお前を試しただけだって!」
「じゃあそういうことでいいです」
さすがに周防は大人だった。
ちなみに、とリンリンが首を傾げた。
「うちの学校、幽霊の生徒はいないんですか?」
「さすがに幽霊はいないのう……」
そうだろう。見たことないもの。
「生徒の可能性はないんですか?」ともっともな質問を投げかけたのは周防だった。
「部活棟の地下室は基本的に生徒立ち入り禁止だから。入ってくる生徒がいたらわかるような仕掛けになってるし」
「それで、幽霊」
極端な話のような気もするが。いやむしろそうであって欲しいものだが。
「で、結局、僕らはどうすれば?」
「お、お祓いを……せめて正体を掴むだけでも……祟られてたら怖いとぐずぐずしてたら小町先生が……」
「意外と小心者だな、バジリスク」
ぼそっと結城が呟くとだって! と丹治先生は机に手を叩き付けた。
「もう死んでるから睨んだところで死にようがないとかちょっと意味わかんないし怖すぎでしょ!」
「というか、そもそも幽霊っているの?」
いない。そうあたしが言うより早く「残念ながらいる」と相方が頭を抱えた。
世界のありとあらゆるいろんなものが視える透視の力の持ち主である東雲結城。それが言うからには、いるんだろう。幽霊。周防が問う。
「視えるんですか、やっぱり」
「普段は視ないようにしてるんだけど念が強かったりすると視えたりする。割と怖い。俺も苦手なんだよなぁ幽霊」
あー、と机に突っ伏す相方に、あたしはここにきて、ようやく口を開く。
「馬鹿ね、結城、幽霊なんて、そ、そんな非科学的な」
かたかたと白磁のカップを握る手が自然と震える。
なみなみ注がれていた紅茶が今にも縁からこぼれ落ちそうだった。
「いや、非科学的って魔女がそれ言うかよ」
机から頭をあげた結城が今世紀で一番のスクープを見たとばかりの目でこちらを見ていた。
数秒間を開けてから彼は純粋に驚いた声をあげた。
「え、お前もしかして震えてるの?」
「ふ、震えてないわよ。これはちょっとあたしの手の中にいる闇の力が暴走しかけてるだけよ」
「中二乙」
さらっとあたしの強がりも弾き飛ばしてから「まさかと思うけど」と彼はじっとあたしを見据えた。
「怖いのか、幽霊」
がしゃん! あたしの手は勢いよくカップとソーサーを机の上に置いた。
「そ、そんなわけないじゃない! 幽霊なんてしょせん、八割は人が思い描いた想像の産物よ! 想像上の化け物なのよ! 結城が言う通り本当にいるのだとしても幽霊を見たという言葉にどれくらいの信ぴょう性があるかなんて考えるまでもないことで呪祖の方がよっぽどこわ」
「お嬢の後ろに血濡れの女の人がいる」
「いやぁあああ!」
悲鳴をあげながらあたしは勢いよく結城に抱き着いた。
椅子に座ったままの彼の肩に思いっきり顔を押し付けながら震えていると結城の手がぽんぽんとあたしの頭を撫でる。
「すまん、そんなに怖がると思わなんだ」
「ゆーきぃ……あたしたちたべられちゃうぅ……」
「食われないから、いないから。大丈夫だって」
ごめんごめんと肩を叩かれながら「お前そんなに駄目だっけ。ホラーとか結構平気だったイメージなんだけど、本とか読むし」
「作り物としてみる分には問題ないのよ……。ただ駄目なのよ、あたし、自分が視えない上にわからないものがいるっていう状況が駄目なの」
それが姿の見えない呪祖とか魔物とかだったらまだいいのだ。
ところが知識としてしか知らない幽霊となると話は別だ。中学の頃、友達にお祓い屋さんがいたので話には聞いているがしかし、実際自分で見たことないまま過ごしたがゆえに、怖い。
おまけにその祓い屋の友達には『あー駄目だわ、お嬢多分一生幽霊視えない感じ』と宣告されているのでなおさら怖い。
「じゃあ」
と、心配そうにリンリンがあたしを覗き込んだ。
「お嬢ちゃんはお留守番してる?」
ぐっと結城のワイシャツを掴んだまま静かに首を振る。
「言ったでしょう、幽霊なんてしょせん八割は想像の産物よ。人の恐怖心が見せる幻覚に過ぎないわ」
だからあたしは、実際に行って、確認して、証明しなければならないのだ。あたしの手で。
そうだ、幻覚だ。幻覚だと思えば何も怖くない。幽霊じゃない。先生が見たのは幻覚だ。
「決まったらさっさと行くわよ! グズグズしていられないわ! 学校の怪異をあたしたちの手で解き明かすのよー!」
確認するように叫びながら歩き出したあたしを見て周防が溜め息交じりに告げた。
「手と足、一緒に出てますよ」
そんなこんなで部室を出たあたしたちは部活動の励む生徒たちの声を聞きながら目的地へと向かっていた。
階段を下りながら、「んで?」と結城が小町ちゃんに振り返った。彼女はわざとらしく、不思議そうな表情を浮かべるだけだった。
「とぼけんなよ。小町ちゃんがこういう話持ってきたからには裏があるんだろ?」
「随分な言いようじゃのう、東雲」
「俺が視て喋っちゃうより自供した方が心象はいいよ、センセ」
にっと笑う結城に小町ちゃんは溜め息を吐く。その顔はどこか楽しげだった。
「まぁ、強いて言えばぎゃふんと言わせたい奴がいたから引き受けた、とでも言えばいいかのう」
「小町ちゃんのそういうとこ嫌いじゃないよ、俺」
にこにこし合う二人によく分からない奴らだ、なんて思いながら歩いていると「ところで」とリンリンがこちらに振り返った。
「お嬢ちゃん、なに持ってるの?」
「塩よ。業務用食塩。五キロ」
ほら、とパッケージを示してやると「入手ルートとか聞きませんけどなんでそんなの持ってきたんですか」と周防が当たり前のことを尋ねてきた。
幽霊が出たらぶちまけるために決まってる――出かけた寸前でその言葉を飲みこんで、代わりに強がりを吐き出した。
「塩の気分だったのよ」
「なんだよ塩の気分って」
眉を寄せながら問いかけ来た相方から目を逸らす。
「あたしは今ルンルン塩化ナトリウムデーなのよ」
「何そのしょっぱい名前。どうせお前のことだからいざとなったら塩で幽霊追っ払おうとか思ってたんだろ」
図星を突かれて、思わずぎくりと肩を跳ね上がらせる。結城は呆れたようにあたしを見つめてから、頭を抱えた。
「お前って基本的に馬鹿じゃないはずなのに時々悲しくなるくらい馬鹿だよな」
「本物の馬鹿に言われたくないわ」
ぎゅっと塩を抱き締めながら言い返す。
「実際、塩で悪いものは祓えるのかの? わっしは塩はうまいと思う。うちの妹も焼き鳥は塩派じゃ」
悪魔から衝撃の事実を告げられた。
「ちょっとおしゃれな岩塩なのに駄目かしら」
「岩塩とかあんまり関係ないんじゃないかな」
ぼそっとリンリンにとどめ刺された。ああ、凄く帰りたい。
「というか、リンリンは幽霊とか平気なのね」
思わず問いかけてみると彼女はいつもの、あの可愛らしい笑顔を浮かべたまま頷いた。
「私、一回死にかけてるし」
「つえー死神の彼女メンタルつえー」
ああ、もう本当帰りたい。
が、ここまで来た以上は引き返すことは神様、仏様が許してもあたしが許せないって奴なわけで、あっさり地下へ続く階段へと辿りついてしまった。
地下への階段の前には立ち入り禁止のテープが張り巡らされ、人を拒んでいる。恐らく魔法でもかけてあるのだろう。かすかに魔力も感じる。
「しっかし、なんで学校に地下室なんて」
結城の言葉に立ち入り禁止のテープをあっさり越えながら小町ちゃんが答えた。
「昔は色々とやっていたらしいのう。わっしも現校舎が出来てから雇われた身じゃから詳しくはないが」
置いてゆくぞー、とすたすた下りて行く小町ちゃんの背中を慌てて追いかけた。
下り切ると、構造そのものは部室がある階とほとんど変わらない光景が飛び込んできた。しかし、さすがに地下にあるせいか、心なしか湿っぽいような気もするし、何より、蛍光灯がついていても暗いのだ。
薄気味悪さを感じていると小町ちゃんがこちらに振り返った。
「これからどうするかの?」
「手分けして調べるのが早いかと。一通り見て、何もないならないで帰ればいいでしょう」
「それもそうじゃの」
周防に対し、頷いてから小町ちゃんはリンリンに笑いかけた。
「舟生、一応わっしと来るか?」
「はい!」
そう言って二人並んでさっさと適当な教室に入って行ってしまった。
そのあとに周防も黙って歩いて行く。なんだよ、なんか言えよ、冷たい奴だ。
我が相方はといえば、心配そうにあたしを覗き込んだ。
「大丈夫か、お嬢。俺と来る?」
「平気よ」
こんな精神衛生的によくないところに長居するより、さっさと調べてさっさと帰るに限る。
あたしの強がりとも、怠慢ともとれる態度に結城は心底、不安げにあたしを見るとまたあたしの頭をぽんぽんと叩くと小声で告げる。
「なんかあったら呼べよ」
「分かってるわよ」
「よーしよし、いーこいーこ」
「あんた今日あたしのこと舐めきってるわね」
わしゃわしゃと頭を撫でられて、覚えてろと心の中で吐き捨てる。
じゃあな、と結城も手近な教室へ引っ込んでしまった。
手を振り、彼を見送ってから、あたしは後悔の波に押し寄せられていた。
いくら強がっているとはいえ、一人でこんなところは怖い。怖すぎる。
というか一人になるのは、あれだ。ホラー映画的に殺されるパターンの奴だ。
それに気付くと、益々恐怖心が膨れ上がり、あたしはぱちんと手を叩いた。
「五号、いらっしゃい」
ぱっと現れた蝶はひらりとあたしの肩に留まった。
「お呼びでしょうか大佐」
「何もしてくれなくていいわ。あたしの話し相手になって」
「イエスマム」
そう言ってまたふわりと五号は宙に飛び上がった。
この子たちと話していれば多少気は紛れるだろう。五号を選んだ理由は単にこの場で一番頼りになりそうな性格をしているからである。
仕方ないので大量の岩塩を抱えたまま、あたしは歩き出した。そのあとをきちんと五号もついてくる。
話し相手になれ、と言った割には話題が思い浮かばなかった。迂闊に幽霊の話なんてしてますます震えあがってては仕方ない。結局、沈黙の中、あたしの足音が響き渡るだけだ。
生真面目な五号はそれが許せなかったらしく、声が聞こえてきた。
「きょ、今日はいいお天気ですね」
「このタイミングで天気の話題振ってくるって凄いわねあんた」
「はっ、申し訳ありません!」
物凄い勢いで謝ってくる五号に苦笑する。
「いいわよ、別に。あとここ窓がないから分からないと思うけどね、上ね、雨」
「五号ガッカリ」
「あんたたちなんでそういうよくわかんないこと言うの」
「大佐に似たと思われます」
「きちんと答えんでよろしい」
溜め息を吐きながら誰も入っていない教室の引き戸に手を掛けた。
ぎぎ、と歪な音を立てながら開いた戸の中にある電気をつける。ぱっと灯った蛍光灯に照らされて、室内の様子が浮かび上がってくる。
狭苦しい部屋だった。一応片付けがしてあるらしく、段ボールが奥の方に積み上げられている。蓋を開けて、覗き込んでみるとトレーやカメラのフィルムが詰め込まれている。
写真暗室だったのだろう。こんな部屋まであったのかとうろうろ見渡していると写真が一枚、机の上に置かれているのに気付いて拾い上げた。
客室乗務員の写真だ。
「スッチーだ」
「それは死語では?」
「マジで?」
そういえば最近聞かないなとは思っていた。
スッチーの写真を箱に戻してからどうしようか考えていると、それは唐突に起きた。
背後からがらがらという音が聞こえたかと思うとがちゃりと施錠されたらしい音も続いた。
顔を引きつらせながら恐る恐る振り返ると、開けっ放しにしていたはずの戸が、勝手に閉まっていた。
「嘘でしょ……」
慌てて戸に手をかけて、横に引くも、びくともしない。そりゃ鍵がしまってるからなと、鍵の方に手を伸ばし、開けてみるもすぐに鍵がまたかかる。
「なんで!? なんでこうなるの!? なんでよりによってあたしなの! 結城とか周防とか小町ちゃんとか結城とか東雲とか結城とかいるのに!」
「た、大佐! 落ち着いて!」
ばんばん戸を叩きながら必死に叫ぶものの幽霊さんには何一つあたしの心情などご理解いただけなかったらしく、今度はぱちぱちと蛍光灯がついたり消えたりを繰り返した。
さすがにこれをあたしの恐怖から生み出した幻覚と考えるのは難しい。すっかり力が抜けて、その場にへたり込みながら顔の前で岩塩を構えて小刻みに震える。
「しゃ、シャレオツな岩塩あげるから許してください……!」
「大佐! 許しを乞うのはまだ早いであります!」
勝手なことを言ってる蝶に「ななな、なんとかしてよ五号……」と情けなくこぼす。
「いや、さすがに自分も専門外であります。そうでなくとも自分は弱い方ですし」
「もうだめだぁ、おしまいだぁ……」
項垂れながら絶望していると五号が「ですが」と話を続行してきた。
「七号殿であれば、あるいは」
――七号。
あたしの呪祖としての力を純粋に受け取った、あたしが使役できる面子の中で一番強い奴。
そうだ、あいつがいた。この際馬鹿にされるとか腹が立つとかそんなのはどうでもいい。気持ち悪いとかウザいとかどうでもいい。
「七号!」
手を叩き、救世主になる得る彼女の名を呼んだ。
ところが、普段は呼んでないときにすら勝手に出てくる出しゃばりが、今日に限っては出てこなかった。
「あれ、七号!?」
ぱんぱんと手を叩く。やっぱり七号は出てこない。
その間にもポルターガイストはまだ続く。しゅん、と風を切り、あたしの真横を通って何かが壁に突き刺さった。
ハサミだった。
「いやぁあああ七号ぅうう!」
ぱんぱんと鳴らし続けても出てこない。芸がないから気に入らないのかとただ叩くのをやめて三三七拍子で叩いてみても出てこない。
混乱に陥っているとやがて、申し訳なさそうにふわりと現れたのは一号だった。
「一号!? 七号は!?」
「そ、それが」
おろおろした一号は掻き消えそうな声で、恐ろしいことを言い放った。
「ナナ姐さん、『わたくし実家に帰らせていただきます! 帰らせていただきます!』って動かなくて。ここにきたときから」
「あいつの実家はどこにあるのよぉおお!」
他の連中なら、どんなに当人が拒否しようとあたしが呼び出せばこの場に具現化できる。
しかし、七号だけは、力があるせいであたしの呼び出しを時々拒否する。逆を言えば、あたしの隙を突いては指示を無視して具現化もする。
とはいえ、あいつは出しゃばりだ。普段なら滅多に拒否もしないのに、と考えてからある結論に至る。
彼女も怖いのだ。幽霊が。
無理もない。考えればすぐに分かったことだ。
七号と他の連中の決定的な違いは能力よりも、形成の背景だ。他の連中はあたしの魔力をあたしの意思で創り出し、個々の意識を持っている。ある程度の共有はあっても、あたしとは似たり似なかったりだ。
ところが七号は、言うなればあたしの呪祖としての魔力そのものなわけで、もっと言えばあたしの『感情』から生まれた。
当然、あたしと同じことを考えることの方が多い。結城を欲するのもそう、結城が憎いのもそう。
幽霊が怖いのも、そう。
「なんで中途半端にあたしにそっくりなのよあんたぁぁあああ!」
あたしの中で震えているのであろう呪祖に吠える。
最後の頼みを失った。あたしの魔法じゃ幽霊相手にはどうにもできない。
追い打ちをかけるように次々と、部屋の中に置いてあったものが襲い掛かってくる。
「物理攻撃が利かないのに物理攻撃ができるなんてずるい!」
そんなようなことを喚きながら飛んでくるものをとにかく鎖で打ち返した。
トレー、クリップ、分厚い本。どれか一つでも喰らって気絶したらバッドエンドに違いない。
誰か来てくれないかななんて思いながら必死に戦っていると空になった段ボールを打ち返したところで途端に、空中で浮遊して待機していた物体たちがごろごろと地面に落ち始めた。
え、と何が起こったのか理解できないでいると「大佐! 段ボール!」
先ほど打ち返した段ボールの方を見るとごそごそと動き回っている。ほとんど反射的にそれを地面に押さえ付けた。
どういうことだ。幽霊が段ボールで捕まるなんて話、聞いたこともない。
頭の中で疑問符を浮かべているとあたしの腕の中にある段ボールはごとごとと暴れはじめた。
中で何かが暴れている。では何が。
あたしを引きずったまま暴れ狂う段ボール。勢い余ってあたしが背中から壁に衝突した。
「いってぇな……!」
それでも相方が諦めの悪いことに定評のあるあたしは必死に食らいついた。そんなあたしを振り落とそうと段ボールもますます激しく暴れはじめる。
左右に揺れ、それが無駄だと分かるや、ぐるりと回転し始める。遠心力とは恐ろしいものであっという間にあたしが振り払われ、今度は机に激突した。
あたしが離れたことが分かったのか段ボールがふわりと浮遊する。
で、また地面に叩き付けられた。
「とった!」
そう言ったのは相方であった。
彼は勢いよく段ボールをひっくり返すと蓋を閉め、出所不明のガムテープできっちり封じ込めた。その上に自分の刀を置いてから、やっと倒れ込んでいるあたしに視線をよこした。
「お嬢、大丈夫か」
「だ、大丈夫じゃないわよぉおお……」
「大佐ぁ!」「おっじょ!」
五号と一号が寄ってくるのを見ながら「ありがとう、一回戻って」と手を叩き、消滅させる。
刀が重いのか段ボールはがたがた揺れるだけで浮遊はできないようだった。
「やっぱり岩塩じゃ駄目だった」
「だろうな」
結城が苦笑する。
「す、凄い音がしてたけど大丈夫?」
ひょこっとリンリンがこちらに顔を覗かせた。その後ろには周防と小町ちゃんもいる。
「なんとかね」
そう返して、痛みを押し殺しながら体を起こした。
つつ、と背中をぽんぽん叩いていると「それ、なんなんですか」と周防。
「幽霊騒ぎの正体、ってとこだな」
周防にそう答えた結城は上に置いてあった刀をどかし、そっとガムテープを外してから勢いよく中に手を突っ込んだ。
何かを捕えたらしい腕が段ボールの中から出てくると、あたしは目を見開いた。
彼の指には昆虫のような薄い羽が挟まれていた。透き通っている青白い美しい羽だった。
「ハナセ! ハナセ!」
しかし、その羽の持ち主は、トンボでもなければ、そもそも昆虫でさえなかった。
青白い肌。青い衣を着た胴体があってそこから細長い手足が二本ずつ伸び、それをじたばた上下させながら抵抗を試みている。ついでに甲高い声をあげながら。
胴体の上に顔もある。爛々と輝く瞳、鼻、口、精巧につくられた可愛らしい人形のようだ。さらに燃えるように真っ赤な髪をたっぷりと左右に広げていた。
そう、少女の姿をした十五センチほどの何かが、そこにはいた。
小町ちゃんには心当たりがあったらしく、腕を組みながら呆れたように呟いた。
「なんじゃ、ピクシーの仕業だったんか。つまらんのう」
「パクチー?」
「ピクシー」
聞き返した言葉を結城にすぐさま否定され、思わず黙り込んでいると彼は続けた。
「妖精だよ。それもかなり悪戯好きな」
「こんなに可愛いのに」
じーっとリンリンに見つめられて、ピクシーはぷいっと視線を逸らした。
それを見た結城は自分の顔の目の前までピクシーの体を持ち上げると彼にしては珍しく、低く言い放った。
「分かってんのか妖精オラ。このままお前のことを瓶詰にして妖精売りにでも譲ってやってもいいんだぞ」
「ヒッ」
びくっとピクシーが肩を跳ね上がらせてから、イヤイヤと首を左右に振る。
その反応に、いつもの人のいい(またの名を馬鹿っぽい)笑顔を浮かべると結城は、今度は柔らかく告げる。
「んじゃ、もうここで悪さするな。そしたらここに居てもいいから。約束できるな?」
こくこくとピクシーが頷いた。よし、と結城はピクシーの羽から手を離した。
ふわりと、浮かび上がったピクシーはなぜかじっとこちらを見据えたまま動こうとしなかった。結城が首を傾げると彼女はぱくぱくと口を動かした。小さい声で喋ってるのかピクシー語か何かか。
あたしにはさっぱりだったが、結城には理解が出来たらしく、ああ、と相槌を打ってからこちらに振り返った。
「誰か食べるもの持ってねぇ?」
「どうして?」
リンリンのもっともな問いに結城はピクシーを示しながら答えた。
「こいつが腹が減ってるんだと」
「シャレオツな岩塩ならあるわよ」
ほら、と手元の袋を示すと胸の前でバツを作りながらピクシーは勢いよく首を振った。いくらあたしでも拒否されたのは分かった。
うーんとリンリンが自分のカバンを漁ってからあ、と声をあげた。
「茎わかめならあったよ」
「なんでそのチョイスなんですか」
「うーん、茎わかめの気分だったから?」
どこかで聞いたような気がする言い訳をしながら袋から本当に茎わかめを取り出したリンリンはどうぞ、とピクシーの前に差し出した。
てっきり、クッキーとか、林檎とか、ホイップクリームの類でも期待していたのであろうピクシーは一瞬絶望的な表情を浮かべてからしかし、空腹には勝てなかったらしくその小さな手でわかめを受け取っていた。
「アリガト」
それだけ言って、今度こそピクシーはどこかへふよふよ飛んで行った。
何気にちゃっかり、自分まで茎わかめを貰っている小町ちゃんはもごもご口を動かしてからこくんとそれを飲みこんで、一言だけ「戻るかの」とつまらなさそうに言い放った。
無論、反対の意思を示す者はいなかった。廊下に出て、階段に向かって歩き出すと胸を押さえながらリンリンがしみじみ、といった風に言った。
「でも幽霊とかいなくてよかったねぇ」
「……いや、いないってことはなかったんだけどな」
ぼそっと結城がよく分からないことを言っているので勢いよく彼の顔を見返すと「なんちゃって」とだけ笑われた。
彼の言葉がたちの悪い冗談なのか、本当のことなのか知りたくもなかったのであえて深くは踏み込まず、髪を振り払う。
「言ったでしょ、幽霊なんて八割はただの思い込み。本当に怖いのは人の心で、いると思うからいるように見えるだけなのよ」
「どの口が偉そうにそういうこと言うんだか」
つん、と突かれてうるさい、とその手を振り払う。
久々に、結城を本当に頼もしいと思った。素直に言ったら負けのような気がするので何も言わないけれど。
ああ、そういえば。そう言って前を歩いていた周防が振り返った。
「幽霊がいるなら宇宙人もいたりするんですか?」
唐突な周防の質問にきょとんとしてからおかしそうに笑った結城は「さあ」とわざとらしく肩をすくめた。
「どうだろうな。うっかり言っちゃうと謎の組織とかから追われそうでこえーわ」
それからいたずらっ子のような笑みを浮かべて、続けるのだ。
「でも、お嬢が部室に戻ってとびっきりうまいケーキと紅茶を用意してくれたら話すかもな」
「なんじゃそら」
すっかりいつもの調子の結城に、あたしは周防と顔を見合わせて、苦笑したのだった。