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創造主な僕たちは華麗な日々しか創れない  作者: 黄昏月ナツメ
一学期:僕たちはまだ夢の中で。
15/36

ファインダー越しの隣の芝

 ぎちぎちとゴムが引っ張られる音がした。

 水のペットボトルを一生懸命机の上に置いたあたしが次に聞いたのは勢いよく空気が流れ込む音とその空気に押され、伸びていくゴムの音だ。

 意を決し、振り返ってみると相方が赤い風船に空気を流し込んでいる最中だった。その後ろでは椅子に座ったリンリンが中途半端に膨らんだ風船をくわえたままで足をじたばたさせている。

 この風船という奴が、どうやら一般的な球体のものではなくて、バルーンアート用の細長い風船だった。

 なぜそんなもんを全く無関係な部活動に持ち込んでいるのかという疑問はこの際放棄して、何をするつもりなのかと彼を見つめていると結城は膨らませ終わった風船の端を結び、きゅるきゅると等間隔で捻り始めた。

 そのやたら慣れた手つきに何が出来上がるのかと淡い期待を寄せながら椅子に腰かける。

 あたしに気付いた結城がなぜか顔を引きつらせた。

「あ」

「うん?」

「ええっと」

 等間隔で捻った風船をあたしに押し付けると「はい、えっと、その、ウインナー……?」

 思わず顔をしかめた。

「あんた、作れないのにそれっぽく捻ってたの?」

「うっせ」

 拗ねたように視線を逸らす結城に呆れながら捻られただけのよく分からないものを机の上に置いてから尋ねる。

「つーか、そもそもなんでバルーンアート?」

「貰った」

 そう言って、結城が指し示す先には箱に詰め込まれた風船がある。

 入手先がどこからなのか聞くと面倒くさそうなのであえて触れないことにして、投げ出されていた風船の袋を拾い上げる。袋にはお約束のプードルの作り方が説明されている。

 これくらいならなんとかならないだろうかと袋の中からまだ膨らんでいない風船を一つ取り出す。

「見てなさい結城、あたしが超難関と言われるプードルを作ってバルーンアートとはなんたるかを見せてあげるわ」

「言ったなこんにゃろう」

 結城の言葉に特に返事はせずに、風船を口にくわえた。

 まだ格闘中のリンリンと一緒に風船の中に空気を吹き込むもこれがどうしてか、なかなか膨らまない。酸素不足でくらくらする頭を抱えてから風船を引き伸ばし、また空気を吹き込む。

 今度はなんとか膨らんだ。そのままありったけを全部をぶちこむイメージで空気を送り込むと、細長いそれがようやく膨らみ終わった。

 リンリンは自分には無理と悟ったのか結局膨らまなかった風船を握りしめたまま机に突っ伏している。風船の端を結びながら問う。

「大丈夫?」

「ううー空気が足りないよぉ」

 元々虚弱な彼女だから仕方ないと言えば仕方ない。

 よしよしとリンリンの頭を撫でて、袋の裏側のレシピに向き合う。九センチくらいのところで三つに捻れとの指示が一番最初に書かれていた。

 これくらいなら楽勝だ。結城にだってできたんだからあたしにだってできる。魔法関連のことならともかく、手先の器用さなら女子であるあたしが上に違いないんだから。

 特に理由のない自信に包まれながら膨らんだ風船で、大まかに九センチを見てからそこを捻ろうと手を回した。

 手にゴムがこすれ、きゅっと嫌な音が響く。びくっと肩を跳ね上がらせてからカタカタ震えた。

 怖い。めちゃくちゃ怖い。何これ凄い怖い。

 いつ破裂するかも分からない恐怖に襲われて、その場で動けなくなる。

 それに気付いたのか相方がにやにやこちらを見つめてくる。

「どうしたお嬢、俺にバルーンアートとはなんたるか見せてくれよ」

「う、うっせ!」

 できる。大丈夫だ、お前は簡単に破裂するタマじゃない。

 心の中で風船を励ましながら出来る限り胴体から風船を離し、ゆっくりと捻る。

 励ましの甲斐あって、かどうかは定かではないがなんとか一つ目の塊が出来上がった。これならできる気がする。

 調子に乗ったあたしは二つ目は特に躊躇いなく捻りあげた。

 楽しくなってきた。胴から離していた風船をいつの間にか近くに寄せながら三つ目を捻った、まさにそのときだった。

 無理やり捻られ、内側で空気が溢れかえった風船はまるで呪祖を生んでしまうそのときのようにぱぁんっと派手な音を立てながらあたしの手の中で破裂した。

 大きな音で驚いたのと、地味に調子に乗っていたせいであたしの中に走ったショックは大きかった。ぷるぷると手が震え、ただ破裂して、空気が抜けて情けない形になった風船を見つめることしか出来なかった。

 少しだけ放心してからはっとして相方の方を振り返ると相方が「いいんだよお前は頑張ったんだよ」と言わんばかりの優しい表情でこちらを見ていた。

 動揺を隠し、破裂した風船を机の上に置いてから息を吸い込み、髪を振り払う。

「あたしほどにもなると作りかけのプードルが狂犬病にかかって死んじゃうなんてこともたまにあるのよ」

「予防注射しろよ」

 きっぱり言い放たれて「うるさいわね」ともう一つ手に取った。

「仕方ないじゃない、バルーンアートなんてはじめてやったんだから」

「うん、薄々そうじゃないかなとは思ってた」

 意識していたわけではないのだが引き伸ばしながらくわえた風船が結城のくわえていた風船と同時に膨らんだ。ついそちらの方を見ると結城がなぜかやたら嬉しそうにしている(ような気がした)のでとりあえず一発蹴り込んでからまた空気を送り込んだ。

 めいっぱい空気を溜めこんで膨れ上がった風船の端を結んでぺしぺしと結城を叩く。

「自分の能力のなさを実感するわ、悲しい」

「なんで俺をぺちぺちする」

「でも、バルーンアートって実際やってみると難しいよね」

「舟生、話題を振る前にこいつを止めてくれ」

 しかし、残念ながらリンリンはあたしへの制止の言葉ではなく話の続きを始めたのだった。

「まだ入院してたときにね、バルーンアートを作ってくれるお姉さんが病院に来てくれて自分もやってみたいなぁって思ったんだけど今でも全然」

 えへへと笑うリンリンに「そうよねぇ」と相槌を打つ。

 その間に膨らまし終えたのであろう風船で結城が反撃に転じてきた。結果、ぼふぼふと風船で殴り合うという奇妙な光景になってしまった。

 それを見て、何を思っているのかやたらにこにこしているリンリンを放っていると「何してるんですか」とどこか困惑した風な声が鼓膜を揺らして来た。

 声の主は今日も腹が立つくらいイカした色男、周防徹である。

 どうせ部活に遅刻の理由は恭子なのだろうがそれを指摘すると確実にあたしの体は世の中のありとあらゆる法則を捻じ曲げた動きによって痛めつけられるに違いないのだ。

 時間に厳しくない部活なので特に言及もせずに「戦よ」とだけ答えておいた。

「低レベルですね」

「この戦いのレベルの高さを理解できないなんて周防もまだまだだな」

「ああ、じゃあまだまだでいいです」

 あっさり冷たいことを言い放って、辺りを見渡した周防は「なんでバルーンアートなんですか」と先ほどのあたしと似たり寄ったりのことを言い出した。

「貰ったんだよ」

「はぁ……」

 結城の返答にやっぱり納得できなさそうな顔をしつつ、一つ手に取って膨らませていく。

 やることもなければいい加減この戦いにも飽きたのでその場でしゃがみ込んで机に頬をくっつけながら彼の手元を見つめてみることにした。

 しぼんだ部分を残したまま端が結ばれた風船が周防の手によって捩じられていく。

「ウインナーとか言うのはネタかぶりよ」

「言いませんよ、そんなくだらないこと。小学生じゃあるまいし」

 あんたの隣で落ち込んでいる高校生はそんなくだらないことを言っていたが。

 きゅっきゅっとゴムを擦らせながら長かった風船はどんどん形作られていく。少し待っていると「はい」と周防の手から離れたそれが机の上で立っていた。

「トイプードル」

「え、なにあんた凄い」

 確かにそこに立っていたのは青い風船で作られたトイプードルだった。

 結城もまるで小学生のようにきらきらと目を輝かせながら「呪祖すげぇ!」とかよく分からない褒め言葉を述べている。わあ、とリンリンも口を開いた。

「周防くん器用だねー」

「見よう見まねでできるものですね、意外と」

「え、なに、そのまるではじめてでしたと言わんばかりの言い方」

「はじめてでした」

「……完全に呪祖になったらあたしもバルーンアートできるようになるかしら」

 心底真面目にあたしが悩み始めたことを察したのか周防が苦笑する。

「その様子だと失敗したと」

「違うわ、不幸な事故があっただけよ」

 深々と溜め息を吐いて誤魔化すと結城が机を叩きながら嬉々とした口調で、

「他は!? 周防、他のは!?」

「いや、作り方知らないんですよねぇ」

 そこでリンリンが勢いよくスマホの画面を周防に見せた。

「周防くん! クマ! クマがいいよ!」

「……今検索かけたんですか?」

 若干引き気味になりながら画面に目を落とした周防は、やがてまた一つ、風船を手に取ると膨らませた。

 不思議なもので、何ができるのか分かっていても目の前でやられるとついつい視線が向いてしまう。まだ机に頬を預けたままその様子を眺めていた。

 彼の手元の緑色の風船のどこがクマのどのあたりに当たるのか皆目見当もつかないが迷いなく作られてる辺りを見るとやはりこの呪祖、先ほどちょっと見ただけで作り方を理解したらしい。それは親の頭がいいからか、それとも呪祖だからか。後者ならあたしにもワンチャンあるのだろうか。

 とか、そんなくだらないことに思いを馳せているうちに風船に当てていたペンを離し、彼がぽんと机の上に出来上がったものを置いた。

 クマだった。胴体まできちんとついた、紛れもない風船のクマだった。

「あんた、ほんと凄いわ……」

「恐縮です」

 肩をすくませ苦笑する周防に「今の周防ならなんでも作れる気がする」と結城がよく分からないことを言い出した。それに反応したのはリンリンだった。

「じゃあ思い切ってフグとか行く?」

「楽しそうですね二人とも」

 助けろとばかりにこちらを見る周防に知らないわとだけ目で返す。あたしはいい加減、紅茶を飲みたいんだ。

 やっと立ち上がろうとして、足に違和感を覚えて顔をしかめながらまたふにゃふにゃとその場で崩れ落ちる。結城が驚いたようにこちらを見た。

「どうした」

「足が、痺れた……!」

「ほう……」

 ぺたんとお尻を落としてその場で座っているとじりじりと結城が近づいてくる。

 嫌な予感がして顔を引きつらせているとしゃがみ込んだ彼はあたしの足に視線を落とした。目を細めた結城は「右か」とぼそりと告げる。

 びくっと肩が跳ね上がる。どうしてか、わざわざ説明の必要もないだろうが、痺れている方の足を見事に言い当ててきたからだ。二分の一だから偶然、という可能性も普通なら考えるがいや、こいつに限ってそれはないだろう。どうせ透視だ。

 それより、なんでこんなくだらないことに透視の力を使ったのか。うっすら予想ができるのが悲しい。

「あ、あんた、やめなさいよほんとに」

「おりゃ!」

 あたしの言葉も虚しく、彼の手があたしの右足を突いた。瞬間、口から情けない声がこぼれる。

「うひゃあ!?」

「ははは! 反撃できないお嬢など恐れるに足らずだ!」

「この卑怯も……あ、ちょ、手を伸ばさ、んひゃあ!」

 思わず体をねじりながら首を左右に振る。足からせり上がってくる痺れがこの上ないほど気持ち悪くて、声を出さずにはいられない。

「反撃できなくて悔しいのう? 悔しいのう?」

「こ、こんの……!」

「ここか? ここがええのんかー!」

「あ、そこはマジだ、ああああ死ぬ!」

 悲鳴交じりに声をあげ、叫びすぎて溢れだして来た涙を指で拭う。

「なんていうか、本当に争いが低レベルですよね」

「まぁ、殺し合いとかじゃないならいいんじゃないかな」

 よかない。いっそ殺してくれ。

 周防とリンリンの勝手な台詞に心の中だけで反論していると「失礼しまーす」とノックとほとんど同時に部室の扉が開いた。

 アホな誰かさんの攻撃のせいでまだせり上がってくる痺れに耐えながら視線を向けると入口付近で突っ立ったままきょとんとしている女生徒と目があった。

 キャラメル色の髪をぴくりともさせず、ただただ動揺で目を見開く彼女はいっそ不自然なまでに成長した胸の前で手を合わせながらなぜかあたしと結城に視線を向けて顔を赤くしていた。

「あれ、綴ちゃん、どうしたの? 珍しいね」

 綴・デル・オルノ。自分の名前を呼ばれたバレー部キャプテンは「え、あ、その」とおろおろしてからやがて、

「え、えっちいのはよくないと思います!」

 と両手で顔を覆ってしまった。

 ああ、そういう誤解を受けてしまったのか。大変、不愉快だ。黙って結城を指差してから鎖に相方が宙吊りにされるのを見て「違うわ、ちょっと不覚を取っただけよ」とだけ言い放ち、なんとか立ち上がった。




 やっとの思いで淹れた紅茶がカップの中から湯気を吐き出した。

 綴が落ち着かない様子でそわそわしているのを一瞥してから「あんた、いつまで拗ねてるの?」と拘束を外してやったにも関わらず、椅子の上で体育座りを続ける相方に問いかける。

 彼は顔を俯かせたままぼそぼそそれに答えた。

「お嬢が反省するまで」

「なんであたしが反省するのよ。そもそもあんたが悪いんでしょうが」

「だからってガチ拘束しなくてもいいだろ!」

「東雲くんはタルトはいらないのかしら」

「ごめんなさい!」

 早かった。やはり食べ物の力は偉大である。

 取り出した苺やキイチゴ、ブルーベリーがたっぷりのったタルトに包丁を入れているとリンリンがやっと本題に踏み込んだ。

「それで、どうしたの綴ちゃん。何か相談?」

「あー、うん、まぁ、そうなんだ」

 そう言って綴はごそごそとポケットから可愛らしい封筒を一つ取り出した。

 包丁を置いて、机の上に躊躇いがちに置かれたそれを拾い上げると開いて中を見る。他の三人もすすすっとこちらに寄ってきてあたしの手元を覗き込んでいた。

 中に入っていたのは写真だった。

 登下校や部活風景、授業中、あるいは食事中。場面は様々だったものの、その全てに綴が写っていた。

 これがどうしたんだと問う前に彼女が教えてくれた。

「それ、更衣室の前に落ちてたんだ」

「更衣室の前? なんでだよ?」

 眉を寄せる結城に「私だってわかんないけど」と綴は目を伏せた。周防に写真を預けてケーキを取り分けているとまだそれに目を落としたまま彼が言葉を投げかけた。

「綴さんはこの写真に覚えがないと」

「うん。誰かに撮られてたって自覚、ないんだよね」

「じゃあ盗撮ってこと?」

「多分……」

 リンリンの言葉に歯切れの悪い言葉を返す綴は悩ましそうに溜め息を吐いた。

 そんな彼女の前にタルトを出してやると自分はカップに口をつけ、横目で写真を伺った。

 確かに机の上に並べられた写真の中でただの一度も、彼女がカメラの方を向いている写真はない。彼女の自然な風景をそのまま切り取ったような写真だ。それに壮絶な違和感を覚えていたがそういうことだったのか。

 口いっぱいに広がるダージリンの上品な香りに思いを馳せず、そんなことを考えているとタルトにフォークを入れながら綴は悩ましそうに告げる。

「どーして私なのかなぁ」

「どうしてって」

 苦笑しながら彼女を見つめる。

 大きな胸にきゅっとしまったウエスト、おまけに高身長で顔もそれなりにいいときてる。いわゆるモデル体型という奴である。

 夏菜ほどではないにせよ、彼女にもそれなりの数のファンがいるとは聞くし、こういう被害に遭うのは別段不思議なことではない。

「ほーはとーはつはんふぉふかまへればいいひゃろ?」

「結城、食べ終わってから話して。行儀悪い」

 まだ口をもごもごしながら話を進めようとする結城を叱りつけると彼はごくんとタルトを飲みこんでから改めて言い直した。

「要は、その盗撮犯をとっ捕まえればいいんだろ?」

「うん、そうなの」

 こくんと頷いた綴は「やっぱり、ちょっと、ね」とタルトを口に運んだ。

 そりゃ盗撮となればいい気はあまりしないだろう。薄気味悪い、と思っても仕方ない。

 周防がやんわり問いかけた。

「何か心当たりは? 例えば、しつこく言い寄ってくる人がいるとか」

「うーん、どうだろう……。私の周り、みんな、こんなことするとは思えないし」

 悩ましそうに唸る綴はいつの間にかすっかり空になった皿とカップを綺麗に並べてから「ごめんね、これから練習なんだ。なんかあったら連絡するから」と立ち上がった。

「ええ。分かった。こっちは任せておきなさい」

「頼んだ」

 ぱちんと手を合わせてから「ご馳走様。またね」と扉を開いて歩いて行ってしまった。

 ばいばーいとリンリンが手を振って彼女を見送るのを見てから椅子に腰を下ろして改めて写真を見つめる。

「全部学校ね」

 写真の中の綴は、全て学校の中にいる。時間帯こそバラバラでも、写真にある共通点は綴が写っていいるというもの以外はそれだった。

 ぼそっとこぼしたあたしの呟きに周防が反応した。

「ええ。外部の人間、とはあまり考えられませんね」

「外部の人外ならあり得ない話じゃないけどね」

 小さく返してから「盗撮犯ってどうやって見つければいいのかしら」

 呪祖のようになんかこう、僕盗撮犯ですと分かるようにしてくれてるとありがたいのだが。

 これから絞って行かなければならないと思うと非常に憂鬱だ。めんどくさくなってきたとも言う。

 あたしが少なからずな面倒を感じ取っているのに気付いたのかつんつんと結城が頬を突いてくる。

「そんな顔すんなよ。あとおかわり」

「自分でやって」

「ケチ」

 立ち上がり、タルトを一切れ自分の皿の上に確保する結城。

 それにはお構いなしで「周防くんは盗撮犯の見つけ方とか知らない?」

「なんで僕なんですか?」

「んー、恭子ちゃんとかも盗撮されたりするのかなって」

「…………」

 顔を引きつらせる周防のことだ。どうせ恭子のストーカーなりなんなりを殴り飛ばした経験が一回くらいありそうなもんだがそれを聞きだすにはあたしのライフを一つ犠牲にしなければならなさそうなので別の方法を考える。

「やっぱり、綴の傍にいるのがいいのかしら」

 結論はあっさり出た。

 これが一番手っ取り早そうだ。彼女を写真に収めるために綴の付近にいることが多いに決まっている。この学校なので人外的なマジカルパワーを使われたらお手上げだが。

「だな」

 いつの間にか二つ目のタルトもあっさり平らげている相方に苦笑しか浮かばなかった。




 バレー部の今日の練習がグラウンドでよかった。

 見張らなければいけない面積は大きいが障害物が少ないお陰で遠くまでよく見える。

 いつぞやに立っていた桜の木の枝に腰かけながら走り込みを続けるバレー部を眺めるにはちょうどよかった。

 四人で手分けして、怪しい輩がいないか見張る。実に簡単なお仕事だった。

 他の部活の声に混じって、バレー部の声が聞こえてくる。木の幹に背を預けながらグラウンドを眺めていると後ろから不機嫌そうな声が聞こえてきた。

「何やってんの」

 覚えがある低い声だ。うんざりしながら校舎の方に振り向くと窓から身を乗り出しながら巴夏菜が不審そうにあたしを見つめていた。

 つい先ほどまで綴を見ていたせいで主に胸部の辺りに物足りなさを感じてしまうのは単に綴が大きすぎる、という理由だけではないだろう。言ったら跡形も残らないくらいボコボコにされそうなので黙っていることしか出来ないが。

 溜め息を押し殺しながら視線をまたグラウンドに戻して答える。

「部活」

「木の上でのほほんと時間潰してるだけで部活動が成り立つなんて羨ましい限りだことで」

 嫌味ったらしい言葉に顔をしかめながら「そっちこそ何してんのよ、生徒会は?」

「ジュース買いに来たの」

「あっそう。じゃあさっさと買って生徒会室に箱詰めになってればいいじゃない」

「この巴夏菜さまが声かけてやったのになんだよ、その態度」

「別に声掛けてくれだなんて頼んでないわ」

 ほんと、あたしのこと嫌いなくせに彼女もよくやるもんである。

 会話が途絶えて、さすがに立ち去っただろうとまた校舎の方を伺うと退屈そうにしながら巴夏菜はまだこちらを見ていた。

 なんなんだ。口を開きかけるとあたしの言葉を押し殺すように「巴さん!」

 ぱたぱたと愛らしい足音を立てながら一人の女生徒が窓際の夏菜に駆け寄った。ざんばら気味の黒髪を揺らしながら廊下に立っていたのは小柄、というより高校生とは思えないほど小さな体の女生徒だった。それを証明するかのように一番小さいサイズなのであろう制服ですらぶかぶかだ。何も知らなければ小学生にしか見えない。

「ああ、蘭賀(らんが)さんどうしたの?」

 蘭賀 仁子(さとこ)。一応これでも高校二年生で、あたしたちとタメである。

 そのやたら子供じみた見た目は、彼女の素性のせいである。

 座敷童。古い家などに住みつく精霊のような、妖怪のような、中途半端な存在が彼女の正体である。

 彼女曰く、座敷童は個人差はあるもののある一定の期間を過ぎるとそこで成長がストップして死ぬまで子供の姿のままでいるらしい。いいことか、悪いことか、と問われるとあたし個人的にあまり魅力を感じることができる現象ではないのだが仁子本人は「お子様ランチを頼んでも恥ずかしくない姿」と満足げなので特に何も言えない。所属している部活は、ボードゲーム部だ。

 気味の悪いほど優しい調子の夏菜の声ににこにこしながら仁子はごそごそとカバンから何かを取り出した。

「これ、この間の校外活動の報告書。遅れちゃってごめんなさい」

「ああ、気にしないで。学校の外で暴れまわった癖にこんなのちっとも覚えてない部活もあるから」

 さっと夏菜の責めるような視線がこちらを向き、それからすっと目を逸らす。

 外に何かがいるのだろうか、とばかりにこちらを覗き込んだ仁子はあたしに気付くや嬉しそうな声をあげた。

「あ、お嬢ー! 何してるの?」

「部活?」

「疑問形かよ」

 夏菜のツッコみに構わずに仁子は会話を続行してきた。

「今日はどういうお仕事?」

「グラウンドにコンビニのビニール袋が何枚転がってくるか観察してくる仕事」

「あははウケるー」

 けらけら楽しそうに笑う彼女に問いかける。

「そっちも部活でしょ?」

「あーうんまぁ、そうなんだけど」

 やたら歯切れの悪い返事をしてから急に、まるで逃げるように手をあげて、「じゃ」

 さっさと歩いて行ってしまった。

 その後ろ姿を茫然と見送ってからまだ一人横に残っているのを確認して、溜め息を吐く。

 じっとその顔を見ているとちらりとこちらを伺った夏菜と目があった。思わず、問う。

「……何、用事?」

「違うけど」

 じゃあなんでまだいるんだ。

 時々、この子は本当に訳の分からないことを真顔でする。他人のことを一から十まで理解しようとは思わないが不思議には思ってしまう、人間だもの。

 副会長なほとんど完璧美少女がどうしてここまであたしに固執するのかがよく分からないがそれを言うとどうしてあたしが東雲結城に固執してるか分からないという恐ろしい反撃がブーメランとして飛んできそうなので、余計なことを言わないようにふと思い出したことを問いかけた。

「『ウサギが君の行く手を横切った』ってなんだか知ってる?」

 特にどうという考えがあるわけではなくて、単に気になったから問いかけてみただけだった。

 体育祭、エール合戦のとき、あのジェニファーだかクラウスだかよく分からないヤギを連れていた野郎の言葉。意味が分からなくてずっと引っかかっていた。

 気になって、はいたもののかといって自分で調べようと思うほどではなく、誰かに特に問いかけようと思うわけでもなかった。ただ、今のように話題に困ったら引き合いに出す。その程度だった。

 あたしと違って頭のいい夏菜さまは身を乗り出したままはっと笑った。

「そんなことも知らないの? だっせぇ」

「悪かったわね」

 ふんを顔を逸らし、足を組むと夏菜はぼそっと答えを教えてくれた。

「英語のことわざ、みたいなやつ」

「そうなの?」

「A hare has crossed your way」

 彼女の口からスムーズに飛び出した英語に思わず硬直していると「いたちの道切り、っていうのは知ってる?」

「ああ、不吉なことの前兆ってやつ?」

「そ。それの西洋版」

「ふーん……」

 曖昧な返事をしながらまた視線を地面に落としたあたしは、首を傾げた。

「なんでウサギ? いたちは同じ道を通らないっていうのは知ってるけど」

「向こうじゃ魔女はウサギに化けるんだよ」

 顔をしかめた。西洋の魔女の皆さんは随分可愛いものに化けるらしい。

 こっちの魔女が何に化けるかは知らないが。少なからずあたしは化けないし。

 でもこれで少しだけ納得した。あのときの奴の言葉の意味が、少しだけ分かったような気がする。だから魔女じゃなかったのか。

 いつの間にか窓枠に腰かけた巴夏菜が不機嫌面を壊さないままで尋ねてきた。

「でもどうして急にそんなこと聞いたんだよ。また東雲くんの電波にやられたの?」

「あたしがあいつの電波にやられたことなんてないわ」

 髪を振り払いながら「エール合戦のとき、妙なのに絡まれて。分からないけど、心のどこかでずっと気になってた」

 彼に感じた、底知れぬ恐怖はなんだったのだろう。何がそこまであたしを震えさせた。

 面白くなさそうに顔をしかめた夏菜は低い声で「どこの奴?」知ってどうするんだか。

「さあ。見たことなかったから」

「鉢巻は?」

「黒」

 迷いなく答えると夏菜はわずかに目を見開いた。

「黒? 紺とかと見間違えたわけじゃなくて?」

「ええ。だって紺はテニス部だったじゃない。それくらいあたしも知ってるわ。分からないから聞いてるのよ」

 立ち上がり、幹に寄りかかりながら腕を組むと夏菜は眉間に皺を寄せながら衝撃の一言を放った。


「今年のエール合戦の参加団体に、黒い鉢巻の団体はない」


 ざぁ、と風が木の葉を撫でた。

 驚いて見返すと頭を抱えた夏菜が続ける。

「というか、うちの学校に、黒い鉢巻はない」

「……でも、あたし、確かに」

 あのとき見たのは、間違いなく、うちのジャージに、黒い鉢巻を巻いた、男子生徒。

 固まっていると夏菜はあたしを双眸で捉えた。

「お前は、何に会ったんだ?」

 あたしが知りたいくらいだ。

 記憶違い? いや、あたしは確かに、自分の目で黒い鉢巻を確認して、どこの団体だか識別できなかった。

 できないはずだ。そんな団体が存在しないんだ。

 夏菜が言うからには、間違いないのだろう。この子が、仕事において間違えて記憶している、忘れているなんてこと、今までなかったんだから。

 外部の奴が祭りに便乗して紛れ込んでいた。そう考えるのが自然だろうがそれにしても、分からない。


 どうして、紛れ込んできて、あたしと戦った。

 何が目的なんだ。


 今までもよその人外が校内に入ってきたことは時々あって、でも大抵は教師に見つかって、捕まって、警察のお世話になるなり、こっちで〆るなりしてきた。

 いくら体育祭だったとはいえど、警備体制が緩んでいたはずはない。だけど、あの男は当たり前のようにここに入り込んで、自然にあたしたちの中に紛れ込んでいた。

 いや、あたしが狙われる理由なんて一つしかないじゃないか。

 東雲結城。

 あたしが彼の相方だから。

 でも結城狙いならそれはそれでおかしい。あの局面はあたしが不利だったことは間違いない。あと少し待てば、あの場に結城は現れた。あたしのことを人質にとるなり、できたはずなのに。

 だけど、彼はそれをしなかった。まるであたしにちょっかいを掛けに来ただけじゃないか。

「おじょ」

「ごめんなさい、よく思い返したら鉢巻の色は紫色だったかもしれないわ」

 もう一度、髪を振り払ってから夏菜の言葉を遮って言い放つ。

 馬鹿か。黒に見間違えるほど濃い紫色の鉢巻だってない。夏菜にはすぐバレてしまうような嘘しか吐けないほど今のあたしは動揺しているらしかった。

 顔を歪めながら、夏菜は少しだけ怒気を孕んだ声で詰め寄って来た。

「ふざけるな。そんなくだらない嘘、どういうつもりだ」

 息を小さく吐く。

「夏菜。今あたしが聞いたことは忘れてちょうだい」

「はぁ? なんでそんなことお前に指示されなきゃいけないんだよ」

「お願い。お願いだから」

 額を押さえながら「結城にだけは、言わないで」

 分からない。あたしの口から咄嗟にどうしてその言葉が出たのかは分からない。けれど、あいつにだけは知られてはいけない。そんな気がしたのだ。

 あいつと、あの正体のわからないヤギ野郎の邂逅を避けなければならない。本能的に、それを感じ取っていた。

 ぽかんとこちらを見つめる夏菜に笑いかける。

「大丈夫、あんたに迷惑はかけないわ」

「そういうことじゃ」

 反論してこようとする夏菜の声を、まるで掻き消すように問題の要である東雲結城の声が直接脳裏に響いてきた。

『お嬢、ビンゴだ! カメラ持ってこそこそしてるのがいる。挟み撃ちするから手伝ってくれ』

『りょーかい』

 念話を返してからまだ納得してなさげな夏菜に手を振った。

「じゃ、結城が呼んでるからいかないと」

「な、話は終わってな」

「これ以上、余計なこと言ったら道ずれにしてでもあんたを殺すわ」

 珍しく、あたしの言葉に夏菜がびくっと肩を跳ね上がらせて黙り込んだ。

 ふわっと笑って「なんてね。冗談よ、あたし平和主義なの」と木の枝を蹴りつけた。

「またね、夏菜。喧嘩は今度ゆっくりしてあげる」

 あのとき、あたしの行く手を、本当は何が遮ったのか考えながら。


 校舎なわずかな突起に鎖を引っかけて体を吊り下げながら地面を見下ろす。


 なるほど、相方の言葉の通り、明らかに怪しいマントをかぶった輩がカメラを構えてグランドを見ていた。恐らくファインダー越しに映っているのはまだ走り続けている綴だろう。

 グランド側を伺うとゆっくりと結城が近づいていた。反対側があたしが防げということらしい。やれやれだ。

「よっす、ちょっといいか?」

 目の前に立っている五期生推薦特待生で学年主席の悪魔の姿に盗撮犯はびくっと体を跳ね上がらせてからくるりと体を翻した。

 その視線の先に、鎖を突起から放して地面に下り立った。

「逃げることないじゃない。大丈夫、乱暴はしないわ」

 両手を広げ、無害アピールをするも上手く伝わらなかったようで、盗撮犯はしまいには拳を構えだした。あたしなら行けるってか。舐められたものだ。

 身構えながらそれにどう返そうか迷っていると奴は地面を蹴り上げ、一気に跳躍した。

 そのまま高く飛び、やがてあたしの頭上で急降下するとあたしを踏んづけて、また軽く跳び上がった。

「ふぎゅ!」

「お嬢!」

 某配管工の行く手を阻み続けている敵よろしく、踏みつけられたあたしはバランスを崩しながらも盗撮犯を指差した。

「誰が逃がしてやるか!」

 わっと四方から鎖が奴の体を捕まえるために襲い掛かった。

 鎖の隙間から奴の黒いコートが見える。顔をしかめた。

「コートしかない……!?」

 信じられないことに、肝心の本体がいなかった。

 宙を掴んだ鎖たちも何が起こったのかは理解していないようでじゃらじゃらと音を立てながらうろうろしている。

 混乱するあたしたちを放って、冷静だったのが、結城だった。

 ぱっと手を開いて、弓を種も仕掛けもない感じで取り出すといつの間にか背負っていた矢筒から一本、矢を取り出してつがえた。

 それから目を閉じて、また開くと、叫ぶ。

「そこか! この盗撮野郎が!」

 弦の音と共に風を切り、飛び出した矢がすとんと壁に突き刺さる。

 どうやら、彼にしては実に珍しく、寸前のところで逃げられてしまったらしい。

 悔しそうに結城が吐き捨てる。

「くそ、仕留めそこなった」

「仕留めちゃ駄目でしょ、うちの生徒かもしれないんだから」

 溜め息を吐きながら矢の方へと歩み寄ったあたしは地面を見てから「お」と声をあげた。

「結城、あんたやっぱり凄いわ」

「え?」

 不思議そうに首を傾げる結城に地面に落ちていたカメラを拾い上げて、示してやった。

 多分、結城の攻撃が掠ったか何かして落として行ったんだろう。ある意味、仕留めるより凄いことをまたあっさりやってくれた。無意識に。

「とりあえず部室に戻って確認してみましょ。周防とリンリンに声掛けて」

「おー、そうだな」




 椅子に腰かけながらカメラをいじくる周防の手元を覗き込みながら頬杖をついた。

「どう? 画像出せそう?」

「人にやらせといて偉そうですね、あなた」

 睨み付けられたあたり、あいつの手にも余っているらしい。最新機器怖い。

「周防くん、ちょっと貸してくれる?」

「え、ああ、はい」

 周防からカメラを受け取ったリンリンがごそごそと操作を始めた。

 別にロックがかかっていたわけでもなく、悲しいことに、単に操作方法が分からないというだけだった。魔法は古典に弱いというが最新にも弱いらしい。

 よし、と嬉しそうにリンリンが笑った。

「出来た。画像、見られるようになったよ」

「マジか!」

 がたっと身を乗り出しながら結城が目を輝かせた。

「すげー、人間すげー……! 現代っ子すげーこえー」

「そんなに言うほど?」

 困ったように笑うリンリンに「でも舟生さん、よく分かりましたね」と周防が首を傾げる。

「たまたま、同じ型を持ってたから」

「写真の趣味とかあったっけ、リンリン」

「お嬢ちゃん」

 にこっと笑ったリンリンがすすっとあたしとの距離を詰めて、彼女にしては珍しい押し殺した声で言い放つ。

「世の中には、知らなくていいこともあるんだよ」

「そ、そうね……」

 つい押され気味になりながらこれ以上言及すると命の危機が待ち受けてそうな気がして視線を逸らした。

 それよりもまずは写真だ。無理やり自分に言い聞かせながらカメラの小さな画面を覗き込んだ。

「やっぱり綴の写真よね」

「わーお昼ご飯の写真まである……」

 画像を次々と表示させながらうーん、とリンリンは唸った。

「印刷されたのと大体同じ感じの写真だよね」

「だよなぁ、なんか分かると思ってたのに……って、ちょい待った!」

 表示された画像を見て、結城が目を見開いた。

「これ、綴の写真じゃない、よな」

 確かに写真には綴ではない女生徒がカバンを抱えながら廊下の壁に背を預けている写真だった。

 しかも、よく見知った顔がとても退屈そうにしている。

「……なんで白咲?」

 思わぬところに登場した宿敵に周防が顔をしかめている。

 生徒会書記である白咲恭子、その姿が確かに収められていた。頭の中に巡っていた疑問をそのまま口から吐き出した。

「なんで恭子なのよ。綴のストーカーとかじゃなかったの?」

 それに結城が自信なさげに答えた。

「気が多い奴だった、とか」

「盗撮趣味がある上に気が多いだなんて救えないわね」

 ぴっと短い電子音のあとに切り替わった写真もやはり恭子のものだった。

 ほとんど同じアングルだったがその表情は先ほどとは違い、輝いていた。

 可愛い系の顔立ちの彼女はどんな表情でもある程度は様になっているものの、やっぱり笑顔が一番いい。

 わあ、とリンリンが声をこぼした。

「この恭子ちゃんすっごく嬉しそう。可愛い」

「別にいつもこういう何も考えてない顔でしょう、あいつ」

「もー駄目だよ周防くん、そうやって恭子ちゃんに意地悪ばっか言っちゃ」

 めっと唇を尖らせるリンリンに周防が決まり悪そうに視線を逸らした。

 口元を押さえて、笑う。

「ド畜生が人間に叱られてやんの」

 瞬間、周防の足が迷いなくあたしの足の甲に振り下ろされて、全身に激痛が走る。

「いってぇ!? あんたねぇ!」

「あ、これ周防じゃん」

「え?」

 あたしのことを見下すような目で見ていた周防が結城の言葉に視線を再びカメラに戻す。

 まだ話は終わってない。そんなことを言う勇気も元気もなかったあたしは痛みを押し殺しながらそれに倣った。

 やっぱり同じアングルでにこにこ笑っている恭子が周防の腕に抱き着いていた。抱き着かれてる方の顔は相変わらず死ぬほど鬱陶しそうだが。

 そっかぁ、とリンリンが頷いた。

「周防くんに会ったから恭子ちゃん、あんなに嬉しそうだったんだ。本当に周防くんのことが大好きなんだね」

 きらきらと顔を輝かせるリンリンから視線を逸らしつつ周防がぼそっと告げる。

「いい迷惑です」

「とかなんとか言う割には最初の頃みたいにぶん投げたりはしなくなったよな」

 なんて苦笑する結城に周防さんの拳が入ったのは言うまでもないことである。

 その場でうずくまる馬鹿は放って、また写真が切り替わる。

 そこに映っていたのは、綴でも、恭子でもなく、また別の女生徒だ。短いスカートを揺らしながら、テニスのラケットを振っている。

 リンリンが首を傾げた。

「……誰?」

「あ、テニス部の祁答院(けどういん)先輩じゃない」

「ご存知なんですか?」

 周防の言葉に「ご存知ってほどでもないけど」

 三年の祁答院先輩、噂程度の認識だがなんでもそのスタイルのよさのせいでファッション雑誌のモデルをやってるとかで一部からは神格化されていたはずだ。

 どうもさっきから、やたら美人ばかりだ。

「盗撮癖があって気が多い上に面食いだなんてとんでもないわね」

「まぁまぁ、って、あれ?」

 あたしを宥めつつ、次の写真を見たリンリンが顔をしかめた。

「私?」

 なるほど、そこに写っていたのは確かに舟生リンその人だった。椅子に座りながら眠気と戦っている最中のようで今にもその首はこっくりこっくりと上下しそうだった。

 これを守護霊たちに伝えたら大変面白いことになりそうだと思いつつ溜め息を吐く。

「こんな写真まで」

「ええー……恥ずかしいよぅ……いつ撮られてたんだろう……」

 顔を赤らめるリンリンにやっと復活した結城が手を差し出した。

「悪い舟生、ちょっとカメラ貸してくれ」

「え? あ、いいよ」

 はい、とカメラを手渡され、結城はなぜかやたら真剣な顔でカメラを操作している。

 どうやら写真を一通り見てみようという気らしく、次々と写真を切り替えていく音が聞こえてきた。

 一体何が彼の火をつけたのかは全く分からなかったが、黙って眺めていると、やがて、そっとカメラを机の上に置く。そして、次には結城は頭を抱えた。

「なんでだよ!」

「え? 何が?」

「なんで巴の写真が一枚もないんだよ!」

「は?」

 思わず顔を引きつらせながらその場から一歩下がる。

「なに、あんた、夏菜のちょっとえっちい写真とか期待してたの? それはドン引きだわ、さすがに相方のあたしでも引くわ」

 あたしの言葉にはっとしたような顔をした結城が慌てた様子でかぶり振った。

「ち、ちげぇよ馬鹿! ただ、相手が面食いならあの美少女を放っておくわけないと思ってだな!」

「東雲くんがそんな人だっただなんてがっかりです」

「周防!?」

「酷いよ東雲くん……信じてたのに……」

「舟生まで!」

 誤解だー! と喚く結城を放って「でも」と眉を寄せる。

「確かにただの面食いなら妙よね、なんで夏菜の写真がないのかしら」

 本当に癪だが、夏菜は俗にいう美少女の部類だ。間違いなく。

 面食いならば心打たれて当然だというのにそれがなぜ?

 特に名をかけなければいけないじっちゃんもいないのだがしかし謎を謎のままにしておくのも気持ちが悪い。

 綴やリンリンたちにはあって、夏菜にはないものがあるはずだ。ない頭をフル回転させていると一つの結論を導き出して指を鳴らす。

「そっか、夏菜はいないはずだわ。そこに気付くなんてあたいったら最強ね」

「なんでいないんだよ」

 むすーっと不機嫌顔の結城に堂々と告げる。

「夏菜はまな板だからよ」

 この場にあの子がいなくて本当によかった。居たら今頃死んでた。

 あのほぼ完璧美少女に足りないものがあるとすれば恐らくは発達に失敗したのであろう胸囲だけだろう。恭子と並んだときなんてそれこそこっちが悲しくなるくらいだ。ぺったんこ、まな板、貧乳。どの言い方が夏菜の怒りをもっとも買わずに済むだろうか。どれも薙刀が自分に向くのを覚悟しなければならないかもしれないが。

 閑話休題。それを補えるほどの美少女っぷりがあるから大して気にしたことはないし、世の中には『貧乳はステータス』という言葉もあるくらいなのでそのせいで夏菜の人気が衰えているという事実は決してないのだが、この場においてはそうもいかなかったらしい。

「つまり相手は盗撮癖があって気が多い上に面食いでしかも巨乳好きと」

「この部始まって以来最悪のプロファイリングね」

 周防の言葉に腕を組むとうーんと結城が唸った。

 椅子の上で体育座りするかのように足を抱えた彼は小さく口を開く。

「ただお嬢の拘束魔法を抜けるなんてなぁ」

「なんであんたが悔しそうなのよ」

 顔をしかめながら問いかけると結城はそれに迷いなく答えた。

「悔しいだろ、自慢の相方の唯一の得意技を破られたら」

 さらっととんでもないことを言いやがる。

 恥ずかしさを紛らわすために薬缶に水を注ぎながら「唯一とか言うな」と不貞腐れた風に返事した。

 薬缶をコンロに乗せて、火をつけたと同時に結城がまた告げる。

「魔法に関しては、だぞ。それ以外にいいとこはたくさんあるからな、お前」

「凄いわね、あんたもう少し頑張ったらきっと人たらしになれたわ」

「なれなくていい、そんなの」

 まっすぐとこちらを見つめながら結城はにこりと微笑んだ。

 頭を抱えながらこの馬鹿な相方になんと言ってやろうかと考えているとふと、彼が顔をしかめた。

 それから、一瞬目を閉じて、次いで目を開けるとその目はいつもの、のほほんとしたものではなかった。

 全てを見透かすような、ずっと見ていると吸い込まれるのではないだろうかと思ってしまう瞳だ。おー怖い怖いと思わずあたしは視線を逸らした。

「東雲くん……?」

 きょとんと、不思議そうに首を傾げるリンリンに応答もせずに彼は壁に立てかけていた刀を手に取った。

 鞘から抜かれた刀身が蛍光灯を反射して光る。

 恐ろしいことに、その光景にすっかり慣れたあたしは、特に気にもせずにコンロで揺れる火を見つめていた。

 一瞬だけ、再びを目を閉じてから瞼を開け、刀を振るう。

「そこ、誰がいる?」

 机に置かれたカメラの真上を通り、結城の刀が宙を捉えた。

 今、彼の目には何が見えているのだろう。

 何度不思議に思っても、結局踏み込めずにいる疑問ではあるが。

 いるのであろう相手から返答はない。

「このままたたっ斬ってもいいんだぞ。言っとくけど俺は巴を撮らなかったお前を許す気はない」

「やっぱり怒るポイントはそこなんですね」

 呆れたように告げる周防の言葉のあとにようやく、今まで部室で飛び交っていた声とは別のものが響く。

「待って! 待って! ごめんなさい! ちゃんと出てくるから!」

 どうやらあの天才がマジでおこ気味なのを察したらしい相手はついに姿を見せる気になったようだった。周りに完全に溶け込んでいたその姿が少しずつ、輪郭を持ち、やがて完全に視覚で捉えることができるようになった。

 その小さな背丈に、先ほど会った彼女の記憶が重なるのはすぐのことだった。

「仁子?」

 紛れもなく、そこにいたのは座敷童だった。

 彼女の姿を見て、少なからず驚いたように目を見開いてから結城は首元を捉えていた刃を引っ込めて鞘に納めた。同時に紅茶はしばらくお預けだと察してコンロの火を切った。

「ど、どうしたの、仁子ちゃん」

「い、いや、そのぅ」

 リンリンの問いかけにバツが悪そうに視線を逸らす彼女は机の上をちらりと見てからそーっと手を伸ばした。

 それにあたしより早く気付いたのか、さっと周防が机の上のカメラを回収して頭上に掲げた。我が部一番の高身長と恐らくは学年、いや、学園一の低身長といっても過言ではない仁子とでは相手になるはずもなく、ああー! と情けない声を出しながらその場で彼女はぴょんぴょん飛び跳ねた。

「何するの周防くん!」

「まずあなたがなぜここにいるかを説明するのが先ですよ。というか、これあなたのカメラなんですか?」

 ぎくっと仁子が肩を跳ね上がらせた。

 それからだらだら冷や汗を流しながらまたごにょごにょと口を動かす。

「ち、違う、けど、その」

「そりゃそうよね」

 ばさっと髪を振り払い、あたしは髪をいじりながら満面の笑みを浮かべた。

「胸が大きくてスタイルのいい上に美人な子の盗撮写真のデータしか入ってないカメラの持ち主なんて稀にみるド変態以外あり得ないものね。そんなド変態クソ野郎が同じ学校にいるなんて絶望するしかないし、やっぱり外部犯に違いな――」

「私は」

 すう、と息を吸い込んでから仁子が叫ぶ。


「私はそんな変態じゃなぁぁい!」


 言い切ってから、自分がいかにまずいことをいったのかの自覚が湧いたらしく、はっと両手で口を押さえた。

 しかし、それを聞き逃すほどあたしは優しくない。

「待てゴルァ!」

 今にも逃げ出そうとする仁子の体を羽交い絞めにして、押さえ付ける。

 あたしの腕の中で両手を振り回しながら仁子は抵抗する。

「やめてぇ! 放してぇ!」

「どういうことか説明しろ! このカメラあんたのでしょ!」

「放してってばぁ!」

「ちょ、暴れんなこんの……周防! 椅子持って来い椅子!」

「あ、はい」

 あたしの一言で黙ってパイプ椅子を持ってきた周防に心の中で感謝しつつ彼女の体を押さえ付けながら無理やりそこに座らせる。

 抵抗する彼女の腕や足をかわしながら椅子に座らせた彼女を指差すと周りから現れた鎖がじゃらじゃらと彼女の体を椅子に縛り付けた。

 あっという間に座敷童の鎖巻き(withパイプ椅子)という高級フレンチの店でもなかなか見られないような代物が出来上がる。謎の達成感に包まれながら伝ってもいない額の汗を手の甲で拭った。

「お前……時々、マジで声にドス利かせるのやめろよな……心臓に悪い……」

「あんたの人を殺しそうな眼光よりマシよ」

 胸を押さえながら不満げに言う結城にそれだけ返す。

 息を吐き、「次は逃がさないわよ」と仁子を指差して鎖をもう一重追加する。

 がたっと椅子ごと後ろに倒れ込む仁子の体を起こしてから彼女の顔を覗き込む。

「かつ丼とか好き?」

「両手縛りつけといてよく言うよね!」

 がうっと吠えられてしまった。悲しきかな。

 そこは素直に受け取って人情に涙して自白するところだろうに。

「じゃああたしだけ特上うな重頼むわ」

「グレードたけぇ!」

「領収書は上様でつけとけばいいわよね」

「残念ながら上様だと駄目ですよ」

「え、そうなの?」

 周防とどうでもいい話を発展させつつスマホを取り出していると「それより!」と結城があたしたちの間に割って入ってから仁子の前に出て腕を組んだ。

「結局、どうなってんだよ。蘭賀、お前、どういうつもりでこの写真撮ったんだ? 綴だけじゃなくて白咲に、舟生までいるし、しかもその割に巴が」

「結城、しつこい」

 画面をいじりながら相方に告げる。

 そのやり取りを気にすることはなかったのか、仁子が顔を俯かせながらぶつぶつと何かを言い出した。

「参考になるかなって」

 ぼそっとこぼす仁子に顔をしかめる。

「参考?」

「だから……」

 顔を真っ赤にしながら仁子はもうやけくそだとばかりに言い放った。

「同じように生活したら私も身長が伸びておっぱいが大きくなるかなって!」

 言ってしまったとばかりに顔を背ける仁子に思わず、

「だって、あなた、お子様ランチがずっと食べられるって気に入ってたじゃない、その見た目」

「お子様ランチ問題と胸の問題は全然別だよ!」

 理解できなくて頭を押さえた。

「見た目は子供、頭脳は大人な座敷童は嫌だよ! もうこの言い方だと座敷童じゃなくて疫病神だし! 私も見た目が高校生になりたい!」

「そうは言ってもそればっかりはお前の持ってる力の問題だしなぁ」

 うーんと唸る結城に「いや、分かってる、分かってるんだよ」と仁子は深々溜め息を吐いた。

「座敷童としてやってくならこの見た目でいなきゃいけないのは分かってるんだけどさぁ。もー時々なんで座敷童なんだろうって思っちゃって。私も創造主とか、魔物とか、そういうのになりたかったなぁって。それを考えちゃう自分も嫌だよ」

「ないものねだりね」

 机に腰かけながら足を組む。弱々しく仁子が言葉を返して来た。

「知ってる」

「でも、まぁ分かるわ。あたしも、魔女になりたくてなったわけじゃないしね」

 わずかに顔を上げる仁子に笑う。

「きっと、誰もがするの。ないものねだり。隣の芝は青いのよ、自分の持っているものだけじゃ心のどこかで満足できないのよ。他人の目から恵まれてると思う人ほど、特にそう」

 誰かさんのことを考えながら続ける。

「現状で無理やり納得するか、それともどうにかするか。どっちをとるにしても、多分どっちも正しいし、どっちも間違ってる。そーいうもんよ生きてる奴なんて」

 肩をすくめて、彼女を見返した。

「その上でどーしようもないことだってある。努力じゃ埋められないあとちょっとっていうのがね、だからあんたが嫌な奴とは別に思わないわ」

 人はそれを、才能を呼ぶのだろう。

「あれよ、綺麗にまとめるなら十人十色」

 勝手な自分理論を振りかざしながら机から飛び降りて、ぽんと仁子の肩を叩く。

 彼女の体に巻き付いていた鎖が光の粒になって消えていく。それを見送ってから「とにかく、もう、盗撮は禁止。同期はどうあれ、やり方間違ってるから。いいわね?」

「ん、ごめんなさい……」

「あと、これは別に励ましでも同情でもないんだけど。あんた可愛いと思うわ、そういうの気にするとこ含めて」

 あたしの言葉にぱぁっと顔を輝かせてから「はい……!」と頷いた。

 やれやれと窓枠に腕を掛けていると「それにしてもなんで綴ちゃんの写真だけ更衣室に?」

 リンリンの言葉にあ、と仁子が顔を引きつらせた。

「そっかぁ、そこに落としてたんだ。見当たらないと思ったら」

「なんで綴さんだけだったんです?」

 周防の問いにいやぁ、と彼女は答えた。

「言い値で買いたいってバレー部の子とかが……怖くてつい」

「ナンテコッタイ」

 どうやら彼女とは別に〆なければならない連中がいるらしい。

「とりあえずカメラどうします?」

 周防の言葉にリンリンがすぐに返した。

「恭子ちゃんの写真データ見てたらどうかな、周防くんが」

「舟生さんは僕をいじめて楽しいですか?」

「うん!」

 さらっと恐ろしいやり取りが聞こえてきたが周防が手を出してない辺り凄いところだと思う。

 小さくなる仁子にぽんとリンリンが彼女の肩を叩いた。

「じゃ、これから綴ちゃんたちに正直に話にいって、謝ってこよう? そういう理由も含めて、ちゃんと話さなきゃ駄目だよ。よくないことではあるから」

「あ、うん……」

「というわけで、私、これから仁子ちゃんと綴ちゃんたちのところに行ってくるね!」

 扉に手をかけて、歩いて行こうとするリンリンに結城が声をかける。

「一人で平気か、舟生」

「平気!」

 仁子の手を引いて歩いて行くリンリンに軽く手を振っているとカメラを持ちながら周防も立ち上がった。

「じゃあ僕はとりあえず言い値の件について当事者であろう皆さんとお話してきます」

「お話(物理)はやめなさいよ」

「約束はできませんね」

 肩をすくめてからリンリンたちが出て行った廊下に周防も歩いて行ってしまった。

 相方と二人取り残されてしまった。顔を見合わせ、苦笑し合ってからひとまずあたしはコンロに向かってまた足を向けた。

 コックを回し、火をつけると「一件落着?」相方の言葉に息を吐く。

「多分。こっから許して貰えるか、裁判沙汰になるかはあの子次第よ」

「生々しい話するなよ」

 顔をしかめる結城にくすくす笑う。

「あれ、行き過ぎたら呪祖生んでたわよね、多分」

「あー、同じこと思ってた」

 わしゃわしゃ髪を掻き毟る結城に「だからめんどくさいのよねぇ、感情って」

 それが最近は、どこかで愛おしくもある。その面倒くささが。

 少し考え方が変わったのだろうか。悩んでいると相方があたしを呼びつけた。

「なぁ」

「なに?」

「お嬢は、創造主とか、人間に戻れるなら、戻りたいと思うか?」

 唐突な質問に一瞬だけ声が詰まった。

「どうしてそんなこと聞くのよ」

「いや、気になっただけ」

 振り返って結城の顔を確認する気にならなかった。

 揺らめきながら薬缶を温め続けるコンロの火を見つめて、答えを探した。いや、探すまでもなかったんだ。ただ理由を見つけるのが少しだけ難しかった。

「あたしは魔女でいい」

 やがてあたしの口から出た答えに結城がさらに踏み込んだ。

「どうして?」

「確かになりたくてなったわけじゃないし、たまに、人間とか、創造主とか、呪祖がいいなって思わないわけでもないわ。けど魔女になって全部悪かった、とは思えないのよね」

 自分の指先を見つめながらぽかんとする結城に対して言葉を続けた。

「あたしは、創造主の頃より、人間の頃より、ずっとあたしらしくなったと思う。創造主という枷がない分、自分が思うままに生きて。でも呪祖でもないから、虚しさも少なくて済む。きっとそれはいいことだわ」

「たとえ」

 やけに真剣な顔をしながら立ち上がった結城は震える声で、

「たとえ、世界に自分一人しか、『魔女』はいなくても?」

「ナンバーワンよりオンリーワンよ」

 意味不明な返しをしながら「それに」と彼を見る。

「あたしはもう一人ぼっちじゃないからね」

 きっと、本当に一人だったら、今頃あたしは死んでしまっていただろう。

 そういう意味で、東雲結城はあたしの恩人だ。

「あんた以外の世界中のみんなが敵になっても、あんたがいれば何も怖くない。あんたさえ、味方に居てくれれば、あたしは何も恐れることはないわ」

 きっと味方が百万人いるよりも、たった一人の彼の方が安心できる。

 そこまで言い切ってから無性に恥ずかしくなって、慌てて彼に背を向けた。

「お嬢」

「なんて、くっせ。あたしらしくない、さすがに無理がある嘘だったわよねぇ。忘れなさい。本当の理由はね、手下が居るから家事が楽――」

 取り繕う言葉を並べていると後ろからぎゅっと抱きしめられた。

 体重を乗せられる抱き締められ方だったのでバランスを崩しかけ、つい怒鳴る。

「ちょっと! 火があるんだからあぶな」

「俺もだよ」

 ぎゅーっと人の背中に顔を押し付けながら東雲結城は、今にも掻き消えてしまいそうな声で告げる。

「俺も、お嬢が居れば、何も怖くない。世界中を敵に回したって、神様を敵にしたって怖くない。どんな奴にも勝ってみせる」

「……言ったでしょ、あれは『嘘』なのよ」

「俺にとっては『真実』だ」

 溜め息を吐いてから押し付けられる頭をそっと撫でる。

「離れてよ、東雲菌がうつるから」

「うつしちゃる」

「この野郎」

 淡々とやり合っているとふと、一つの疑問が浮かび上がる。

「あんたは、人間に戻りたいの?」

 あたしの問いに、結城は「戻るも何も」とあたしの手を握りながらまた小さく告げるのだ。

「俺は、人間だったことなんて、ないから」

 ああ、あたしはなんて、迂闊なんだ。自分の馬鹿さをここまで恨めしく思ったことはない。

 そうだ。東雲結城は、ずっと、ずっと、創造主なんだ。生まれたときから、ずっとこの才能を背負わされてるんだ。


 きっと、今でも、彼は、ある意味では一人なんだ。あたしと同じように。たった一人なんだ。


 そんなの、聞くまでもなく、答えは決まっていたはずなのに。

「俺は」

「言わなくていい」

 振り返って、今度はこちらが彼を抱き締めながら、首を左右に振る。

「言わなくていい。大丈夫、分かってるから。ごめんなさい、あたしが悪かった」

「…………」

 あたしの言葉に、彼は、本当に何も言わずに、ただあたしに回していた手の力を強くするだけだった。

 外はまだ、明るかった。

「日が長くなったわね」

 露骨な話題の転換だった。

 ぽんと、彼の胸を押し返すと意外とあっさり結城はあたしから離れた。くるりとまたコンロに向き合えば後ろから結城の声が飛んできた。

「ああ。そうだな」

「梅雨が明けたらまた夏なのよね。暑いのやだ」

「俺は暑いの好きだぞ。寒いよりは」

「もっと! 熱くなれよー! ってこと?」

「いや、そこまで熱くなくても」

 んー、と困ったような結城は「夏は色々できるし」

「そうかしら? 蝉がうるさいだけでしょ」

「できるできる。修学旅行もあるし」

「あー忘れてた。めんどくさい」

 頭を抱えると「なんでだよー楽しみだろ」と不満げな声がした。

「俺と、周防と、お前でおんなじ班な決まり」

「……あんた本当に友達いないのね」

「違うわい!」

 がうっと吠えられてこれにはさすがのあたしも苦笑い。

 コンロの火を止めるとカップを取り出してなかったことに気付いて脱力する。あーもーと食器棚にのそのそ移動している。

 すると、室内に扉が叩かれる軽快な音が響く。

 あたしが取り込み中だと分かったのかはーい、と結城が扉に向かって駆けて行く。

 がちゃりと扉が開くなり、聞こえてきたのは野太い男の声だった。

「特上うな重お持ちしました!」

「……はい?」

 ぎぎ、と油切れのゼンマイのような動きで結城がこちらに振り返る。

 そんな彼に笑顔で一言。

「払っといて」

「アホか!」

 扉の前に配達のお兄さんを立たせっぱなしなのも忘れたらしく、結城がこちらに駆けてくる。咄嗟に命の危機を感じたあたしは取り出したカップを机の上に置いてから相方から逃げた。

 あたしが逃げて、それを結城が追うという追いかけっこ状態だった。

「なんで本当にうなぎ頼んだ! しかもなんで特上!?」

「今日うち、マ、母さん帰ってこないから夕飯済ませようかと思って」

「だからって俺に払わせんな!」

「何よ! あたしがいれば何も怖くないんでしょ!? 神様だって平気なんでしょ!? じゃあうなぎも大丈夫!」

「お前も同じようなこと言っただろうが!」

 ぎゃーぎゃーと追いかけっこを始めるあたしたちを見て「あのぅ、お支払いは」と困った様子のうなぎ屋さん。

 しかし、それに構ってあげられるほど今暇ではない。

「今の時代は便利よね、わざわざ電話しなくてもいいんだもの」

「便利なのはいいが金は自分で払え自分で!」

「じゃあ割り勘しましょうか?」

「……俺に半分くれんのか?」

「いいえ、あたしが全部食べるわ」

「よくそれで俺が了承すると思ったな!」

 机越しに手を伸ばしてあたしを掴まえようとする結城に瞼を引き下げ、べーっと舌を出す。

 完全にお怒り状態の結城が刀を手に取った。

「ああああ! たたっ斬ってやる! お前はそうやってすぐ調子乗りやがって!」

「やーんこわーい!」

「今さらかわいこぶるなこのクソ魔女がぁ! 馬鹿! 馬鹿馬鹿!」

「この間の古典の小テスト一桁だった奴に言われたくないわ」

「なんで知って……!?」

「そんな調子で果たしてあなたは定期テストを乗り越えられるのかしら?」

「そういうこと言うのはほんとにやめろ!」

「やーい結城のばぁか!」


 結局、この心底くだらない、けれど心から愛すべき応酬が終わりを告げたのは周防が戻ってきて、あたしが財布を開いたときだった。


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