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創造主な僕たちは華麗な日々しか創れない  作者: 黄昏月ナツメ
一学期:僕たちはまだ夢の中で。
14/36

僕らは大人になりたいのか? それとも子供でいたいのか?

 梅雨という言葉が嫌いだった。

 雨の日が嫌いというわけではない。むしろ、どちらかといえば雨は好きで、時々嗅ぐ湿っぽい匂いは悪くないと思う。いつもカンカン照りの晴ればかりでは人間の本能的にも水を求めてしまうのだ。

 しかし、それが毎日のように続くのは頂けない。暑苦しさを含んだ空気の湿っぽさは昔からどうも好かない。じめじめした空気が嫌いだ。

 ついでに雨の日は家干ししなきゃいけないのが鬱陶しい。

 だがそれ以上に梅雨の嫌なところは、雨が降るかもと心配して部屋干ししたら案外杞憂に終わってしまったり、とにかく天気が安定しないのがよろしくない。

 大丈夫だと言われた日に限って雨が降って来て結局、洗濯し直さなきゃいけないし。


 そんな梅雨入りが宣言されたその日、まだ六月とは思えないほどの日差しの下、なぜかあたしたちはプールサイドにいた。

 本来なら、プールに来るなら水着で泳いできゃっきゃっうふふが正しい過ごし方なのだろうが生憎、そういうわけではない。

 ださくて涙が出るようなスクール水着ではなくて、体操着姿でそこに居た。

 手に持っているのは浮き輪ではなく、掃除道具である。


「なんで久々に部活来たらプール掃除しなきゃならんのだよ!」


 ぶーっと不満げな美里さんの声がプールサイドに響き渡る。 

 目の前のプールはヘドロと苔に覆われて、とてもじゃないが水を張って人が入れる状態ではない。

 さて、意外にもエール霧雨学園には水泳部がない。そのため、毎年、誰かが夏のプールの授業前に一年近く放置されていたプールを掃除しなければならないのだ。

 で、今年、体育科教師たちからの白羽の矢が立ったのがとにかく問題ばかり起こすからなるべく大人しくさせておきたいあたしたち、こと魔法屋である。

 少なからず、頼んでしまえば今日一日中はあたしたちは少なからず掃除以外しないだろうと考えているのだろう。嫌われたものである。

 たまたま生徒会の仕事がなくて、久しぶりの部活参加になった美里さんとついでに明らかに暇そうにしていた小町ちゃんを(明日の弁当で釣って)引きこんで、プールサイドへやってくることになった。

「これでも一応軽く掃除はしたとは言ってたけど」

「これでかよ」

 うんざりしたように美里さんが続けた。

「第一さ、こんなん魔法使わなくても出来るじゃん。ボランティア部とかにやらせりゃいいのに」

「あいつら今日は校外にゴミ拾いに行ってるから駄目だろ」

「本格的にボランティアしてるし」

 結城の言葉にげっと顔をしかめてから「それに比べて」と彼女はどこか遠くを見つめた。

「建前とは言えほとんど同じ活動内容であるはずの私らは校外に出たら友達の実家で大暴れか……」

「言うな蒼井」

 深々と溜め息を吐く部長殿も行く気満々だった気がするのはあたしの気のせいではないはずだ。

「まぁ、皆無事だったのだからそれでよかろう?」

 掃除用具を抱えてきた小町ちゃんがけらけら笑いながらジャージの袖をまくっていた隣の周防をちらりと見る。

「周防は嫁を失わずに済んだ訳だしのう」

「誰がなんですって?」

 自分を睨んでくる周防に「おおこわ」と半笑いで告げる小町ちゃん。さすがだ。あの暴力の塊みたいなのにそんな態度をとれるなんてさすがだ、小町ちゃん。あたしたちだったら今頃ヘドロだらけの水槽に蹴り込まれているところなのに。

 そんなしょうもない会話をしていると後ろの扉ががちゃりを開いた。

「ごめんね、遅くなっちゃった!」

「リン!」

 ぱぁあっと美里さんの顔が華やいだ。簡単な人である。

 勿論、今日の活動がプール掃除だと知っているリンリンもジャージ姿だった。彼女はプールを眺めるなり、わあと声をこぼした。

「結構凄いね……」

「しばらくほったらかしだったしね」

 あたしがそう言うとじーっとプールを見つめていたリンリンは両手をグーにしてよしっ、と気合を入れた。

「頑張ろう!」

「わたくしも全力でお仕事させていただきます! 洗剤なんかいらねぇ!」

「いや、洗剤はいるでしょ」

 さっきのやる気のなさはどこへやら、敬礼しながら声を張る美里さんに思わずツッコんだ。

 そんなやり取りに構わずにリンリンはくすくす笑った。はう、と美里さんが胸を押さえた。

「さすがリン、天使指数がよその天使とは比じゃないぜ……!」

「さー掃除するわよー」

「おー」

 これ以上喋らせていると電波に毒されそうなのでスルーして結城とプールに向き直ると「ちょ、マジ待って!」となぜか美里さんに結城と一緒に袖を引っ掴まれた。

 ぎゃーっと先に叫んだのは結城だった。

「やめてくれ! これ以上俺にお前の怪電波傍受させないでくれ!」

 怪電波出す奴に怪電波扱いとは美里さんは相当やばい部類なのではないだろうか。

 再確認しながら震えているとぶんぶんと首を左右に振った。

「そ、そうじゃなくって」

 リンリンの方を伺ってから小声で「なんかいない?」は、と結城が間の抜けた声をあげた。

 だから、と美里さんが不安げにこちらを見上げる。

「足が何本もあってうねうねしてる変なのとかいないよね? ね?」

「……もしかして」

 やたら念入りに確認してくる美里さんに問いかける。

「美里さん、虫駄目?」

「ひにゃあああその名前を言わないでぇぇえ!」

 耳を塞ぎながらぷるぷる震える美里さんに結城が困惑した表情を浮かべた。

「だ、お前、だってこの間蜘蛛の呪祖見ても平気だったろ?」

「呪祖は呪祖、奴らは奴ら!」

 きっぱり言い放つ彼女は震える体を抱き締めながら、声まで震わせて言う。

「なんであいつら手が何本もあるの、おまけにあんなに小さくて、カサカサ、私に飛びかかって来て」

「ああもう分かった分かった」

 通りでやたら渋ると思っていたらそういうことだったのか。

 やれやれと肩をすくめながら「心配しなくてもあんたが怖がってるもんは生物部によって救出済みよ」

 あたしの言葉にほっと息をついた美里さんがやっとプールの水槽に飛び込んだ。

 そのあとに続いて、あたしもプールの中に降りようと縁に腰かけると先に降りていた周防がこちらを見上げ、手を差し伸べてきた。

「滑りますから、手を貸します。気を付けてくださいね」

「……滑るってあんな風に?」

 あたしの指の先にはすでに絶叫しながらプールの中を滑っている馬鹿相方の姿があった。

 何をどういう飛び込み方をすればそうなるのか、摩擦も仕事ができないほどの勢いでヘドロの上を滑って行く相方はごんっと鈍い音を立てて壁に衝突してからその場に蹲った。

「し、東雲くん!?」

「あっちゃー、また派手にやったねゆーき」

 女子二人の心配と呆れの声を聞きながら、あまりの光景に黙り込んでいた周防がやっと口を開いた。

「……あなたの相方、馬鹿なんですか」

「よしてよ、前から知ってるわ」

 周防の手を借り、安全に水槽の中に降り立ってからヘドロに足を取られつつなんとか相方の下へ歩み寄り、笑顔で告げる。

「十点満点よ」

「ふざけんな……」

 頭を抱えながら唸る相方を見てから仕方なく、プールサイドの掃除をしていた小町ちゃんに「小町ちゃん、ホース! 水出しといて!」と手を振る。不思議そうに首を傾げながら小町ちゃんがこっちに投げてよこして来たホースを受け取る。

 そして、そのホースの口を、そのままヘドロまみれの相方に向ける。

「ちょ、待て、お嬢、それは本来人に向けるべきものじゃな――」

 相方の言葉を最後まで吐かせまいと容赦なく水が吹き出された。

 口の中に流れ込んでくる強い水圧に悲鳴に近い声が聞こえてくる。

「あばばば、ちょ、おじょ、おぼお」

「汚物は消毒だー!」

 炎は怒られそうなので水になってしまったが。

 あーあ、とこちらを憐れむような目で見下ろしてくる小町ちゃんに告げる。

「小町ちゃんついでに塩素ちょうだい塩素」

「塩素ごときで死なんだろうがさすがにやめてやれ」

 あの小町ちゃんに苦言を呈されてしまった。若干反省した。

 仕方ないので渋々、ホースの水圧を弱めて貰い、叫ぶ。

「元気ですかー!」

「アホか!」

 すこんと頭を引っぱたかれた。痛い。

 ジャージの上着を脱いでからそれを絞った相方は「ばっかじゃねぇの!?」とあたしを睨んだ。

「なんでお前相方を塩素消毒しようとしてんの!?」

「そこに結城がいるから」

「意味不明!」

 理不尽に怒られてしまった。ただ綺麗にしようと思っただけだったのに。人間関係って難しい。

 なんてこれっぽちも本音を含めずに思いつつ、ホースを投げ出したあたしは代わりにドラマなどで窓拭きのおじさんとかよく持っているゴム製の横に長いブレードがついた掃除道具(スクイジーと言うらしい)の大きい奴を握るとほとんど反射的に自分の前に構えた。

 乾いた音を立てながら、もう一本の柄と、あたしの持っているスクイジーの柄が交差する。勢いで弾け飛んだ水滴が太陽の光を反射して輝いた。

 交差しているものを離してからちっ、ともう一本の持ち主である結城が舌打ちした。

「あ、あんた……不意打ちとは卑怯なり!」

「お前が言うな!」

 未だに構えたままだったあたしの柄をかつんと横に弾き飛ばしてから一歩踏み込んでくる。

 どう考えても圧倒的にあたしが不利すぎるので魔法を使おうか迷っているとわざとらしい咳払いが聞こえてきた。

 二人して、動きを止めて、恐る恐る振り返ると満面の笑顔の周防徹さんがこちらを見つめていた。


 今は、その笑顔がどうしようもないほど、怖い。


「そんなに仲良く遊んでたいなら二人まとめて塩素と言わず塩酸のプールにぶち込んでやりますけどどうします?」

 有無を言わせぬ、その笑顔に、思わず顔を見合わせたあたしたちは咄嗟にお互いの手を取り合いながら「いいえ、結構ですお掃除させてくださいお願いします!」と声を揃えるしかなかった。




 プールの水槽内の掃除はヘドロ取りから始まった。

 これでも軽く掃除しておいた、とのお言葉は嘘ではなかったらしく、思っていたよりはヘドロの量は少なかった。この作業自体はさほど手間はかからなかったように思える。

 大きなゴミ等も手作業で片付けて、プールサイドの端に寄せた頃になるとすでにサイドの掃除を終えたらしい小町ちゃんもこちらに合流してきた。

 水で薄めた洗剤をぶちまいてからはスクイジーをブラシに持ち替えて、ひらすらこすって汚れを落とすという作業が始まった。

 これがなかなか大変で、二十五メートルくらいならまだ笑ってこなせていたものの最悪なことに五十メートルのプールでやるから頭が痛い。いやむしろ頭痛が痛い。

 この辺になるとそろそろビクビクしなくなった美里さんが床をこする手を止めず、口を開いた。

「しっかし、結城、どうすんのさ、まだジャージ乾いてないじゃん」

 そう言った彼女の視線の先にはまだ生乾きのジャージを着たままの結城が居た。

 彼はどういうわけだかあたしに批判的な視線を浴びせてから「どうしようか、ほんとに」となぜかあたしの方を見たままどうしてか全然分からないが吐き捨てるようにそう言った。

 そんな彼にけらけら笑ってから美里さんがさらに、

「というかさ、普通は女子のジャージが透けてさ、下着とか見えちゃう的なラッキースケベが起こるもんじゃないの? 男子的にそれを期待してたんじゃないの?」

「だからジャージの上、着て来たんじゃない」

「まぁ、そうだけどさ」

 さすがにあそこまでびしょ濡れになる『事故』が起こるとは思っていなかったが。

 ジャージの袖をまくって作業しているおかげで必要以上に暑い。こんなことなら透けてもいいんじゃないかなとちらと思ってしまう自分が嫌だ。

 ブラシの柄に顎を乗せながら美里さんがさらに続けた。

「ぶっちゃけ結城のジャージが透けても誰も得しないよなぁ」

「得されても困ってたけどそれはそれで腹立つな」

 ごしごしと床をこすりながら不機嫌そうな結城をフォローしようとでも思ったのか周防が言う。

「僕は得しますよ、東雲くん」

「やめろ冗談だと信じてるが洒落にならん!」

 ぶんぶんと首を左右に振る結城に本気なんだか冗談なんだかよく分からん笑みを浮かべる周防だった。

 あたしまで顔を引きつらせていると「あ、でもさ」とリンリン。

「東雲くんって意外と細いんだね。筋肉もないみたいだし」

「わ、悪かったな……」

 ぷいっとそっぽを向く結城をフォローしようと口を開く。

「だって考えても見なさいよ。結城が筋肉むきむきのごっついマッチョマンの創造主だったら多分あたしはじめて会ったときに泣いてるから。この魔力でその見た目とか泣いてるから。財布差し出しながら土下座レベルだから。だから結城は見た目だけでも軟弱で居てくれた方がいいのよ」

「お前それフォローのつもりか? うん?」

 嫌な笑顔でこちらを見つめてくる結城から視線を逸らしているとじーっと美里さんが周防を見つめた。こてんと不思議そうに彼が首を傾げる。

「なんですか?」

「いや、結城に比べて徹は筋肉ありそうだなと」

「……否定はしませんけど」

「嫌味かー!」

 んなー、と周防に食って掛かる結城はさらに泣きそうな声で叫ぶ。

「どうせお前は腹筋割れてるんだろ! クソが! イケメンで身長が高くておまけに腹筋まで割れてんのか! 周防なんて! イケメンなんて!」

「今僕凄い理不尽に罵倒と称賛を同時に受けてますよね、あと割れてないですし」

 困惑した風に返す周防にふむぅ、と疑わしそうな視線を美里さんが投げ掛ける。

「あのバイオレンスぶりで腹筋割れてないとはさすがに思いたくないなぁ」

「蒼井さんまで」

「ちょっとだけ、ちょっとだけ見せて」

「なんですかその新手のナチュラルなセクハラ」

 自分のジャージに伸びかけていた美里さんの手をぺちんと払いながら周防が一歩後ずさった。

 ぶーっと美里さんが不満げに口を尖らせた。

「なんだよケチー」

「あのね」

「そうだお、けちんぼ。見せて、とおるんの肉体美」

 ん、と全員の動きが止まる。

 明らかに、今までこの場にいなかったはずの人物の声が聞こえた気がする。

 声の方に振り返ってみるとプールサイドでしゃがみこみながらにこにこ笑っている白咲恭子の姿があった。

 嫁、もとい天敵が現れた周防は顔を引きつらせながらまた一歩後ずさる。

「しろさ、お前、いつからいた!?」

「とおるんがイケメンってとこから」

「はいはいどうせ俺はイケメンじゃねぇよ」

 なぜか自虐的になってはぁーとネガティブな溜め息を吐く相方の背中の何も言わずにぽんぽんと叩く。

「邪魔しに来たなら帰れ」

「やーん、冷たいとおるんもしゅきらお。差し入れ持ってきたのでーす!」

「差し入れ?」

 美里さんが聞き返せば「てってれれてっててれー!」とどこかで聞いた気がする効果音をいくつか混ぜ合わせたような音を自分の口から出しつつ、白いビニール袋を取り出した。

 中には缶ジュースやペットボトルがぎっしりと詰まっている。わあ、とリンリンが手を叩く。

「いいの?」

「勿論にゃん」

 こくんと頷いた恭子は袋を差し出しながら「まだみんなにちゃんとお礼もできてなかったし」とだけ告げた。

 なんのお礼か、は聞くまでもない。

 溜め息を吐いた周防は恭子を見上げたままで呆れたように告げた。

「別にお前に礼をされなきゃいけないようなことを僕はしてないぞ。変な勘違いするな」

「いいにょー、キョウキョウの気持ちの問題にゃのー」

 プールサイドに腰かけてじたばたと足を動かす恭子がそう言えば美里さんが「で、出たー、徹お得意のツンデレだー!」

 周防が一気に美里さんに向き直り、声を荒げる。

「はぁ!? 誰がいつこんなのにデレたって!?」

「またまたぁ、ほんとは好きなくせに」

「誰が」

 と、一瞬恭子をちらりと見た周防はなぜか気まずそうに顔を逸らしてからプールの端の方へと逃げていく美里さんを追いかけて行ってしまった。

「やーい、徹のツンデレー!」

「あんたは小学生か!」

 とか言いながら追いかけっこしてる周防に「とおるーん! とおるんが好きなコーヒー残しとくからねー!」と恭子は満面の笑みで手を振っている。

「一旦休憩するかの」

 そう言った小町ちゃんはすでにプールサイドに手を掛けて、飛び乗っている最中だった。

 そのあとに続いて、結城とリンリンも上がって行く。あたしも、と手を掛けて、地面を蹴った。

 ところが、あたしの体はプールサイドにのし上がれるほど持ち上がらず、ばたばたと足が宙で泳いだ。

「おっけー、おっけー、まだ慌てるような時間じゃない」

 一旦、水槽に降りてから再度手をつき、地面を蹴る。

 けれどもやっぱり体は上手に持ち上がらない。黙って見ていた恭子がぷっと吹き出した。

「んな……笑うなー!」

「だって、変だもん」

「うるさいわね、チビなんだから仕方ないじゃない!」

 単に腕の力がないだけとも言います。

 もう一度地面に降りてから「こんにゃろー!」とやけ気味で飛び上がる。

 が、やっぱり届かない。もう階段使っちゃおうかなと悩んでいるとぐいっと何かに引き寄せられた。

 救出されたアザラシのようにごろんとプールサイドに引き上げられたあたしのことを見ながら結城が笑い声をあげた。

「お前さぁ……登れないなら最初から言えよな、助けてやったのに」

「う、る、さ、い」

 一音ずつ区切って言ってやれば「はいはい」と苦笑した結城があたしの頭をぽんぽんと撫でつけた。

 馬鹿にされてるようで非常に腹が立つ。むすくれていると「ほいこれ」と恭子があたしの頬に冷え切った缶を押し付けてきた。

「わひゃ」

 思わずこぼれてしまった声にまた恭子が笑う。

「あはっ、わひゃだって、お嬢かんわいいー」

「何、馬鹿にしてんの?」

 ふんだくるように恭子から缶を受け取って、プルタブを起こす。

 それから恭子の横に腰かけて一気に傾ける。流れ込んできた液体は、非常に甘ったるかった。喉を焼くようだ。げほげほと咳き込みながら「何これ!」と缶を見る。

 缶には『特濃クリームジュース』と印刷されていた。そんなあたしを見て、恭子がにぱっと笑う。

「あ、それ飲んだんだ。それ当たり」

「当たり!?」

「なんと同じものがもう一本」

「いらないわよこんなの!」

 吠えてやるとくすくす笑った恭子は「じょーだんじょーだん」と緑茶のペットボトルをよこしてきた。

 あるならはじめから素直に出せよ、とがっくりしながら蓋を開けるとあたしの相方がすとん、と恭子の隣に腰かけた。

「あれからどうよ」

 そんな七文字の問いかけに、恭子は悩んでいるのかなかなか答えを口に出さなかった。

 間を空けてから「どうもしてないよ」とだけ答えてみせた。そっか、と結城。

「あ、でも強いて言えばとおるん優しくてちょっと気持ち悪い」

「そうなのか? 俺には変わらず鬼に見えるけど」

「優しいよ、前から優しかったけど。最近はキョウキョウのこと割れ物扱いだよ」

 ふふ、と薄く笑った恭子は「徹になら壊されてもいいのにね」

「……俺ら、あのとき、白咲のとこに行ったの間違ってなかった?」

 今度は迷わずにうん、と恭子が頷いた。

「来てくれて、よかった。それだけは本当。しのしの可愛かったしね」

「やめろあれは黒歴史直行だから」

 悩ましそうに頭を抱える結城に「可愛かったけど、かっこよかったぞ。とおるんほどではないけど」とウインクしてから「お嬢は相変わらずだった」

 肩をすくめる。

「優しく帰って来いって諭すのはあたしの性に合わないのよ」

「そんなお嬢がキョウキョウ大好きだおー」

「あたしもだおー」

 恭子と顔を見合わせてくすくす笑う。

 よし、と立ち上がった恭子は「キョウキョウ、もういくねん。ともともほったらかしだから怒ってりゅと思うし」

「そうか。よろしく伝えてくれ、ジュースさんきゅーな」

「うん」

 結城の言葉に笑い返してから恭子は大きく息を吸い込んだかと思うと叫んだ。

「とおるーん! またメールするねー! 電話もするねー! 今度の日曜デートしようねー! あいしてりゅー!」

 両手を大きく振ってから周防に何か言われる前に、恭子はそそくさと立ち去ってしまった。




 ジュース休憩を挟んでから再びブラシで水槽の底をこする作業が始まった。

 ただ一つ気がかりなことはプールサイドの端っこにうつ伏せで放置されている美里さんだがバイオレンス呪祖さんからすれば日常なのでそっとしておくことにした。触らぬ呪祖になんとやらである。

「りーん」

 しかしまぁ、あたしたちに限って何もなく作業を終えることができるはずもなかったのだ。

 プールサイドに立っていたのは、今度は死神こと神泉いずみだった。

「いずみ君! どうしたの?」

 恋人に会えて嬉しそうなリンリンに、これまた幸せそうにいずみっちが告げる。

「ん? 俺、今日は近くで練習してたからちょっと様子見。どう? 体とか大丈夫? ヘドロで滑ったりしてない?」

「あー……うん、私は大丈夫」

 一斉に視線を向けられて、開幕早々ヘドロで滑った人がさっと顔を背けた。

 いずみっちはそれで大体察してくれたのか深くは踏み込まず、美里さんをちらりと見てから首を傾げる。

「ちゅーか蒼井っちはどうしたの? 熱中症?」

「蒼井さんはこの世の中で踏み込んではいけない場所に踏み込んだので神罰がくだりました」

「……とーるちゃん、俺嘘はよくないと思う」

 さらっと怖いことを言う周防にさらっと返してから「でもいいなー、プール掃除。俺も部活なかったらやりたかったなー」ええー、と結城が顔をしかめた。

「なんでだよ。やりたくないだろ、こんなの」

「やりたいよー。ヤゴとかいそうだし」

「残念だったわね、いずみっち。生物部が全部救出済みよ」

 あたしの言葉にありゃ、と死神は眉を寄せた。

「そりゃ残念。小学校の頃の感動をもう一度味わえるかと思ったのに」

「そういえば」

 ブラシを動かす手を止めないままで結城がぽつんとこぼした。

「俺もヤゴ飼ったなぁ。友達と」

「……あんた、友達いたんだ」

「あとでしばく」

 さらっと怖いことをあたしに宣言してから空を見上げた結城は「なんて名前つけたっけな、ディオニウスだったかな」なんだそのいかにも暴君みたいな名前は。ヤゴにつける名前じゃないだろ。

 東雲少年のセンスを未来から心配していると結城の話はさらに続いた。

「でも、俺のヤゴは結局トンボになれなくて、友達のヤゴは綺麗な青いトンボになって飛んで行った」

 なんでだったんだろうなぁ、と不思議そうに呟いた結城の目は、どうしようもないほど、綺麗だった。

 綺麗だけど、なぜか、不安になった。手を伸ばさないとどこかで、それこそ飛んで行ってしまうのではないだろうかと思ってしまうほどだった。

「俺たちは逆だったのに」

 なぜかやたら意味深な一言を、小声で付け加えてその話は終わった。

 隣にいたあたしにしか聞こえていなかったようだが、あたしの表情でうっかり口が滑ったことに気付いたらしい結城が「あ、いや、とにかく、俺はヤゴを育てるのが下手くそらしい! おう!」と声を張り上げた。

 深く踏み込めるほどの勇気がなかった。

 リンリンの明るい声が話題を切り替えた。

「でも、私も今お掃除楽しいよ」

「それはまた、どうして?」

 周防に問われるとふふっと楽しげに笑ったリンリンが、

「だってみんなとこうやってお喋りしながらお掃除するの凄く楽しいもん」

 ……なるほど、美里さんといずみっちが天使と崇めるのも納得だ。

「可愛いやっちゃのう!」

「えへへ」

 嬉しそうな小町ちゃんに照れくさそうに笑い返すリンリンを見て胸を押さえたいずみっちがその場で膝をついた。

「やばい、リンの天使っぷりに俺の魂がやばい。導かれる」

「はいはい」

「あーリン可愛いなーもー死神とかやめてリンを見守っていたい。どう思う? これバイト辞める理由になるかな?」

「とりあえずお前限りなく目が本気なのがやばいな」

 呆れたように言う結城に構わずに「ああリン可愛いよぉ、知ってたけどなんでそんなに可愛いんだよぉ」といずみっちはにやけ面を両手で覆っている。幸せそうで何よりです。

 ばぁん、と鉄製の扉が勢いよく開く音がした。そこから入ってきたのはリーゼント頭の軽音楽部、二年、夢野(ゆめの)くんだった。

「やっと見つけた! いずみぃ! 練習戻ってこい、サボんなベース!」

「ああ、待ってリーダー! あと少し、あと少しだけ天使を見つめてから」

「来い!」

「いやぁあああリン、またー! 迎えに行くからー! 一緒に帰ろう!」

「うん、またねー! 練習頑張ってー!」

 若干のデジャブを感じながら、あの言葉の意味を深く考えないようにするためにまたブラシを動かした。

 そんなあたしを知ってか知らないでか、「よーし!」と結城が肩に腕を回して来た。

「競争するかお嬢!」

「また滑るわよ」

「あ、あんな失敗はもうしない!」

「どうだか」

 ふん、とすまし顔で笑ってやればぐぬぬと結城がブラシを握りしめた。

「負けるのが怖いのか? ええ? 怖いんじゃろ?」

 安っぽい挑発に顔を引きつらせる。

「なんですって? ジュニアプールお掃除選手権大会で準優勝して神童とまで言われたあたしになんてことを言うのかしら」

「今ちょっと信じかけたからさらっと嘘吐くのやめろ!」

 やなこった。心の中で舌を出す。

 うう、とリンリン関連の怪電波の持ち主が頭を抱えながら起き上がっているがそんなのは問題じゃない。

 問題はこの小生意気な小僧をどう黙らせるかだ。

「ふふ、こうなったら神童が相手してやるわ! 咽び泣きながら謝る準備をなさい!」

「望むところだ!」


 ただただ、ひたすらに誤魔化すためだけのやり取りだった。




「で? 満足しましたか?」

 ぜぇぜぇと側面の壁に抱き着くようにしながら息を切らすあたしを見て、周防が呆れたように告げた。

 結局、五十メートルプールをブラシをかけながらどっちが速く端から端まで行けるのかという小学生もドン引きの競争を三回繰り返したあたしたちだったがあの東雲結城があたしなんかに泣いて土下座しなければならないような事態になるはずもなく、結果としては結城はまたけろっとブラシ掛けに戻っているのにあたしはこのザマだった。

「満足しすぎて、死にそうよ」

 大きく息をしながらそう返せば周防が溜め息を吐いた。やめろよ、そうやってあからさまにそういうのするの。

 口に出す元気もない。復活した美里さんたちと今度はホースで水を流しながら掃除を続けている相方をあたしが黙って見ていると「『あんたが他人の幸せを望んだことで不幸になる奴がいるってことも自覚しなさい』」つい最近どこかで聞いた台詞だ。

「恭子が言ったの?」

「あいつはお喋りですから、特に僕にはね」

「……聞きだしたのね?」

 問いかければ、何も言わずに周防はにこにこしているだけだった。それだけで十分だ。

「呆れた」

「あなたが言いますか」

 ごもっともだ。

 反論できなくなったので黙っていると「あれは白咲だけに向けた言葉じゃないでしょう?」

「そんなことないわ」

「あなたはよほど、利他的な人間がお嫌いのようだ」

 舌打ちした。よく知ってるじゃないか呪祖野郎。

 腕を組みながら改めて周防に向き直ったあたしはきっぱり言い放つ。

「利他は最大の利己だって最近気付いたのよ」

 誰かを幸せにするために、自分を犠牲にして、身を削る。

 それは理想的で、本当はあるべき人間の姿で、とても美しいことなのかもしれない。

 でも、それで本当にみんなの幸せにできるのかという疑問に、最近答えを出せなくなった。

 誰かの幸せを願ったせいで不幸になった誰かの幸せを願っていた誰かは、自分が『その人が不幸だった』と思ってしまったら結局幸せにはなれない。不幸になった誰かはある局面では幸せかもしれないけど、今度は別の誰かがその誰かの不幸を嘆いて不幸になる。世の中っていうのはよくできているもんである。

 メリーバッドエンド。そういうもんなのだろうか。

「人間って嫌よね、どんな生き方しても自分勝手になっちゃんだもん」

 思わず目を伏せていると周防が小さく返してくる。

「あなたが捻くれてるからそういう考え方になるんですよ」

「返す言葉もないわね」

「でもまぁ、言いたいことは分かります」

 自分たちの手から離れて暴れ狂うホースを掴まえようとぎゃーぎゃー騒いでいる結城を見ながら「彼は、あなたが嫌いなタイプだ」

「ええ。大っ嫌いだわ。自分勝手で、他人のことしか考えてなくて」

「いつか誰かのために自分を滅ぼすかもしれない人。勝手なあなたは、それが許せない」

 今度はだんまりしてみた。

 やっと捕まえたー! 嬉しそうにホースを掴む相方を見て、息を吐いた。

「誰よりも優しい人があなたは嫌いなんだ」

「そう、だからあんたみたいなのは大好きなの」

 一発ストレートをぶち込んでみるとはは、と周防は笑った。

 ああ、あの優しさが何より嫌いだ。

 けど、何より愛おしい。だから欲しかったんだ。

 多分あの東雲結城が本当に、心の底から利己的な人間であったなら、あたしは彼とは組まなかっただろう。

 誰かの幸せを願う人、普通以上に、必要以上に。自分がどうなっても構わないと、そんな考え方をする人。

「なんて、かっこつけすぎかしら」

「捻くれ者だなと思いました」

「そんなんじゃないわよ。あたしは好きよ、世界中みんな救いたいっていう考え方。できたらいいなとも思ってる、大事な考え方だとも思う」

 両手を挙げながら「ただ、それができないからあたしたちがいるんじゃない」

 世の中は優しい人ほど生きづらい、理不尽だ。嘆きたくなる。

 どんなに願っても、どんなに足掻いても、均衡が崩れることは決してない。この酷く不条理なことが条理になってしまった世界で生き残るためにどうするのかを考えて進化したのが人間だ。その過程で呪祖といういらない副産物ができてしまったのだが。

「でもそんな理不尽で醜い全てを愛おしく思えたときに僕らはちょっと大人になるのさってね」

「誰なんですかそれ」

「誰でもないわ」

 小さく笑い返しながら「あんたはどう?」と首を傾げる。

「この世界を愛おしいと思う?」

 黒い双眸があたしを捉える。

 やがて、「どうでしょう」と実に曖昧な返事をして、周防までも暴れホースを捕えるためか、あたしの横をすり抜けた。

 すれ違いざまに、カウンター攻撃をかましつつ。

「あなたこそどうなんですか?」

 答えを聞く気はさらさらないのか、さっさと歩いて行ってしまった。

「あたしはまだ子供でいいわ」

 けれど律儀なワタクシは、そう答えてやりましたとさ。




 ブラシを投げ出しながら美里さんがその場で膝を折った。

「やっと、終わったぁ」

 目の前に広がっているプールはなんということでしょう、覆われていた苔やヘドロが綺麗に取り除かれて、元の清潔感のある青い床を取り戻していました。プールサイドには途中で水槽掃除に飽きた小町ちゃんがどこからか持ち出したパラソルの存在感が部員たちの苦労を表しているようです。

 と、某ビフォーアフターな音楽を流したい気分になりながら妙な達成感に包まれていた。

 どうやら結城のジャージも無事に乾いてくれていたようでよかったよかったなんて言いながら駆けてあった上着を回収している。

 空はすでに赤く染まっている。そんなに時間をかけてしまったのか、と自分たちの集中力に驚いていると「まぁ、凄い」と穏やかな声がその場に響いた。

 どこから現れたのか理事長が赤い日傘を差しながらにこにこ笑ってこちらを見ていた。

「理事長!」

「皆さんがプール掃除をしていたって聞いたものだから。こんなに綺麗にしてくれたんですね、ありがとう」

 黒いレースのついた日傘をくるくると回した理事長は「これで夏の授業も安心ですね」と笑うと次いで小町ちゃんに、

「小町先生、相変わらず素晴らしい子たちですね。これも小町先生の指導あってこそです」

「いやぁ、そんな……わっしの力ではないですが自慢の生徒です」

 と大きな胸を張る小町ちゃんに溜め息を吐いた。よく言うよ。

「せっかく頑張ってくれたんですし、理事長、アイス奢っちゃいまーす」

「マジすか!」

 ばっと立ち上がった美里さんが「すいません、ゴチになります!」なんて笑いながらリンリンの手を引っ張った。

「ああ、待ってよ美里ちゃん」

 わぷわぷと引っ張られながら歩いていくリンリンのあとに会話している周防と小町ちゃんが続く。

 取り残されたあたしと結城は顔を見合わせてから「行くか」「行きましょっか」

 持ってきた分の掃除道具をまた抱えながら歩いていると「なんだかんだで、楽しかったな」と結城。

「そう?」

「そうだよ。馬鹿騒ぎして、笑って」

 夕日で照らされた結城の顔に笑みが咲くのが見えた。

「いいだろ、部活って。青春だろ、楽しいだろ?」

 勝ち誇ったような笑顔で、なんだか無駄に腹が立った。

 肘で彼を突きながら「そうね、楽しいわね」と珍しく素直に答えてみた。

 あたしの言葉に、いつぞやのように嬉しそうに顔を輝かせた結城はへへ、と照れくさそうに笑っただけだった。

「何よその顔気持ち悪い」

 自分が恥ずかしいのを誤魔化すために彼の足を軽く蹴飛ばした。


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