Truth is stranger than fiction.④
前回までのあらすじ。
創造主になってみて、相方ができてみて、なぜか突然スタイリッシュ転職によって魔女になって、まーそんな毎日でもいいかなと割り切りながら高校に入ってみたらそこは化け物の巣窟でよく考えたら相方も化け物でした。その化け物が化け物を部活勧誘に行きました。終わり。
「フラれました!」
デスヨネー。
誰向けかも分からぬあらすじを一生懸命(三秒)考えていたあたしのもとへ相方はがっくり肩を落としながらそう言って帰ってきた。
元々そんな気はしていた。周防徹はこちらの交際のお誘いを受け入れてくれるような優しくて紳士的なタイプにはどうもあたしの目には映っていなかったのだ。
呪祖だから? いや、もっと根本的な部分でだ。
「あいつ思ったより手強い……」
すっかり上手くいく気満々だったお馬鹿さんは石段の上に腰を下ろしながら今にもずーんと重苦しい効果音でも流れそうなほど落ち込んでいるご様子だった。
体育座りをしながら拗ねている相方の隣に腰を下ろし、渋々、その話を聞いてやることにした。
「よっぽど酷いフラれ方したのね?」
「秒殺だった……俺のどこが駄目なんだ……」
むしろ全部駄目だろ。
とはいえ、あたしも相方に追い打ちをかけるほど鬼ではない。ぽんぽんと肩を叩きながら「諦めなさいな」と笑いかけてみた。
「やだ」
この返しは薄々予感していたが。
「いいか? 俺はな」
「諦めが悪いんでしょ?」
あたしもそれに散々振り回された被害者の会でもあれば、そのうちの一人だ。というか、そんなもんがあるなら会長になりたいくらいだ。
不屈の精神は美しいとは思うが時には屈してくれないと鬱陶しいばかりだ。それを相方に言っても実行してくれるはずもないが。
そんじょそこらの呪祖程度じゃ、あんなのに付きまとわれた日には持って半日だろう。
可哀想だと同情はしてやるがあたしもこれ以上必要もないのに結城に振り回されるのはうんざりだ。少しくらい生贄になって貰おうじゃないか。
建前はあくまでお友達を増やすだけだけれど。
そうともさ。友達は大いに越したことはないだろう。
我ながら凄く言い訳じみたことを考えながら予想通りの相手にどうしたものかと頭を抱えた。
全員分の試験が終わるやそのまま流れ解散ということになってしまった。
すでに荷物を抱えてきていてジャージのままでいいやと思った優秀な帰宅部たちは校舎に戻ることもなく校門の方へと走って行ってしまったし、荷物があればロッカーまで取りに戻る輩もいるし、着替えに校舎へ戻る生徒も多い。羨ましいことに部活がある生徒は部活棟の方へと向かってしまう。
あたしはといえば、荷物こそ持ってきていたものの中を見て顔をしかめていた。
「あ、しまった」
「どした?」
リュックを背負って帰る気満々だった結城に頭を抱えながら苦笑する。
「教科書、教室に置いてきちゃったみたい。取ってくるから先帰ってて」
「え、じゃあ俺も行く。ぼっちやだ」
素直だな、お前。
肩をすくめて言葉を返す。
「いいわよ、教科書取りに行くだけなんだから」
「じゃあ校門で待ってるから」
子犬のような目で見つめられてぐっと言葉を詰まらせた。
やがて息を吐いてから分かったわよ、と諦めの言葉を続ける。
「すぐ取ってくるから」
「おう、すぐ行ってこいよ!」
「あんたが勝手に待ってる割に偉そうね」
顔を引きつらせながらこれが東雲結城という奴だと割り切りながら渋々校舎の方へ戻った。
一人になりたがるタイプじゃないとは思っていたがここまでとは。早いとこ新しい友達を見つめて貰わなければこの三年間もずっと結城の隣で過ごすことになりそうだ。不服というわけでもないがどうせなら友人は多いに越したことはない。ひいき目だと言われそうだがあの電波さえなければ悪い奴じゃないんだし。またはあの電波が致命的とも言う。
下駄箱に靴を放り込んで、上履きと履き替えてから廊下を突き進む。
すれ違う生徒たちからの好奇の視線が辛い。無理もない、傍から見ればあたしは教師に開幕早々白旗を上げさせたコンビの片割れで、まとめて化け物という評価を受けていてもなんら不思議はなかったのだ。
慣れている。あいつの相方は化け物だと囁かれるのも、後ろ指を指されるのも。
あれくらいだけなら可愛いもんだ。いくらでも指差されてあげようじゃないか。優しい気持ちでね。
やっと教室の前に辿りついた。中から喋り声が聞こえてくるものの、別に乱入しようと思っているわけでもないし、さっさと教科書を回収して結城のところへ戻ればよかろうとなんの考えもなしに引き戸を引いた。
一瞬、話し声が止む。予期せぬ来訪者に話を中断したらしかった。男女四人のグループを横目にどうぞお構いなくと言うのも面倒でさっさと自分の席に戻って教科書を引っ張り出す。
人が教科書をカバンにしまっている間に、先ほどまで廊下に響き渡るほど大きさだった話し声はひそひそと潜められた声へと変わっていた。
いや、潜められた、という言い方は少々語弊があるかもしれない。あたしに聞こえないように『している』という『てい』であたしに聞かせるための嫌味ったらしい声量だった。
「ほら、噂をすれば、だよ。あれでしょ、例の釣り餌特待生って」
どうやらすでにクラスメイトの注目の的らしい。これはクラスのマドンナになる日も近いかもしれないですわおほほ。聞き捨てならないあだ名をつけられているようだが。
まだ目的があるようなフリをしつつもう少し自分の噂を聞いて酔っぱらってみようと思う。やっだーあたしってば自意識過剰。
「本人に大した実力がない割にいっつももう片方とつるんでほんと感じ悪いよねー」
「案外相方のことも自分の実力のうちとか思ってるんじゃねーの?」
思ってねぇよあんな化け物。
声の大きさが増して来た。もうひそひそという擬音は似合わない。完全にあたしに向けられた敵意を含む言葉だった。
単に東雲結城に直接文句を言う度胸もない連中があたしを見つけてここぞとばかりに憂さを晴らしているだけだろう。ついでによりによってあたしみたいなのが特待生に選ばれたのもきっと気に入らないことだろう。
「東雲結城をうちに入学させるためだけの釣り餌のくせに何調子乗ってんのって感じー」
果たしてあたしが釣り餌で本当に効果があったかどうかは疑問だがな。たまたま結城がここに来たかっただけの可能性の方が高いだろうに。結果的に同じ学校になってしまっただけであって、釣り餌だのなんだのは結果論だ。第一、あたしだって学費免除じゃなかったらこんな化け物学校に来なかったわ。
反論しようと思えばそりゃいくらでもできたがこんなところで向こうの安っぽい挑発に乗って余計な時間を使って、のちのち結城に怒られるよりここでぐっと我慢して帰りにアイスでも買って幸せに帰った方が精神衛生面でも明らかに素晴らしい。優先度で言ったらまだフラグが立つどころか知り合ってすらいないようなクラスメイトより三年付き合いのある怖い相方の方が高いのは当然のことだ。
とはいえ、このまま聞いていたらあたしの賢い左腕が相手の顔面にのめり込んでしまいそうなのでさっさと立ち去ろうと心に決める。机の中を覗き込んでいた頭をあげて髪を振り払う。
さー帰ろう。帰りにアイスモナカでも奢ってもーらお。
「おい」
あたしの決心を揺るがそうと強制フラグ建立イベントが発生した。こうなっては円滑で良好な友人関係の下での健全な学校生活を目標としたあたしとしては無視するわけにはいかなくなってしまう。ラブストーリーは突然にとも言うのだし、恋のチャンスをみすみす逃すわけにはいかないぜ。
「何かしら?」
愛想のいい笑顔(自称)を浮かべながら振り返ると机の上に座ってふんぞり返っていた男子生徒、斉藤くん(仮名)がぴょいと机から飛び降りてこちらに歩み寄ってくる。
その目には苛立ちが浮かんでいる。せっかく大きな声で文句を言ったのに無視されてはそれは気に入らなかったろう。ゴメンネ。
あたしの心の中で発せられる誠心誠意心のこもってない謝罪は彼のハートにちっとも届かなかったようで感動で涙を流すこともなくその瞳の苛立ちが増すばかりだった。
「あんた、すっげーよな、観たぜ今日の実習。相方さんが一瞬であの先生を降参させて。見てるだけで終わるだなんて羨ましいよ」
後ろの三人がくすくす笑う。人の幸運を笑ってくれるなんてなんていいクラスメイトを持ったのかしらあたしってば!
我ながらわざとらしい独白を並べつつ、笑みを崩さずそれに答える。
「おかげさまで。いい相方を持ったと自負してるわ」
ふぁさ。自分の黒い髪が宙を舞う。それがどうやら相手の神経を逆なでしてしまったらしい。
「半分呪祖なんだって? 元々普通かそれ以下の創造主だったんだろ? なんで特待生なんてやってるわけ? すげーよな」
褒めるように見せかけたあたしへの煽り。それにしては下手すぎるが。もっと上手に嘘は吐きなさいな。
にこにこにこにこ。頬が引きつって来た。いい運動過ぎて涙が出そうだ。
「理事長に誘って頂いたから、かな。あたしもよく分かってなくってさー」
「釣り餌なんだろ?」
「釣り餌ってぇ?」
馬鹿のフリして首を傾けながら聞き返す。
ところがそれが相手の血管をぷっちんさせるきっかけになってしまったらしい。プッチンするプリンよりキレやすそうな血管で心配になってしまう。
ぐいっとジャージの胸倉を掴まれた。元々身長が高い方ではないせいで持ち上げられるような体勢になってしまった。
空気が吸い込みづらい。
「あんまり調子に乗るなよ……! お前なんて東雲結城のおまけのくせに!」
んなこたぁ。
「あんたに言われるまでもなく分かってるわよ」
振り上げた足が自分の想像以上に強く相手にぶち当たった。ちょっと突き放すつもりだったのにあたしの足は素直だ。
あたしが反撃することをまるで考えていなかったらしく斉藤くんは軽く吹っ飛んだ。ぴーぴー泣くだけだと思ってたら大間違い。
「タハシ!」
残りの三人が机から飛び降りて慌てて斉藤くん(斉藤くんじゃないらしい)に駆け寄った。
あたしの方は乱れてしまった服を整えつつほっと息をついた。ああ、空気が吸い込めるって素晴らしいことだ。
「なにすんのよこのブス!」
おい今顔関係ないだろふざけんな。もっとマシな悪口持って来い。
面倒なので何も言わずに睨み返すと彼女は顔を歪めながらひっと短く悲鳴を上げただけでそれ以上の声はあげなかった。
「呪祖でも創造主でもないくせに! あんたなんてたまたまラッキーでこの学校に入学しただけじゃない! 特待生だからって偉そうにするんじゃないわよ!」
もう一人の女が金切り声で叫ぶ。どうやら彼女は運は実力のうちにカウントしない方らしい。というかあたしいつ偉そうにしたかしら。
自分の行いを反省しようとここ数週間の身の振り方を振り返ってみたが三秒で飽きたので「そんなに言うなら」とカバンを放り投げた。
「実力で証明したら?」
「東雲結城がいなきゃ何もできないくせに」
おっと。「おいこらてめぇ」つかつかとたった今言葉を発した小泉くん(仮名)のもとに歩み寄って笑う。
「もっぺん言ってみろよ」
「だ、だから」
若干引き気味になりながら彼が続ける。
「相方がいなきゃ何もできない役立たずなんだろお前は……!」
瞬間、指示を出すまでもなく伸びた鎖が小泉くんを直撃して壁に叩き付ける。
八つ当たりに八つ当たりするなんて格好悪いなぁという自覚はあるもののもはやあたしの怒りは抑えられないぜ。
「言葉に気をつけなさい」
「あ……ぁう」
正直ここまで素直に攻撃が通るとは驚きだ。よほど皆さん、怒っていたらしい。心中お察しいたしますわ。でもいじめカッコワルイ。
こんな方法で人気者にはなりたくないのでさっさと帰ろうと今度こそ荷物を拾い上げているとその声は鼓膜を揺らした。
「ああああ!」
嫌な金属音を次いで耳が捉える。
自分の照準が合わせられた音だと不思議と頭が理解した。拳銃だ。つまり次には。
「おいタハシさすがにまずいって!」
動揺したようなお仲間の声が聞こえてくるが斉藤くんには届いていないらしい。その声を掻き消すように銃声が鳴り響いた。
まずいな。頭に二、三発、銃弾がぶちかまされても半分呪祖なので生きいられる自信はあるが痛い思いはなるべくしたくない。間に合わないと分かっていながら左手をあげる。
ところが、いつまで経ってもあたしの神経は痛みを知らせては来なかった。鎖か何かがそれを防いだ様子もない。
どういうことだろうと振り返ってから状況を理解するのにさらに数秒を要した。
あたしの目の前に突き出されていたのは握り拳だった。白いテープでテーピングされたその拳がぱっと開かれる。ぱらぱらと鈍い金色の弾丸がそこからこぼれ落ちる。
「何しとるんじゃ主らは」
低い声にあたしをいじめてきた怖いいじめっ子たちがびくっと肩を揺らす。
拳の持ち主は先ほどあたしたちと試合をしてくださった松七五三小町先生だった。
細長い煙をあげる拳を見て、やっと彼女があたしに向かってきていた弾丸を受け止めてくれたのだと悟る。
四人は黙りこくったまま何も言わない。あたしも何も言わない。
「もう一度問うぞ」
低い声が鋭く四人を責め立てた。
「なぜ、指定特待生に銃を向けた?」
ひっとどこからか悲鳴が上がる。
「それとのぅ」ぱんっぱんっと手を合わせ、払いながら小町先生は続けた。
「指定特待生は何も、特定の生徒を釣りたいがために選ばれたわけでも、ましておまけでもないのだがのう。それは特待生を最終的にお選びになった焔華理事長への侮辱とみなし、特別指導になるがよいのかのう」
「ち、ちが……!」
「そもそも主ら、文句を言う相手を間違えてはおら」
「小町先生」
彼女の声を遮って、表面上は穏やかに言葉を続ける。
「彼らの言葉に対して煽るような言動を取ったのは私です。私にも責任の一端があります」
「……ほう?」
意外そうな顔で四人と小町先生がこちらを見上げる。
勘違いするな。面倒に巻き込まれたくなかっただけだ。それより校門で待っているであろう相方が死ぬほど心配なんだよ。
面白そうに口の端を引き上げて笑った小町先生は「まぁよい」と金髪をいじりながら続ける。
「指定特待生がそう言うなら今回は見逃してやろう。次はないと思え」
「は、はい!」
頭を下げながら、四人は揃ってあたしを見る。その目は「お前に助けて貰ったなんて思っていない」確かにそう告げていた。肩をすくめてそれに返すとさっさと踵を返して、廊下へ飛び出て行ってしまった。
心の中で舌を出しつつその背を見送っていると「全く」と小町先生は呆れたように腰に手をやった。
「あれだけ言われて見逃してやるとは主も雅量があるんだか、人がよいのだか」
「別にほんとのことしか言われてなかったし」
つんつんとこめかみを示しながら笑う。
「万一銃弾をぶちこまれても死なない自信はあるし」
「化け物じゃのう、その自信は」
「あたしの相方の方が化け物ですよ」
両手を広げながらあははと笑うと「そうかの?」と小町先生は首を傾げた。
「わっしには主の方がよほど恐ろしく映るがのう」
驚いて、ついつい彼女を見返してしまった。あたしが? そんな問いかけが飛び出たのはすぐだった。
小町先生はくすくす笑いながら頷いた。
「うむ、主がじゃ。わっしには主が、東雲結城以上の怪物に見える」
「視力検査が必要ですよ、それ」
「そうかの?」
楽しそうに笑う小町先生は窓の方まで歩み寄るとそのままその鍵を開けた。
窓を開け、その枠に腰かけながら「時に主らは」と誰かとあたしをひっくるめた言い方で話題を変えた。
「部活を作りたいとかどうとか」
「……有名な話題なんですか、それ」
「理事長が今朝の職員会議で心底嬉しそうに言うものでな。忘れられんかったわい」
あの人案外お喋りだな、内心顔をしかめていると「顧問は見つかったかのう?」首を左右に振る。
「いえ、まだ」
「そうじゃろうな。入学当初から教員たちの間でも主らは関わりたくない生徒の部類じゃ」
なんてこった。生徒だけじゃなくて教師にすら疎遠にされてたのか。
「だからこういうのはどうじゃ?」
あたしをまっすぐ見つめながら小町先生は用意されていたのであろう台詞をすらすらと言い放った。
「わっしが主らの部活の顧問を引き受けてやろう」
きょとんと。彼女を見返すあたしの表情は心底間抜けだっただろう。
「部室もわっしが用意する」
「え、なん」
「ただし条件が一つある」
ぷらぷらと長い足を揺らしながら「明日の昼休み、わっしに弁当持って来てくれんかの」
「……はい?」
訳が分からず聞き返すも気にした様子もなく言葉が締めくくられる。
「それが条件じゃ。呑んだら顧問を引き受ける」
教師の間ですら関わりたくない生徒認定をされているのが本当だとしたら、万一、周防徹を、否、別人を引きずり込んできたとしても顧問が見つからない限り、部活設立は叶わないだろう。
明日、二人分の弁当を単に三人分にするだけで顧問が見つかって結城のわがままが一つ解消されるのだとしたらこれほど美味しい話はない。
「いいですよ」
返事はこれしかなかった。二つあるように見せかけて選択肢は一つだけ。
にかっと小町先生が笑う。活発なのに、言葉遣いとテーピングにはどこか似合わないそれはそれは魅力的な大人の笑みだった。
「決まりじゃな」
ぴょいと窓枠から飛び降りて彼女はテーピングされた手をこちらに差し出した。
その手を握り返しながら校門に居る相方も心底喜ぶだろうと息を吐いた。
それを伝えた結城の反応は大方予想通りのものだった。
最初はあたしがいつまで経っても戻ってこなかったことに不満げにしていたものの、小町先生が顧問を引き受けてくれることになったと言えばあたしに抱き着きながら「どんな魔法を使ったー!」と上機嫌だった。
本当に嬉しそうな相方をなだめすかしつつ、適当に脚色と事実の隠ぺいを交えながら事の次第を話してようやくあたしは帰路につけた。
さっさと着替えを終えて、掃除やら洗濯やらやることを終えてから夕飯自体を作り終えたのが大体六時前ほどだった。
「たっだいまー! サービス残業なかったぜざまぁみろぬははは!」
母が家に帰ってきたのもその頃だ。
ばたばたと子供のように足音を立てながらキッチンの方へと猛ダッシュしてきた母にもはやおかえりを言う気力すら奪われた。自分の母親がここまで馬鹿だと言葉も出ない。
鍋を火から下ろすことに必死になっているフリでそれを無視していると「ご飯はー? ご飯ー」とすすすとスーツのままの母にすり寄られた。
「もうできてるから食べていいわよ」
「あれ、この煮物は?」
「これは明日のお弁当」
というあたしの返しは最後まで聞かずさっさと鍋の中からまだしいたけを取り出して口の中に放り込んでしまった。まだ熱かったらしくはふはふとその場でぴょんぴょん跳ね回った母は「にゃんちゃん天才!」とサムズアップするだけで料理の感想を述べてくれた。
行儀の悪い母親だと叱りつける気にもなれず「いいからさっさと弁当箱出して」とだけ言い放つと乗せておいたおかずを運ぶために盆を持ち上げた。
「なんだよ冷たいなー」
とかなんとか文句を垂れていたものの特に構わず居間へ料理を運んだ。心底できた娘だよ。
全部運び終わった頃に母親はビールの缶片手に居間へとやって来た。いつものことなので文句を言うことなく、二人揃って手を合わせていただきますの挨拶をするだけだった。
グラスの中にビールを注ぎながら「そういえば一緒にご飯食べるの久しぶりだね」となぜか嬉しそうに母が告げる。
そういえばそうだったかもしれない。遅くまでのお仕事はザラはお母様とさっさと食ってさっさと寝たい派のあたしだとどうしても生活リズムが異なってしまって一緒に食事をとる機会はさほどない。
「そうだったかもね」
鮭のムニエルと突きながら無感動にそう返すとむぅと母は顔をしかめた。
しかし、もうあたしがこういう性格なのを誰より知っている人なので特に何も言わずにご飯を口に運びながら他愛もない話題をぶつけてきた。
「最近どう?」
「別に」
会話終わった。
そのつもりだったのだが母の方は絶賛継続中だったらしく、問いかけは続く。
「学校楽しい?」
「普通」
「今日は何した?」
「実習」
淡々としたやり取りでも母は何が満足なのかにこにこ笑っているばかりだった。
「いじめられてない?」
心配そうに母があたしを見上げた。
肩をすくめながら「いじめられるタイプに見える?」ううん、と首を左右に振った。
「でも心配してたから、東雲くんも」
「いじめられてるのはむしろあいつの方よ」
「え?」
ごきゅごきゅと喉を鳴らしながらビールを呷っていた母が首を傾げるのでなんでもなーいとだけ言っておいた。
新しい朝が来た。特別希望に満ち溢れてはいなかったが。
弁当を二つ突っ込んだ通学カバンを抱えながら通学路を歩くあたしの足はどこか軽かった。朝の情報番組で占いが一位だったとか、運試し企画で当たりくじを引いたとかじゃなくて、一人の通学路のありがたみの噛み締めてしまっていたのである。
エール霧雨学園は申請さえすれば自転車通学も許可している。あたしの相方も自転車通学者の一人で、だからこそ、朝に遭遇することはそうそうない。一人の時間も大切なのよなんて都合のいいことを考えながら学校を目指していると視界にここ二、三日ほどであたしの中では関わりたくない人物堂々第一位まで上り詰めた呪祖の姿を捉えてしまった。
関わりたくないのは恐らく向こうも同じだろうと思う。あの結城の誘いを断った時点でよぉうく分かる。
しかしだよワトソン君。あたしの中の居もしないはずのシャーロックが囁くのだ。君の目標はなんだったかね、と。
なるほど、相方の友人はイコールあたしの友達だ。むしろソウルフレンドじゃないか。心の友と書いてしんゆうと読む一生モノの友達ではなかろうか?
なんて即席の建前兼言い訳を調達しつつあたしの口は実に円滑に朝の挨拶だけを吐き出した。
「おはよう周防クン」
自分の名前が呼ばれたせいでこちらに振り返る彼に両手を合わせ、頬に寄せながらこてんと首を傾けて私は無害ですよと言いたい笑顔を振りまいた。
そんなあたしに何を思ったのか周防徹は一瞬だけ顔をしかめてから、またあの爽やかすぎて顔面に右ストレートでもかましてやりたくなるような笑顔を取り戻して軽く頭を下げた。
「おはようございます、半分呪祖さん」
ほほう、それは挑発のつもりかね。そんな安い煽りには乗らないぞぷんすか。
「昨日はきちんと挨拶ができなくてごめんなさい。不快な相手を見るとついつい攻撃的な態度が出ちゃうのがあたしの悪い癖なの」
「いえ、とんでもない。それは僕も同じですから」
にこにこにこにこ。どっちが笑顔を保てなくなるか選手権でもやってる気分だ。
お互い一歩も譲らずに、相手よりとにかく早く校門に行こうとでも考えているのかすたすたと通学路を歩く。
「改めて、うちの相方が色々お世話になってるみたいでありがとうね。迷惑かけてないかしら」
「大迷惑です」
社交辞令もクソもないくらい一刀両断された相方であった。ああ、知ってた。
あくまで笑顔は崩さないまま、指に髪を絡めながら謝罪の言葉を口にしておくことにした。
「ごめんなさいね、彼、物事の加減をあまりよく分かってないアホだから」
「そのようですね。まさか一緒に部活やってくれと頼まれるとは思ってませんでしたけど」
「こっちの事情に詳しい相手の方が色々と都合がよくって」
くすっと笑ってやるとにこっと笑い返された。多分お互い目は笑ってなかったと思うが。二人揃って肩を並べて歩くという仲良しごっこに興じつつ「やっぱり気は変わらないかしら?」
「ええ」
即答だった。つまらない男だ。全く恭子はどこをどう思ってこんなんに惚れて合格したんだか。
このスカシ野郎が笑顔の下で何を考えているのか、生憎透視の力がないあたしには分からないが一つだけ分かったことがある。
こいつとは絶対気が合わない。
「どうして彼を相方に?」
昨日の連中とは違った、純粋な問いかけだった。ああいう陰湿な攻め方をしない辺りを見るに性格はこっちの方が悪そうだ。
「凡才ってのはさ、天才の人生に巻き込まれなきゃいけないようなとこがあるのよ。あたしみたいなのは尚更」
「極論です」
「そうかしら」
そうですよ、そう言った呪祖はあたしを見つめながら「少なからず僕はお断りです」とだけ言い放った。
ふぅん、なるべく無感情のつもりでそう言ったができていたかは疑問だ。
気が付けばほとんど同時に校門を潜り抜けていた。ぴたりと足を止めて、頭を抱える。
「あのさ」
「はい?」
踏み込んで突き出した拳が一瞬で受け止められた。別に当てようと思ってなかったからかえって受け止めてくれて助かったくらいだ。
感情は込めないように、無感情に。言い聞かせながら続ける。
「別にあんたみたいなの、だいっきらいだから正直何しようがどうでもいいんだけど」
ぐぐっと、無駄だと分かっていながら拳に力を込めつつ、笑う。
心の底からこぼれた『笑顔』だった。
「うちの相方、馬鹿だからさ、あんまりいじめないでやってくれないかな」
相方に絡まれるのは少々不快だ。いや、絡んでるのはあいつなのだが。追っ払う程度ならやってくれて構わないが、それ以上があるなら話は別だ。あれほどあいつを落ち込ませた以上はこっちも腹が立たないというわけにはいかないのだ。
穏便に? ご冗談を。厄介事に首を突っ込む東雲結城の相方のお嬢さんですよあたしゃ。
このまま殴り合いに発展するのも悪くないだろう。いっそ力でねじ伏せて言うことを聞かせてやればいい。二手目をどうするか考えていたが、その思考は強制破棄に追いやられた。
一瞬の出来事だった。周防とあたし、お互いに地面を蹴り、距離を開けた。
そして、一拍を待たずして、その空いた隙間にがしゃんと音を立てながら『自転車』が『落ちてきた』。
そう、空から自転車が『降ってきた』のだ。
な、何を言ってるかわからねーと思うが。
「親方、空から馬鹿が」
おれも何をされたのかわからなかった。
空から馬鹿が降ってくるなんて今時少女漫画でもなさそうな展開だったもののその自転車に乗っていた馬鹿はハンドルに額をくっつけながら「し、死ぬかと思った……」と項垂れていた。
周りの生徒どころか校門でおはようを連呼していた教師すらも驚愕している中で唯一、いつものことだと我ながらびっくりするくらい冷静だったあたしは「おはよう」と極めて落ち着いた声音で彼に声をかけていた。
「あーおはよ、お嬢ー間に合った褒めてー」
「その前にあたしの認識が正しければ自転車は空を飛ばなかったはずよ」
腕を組んで首を傾げる。あたしの心の中はおい、どういうことだ説明しろ東雲である。
「いや、なんていうかさ」
「うん」
「今日寝坊して、このままだと全力でチャリ漕いでも普通に間に合わないなって思って」
「はい」
「だったらビルの上とか飛び越えながら来たらまだ間に合う希望があるんじゃねって思って、魔法使ってここまで来たっていうか。最終的にめんどくさくなってチャリで飛んでたっていうか」
「再度言うわ、自転車は本来、空飛ぶ魔法の道具じゃない」
その発想があっさり出てくる辺りはなんとも天才らしい。もう天才っていうかここまで来ると変態の域だ。
物凄く簡単に言っているので聞くだけではとてもいい方法に聞こえるかもしれないがとんでもない。多分これができるのはごく一部だろう。
人に見られて騒ぎにならないようにするために自分と自転車にはステルスの魔法をかけて、重力を無視するための魔法もいるだろう。あと自転車それ自体のスピードを出すためにペダルを漕ぐスピードを上げるための身体能力へ働きかける強化の魔法と衝撃に備えて自転車の耐久を上げる魔法。その他もろもろを常に自分と自転車にかけ続けた状態で単純とはいえ自転車の運転まで要求される。
自転車ごとワープしてくるとか方法は色々あっただろうになぜこれを選んだのかといえば多分こいつの頭ではこれしか浮かばなかったんだろう。実行できるから。
どうせビルの壁とかも垂直で登ったりしたんだろうなと安易に予想できるのを悲しみつつちらと周防の方を伺うとすでに彼の姿はその場にはなかった。
「逃げられた」
「え?」
舌打ち交じりに告げて、がっくり肩を落とす。
そこでようやく教師による「し、東雲ぇえ! そんなチャリの乗り方があるかぁ! 交通法を学べぇ!」というもっともな怒鳴り声が聞こえてきたがあたしにはまるっきり関係ないので無視して校舎の方へ足を向けた。
「お嬢のばかぁ! なんで見捨てるんだよばかばかばかぁばーか!」
「お黙り」
昼休み、案の定教室の前で出待ちしていた相方にめちゃくちゃ怒られた。
「あんたの自業自得でしょ。自転車で空飛んでくるなんて思いつくのはあんたと宇宙人くらいよ」
「オジョウマイフレンド」
すすっと差し出してくる人差し指を振り払いながら頭を抱える。
「あんたやっぱり頭のでき方は宇宙人だわ」
「やめろよその憐れむような目」
うーと唸ってから「ていうか」と手元の弁当を見て結城は苦笑した。
「弁当、作ったのか小町先生の分」
「だって約束だし。どうせ二人作ってたんだから一人分くらい増えても変わんないわよ」
なんていうかさ、と結城が告げる。
「お前って根っこ真面目だよなぁ」
「はぁ?」
顔をしかめながら彼を見て何を言ってるんだかと首を左右に振った。
まさにお前が言うなとはこのことだ。
二人分の弁当を抱きかかえながら小町先生に言われていた教室に向かう。そのあとを黙っててこてこついてくる結城はもはやいつものことだ。可愛くないアホな子犬か何かとでも思っておけばいい。そうすれば基本的には害はない。害を呼び込むが。
部活棟こと旧校舎と現校舎は意味もなくガラス張りの渡り廊下で繋がっている。
日差しが差しこんでいる渡り廊下は暖かいどころか少し暑いくらいだ。上級生と思わしき何人かが昼食をとっている最中らしかった。
その横を通りながらやっと旧校舎まで辿りつくとやっと目的の部屋の前に辿りついた。渡り廊下を抜けてからまっすぐ進んで、階段の手前にある教室。ここだろう。
少し迷ってから扉を叩く。無機質なノックの音に答えたのは小町先生の声だった。
「わっしならおるぞ。遠慮せず入ってこい」
失礼しますと形式的に言いながら入ってみると小町先生が会議机とパイプ椅子だけがある空間で腰かけていた。机の上に。
白いカーテンが風に吹かれて揺れている。
さほど広くはないが、狭くもない程度の部屋だった。
「おお」あたしの姿に次いで相方のことも見つけると小町先生は嬉しそうに目を細めた。
「東雲も一緒かの、好都合じゃな」
「どもっす」
軽く頭を下げる結城に「なに、そう硬くならんでもよいわい」と小町先生は笑いかけた。
さすがに今日はジャージではないらしかった。白いドレスシャツに黒いスカートというなんともありがちな『教師像』まんまの格好だったが苦しそうに留められたシャツのボタンはさぞや男子の目を惹くものだったろう。完全に色気だらけというにはテーピングがあまりにも邪魔なような気がするが。
現に我が相方も昨日のジャージとは全く趣旨の異なる服装に目のやり場に困っているらしく悩ましそうに視線を逸らしているばかりだった。ああ、そうか、そういえばお前男だったな。
私的には物凄くどうでもいいことなので「はいこれ」と弁当箱を差し出した。
「頼まれてたお弁当です」
じっとあたしの手元を見た彼女はぱちくりと瞬きしてから首を傾げた。
「手作りか?」
「はい」
「そんな気を遣わずともコンビニ弁当でよかったものを……」
などという割に小町先生の声は弾んでいた。
「ついでだからここで食って行けばよかろう」とのお言葉に甘え、先生が改めて腰を下ろした席の前にあったパイプ椅子に相方とそれぞれ腰かけて彼女と向かい合う形で食事をとることになった。
リュックから自分の弁当箱を取り出す相方の手元をなんとなく眺めていると「どうじゃろう?」と小町先生。
「ここを部室にするのは」
「ここですか?」
「ああ。日当たりもさほど悪いわけではないし、適当に物を持ち込めばそれっぽくはなると思うのじゃが」
ぱぁっと相方の顔が輝いた。異議なしということらしい。
いいんじゃないんですかねぇ、なんて適当に返事をしてはおいたのだがどうも先生が聞いていた様子はない。
うきうきとした様子で包みをほどいた彼女は開けた蓋の隙間から覗き込むように中を伺ってからおおと歓声を上げ、ようやく弁当箱を開けた。
「べ、弁当じゃあ……!」
「そんなに感動しなくても……」
かえって恥ずかしい。
「ご、ご母堂がお作りになったのかの?」
「あ、いや、それはあたしが」
「主が!?」
「いや、なんか、意外だと思う気持ちは分かるんですけどそんな顔されても……」
心底びっくりした顔をされたので困っているとおお、おおと言いながら小町先生はさっさと割り箸を割って卵焼きにそれを伸ばした。
昨日お話して以来ついたイメージとは少しだけ違って、小さな口を開けながら恐る恐る口に卵焼きを運んだ彼女は口元を押さえた。
はっとして慌てる。
「ご、ごめんなさい、お口に合いませんでした?」
「う……」
口元を押さえ、体を震わせながら彼女は絞り出すように声を発した。
「うまいのう……! こんなまともな飯を食ったのは久方ぶりじゃあ……!」
「は?」
きょとんと固まっていると腕で目元を一回拭ってから彼女はばくばくと弁当の中身を口にかきこみ始めた。
まずくなかったならいいかと思いながら「え、ていうかまともな飯って……」と結城が顔を引きつらせていた。
「ここ一週間は金がなくてパンの耳しか食ってなくてのう……」
「それで顧問を引き受ける条件がお弁当ってわけか」
がくっと肩を落とす。教師が生徒に取引を持ちかけるなど普通はあり得ないことだがここに至ってはもはや無法地帯だ。問題はないのだろう。
「というか教師ってそんなに給料安いんですか?」
結城の遠慮もクソもなさげな質問に小町先生は嫌な顔一つせずに答えた。
「いいや。ただわっしの場合、実家の借金返してるからのう」
借金。嫌な響きだ。あのクソ野郎を思い出す。浮気だけじゃないからなぁ、あいつ。
ゾッとするような記憶を振り払おうと首を左右に振っていると「わっしは本当は悪魔の一種なんじゃがの」衝撃的な告白をされた。
「はい!?」
「いや、悪魔といっても魔族っちゅーもんでの? 本来なら魔界の上位の職業に就いたり、下手をすれば魔王になるんじゃがのう」
「……それがなんだって教師に」
恐る恐る問いかけると小町先生は苦笑した。
「我が一族はちーっと没落してしもうての。地位も名誉ものうなって残ったのは借金ばかりじゃ。魔王の採用試験にも落ちたし、一緒に受け取った教員採用試験は受かってたからつい教師になってしもうた」
「……なんていうか魔界も世知辛いんですね」
「うむ」
夢も希望が想像以上にない世界だった。というか魔界なんてものがあることをあっさり知ってしまった。あと魔王採用試験あるんだ。
何からツッコんでいいのか分からなくてあんな感想しか言えなかった自分を恨む。その話を聞いて何を思ったのか「先生、俺のおかずもあげます」となぜかたらこスパゲッティを献上していた。
「悪いのう」
けらけら笑った小町先生は「四月は何かと物入りでの。妹も魔王になるための専門学校に入ってその金も必要だったもんじゃから今月は特に厳しくて厳しくて」世知辛い。本当に世知辛い。あと専門学校あるんだ。
魔界の制度がいまいち分からないが「よかったらまたお弁当作ってきますよ」小町先生が嬉しそうに笑う。
「本当かの!?」
嬉しそうに笑う彼女に笑い返すくらいしか出来なかった。
嘘を吐いてる、ようには見えないし。弁当くらいなら別になんともないし。
煮物の里いもを嬉しそうに口に頬張りながら「ラジオでも聞くかの!」と立ち上がった先生はぽつんと置かれていただけだった古いラジオに手を伸ばし、スイッチを入れた。
ノイズを垂れ流しているそれはそのうちに適当な地方番組の電波を拾い上げたようで深刻げな声が聞こえてきた。
「続いてのニュースです。今朝、西朧町で猫の胴体と首が切り離された死体が何体も発見されました。先日にも同じような事件が相次いだため、警察は――」
たまたま聞こえた付近の町の名前に耳を傾ける。西朧町、地下鉄で数駅行った先にある町だったはずだ。閑静な住宅街という奴で、目立ったものはないが大きな駅への交通の便のよさなどが人気でそれなりに地価が高い、高級住宅街にあたる。
「物騒じゃのう」
などと小町先生は呑気に告げる。
その声を聞くことは、あたしにしてみれば隣の相方がきらきらと輝いた瞳でこちらを見ていることからの現実逃避だった。
日が落ちて、さらにもっとずっと深くへと太陽が沈んでしまうと何もかもが眠ってしまう。
人は明かりを消して、穏やかに寝息を立て、草木は二酸化炭素を酸素に変える作業をやめてしまう。冷たい空気すら、もはや眠ってしまっているのではないかと思うほど確かな静寂を保っていた。生き物がいるということすら忘れてしまうほど生気がない。皆が息を潜め、朝を待つ。草木も眠る、とはこのことだろう。
空を見上げても濁った空にはまともに輝いている星などほとんどなくて、月が綺麗ですねとプロポーズするには雲がかかった月では少々物足りない。
恐ろしくなるほどの静寂の中であたしの耳を揺らしていたのは洋瓦の上を走るからからと乾いた足音と二人分の呼吸の声だけだった。
目の前の足が地面を蹴り上げ、少し距離の空いた別の屋根へと飛び移る。そのあとに続いて、あたしの体も空気を突っ切って別の瓦へと飛び移った。
「しっかし、まさか江戸の忍者か仕事人みたいな屋根走りを自分ですることになろうとはね」
ようやく先導していた人物が足を止めたのでその場で腰を下ろしながら苦笑する。
黒いジャージ姿の先導者――ぼやかす必要はないのではっきり言えば、当然ながらこいつは東雲結城だ――はそんなあたしを見下ろしながら月明かりの下で小さく笑った。
あの瞳を向けられるとどうも弱い。もっと意思を強く持たなければと思う一方でこんなところまでついてきてしまった自分にうんざりする。
西朧町まで行くと結城が言い出したのはある意味では予想通りの言葉だった。猟奇的な事件は確かに呪祖の可能性がなきにしもあらずだ。徹底的に呪祖狩りをするならここに来るのは当然のことだ。
夜中に叩き起こされたのは予想外だったが。
噛み殺しもせず、欠伸を口から出すと少々控えめに手を叩く。
ひらひらと現れたのは淡く輝く白い蝶たちだった。周りをくるくると飛び回り、指先や肩にひらりととまるその姿に笑みを浮かべる。
自分の魔力の一部を具現化し、使役する。あたしの呪祖としての魔法の中で一番分かりやすいものだった。
「怪しい奴が居たら随時報告。はい散った」
あたしの指示の通りに蝶たちは四方へと飛び去って行った。
ただ一匹を除いて。
「ねぇ、あの呪祖の坊やどうする気?」
くすくすと笑いながらあたしの目の前で羽を止めた青い蝶に顔をしかめる。
七号。形式的にそう呼んでいるだけの彼女は残りの蝶たちは創造主側の魔力から生み出しているのに対してあたしの呪祖の力そのものだ。
「どうするって?」
「殺すか生かすか」
「どうでもいい」
ひらひらと手を振って目を閉じる。
ほんの瞬きのつもりだった。しかし、次に目を開けるとそこにいたのは蝶ではなくて中学時代の制服を着た、というか中学一年ごろのあたしそのものだった。
「うお、ナナか……」
こちらの会話をちっとも聞いていなかったのか、さすがに結城も少し驚いたらしく身を引いていたがすぐに理解は及んだらしい。
「はぁーい結城」とかなんとか言いながら手を振った七号はじっとあたしの濁った瞳で捉えながらこてんと首を傾げた。
「本当はちょっと面白くないんでしょ、だったら殺しちゃいましょうよ」
全く、どうしてこいつはこうすぐに悪者みたいなことを言いだすのだろう。
ははっと笑いながら言い放つ。
「あたしは同族と事構える気はないわ。あたしの中に戻るか、今すぐ他の連中に加わるか選びなさい」
面白くなさそうに顔を歪めた七号は小さく舌打ちしてから瓦の上を駆けて飛び降りた。暗い夜の中に青い光が伸びていく。
それを見送ってゆっくり立ち上がると溜め息を吐く。
「そういうことよ。あたしは『あんた』とやり合おうって気は一切ない」
え、と結城が驚いた視線を送ってくる。なんだ、気付いてなかったのか。らしくない。
何かなかっただろうかと上着のポケットを探ってから飴玉を見つけて後ろに放り投げる。
それが洋瓦の上に落ちた音は聞こえない。代わりにぱしんと乾いた音だけが響いた。
「あげるわ。夜中は何かとお腹が空くでしょうから」
「レモンよりぶどうの方が好みなんですけど」
ようやくきた返答に苦笑しながら渋々、ポケットから紫色の袋を引きずり出す。
「貰う立場の癖に生意気ね」
そう言いながらも優しく慈愛に満ちたワテクシはその袋を再び後ろに向かって放り投げる。
目の前に何かが落ちてくる。黄色い袋だった。それをキャッチしてからまたポケットに戻すとやっと振り返る。
そこに立っていたのはあの笑顔を携えた周防徹だった。
「どうも」
一見人当たりのよさそうな笑顔を浮かべたままこちらに少しだけ近付いてきた周防が頭を下げる。
その視線の先に居たのはあたしだった。よほど嫌われているらしいと少しだけ辟易しながら肩をすくめる。
しかし、そんなのお構いなしに結城が問う。
「なんだって周防はこんなとこに」
「多分、君らと同じような動機だと思いますよ」
呪祖退治、大方向こうもこれが目的なのだろう。
なまじ、人間の思考に近い考え方をする、もしくは親が創造主の呪祖になると創造主と同じように動く連中もいないわけではないらしい。らしいという言い方しかできないのはあたしは実際にそれを見たことが今までなかったのだ。
そこでふと、妙な引っ掛かりを覚えた。
「あんた、なんの呪祖なの?」
呪祖になったからには必ず元の感情があるはずだ。そして大抵の場合、それは呪祖の性質、あるい性格として表に出る。
ところがどっこい、こいつからはどうもそれが読めない。それこそが恐らくあたしがこの男に対して感じるどうしようもないほどの違和感と嫌悪感の正体なのだろう。
薄ら笑った呪祖野郎は困ったように肩をすくめながら「人に聞くならまず自分から答えるのが筋でしょう」もっともだ。両手を挙げながらそれに答える。
「嫉妬よ。妬みと嫉み。自分にないものが欲しくて欲しくてたまらないの」
ぎくっと結城の肩が跳ねる。お黙りを言ってないのにあの某ペットロボット並のお喋りが黙っているところを見ると未だに気にしているらしい。むしろ気持ち悪いからやめろという意思をこめて飴玉だけ放り投げる。
両手でそれを受け止めた相方は目を伏せたまま包み紙を外して飴玉を口の中に放り込んだ。手を差し出すとゴミを渡せという意思は伝わったらしくぽんと包み紙を渡してくる。
そのゴミを反対側のポケットにねじ込んだところでようやく周防徹はあたしの質問に答えた。
「分からないんですよね」
顔をしかめた。
「分からない?」
「はい。覚えてない、と言った方がいいのかな」
結城に対して頷いてから彼は視線をあたしから外した。それでも一切の隙を見せない辺り、信用はされていないらしい。
「どうして自分が生まれたのかも、元々自分は何を思っていたのかも。自分の親のことさえ、ろくに分からない。ただ自分が人間じゃないって自覚くらいしか。自分が何者なのか僕が一番分かってないんですよ」
「……なんか、寂しいなそれって」
ぽつんとこぼした結城の呟きに心底驚いたように周防が振り返った。それが、あたしがはじめて見た周防徹の感情表現だった。
なぜかその表情に無性に安心した覚えがある。相変わらずあたしの相方は他人の感情を引きだすのがお上手なようだ。
驚愕交じりの視線に気づいたのか「あ、ごめん」と結城はまた視線を伏せた。
「いえ」
ふわと笑った周防は「そんなこと、初めて言われました」と目を細めた。
自分が誰か分からない、か。
「生き物ってそういうものじゃない?」
必要もないのに両手を広げ、バランスを取るような動作を見せながら笑う。
その動作とは関係なく、体を傾ける。視界が横たえた。
「そういうものだって前提があるからそうだと思い込むだけで実際はなんなのか、分かったもんじゃないんじゃないの? もしかしたらあたしだって本当はパンダなのかもしれないし?」
「お嬢パンダなのか?」
「例え話よ馬鹿」
きっぱり相方に返すと周防が小さく言う。
「極端ですよ」
「でもこういう話でしょ。自分が何かなんて求め出したらキリないわよ」
ひらひらと手を振りながら「せっかく呪祖になっちゃったんだからさ、自分の欲望が赴くままに生きればいいのよ。あたしたちはそういうものなんだから。ま、行き過ぎたら救済という建前で殺すけど」
黒い瞳があたしを捉える。
「あなたがそうしてきたように?」
「よくお分かりで」
にっと笑ってやると周防が小さく笑い返して来た。なんだ、そんな顔も出来るんじゃない。
「周防は周防でいいんじゃね?」
小さく呟いたのは結城だった。
いや、そこじゃないんだよなぁ相方。と思って口を開きかけるとくすりと周防はおかしそうに笑みをこぼした。
笑い飛ばすくらいしか出来ないのだろうか。それとも心の奥底から笑っているのだろうか。こればっかりはどうにもあたしには判断がつきかねる。
じっとその周防となんで笑われているのか全く分かってない結城がおろおろする様を眺めているとひらりと蝶が一匹舞い戻って来た。
「大佐! 報告があります!」
その声に苦笑しながら「おかえり五号、なにかしら」と問い返す。
一拍置いてからひらりと飛び上がった五号は「呪祖を見つけたであります!」と空中で一回転。
「でかした」
ポケットに手を突っ込んで飴玉の中からリボンを取り出してくわえる。
髪を後ろで束ねながら「おい呪祖野郎」と呼びかける。
「ついて来たきゃついてきなさい。止めないから」
「あなたに言われるまでもないですよ魔女さん」
視線を交わすだけ交わして、この光景を見てやたら嬉しそうな相方のことは無視することに決めた。
瓦を蹴り上げ、走って行くと、見下ろしたのは公園だった。
その公園の端っこでようやくその正体を知る。
灰色のパーカーを羽織った男の姿が街灯に照らされてよく見える。空気が揺れる。まず呪祖と見て間違いはなさそうだ。
どうやら獲物を探している最中のようでうろうろと辺りを見渡している。自分が得物にされていることも気付かずにだ。可哀想などと同情してやるつもりはない。捕食者の側にあたしを含むからである。
「みーっつけた」
思わずこぼれた呟きと一緒に屋根から飛び降りる。近くに停まっていた自動車になるべく傷をつけないように降り立って、万一傷がついていてもここに車が停まってるのが悪いとか言い訳しつつ手を叩く。
この世界の中心は人間さまである。いくらあたしたちが欲に忠実に生きるために生まれてきたと言えど、その人間さまのルールを破った瞬間に、言い訳もできないほどにあっという間に世界の敵になってしまうのだ。
人間だったら人間に気を遣い、創造主になればなったで自分より上の存在に気を遣い、魔女にまで落ちてもまだ、この世界に気を遣う。
安息の場はないのかもしれないと割り切れるようになったのは最近のことだ。
生きていくために、邪魔ならば他人の欲望も押しのける。それこそ、まさしく呪祖の生き方だ。
地面から伸びた鎖が男めがけて飛んでいく。寸前で気付かれたらしく、拘束するというわけには行かなかった。
こちらに気付いた男の首が不自然に曲がる。がくっという擬音でも付け足したくなるような角度で曲がった首をそのままにして静寂の中に言葉が投げ込まれた。
「創造主?」
「は、ず、れ」
精一杯の茶目っ気をサービスしてそれに答える。
とにかく今すべきことをぐるぐる頭の中で繰り返しながらさてどうするかと辺りを伺う。
刹那、自分の真横を何かが通り過ぎていくのが分かった。綺麗に蹴り込まれた右足によってバランスを崩してよろける呪祖とその足の持ち主が周防だということで大体の事情は把握した。
じわじわとその顔に黒い斑点が浮かび始める。
「やっと本性出してきやがった」
ふぅ、と息をつきながらちらりと周防を見てみる。
相手も同じことを思っていたのか視線が合う。なるほど、以前のあたしは少し早計だったらしい。
「あんたとは気が合いそうだわ」
「おや、同じことを考えていてくれましたか」
少なからず相方よりは、という意味だけど。
距離を保っていた呪祖が一気にこちらとの距離を詰める。タイミングを計ってこちらも一歩だけ踏み込むと足を振り上げる。
隣の周防と同じ動作。二人分の、おまけに魔力で強化された蹴りを喰らったせいか呪祖の体は一気に舞い上がる。それでも呪祖が死ぬ様子はない。タフな野郎だといっそ感心しているとくるりと奴が空中で体勢を立て直した。
「この苛立ちを誰も分かってくれない……だから今日はお前らではっさ」
「安心なさいな」
睨み付けながらそれに返す。
「そのストレスごとあんた、ぶっ潰されるから」
その言葉を待っていたかのように飛び出した矢が、何の迷いもなく軌道を描き、呪祖に突き刺さる。
ギィ、という苦しむ声はもはや人の出すそれではない。呆気なくバランスを崩した体が地面に倒れる。苦しそうにもがきながら咳き込んだ口から唾液に混じってごろりと黒い球体が飛び出した。
逃げるように転がって行く球体を足で止めたのは周防だった。じっと球体を見つめたあとに、何を思ったのか柔らかく微笑みながら足を持ち上げた。
「おやすみなさい」
ただ一言そう告げて、その足は球体の上に落ちる。
まるでガラス玉でも割るかのように砕け散ったその球体を見送ってからしゃがみ込み、突き刺さったままの矢に触れる。一瞬にして矢は砂のように崩れ落ちて、風にさらわれながら跡形もなくなった。傷口はいつの間にか塞がっている。
どうも矢の方に呪祖を体内から追い出す魔法と一緒に治癒魔法までかけていたらしい。通常なら何かを倒すための魔法と、治癒の魔法が同じ場所に同居することなどあり得ない。発動タイミングをズラせば可能ではないが、それはあくまで理論上だ。普通に考えればできたことじゃない。
そんな別々でかけることしか出来ないはずの魔法を平然とぶちかましてくるところは相変わらず化け物と言うべきか、やはり天性の創造主とでも言うのか。
屋根から飛び降りてくる相方を見ながらそんなことを思ってみる。
苦しそうに歪んでいた顔は今ではすっかり穏やかになっている。人間さまはいいよな、こんなことがあってもただの悪夢で終わるんだもの。
溜め息を吐きながら立ち上がった。顔を輝かせながら駆け寄ってくる相方に手を振り返すという動作は忘れずに。
がさ、と何かが揺れる音が鼓膜に届く。振り返って、その音の方に足を向けた。
植木をかき分け、中を覗き込む。きしゃあ、と威嚇するような声が次いで耳に届いた。
そこにいたのは土煙とドス黒い何かで汚れてしまった白猫だった。まだ子猫だろう。小さい体をめいっぱい伸ばしながらあたしに敵意を見せつける。
その横に倒れていたのは母親と思わしき、白い猫だった。その周りには兄弟らしき同じくらいの子猫たちがいるが皆がぐったりと倒れ込み、血を流している。恐らく脈はもうないのだろう。ついてしまった血は彼女らのものだろう。
「……そう、あんただけ生き残っちゃったの」
しゃあと小さな牙をむいてあたしを追い払おうと懸命に声を振り絞る。
「大丈夫よ」
しゃがみながら視線を合わすと笑いかける。
「あたしはあんたに何もしない」
すっと手を差し出すとびくっと体を震わせた子猫が怯えと怒りに満ちた目でこちらを見上げる。
しばし、あたしを見上げてからやがてその小さな足が、ゆっくり地面を踏みしめる。ぽてぽてとまだ危うい足取りであたしの手の方までやってくるとひくひくと小さな鼻を動かして人差し指の先をぺろりと舐めてきた。
生憎、あたしが猫に関して知っていることといえば可愛いのと気まぐれだということくらいなので目の前の子猫が何を考えているのかはさっぱりだが恐らく信用してもらえたのだろうとその体を抱き上げる。
なんの抵抗もなくするりと持ち上がった体を抱き締めながら倒れたままの親子を見つめ、「お墓、作ってあげなきゃね」みー、と子猫が鳴く。
呪祖がやったこと。ある意味では誰も悪くない。それでもいい気分がするもんではない。
振り返って、相方と今回大活躍な呪祖の名を呼んだ。
「結城、周防。ちょっと手伝って」
「よし、っと。こんなもんでいいよな」
ぽんぽんと土をかぶせながら結城が息をついた。
公園の並木の下に隠すように埋められた家族の体を白猫はただその瞳で見つめているだけだった。
にー、と鳴きながら子猫が盛られた土をぺちぺちと叩く。隣にしゃがみこんで告げる。
「大丈夫、また会いに来ましょう?」
みぃ、と小さく返事するように鳴いてから子猫はぴょいとあたしの胸の中に飛び込んだ。案外この子は物分りがいいのかもしれない。
抱きかかえながら立ち上がると「どうするんですか、その子」と周防があたしの腕の中の子猫を見て言った。
「どうするって、連れて帰るわよ。保健所ってわけにもいかないし」
「おばさん、許してくれるか?」
顔についた土を腕で拭っていた結城が一番の問題を問いかけてくる。ああ、頭の痛い話題だ。
「なんとかするわ」
そう答えるので精一杯だった。
小さい頭を撫でながらどうしようかなーと悩んでいるときらりと何かの光が目に飛び込んだ。
振り返ってから顔をしかめる。
「うわ、日、昇ってきちゃった」
「げ」
建物の間からでも分かる地平線の果てできらきら輝く太陽に相方と一緒にうんざりした。
よくあることといえばよくあることだが今日は特に疲れた気がする。
「今何時よ……」
「五時ちょっと過ぎですね」
あたしの呟きにそう答えたのはガラゲーの画面をじっと見ていた周防徹だった。
てっきりこいつにはスルーされると思ってたのに。
「あーでもやっと終わったからこれでぐっすり眠れるよな」
「何言ってんのよ、あと三時間もしたら学校よ?」
「え、今日何曜?」
「金曜日」
絶望した! とばかりに結城がその場で頭を抱えた。
逆に考えろ、お前はまだ二時間眠れるんだぞ。あたしはこれからお弁当作って、朝ご飯作って、軽く掃除も終えなければならないんだから。甘えるな。
しかし、一日寝ずに過ごしてしまったということを自覚すると急に眠気が襲ってくるから恐ろしい。ふわぁ、と小さく欠伸してなんとか誤魔化す。
そうこうしている間にも時間は着々と進んでいる。何はともあれとにかく帰らなければ。ギリギリ始発も出ているだろうし地下鉄に乗って帰ろうかとも思ったが高校生がこの時間から地下鉄に乗っているのを変に怪しまれて絡まれても面倒だ。
結局帰りも人の家の屋根から徒歩での帰宅になりそうだとうんざりしていると「それでは」と周防が一番に踵を返した。
「僕はこれで失礼します」
「どうせなら一緒に帰ろうって発想はないわけ?」
「ないですね」
「うわー友達少ない奴の台詞ー」
「あなたが言いますか」
苦笑されて苦笑で返す。
では、と改めてこちらに背を向ける周防の背を黙って相方と見送っているとふと、横にあったベンチに無造作に置かれた紙に気付いてそれを拾い上げた。
入部届。確かにそう書かれた紙には部活動名を除く必要事項がびっちりと書かれた。
提出者の欄に書かれた名前は「周防徹」。
……あんにゃろう。
「なぁにかっこつけてんだか」
呆れながらぽんと結城にその紙を押し付ける。
入部届に目を落とした結城は提出者を見た辺りでようやく事態を理解したのか一歩踏み出して叫んだ。
「周防! 部室、部活棟だから! 生徒会室のすぐ近くだから! 渡り廊下渡った階の端っこの方だから! 放課後、待ってるからなー!」
結城のやかましい声にぴたりと足を止めた周防はやがて右手をあげて、それをひらひらと振りながらまた歩き出した。
子猫に関しては、母は特に反対することもなく賛成してくれた。条件はあたしが面倒を見ることと名前を付けること。
家事を終えて、子猫を風呂に入れて、どうにかこうにか三十分ほどは眠ることができたもののそれでも気分は晴れない。登校のため、ふらふらと足を引きずりながら頭の中は猫の名前候補が浮かんでは消え、消えては浮かんでを繰り返していた。
校門をくぐったあたりでその眠気を吹っ飛ばされるようなことが起ころうとはまだ思ってもみなかったが。
「よう、指定特待生?」
ぴたっと足を止める。
間違いなく、あたしへ向けられた言葉のはずだ。嫌々ながらゆっくり振り返るとそこに立っていたのは美人だった。
気の強そうな釣り目に漆黒色のショートヘア、ひらりと舞う深緑色の制服をまとう細身の体。印象は強いというか、怖いというべきなのかもしれないが美人か美人ではないかといえば物凄い美人だった。
不思議だ。どこかで見たことあるような気がする。
眠すぎて声を出すのも億劫だった。黙って首を傾げると彼女はつかつかとこちらに数歩歩み寄ってから口の端を引き上げ、笑った。
「あんた、創造主だったんだ」
春の風がいたずらに彼女の短い髪とあたしの長い髪を撫でる。
まるで挑発するような言い方に無性に腹が立ったのは覚えている。ただですら眠いってのにこんなことで呼び止められたせいだろうか。
「そうだけど、何か文句あるっての?」
再度言うがだからってこんな返しは迂闊だった。
半分呪祖だと訂正する気にもならないほどどうやら当時のあたしは機嫌が悪いらしかった。
向こうさんもそれは同じくだったらしく、それともあたしの態度が気に食わなかったのか、理由はどうあれ、一つだけ言えたのは。
彼女がいつの間にか薙刀を握りしめてこちらに飛びかかっていたという事実だけだった。
情け容赦躊躇いなく、振り下ろされた刃が右腕の肌を破り、鮮血が宙に線を描いた。
辛うじてかわしたからこの程度だ。もしこのままぼけーっとしていたらと思うとぞっとする。
周りがざわめき始める中でまた踏み込んできた彼女が薙刀を突き出してくる。それを後退してかわしながら視線を泳がせる。
どういうことだ。いくら指定特待生だからっていきなり命を狙われなきゃいけない理由なんてどこにもないはずなのに。
人混みの中から囁き声が聞こえる。
「あ、あれ誰……?」
「あー私、知ってる。あの子、五期の一般特待生だよ。美人で強いって結構噂だったよね」
一般特待生、なるほど結城が美人だと言ったのも頷ける。
「あ?」
しかしそんな褒め言葉らしくものにガンを飛ばしながら不機嫌そうに彼女はあたしのもとに歩み寄ってきた。
ぐいっとあたしの襟首を掴み上げながら黒い瞳を吊り上げ、「嬉しいよ」とだけ言い放った。あたしは何も嬉しくないが。
「あんたと同じ土俵に立って、しかも今度は殺せると思うとさ」
ぎゅっと手に力を込めながら彼女は続けた。
「今度こそ私が勝ってやる」
その言葉に、はたと思い当たる名前が浮かんできた。
名前が浮かぶやいなや、なにからなにまで当時の彼女と変わりない気がしてならない。髪切ったのね、なんて言う暇もなく、ただ淡々と、問う。
「夏菜……?」
巴夏菜、果たして何年ぶりに口にしたのか分からない幼馴染の名前をあたしは吐き出した。
彼女は――夏菜は当時となんら変わりなく不機嫌そうにこちらを見上げると「覚えてたんだ、私のこと」と何故か嫌味ったらしく言い放った。
「忘れられるわけないじゃない……! あんたみたいな強烈な子! え、ていうか創造主って、え、どういう」
「メアド変更の知らせもよこさなかった幼馴染の台詞とは思えないね」
は、と一瞬固まった。……なんだって?
「え、メアド?」
「そうだよ!」
あたしの首を掴み上げたまま彼女は吠えた。
「メアドもケー番も勝手に変えやがって! 家の番号も住所も知らなかったから連絡の取りようがなかったし! 私は、いくら中学が遠くてもお前のことを締め上げに行くつもりだったのに……!」
わなわなと手を震わせながら夏菜はただただ吠え続けた。
携帯番号。忘れもしない。誰かさんのせいで水没してそのあとデータがおじゃんになったんだ。だからメアド交換した小学校の頃の友人たちとも、夏菜とも、誰とも連絡がとれなくなってしまった。機種変更をしたときにメールも番号も変えるように勧められて言われるがまま変えてしまったし。
それに、何より。
「あんた、あたしのこと嫌いだったから連絡先なんて新しく教えても迷惑かなって思ったのよ」
だからわざわざ知らせなかったところもある。
今度は夏菜が間抜けな表情を浮かべ「は?」ときょとんとした表情を浮かべた。
「嫌い? 私が、あんたを?」
「いや、嫌いだから今も切って来たんでしょ。そりゃ、逃げられたと思った幼馴染が同じ高校でしかも同じ特待生だなんて同情するけど、だからって殺され」
「き、嫌いじゃねぇし!」
顔を真っ赤にしながら叫ばれた。
気まずそうに夏菜はあたしから視線を逸らし、顔を俯かせた。びっくりしながら彼女を見つめ返し、やがて、震える声で問う。
「そ、そうだったの……もう嫌いなんてレベルじゃないのね……。嫌悪なのね……それは、本当に悪かったわ」
「どうしてあんたは昔からそうやって話が通じないんだよ……!」
そりゃこっちの台詞だ。
何が不服だ。夏菜の心情はきちんと理解したつもりなのに。
頭の上で疑問符を浮かべていると夏菜の顔が一瞬強張った。それからぱっとあたしから手を離し、薙刀を構え直した。
鋭い音を立てて、薙刀と交わった刀が朝日を反射して、離れるとたんっと目の前に相方が立っていた。
「巴、さん、だよな。うちの相方になんか用?」
自分に刃を向けてくるあたしの相方に顔を歪めた夏菜は確認するように「東雲結城……」と呟いた。
結城を捉える瞳は忌々しげだった。あれか、親が憎けりゃ子も憎いのか。あたしが憎いから相方も憎いってか。めちゃくちゃだなこいつ。
今、彼女の関心の中心は東雲結城だ。やるなら今しかない、ぱんっと一回だけ手を叩く。
ふわっと現れた蝶たちが嘲笑うかのように夏菜の周りを飛んでいく。唐突な呪祖側の攻撃にさすがに動揺してくれたのかバランスを崩した。その隙に手をかざすと彼女の体はあっという間に銀色の鎖で拘束された。
乱れた息を整えながら腕を押さえ、「ったく」と溜め息を吐く。
「だからね、夏菜? あんたがあたしのことだいっきらいなのは分かったから。でも殺されたくないから。あんたがあたしを殺してくるとなると結城が来るわよ? 知ってるでしょ、東雲結城。あたしの相方なの。だからほら平和的に」
「相方なら私がなったのに」
ぼそっとなんか怖いことを言ってる。あれか、あたしの相方になってじわじわとあたしを痛めつけてやったのにってことか。どんだけあたしが嫌いなんだこの子。
キッと夏菜がまた結城を睨む。びくっと肩を跳ね上がらせる天才と彼女の間に割り込んで夏菜を睨み返した。
「結城に八つ当たりしないでくれる? あんたが嫌いなのはあたしでしょ?」
ばっとこちらを見上げてくる。なんだよ。
「とにかく今拘束解くから、お願いだから仲良く」
といいながら鎖が緩んだ瞬間、彼女はその隙間から勢いよく飛び出して、薙刀を拾い上げた。慌てて身構えるとあたしを睨み付け、次いで結城を睨んで、何を思ったのかくるっと背を向け、叫んだ。
「ばぁかぶぁああか! 死んじまえ! あんたなんて相方と仲良く呪祖に殺されればいいんだー!」
「あ、夏菜!?」
校舎の方へと猛ダッシュしていく夏菜の背をただ茫然と見送ることしかできなかった。
どうあっても、あの幼馴染はあたしと仲良くしてくれるつもりはないらしい。
本当に退学届の書き方を勉強しておいた方がよさそうだ。
そんなことがありつつもなんとか無事にその日の放課後を迎えた。
授業中にちょっとだけ眠ったおかげで気分は幾分か楽だった。
渡り廊下を歩き、昨日の昼休みにいた場所と同じ場所にやってくる。扉を開けて、中に入れば当然のように小町先生が机の上に腰かけてあたしたちを待ち構えていた。
「聞いたぞ、主、巴夏菜の幼馴染だったとか」
入ってくるなり、挨拶もせず小町先生はあたしにそう問いかけた。苦笑して答える。
「どうも昔っから嫌われてるみたいで」
「……そうか」
なぜか面白そうににやにやされたのは大変不快だが、案外こういう人なんだろうと言い聞かせて椅子を引っ張り出した。
どうしてあの子はあんなにあたしが嫌いなのだろうと色々考えていると「して?」と小町先生はまたこてんと首を傾げた。
「もう一人はどうした?」
「あ、多分そろそろ」
と言いつつ、入部届を渡そうと思ったのかごそごそと結城がリュックサックを漁り出した瞬間。
硬質な音を立てながら窓ガラスが綺麗に割れた。窓側に誰もいなかったのは幸いだった。
まだ高い太陽の光を反射させ、氷のようにきらきらと煌めきながら床に散ったその上に降り立ったのはまさに話題の人、周防徹だった。
「おま、なん」
「すいませんあとで直します」
ぱっぱっと自分についたガラス片を払ってから周防は忌まわしそうに窓の下を覗き込んだ。
なんだろう、興味本位で窓に近付いて下を見て、やっとその意味を理解した。
「あーん、ダーリン! なんで逃げるのー!」
両手に何故か拳銃を握りしめた白咲恭子が下で地団駄を踏んでいた。ぷくっと頬を膨らます姿を見てますます不愉快そうに顔をしかめた周防は彼女に向かって叫んだ。
「うるさい黙れ鬱陶しい! 僕はお前と付き合う気はないって言ってるだろ!」
「なんで!? キョウキョウの何が気に入らないの!? こんなに可愛いのに! おっぱいおっきいのに!」
「自分で言うな!」
「とおるんがしたいならえっちいことだってするのに! 徹になら、揉まれたっていいんだよ! むしろめちゃくちゃにして徹! らぶみーどぅー!」
「大声で人の誤解を招くようなことを言うな!」
「好きだー! とおるん愛してるあいらぶゆー! 徹のことだぁいすき!」
「そうか僕は嫌いだ!」
傍目から見れば、もはやこのやり取りは夫婦漫才以外の何物でもないのだが。
言うと目の前の呪祖が私にナイフのプレゼントをしてくれそうなので黙っていると「諦めないからね徹! また明日ね! 明日はキョウキョウらぶこめまくりのお弁当作ってくるからお昼持ってこないでねー!」とかなんとか叫びながらさっさとその場から去って行ってしまった。
嵐のような子だ。感心すらしているとずるずる周防がその場でしゃがみ込んだ。
「……あんたも大変ね」
「なんなんですかあいつ……!」
「あたしに聞かないでよ」
そこまで付き合いが長いわけでもないし。美里さんに聞けば早いだろうけど関わりたくないし。
と、ここまで黙っていた小町先生が突然けらけらと笑い声をあげる。
「全く、主らはどこまで愉快なんじゃ」
そう言って純粋に、本当におかしそうに笑う先生にがくっと肩を落とす。もうそういうレベルじゃないんだけど。
「と、とにかく!」
仕切り直そうとでも思ったのか結城がぱんっと手を叩いた。
「これで、やっと俺たちは部活として動けるわけだよ! 顧問も小町先生がいる、部室はここ、部員も俺とお嬢と周防! 条件は全部揃ったわけだ!」
「……そういえば」
すっと周防が手を挙げた。それに素早く結城が反応する。
「発言を許可します!」
「活動内容が生徒支援の裏に隠れて呪祖退治をする、というのは分かりましたが」
ぐるっとあたしたちを見回してから「この部活、名前は?」
あ……、と結城が口元に手を当てた。じと、と小町先生とあたしの視線が同時に結城に向けられた。
「考えてなかったのね」「考えてなかったんじゃな」
あたしと先生両方から同時にぶつけられた言葉の棘に結城はバツが悪そうに顔を俯かせるだけだった。
「まぁ予想してたけどね」
わしゃわしゃと髪を掻き毟りながらそう言えばぱぁっと結城が顔を輝かせた。
「さっすが相方!」
「いや、でも間に合わせぐらいにしか考えてないけど」
「この際なんでもいい!」
ゆさゆさとあたしを揺らしながら教えろコールがうるさいので、渋々、その名前を告げる。
「その名も『魔法行使による生徒の生活扶助を目的とする生徒支援を活動内容とした部活動』なんつって」
きっぱりと、ずっと頭の中で考えていた名前を告げると、お、おお……と結城が歓声をあげた。
「よ、よくわかんないけどそれっぽい……!」
「確かにそれくらいそれっぽくないと通らんとも限らんしのう」
小町先生が笑う。
「周防はどう思う?」
「……皆さんがいいならそれで」
「じゃあ決まりだな!」
ぎゅっとあたしと周防の手を握った相方は満面の笑みを浮かべた。
「改めて、これからよろしくな!」
――かくして、この部活は、生まれてしまったのである。
■□■
目を開けるとあたしを覗き込んでいたリンリンを目があった。
「あ、起きた?」
そう言ってにこりと微笑む彼女に「あれ……あたし……」と頭を抱える。
にこにこ笑ったままリンリンが告げる。
「もう、びっくりしたよ。部活来たら眠ってたから。よく眠ってて起こすの悪いかなって思っちゃって」
「そっか、寝ちゃってたんだ……」
誰かに確認するかのように呟くと「お、起きたかの、お嬢」その教師の声に首を傾げた。
「小町ちゃんいたんだ、珍しい」
「珍しいとはなんじゃ、珍しいとは! この『魔法屋』の顧問なんじゃから活動を見に来るのは当然じゃろう!」
そう言って、胸を張る小町ちゃんにぼそっとリンリンが、
「さっき暇だから来たって言ってたのに」
「舟生! 余計なことは言うな!」
ばんばんと机を叩いて抗議する小町ちゃんに苦笑する。
室内を見渡して顔をしかめる。一人はともかく、あと二人足りないな。
「男連中は?」
「あ、多分周防くんはもうす」
そのリンリンの言葉を遮るように怒鳴り声が鼓膜を揺らした。
「死ね! マジ死ね!」
「ああん、とおるんったらそういういけずなとこもだいしゅきー!」
「うんもうすぐ来るの分かった」
廊下から聞こえてきた声に額を押さえる。
それからふと、膝の上に何かを乗せたままだったのを思い出して拾い上げる。本だった。ああ、そういえば意識が落ちる前に読んでいた気がする。
その本を机の上に置いてから一言だけ告げた。
「面白くなかったわ」
ほほう、と小町ちゃんがこちらに振り返った。続きの言葉を待っているらしい。
「だって現実の方がよっぽど頭が痛くなるんですもの」
我ながら芝居がかった台詞の直後、勢いよく部室の扉が開かれた。