妹の嘘
ごめんね、お兄様!小話
夕暮れ時にこの家を出て行こうと思って、庭の木の陰にずっと隠れていた。
何度か自分の名前を呼ぶ声と、誰かが悪態を吐くような声が聞こえたけれど、目を閉じてひたすらそれをやり過ごす。
ようやく人の気配も無くなったと思って木の陰から這い出ると、空に浮かんだ月が既に夕刻を過ぎた事を示していた。
もう十分だろう、と小さなカバンを背に担ぎ、こそこそと歩き出そうとしたところで。
「おにいさま、どこへいくの?」
舌っ足らずな声で発されたそれが、少年の足を止めた。
「オリガ……様……」
「にげればおとうさまにころされます」
何故こんなところにいるんだ、とか、どうして見つかったんだ、とか色んな言葉が頭の中を駆け巡ったが、妹の顔が月明かりに照らされて鮮明に見えると、それもどうでも良くなってしまった。
小さな手で服の裾を掴み、見上げる瞳の赤銅色は父親譲りのそれで、まるで自身の父親に脅されているような気分にすらなる。
逃げたい。
逃げて、自由になりたかった。
自分が一体何をしたと言うのか。
病弱な母と一緒に貧しくとも笑いの絶えない暮らしをしていたというのに、ある日突然赤銅色の男に連れられ、この豪勢な屋敷に押し込められた。
最後に母と交わした会話はいつも通りのそれで、別れの言葉一つ残せやしなかった。
「帰りたい、だけです。……だまって出て行こうとしたのは悪いと思ってます。でも、母さんの様子を少しだけみたいだけなんです」
「……おにいさまのおうちはここです」
「違う。ここは俺の家じゃない」
少しだけ鋭くなってしまった声音に怯えたように、幼い妹は目を伏せた。
泣かせてしまっただろうか、と心がずきりと痛んだ。
妹が悪いわけではない。
けれども、どうしても彼女に抱く感情はきつくなってしまう。
「俺は、魔術師ではないんです。きっと。だからこのままここにいたって仕方がないんです」
才能に恵まれた正妻の子と、才能の無い隠し子。
魔術師一門に迎え入れられたところで自分を歓迎する声なんて一つも聞く事はなかったし、頼みの綱である父はその状況を静観するばかりだった。
何のために母と引き離してまでこんなところに連れて来たのかは知らないが、もう沢山だ。
きっと母は独りきりで、あのあたたかい家で自分の帰りを待っているだろう。
あの場所に帰らなくちゃいけないんだ。
自分の幸せはあの場所にしかないんだ。
「みのがしてくださいオリガ様。帰れないなら、母さんに会えないなら、死んだ方がマシです」
困ったように眉を下げた妹は、それでも裾を掴んだまま離さなかった。
この小さな身体を突き飛ばして走れば、もしかしたら逃げ切れるかもしれない。
父に殺されるなんて、妹が普段の兄の扱いを見て想像しただけだろう。
もしも、万が一に本当に殺されるにしたって――こんなところで飼い殺しにされるよりかはよほどマシだ。
ごくり、と唾をのみ込んで、妹の肩に手を伸ばし。
「おにいさまは、わたしのおにいさまです。だから、わたしをおいていかないでください」
けれど、目線を上げた妹の大きな目には涙が浮かんでいた。
「しなないでください。どうしてもおかあさんにあいたいなら、あいたい、なら……わたしが、きっとなんとかしますから」
だからおねがい、と続ける妹の声は小さくなって、最後まで聞き取る事は難しかった。
小さな妹の身体が震える。
誰よりも不自由で、がんじがらめになった女の子が、泣いている。
決して叶わない嘘を吐いてまで泣いている。
兄を引き留める為に、願いを叶える為に、傷つけない、為に。
――本当は、父が自分を引き取る少し前に母は死んでいる。
――本当は、帰るところなんてどこにもない。
一体いつから妹は知っていたんだろうか。
一体いつから妹を知らず知らずの内に傷つけていたんだろうか。
その小さな肩にかけた手は、妹の震えが止まるまで動かせなかった。