7章
気付くと僕は、3年生の後期を迎えていた。もう進路を決めないといけない時期だった。就職かそれとも大学院へ進学し司法試験を受け弁護士になるか。
僕は大学院進学を選んだ。小さい頃から一般のサラリーマンになると言うことに対しては全くイメージを持っていなかった。父が自営業であったこともあるかもしれないが、サラリーアン養成所になってしまっている大学制度に対する反発もあった。せっかく法学部に入ったのだから、この知識を活かして生きていきたいという希望はあった。
僕は大学院へ進み、司法試験に合格し法曹になることを決意した。
僕はもう一度勉強をしなおした。法学はやはり長い間賢者たちが様々な理論を考え、現在の生活に適うように変更されてきたので、とても納得できる構成になっている。論理の集約みたいなもので理路整然としている。
現在の日本国憲法の中の根源となる、人権の尊重や個人の尊厳というものが登場したのは17世紀のことだ。ジョン・ロックという人が有名である。皆さんも名前くらいは聞いたことがあるだろう。
国王の圧制に苦しんでいた市民の人権(この時代にはまだ人権という言葉はなかった)を守るために、彼が提唱した理論は、自然権・契約における政府・抵抗権の3つに関してだった。
この中で重要なのは、自然権である。
自然権と言うのは人間に生まれながらにして持っている、一定の生得的権利を観念することから始まる。この自然権は生命・自由・財産の3つの権利である。政府の存在しない自然状態よりも、それらの権利をより確実にするために、人々は社会契約を結ぶことで政府を作り、権力を与える。人々の契約によって権力を与えられた政府が人民の自然権を制約するようであれば革命を起こしてよい、というのが抵抗権である。これによって市民の人権を守ると言うのである。
この考え方を基に、さらに様々な理論を論理的に組み立てて現在は展開されている。
疑問に思わないだろうか?
この自然権はなぜ人間に与えられているのだろう?誰が権威付けて成立しているのであろうか?
おそらくこの理論は、万物の霊長の人間であれば他の生物よりも優れていて、その人間には当然、権利が付与されている、という前提にたって作られたものだろう。
もしくは神にその役を頼んだか。
前にも言ったが、僕は無神論者だ。だが、例えそうでなくても学問の根本に神が前提として鎮座しているのはよくないだろう。
前者の場合でも、人間が他の動物と区別されて権利が付与されることを正当化することは出来ないだろう。そうである、と言い切らなければいけない問題なのかもしれない。
もしこの自然権が否定されたらどうなるだろうか?
それは、現在の高度に絡み合った法体系が土台から崩れることを意味する。
前提が真でなければそれに続けてどんなに論理を重ねたところで全て真とはならない。
人には生きる権利がある。
だから刑法で殺人が禁止されている。だが、前提が崩れ去ったのだから刑法もまた崩れ去ってしまう。
こうして、僕の中で人の命・法律もまた価値がなくなってしまった。
こうして僕の未来は決定付けられた。
これからはどう間違っても健全な方向へは向かない。僕の中に漠然とあった破滅へのイメージ、そして死刑になるイメージが僕の身に迫ってきた。それを僕は確かに感じていたが、それをどうにかしようとは思わなかった。
この世一切のことに価値はない―――もちろん自分も含めて、何十年か生きてその後は暗闇に落ちる。
生まれてきた意味なんてないのだろうし、人生に大きな目標を持って努力する、そんなことは無意味だった。
僕の中で何かが壊れた。頭の中でパリンッと音が確かに鳴ったのを僕は聞いた。
僕は完全に人間性を失った。