6章
高校時代の猛勉強の結果、僕は国立大学の法学部に合格した。
大学に入って大きく変わったことは非常に多くの時間が与えられたこと、そして多種多様な考え方に触れたことだった。
大学では法学以外にも様々な講義を取り、様々な考え方を知った。中には自分の身の回りの全ての常識がひっくり返るような新鮮な驚きを与えてくれるものもあった。
法学部というものは一般的に、六法全書を覚えるだけと勘違いされやすいが、実際は実に多岐渡ることを学ぶ。
歴史、思想、判例、、、六法以外にも様々な法体系を学んでいくのだ。しかしその教育の根幹にあるのは、論理的・合理的思考力の養成である。
何千とある条文や慣習法などを体系的に理解し、人々に納得して受け入れてもらう運用をするためには、その解釈に当たって論理的な誤りがあっては絶対にならない。論理の飛躍や矛盾なく理路整然とした道筋で物事を考える能力が法学部では重要視され、それは実社会でも大変重宝されるものだと思う。
僕は有り余る時間を利用して、たくさんの物事を考えた。その中で今の自分の目標や自分の守りたいものを論理的に説明しようと考えた。
いつの日か、僕が行動を起こそうとしたときに
「なぜ、そんなにも動物や自然を守らないといけないのか」
という質問が必ず来るはずである。これを説明し相手に納得させられるだけの理論が必要だった。
中学生のときは感情論だけでも行動することが出来た。事実、その結果僕は国立大学の法学部にまで入ることが出来た。しかし、法学部であるならば論理的思考で相手を論破しなければならないのだ。
しかし、僕は気付いてしまった。
論理的に考えれば考えるほど、自然環境や動物を保護することは困難であった。国会議員は日本国民の選挙によって権威付けられている。その国民の利益を制限し、環境や動物の命ばかりを重要視するような行動は出来ないだろう。
そもそも環境破壊は止める必要があるのかと言う問題がある。
温暖化が実は進んでいなかった―――政府の陰謀なのだ、という類の話ではない。
確かに現在、環境は破壊されている。これは確実だ。しかし、地球に住む生物である人間が行っている以上、それは正当な生物の営みに含まれてしまう。たとえ、宇宙人が地球にやってきて、環境を破壊し始めたとしてもそれを論理的に禁止することは出来ない。そんな法律も、原則もないし、あったとしても、誰にも権威付けられていないからだ。何かを正当に権威付けるためにはそれよりも根本的に権威のあるものからの信任が必要なのだ。
また、地球は太古の昔マグマであった。そこから紆余曲折を経て、現在では沢山の自然と生物多様性が保たれる楽園となっている。しかし、この楽園を維持することにいったい何の利益や意義があるのだろうか?恐竜が全て絶滅した後、哺乳類が覇権を握ったように、現在の生物が死に絶えた後は、また何かの生物が長い時間をかけて進化し新たな生態系が構築されるのである。そもそも、環境破壊で人間が他の生物を絶滅に追い込まなくても、このまま行けば正常な進化の過程で遠い未来には、現在の生物はほとんど姿を変えて残ってはいない。
つまりもともと世界の状態は動的性質を持っているので、ある1つの状態を基準とし、それを維持していこうとするのは間違っているのである。
トキが絶滅しようがしまいがそれは人間の感情にしか影響を与えず、ただの自然淘汰の一部でしかないのだ。
たとえ1度は全生物が死に絶え死の星になっても新たな生物が生まれるだろうし、生まれなかったらそれだけの話だ。いったい誰が困るというのだろうか?
このように考えると保険所で殺処分されている動物を助けることにも意味が見出せなくなる。人間が行っている事は正当な生物生活であるからである。
そもそも、死について意味を付すのは人間だけであり、食われるために殺されようが、公衆衛生のために殺されようが「死」そのものの結果は変わらない。
広く考えれば他生物の生命維持のために殺していることになり、食べるために殺すこととなんら変わりなくなる。
食べられるときには
「他人の血肉になるから良いか」
殺処分されるときには
「無念!こいつらの血肉になるために殺されるならまだしも、病気を蔓延させないために殺されるなんて、悔しいよぅ」
こんなことを動物が考えているとは考え難い。
そこに実際あるのは同程度の死の恐怖でしかないはずだ。
このように考えていくと、動物の殺処分を否定するためには、もはや倫理観に依拠するしかない。
それは倫理に反する。可愛そうだ。等々。
どうしていけないか?と言う問いに対して唯一答えの提供できるのが倫理観によるものだとしたら、それはもうアウトだ。論理的とはいえないし、他人を説得することは出来ない。倫理や感情は論理的な根拠にはなりえないのだ。
このように自然や、人間以外の生命は僕の中で無価値な存在になってしまった。
僕は目標を失った。中学生の頃から、いやもっと昔から―――僕の人生の経験から生まれた夢がなくなることは僕の人生・努力が無意味だったことを意味していた。
そこからの日々は怠惰だった。勉強も一切せず、学校へも行かず、友達遊び暮らした。自分の中にこのままではいけない、と言うことが分かっていたが、信念を無くしたという思いが僕の歩みを進めるのを阻んでいた。
僕の将来の糧となるはずだった長い時間と、法学部での論理的思考力が僕の未来を閉ざす結果となった。
だが、真実に気付けたので後悔はしていない。むしろあのまま感情論で妄信的に突き進むほうが怖かった。