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人減  作者: tiki
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3章

 僕はとても平凡な家庭に長男として生まれた。いや、多少貧しかったか。

 母子ともに健康で、周りからの祝福を一身に受けて僕はこの世に生を受けた。こんなにも可愛く、大きな声でけなげに鳴く赤ん坊が将来殺人を犯すとは誰も想像しなかっただろう。

 このとき僕を祝福してくれた人々は、祝福したことを後悔したのだろうか?それは僕にはわからない。

 僕が幼い時なとにかく頭が大きかったらしい。しかもおでこがボコボコだったそうだ。僕の唯一残っている幼少期のビデオを見ると、多分2歳くらいだが、頭の重みでゆらゆらとふらつきながら歩く僕がいる。何が楽しいのか顔は万遍の笑みである。

 成長するに従いおでこは平になっていったが一つだけ右目の上にこぶが残っている。高校生のときに母から

「たんこぶできているけど、ぶつけたの?」

と真顔で言われた。

「何年間同じ顔見てんだよ、生まれつきでしょ?このこぶは。ってかお母さんが言ったんだし。」

僕は笑顔で答えた。

 母はおっちょこちょいな人でとても愛おしい人だ。寝るのが好きでよく昼寝をしていた。しかも夢は一切見ないそうだ。本人曰く、とっても深い睡眠をとっているから夢は見ないそうだが、通説では、人間は毎日夢を見るらしいので多分覚えていないだけだろう。

 そんな母とは対照的に父は真面目で多少神経質なところがあった。しかし、潔癖で家族に様々なルールを強いたりすることは無かった。人より少し細かいことに気がつくような、そんな人だった。

 両親の仲は良く、僕ら子供たちには沢山の愛情を注いでくれた。自分たちの幸せよりも子供の幸せを願う、そんな生き方だったように感じる。

 そして、父は多趣味な人である。車、キャンプ、登山、自転車、レコード、オーディオ、カメラ、お酒、等々。様々なことに興味を示しよく僕もその恩恵にあずかっていた。

 僕は小さいころから高級な自転車に乗り、毎年キャンプへ行き、部屋には大きなスピーカーが置いてあった。特に僕は登山とキャンプが好きだった。普段住んでいる住宅地には無い綺麗な景色や空気がとても好きだった。高い山に登ることもあったが達成感はあまり無く、道中の深緑のほうが思い出に残っている。

 こういうのを情操教育というのかはわからないが、僕は感情豊かな人間に育った。親の話によると、幼いころから人当たりはよかったらしい。常にニコニコ、というかヘラヘラしていて、こいつは愛嬌だけが取り柄で生きていくのだろう、と確信を持ったほどだそうだ。顔はモンチッチのように丸く大きく常に笑っていて、眠くなると手が熱くなり母親に抱きつく、甘えん坊の子供だったそうだ。


 ところで、皆さんは最初の記憶はいったいいつ頃のものなのだろうか?

まぁ多くの人は2歳くらい、と答えるらしい。中には生まれた瞬間、さらには前世の記憶まで持っている、と言う人もおられると思う。前世が存在するか否かは今は脇へ置いておいて、僕は沢山記憶がある人、古くから記憶がある人が僕はうらやましく思う。

 僕は幼いころの記憶がほとんど無い。幼稚園の年中からの記憶ぐらいから、それも2つ3つぐらいしか覚えていない。

 今思い出すのは、担当の保育士(当時は保母さんと呼ばれていた)が寿退職するときのお別れ会で聞いた「なごり雪」のメロディー。あまり言葉を深くは理解できない幼稚園児でも、聞くだけでしんみりとしてきてしまう、そんな想起性があるすばらしい曲だと思う。今でも大好きでだ。

 そして、親友、幸田拓。こいつは僕が通っていた幼稚園の息子であり、幼稚園に隣接した家に住んでいた。なので、僕が集団下校でゆっくり帰っているといつも自転車で先回りしていて、僕の家の前で待っていた。そして2人でまた幼稚園へ行って遊ぶのである。僕は日に2回幼稚園に通っていたのだ。

 拓とはその後、小学校・中学・高校も同じ所に進んだのだが、1度も同じクラスにはならなかった。しかし、拓は毎年うちのキャンプについてきていたし、自転車で県外まで走ったり、同じバスケ部に入ったりと、クラスは違えど親友となった。

 そして3つ目の思い出は、うんちを漏らして幼稚園のトイレにおいてある大きな洗面器にお尻をつけている、大変恥ずかしいものだ。当時の僕でさえこれは大変に恥ずかしいことをしてしまったと痛感し、二度とウンチはもらすまい、と固く心に誓った。

 この3つしか僕には幼いときの記憶が無い。その中の1つは思い出したくも無い恥ずかしいものだ。

 記憶が無いということは、自分にとってはそのときを生きていなかったと同義である。他人からの視点で見れば話は別だが、大事なのは主観なのである。

どんなに他人の中には僕の思い出が刻み込まれていようとも、僕の中に全く残ってなければその世界は存在しないのと同じである。

 これは哲学で言うところの主観説の考え方である。自分が知覚している世界は、自分が知覚する限りにおいて存在する。つまり自分が死ぬと、同時に自分を取り巻く世界も無くなってしまう、ということなのである。

自分が死んだあとも世界は客観的に存在し続ける、普通はそう考えられがちであるが、この主観説を論理的に否定することはまだ出来ていない。主観説が正しい可能性もまだ残されているのである。

 

 だいぶ話がそれてしまったが、まぁ大事な話だ。


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