5話「そこに“彼女”はいるか」
真夏の陽射しが焼けたアスファルトをゆらゆら歪めている。
社用の漆黒のセダンに乗り込んだ瞬間、冷房の風が肌を撫でるが、汗は引くどころか、むしろ緊張でじわりと滲み出す。
ハンドルを握る八十神社長は無言。
バックミラーに映る自分の顔がこわばっている。
どこへ連れていかれるのか――そんな簡単な問いすら、車内の空気は押し潰してしまう。
窓の外では入道雲がまるで巨大な観客席のように空を埋め、ビルのガラスに光が反射して目を刺した。
カーナビの地図は行き先を隠すように真っ白のまま。
汗が背中を伝い、Yシャツが張り付く。不安はシートベルトよりきつく胸を締め付ける。
やがて病院の看板が視界に飛び込み、心臓が一拍、遅れた。
就職面接の帰りに病院? どう考えても面接試験のコースにはない。
社長の横顔は信号機の青を無表情に映すだけで、こちらの動揺など意にも介さない。
◆ ◆ ◆
白い廊下は冷房の匂いと消毒液で満たされていた。空調の低い唸りがやけに耳に残る。
社長は「こっちだ」と小さく言い、個室のドアを押し開ける。
部屋にはベッドが一つ、そのベッドの中央に横たわる一人の女性――呼吸器のマスクが頬を覆い、規則正しい人工の息遣いだけが生命を主張していた。
長い髪だけが窓から差し込む陽光を吸い、静かに光る。まぶたは閉じたまま、指先も揺れない。動きは心電図モニターの緑色の線だけ。
社長はベッド脇の椅子へ腰を下ろし、驚くほど穏やかな声で語り始めた。
「配信は大成功だったよ。新曲は初日で百万再生。君の歌はまだ、たくさんの人に届いてる」
女性は応えない。静寂が水面のように張り詰め、俺は呼吸を忘れかける。
「そうだ、ファンアートが山ほど届いてね。中には“星屑流星群”ってタグを復活させた子もいた。きっと、君が戻ってきたって信じてるんだ」
社長の言葉は優しい。けれど、それは墓前に手向ける花のようでもあった。
彼はしばし黙り、そっとベッドの柵を撫でる。
「安心してくれ。君の願いは、ちゃんと叶っている」
立ち上がると、名残惜しげに頷き、ドアへ向かう。
その間も女性は瞳を開かない――開けることができない。
俺は呆然と光景を焼き付けるしかなかった。
◆ ◆ ◆
廊下へ出ると、外のセミの鳴き声が遠くから滲み込んでくる。
社長は歩みを止め、こちらを振り返った。
「見てもらった通りだ。彼女が――星屑ミライ、本来の演者だ」
理解が追いつかず、視界が一瞬ぼやける。身体はここにあるのに、頭だけ取り残される感覚。
「彼女は二年前、ALS――筋萎縮性側索硬化症と診断された。覚えているかい? 昔“アイスバケツチャレンジ”が流行っただろう。あの病気だ」
「筋肉が徐々に動かなくなり、最後には呼吸も自力でできななくなる」
社長の肩がかすかに震えていた。
「怖いのは、意識だけは鮮明なままという点だ。考え、感じ、夢を見る。でも声も、指さえ動かせなくなり、意思を伝えるのが困難になる」
「ALSが進行すると、体はまったく動かせなくなる。指どころか、まぶた一つ、動かすこともできない」
「だから、たとえ意識があったとしても、それを外に伝える手段がなくなる」
ずっと穏やかに語っていた社長が、ふいに声を強めた。俺は思わず姿勢を正し、息を詰める。
「だが彼女には、視覚も聴覚も、触覚も残っている。音は聞こえているし、まぶたを開ければ外の景色を見ることもできる。手を握れば、その肌の温もりも感じ取れる」
「それでも――それを“感じている”と伝える手段が、何一つないんだ」
「そして我々にも、彼女の内側に確かに“誰か”がいるのか、知る術がない」
「まるで哲学の問いだ。そこに意識があるのに、それを誰も確かめられない」
言葉は冷たい氷になって胸に沈んだ。
もし、自分が同じ状況に置かれたらどうだろう。 目は見え、耳は聞こえ、肌は触れるのに、声を出せず、動けず、誰にもそれを伝えられない。 そんな閉ざされた世界に、自分が永遠に閉じ込められる――そう想像した瞬間、全身がぞくりと凍えた。
「けれど彼女は希望を捨てなかった。いつか体が動かなくなる日が来て、誰とも意思疎通ができなくなったとしても――AIが、自分の代弁者になってくれると信じていたんだ」
「だから、自分の考えや感情、歌への想い、そのすべてをAIに注ぎ込むようにして育てた。声も表情も仕草も、まるで鏡のように再現できる存在を目指して」
「それはただ“似ている”存在じゃない。AIに舞台へ立ってもらうことで、“自分はここにいる”と、ファンに伝えたかったんだ」
「我々はその夢を“ミラージュ計画”と名付け、完成させた。今、配信で輝いている星屑ミライは、彼女自身が託した“分身”だ」
足元から地面がひっくり返るような感覚。AIの正体を暴こうと意気込んでいた自分が、急に卑小で浅はかに思える。
マウスのクリック一つで歌声を分析し、機械臭いブレスを見つけて得意げになっていた――その先に、こんな現実があったことなど想像もしなかった。
思考が渦を巻き、過去の配信シーンが脳裏にフラッシュバックする。
完璧すぎる音程、途切れないトーク、あれは「偽物」ではなく、彼女の願いそのものだったのか。
社長は歩き出し、エレベーターの前で振り向く。瞳は静かな湖面のように澄んでいた。
「――騙されたと思うかい?」