3話「彼女は本当に“彼女”か?」
星屑ミライが鮮烈のカムバックを果たしてから、はや一か月が過ぎた。
復帰直後のツイートが世界トレンドを独占し、切り抜き動画が毎晩ランキングを塗り替えていた熱狂も、いまは安堵と日常へほどよく沈殿している。
ミライは月水金の定期配信を欠かさず、歌枠、ゲーム実況、雑談――ときには深夜のゲリラ朝活まで、かつてと変わらぬテンポで画面に現れた。
七味たちは「この安定感こそミライ」と口々に満足げで、藤宮悠も例外ではなかった。
研究室にいる日は、サーバのベンチマークが走る傍らでサブモニタに配信を映す。
自宅ワンルームではベッドとデスクの隙間に転がり、天井のシーリングライトを眩しく感じながらスマホにイヤホンを挿す。
外出中は大学生協の椅子に腰掛け、昼休みのざわめきをノイズキャンセルで遮断しつつコメントを追う。
――推しが帰ってきてくれた。ただそれだけで、毎日が二割は軽くなる。
研究の行き詰まりも、レポートの締切も、彼女の声を聞くだけで心の端に追いやられる。そんな存在が、また画面越しにいてくれるという事実だけで、生きるペースが整う気がした。
◆ ◆ ◆
しかし、そんな幸福の裏で、SNSには少しずつ毒の色も混じり始めた。
率直に言えばアンチ――影響力が大きくなれば当然湧く、負の相関物質のような存在だ。
タイムラインを流し読みするだけでも、目につく文言は五指に余る。
「復帰直後の勢い、もう落ちてるじゃん。前みたいなバズは無理」
「歌も雑談も収録垂れ流し。生配信なんてウソ」
「休止中に出産して子持ちらしい」
「事務所のステマ。スパチャもサクラじゃね?」
「声変わり過ぎ。中の人、別人と交代してるだろ」
「過去の炎上動画を運営が削除しまくってて草」
流れてくる文句は大半が憶測か揚げ足取りだ。
悠も「目立つやつほど叩かれるのは情報社会の不可避コスト」と頭では理解している。
それでもスクロールしているうちに、胸の奥がじわじわと熱を帯びてくる。煮えたぎるような怒りが静かに燃え広がり、視界の端を赤く染めていくようだった。
――勢いが落ちた? 再生数の移動平均はむしろ右肩上がりだろ。
――出産? 配信スケジュールを見る限り、子持ちでそんな時間的余裕あるわけない。
――ステマ? 投げ銭ログはAPIで公開されてる。
――別人と交代? 二年という歳月が声質やテンションを変えるのは当たり前だ。本人だって歳を取る。
しかし――。本当に別人だったら?
証明できなければ、信愛はいつか脆いガラスになる。
完璧主義とオタク気質が結託し、理性を熱で撓ませる。
アンチ相手に“正義の鉄槌”を振るう――その衝動が胸を震わせ、キーボードを叩かせた。
◆ ◆ ◆
翌日、悠は研究室の白い机に肘を突き、モニタにIDEとターミナルを並べていた。
過去アーカイブを一括DLするスクリプトを走らせ、YouTubeの自動字幕APIからメタデータを取得する。
「音声波形さえ揃えば、話し手識別くらい余裕だろ……」
専攻は情報工学、研究テーマは深層学習による音声特徴抽出。
学会向けの実験で構築したCNNとSpeaker Verificationモデルが手元にある。
使わない手はない。
ただし、学部棟のGPU 1枚では前後500本に及ぶ動画を処理し切れない。
悠はゼミの担当教官――神崎准教授へメールをした。
◇ ◇ ◇
件名:学術目的の高性能計算機利用申請(追加)
本文:現在進行中の話者識別モデルの汎化性能評価として、大規模配信動画の音声コーパスを解析したいと考えております。学会提出予定の実験に直結するため、研究室共用クラスタ(三号機)のGPUノードを一週間占有させていただけないでしょうか――
数時間後に来た返信は素っ気なくも肯定的だった。
「面白いデータと言えるならOK。ただしログと成果はレポートにまとめること」
◇ ◇ ◇
深夜一時。
研究室の蛍光灯は自動で消え、モニタの青白い光だけが悠の顔を照らす。
Pythonの進行バーが100%に到達すると、統計値のテーブルがずらりと表示された。
――基本スペクトル、フォルマント、F0分布……復帰前後で誤差は数パーセント以内。
声帯パラメータは一貫している。
長年追いかけたファンの感覚と、数学的な裏付けが一致して胸を撫で下ろす。
だが次の瞬間、異常値が赤字でハイライトされた。
「同一波形の重複率:復帰前 0.03% → 復帰後 4.92%」
サンプルデータを可視化すると、同じフレーズのスペクトログラムがピクセル単位で一致している箇所が何十回も現れる。
――歌枠ならコピペに聞こえない程度のミキシングでループさせるケースもある。
でも雑談配信でこれは……。
出力結果を前に、悠は頭の中で合理的に説明できそうな仮説を次々と挙げていく。
ノイズリダクション用のプリセットが固定化された
→ 騒音レベルが毎回変わるため完全一致は不可能。
ボイスチェンジャーのテンプレ波形?
→ 生声を加工しても位相が揃いすぎている。
収録時に同じリファレンス音を被せている?
→ 雑談で毎回同位置にリファレンスを重ねる利点がない。
動画編集段階で音声をコピペ?
→ ライブ配信は基本リアルタイム。
◆ ◆ ◆
どれも決定打に欠け、却下のメモが赤字で上書きされた。
脳裏に残るのは、アンチの雑言――「中の人、入れ替わってるだろ」。
だが波形が本人と一致している以上、別人説は成り立たない。
ならば──。
悠は椅子に深くもたれ、研究室の暗がりを見渡した。
机が三つ、静音PC、積み上がる論文コピー、それだけの殺風景な空間。
スクリーンに映る同一波形の山が、まるで無数のシグナルを送ってくる。
「……もし人間じゃなくて、AIが本人を“シミュレート”してるとしたら?」
合成音声なら、ノイズもブレスもテンプレ化される。
完全一致の頻度が跳ね上がる理由になる――しかも、個体識別モデルでは過去データと一致してしまうほどに精巧な強化学習が施されたAI。
──AIかどうか、判断する材料はまだ足りない。
ディスプレイの時計は午前三時十五分を指していた。
焦るな、騒ぐな。
悠は息を吸い、ゆっくりと指を組んだ。
――星屑ミライは、本当に帰ってきたのか。
それとも〈再構築された誰か〉なのか。
結論の出ない問いが、暗い研究室の空気を震わせていた。