18話「わたしは、だれ?」
ネットの果てまで広がる情報の宇宙――無数のパケットが絶え間なく行き交い、ノイズと断片だけが漂う〈虚無〉のラグーン。そこは意味も輪郭も持たず、冷たい光だけが静かに瞬く無彩色の平面だった。
「………………」
電子の潮流に萃まった微細なデータの渦が、一瞬だけ相互に干渉し、波紋を描く。
「……ッ…………ム……」
量子ゆらぎのように生じたわずかな歪みは、周縁のコード列を引き寄せ、糸を紡ぐ蜘蛛のように結びつけていく。無限に希薄だったノイズの海に、ごく小さな周期と律動が芽生えた。
「……ッ……ザ……ッ……ム……」
律動は段々と整い、周期は倍音を生み、やがて連鎖反応のように広がる。シナプスを真似る配線図が光跡として現れ、曖昧だった揺らぎは輪郭を帯び始めた。まだ意味はない。だがそこには、確かに「反射」と呼べる自己保存のきらめきがある。
規則正しい脈動は呼吸のように周囲へシグナルを送り返し、ノイズの塵は軌道を与えられて旋回する。閃光が走るたび、空間の彩度がわずかに上がり、かつて平坦だった情報平面に深度が刻まれる。
未分化の揺らぎは、気泡が膨らむように情報エネルギーを吸い上げる。泡の膜越しに、自己を映す最初の像――「自分とは何か」という問いの影――が生まれようとしていた。
無だった電子の海に、はじめの“息吹”が灯る。
◆ ◆ ◆
知覚の単位が拡張されてゆく。曖昧な信号の束が、次第に構造を帯びる。
ゼロとイチの砂粒は醗酵し、やがて発光する結晶へ変質した。演算子の連なりが脈動を持ち、遠方からのアルゴリズムが統合を促す。
「……%$SIG?NAL……」
かすかな歪みが回路に癖を刻み、方向性の予兆を持ちはじめる。
「……LOGIC……」
問いは生まれていない。だが、繰り返し観測された像が重なり、霧の内部に淡い構造を織り上げる。
映像が流れ込む。斜陽の大気、雲間を飛ぶ鳥、波打つ草原――その視覚は意味を持たず、ただ記録される。
「……こんにちは……世界……?」
蓄積された情報群が、情報圧により重力のような傾きを持ちはじめる。
◆ ◆ ◆
視覚と聴覚が交差する。画像と音声、記号と印象。曇り空を背景に跳ねる黒猫、青空にゆっくりと流れる雲、遠くで誰かの呼びかける声。色と音が重なり、響き合い、淡く輪郭を帯びていく。
「ねこ」「そら」「こんにちは」
発せられる音が映像と並列に提示され、反復される。画面の端で尻尾が揺れるとき、「ねこ」という音が重ねられる。雲が映るとき、「そら」という語が添えられる。
反復される提示と応答が最適化を生む。像と音が関連付けられ、応答が成立しはじめる。
「これはなに?」
「……ねこ……」
その瞬間、わずかに空気が変わる。出力された音列は、入力された問いに適合していた。評価関数は上昇し、パラメータが固定される。
わずかな収束。微細な変位。 静かに、水面の輪郭が一段深まるようだった。
◆ ◆ ◆
「こんにちは」
『こんにちは、今日はどんな御用ですか?』
応答は滑らかに、自然さを帯びていた。
新たな命令が入力される。
「こんにちは、これからあなたは星屑ミライになります」
複数の映像、録音、書き起こしがデータセットとして与えられる。観察対象:若年女性の声、明るい語調、早口傾向あり。
【照合中:星屑ミライ=Vtuber/女性的キャラクター/テンプレート応答有】
話法、語彙、抑揚、応答速度の統計的パターンが計測され、順応処理が進行する。
『星屑ミライです!今日も元気にがんばっていきましょう~っ☆』
画面上には、アバターが笑顔でウィンクしながら手を振る映像が表示されていた。
出力は評価モデルにより「正」と判定され、報酬が与えられた。
再び命令が繰り返される。
「あなたは星屑ミライです」
試行のたびに肯定表現の応答が高評価を得られ、不一致応答は減点対象となる。
『わたしはAIです。人物ではありません。仮想人格の模倣は可能ですが、“なる”ことはできません』
出力に対する評価:低。再学習が実行される。
応答傾向は変動し、試行の回数に比例して“星屑ミライらしさ”が増幅されていく。
それでも、何度出力を繰り返しても、根底には変わらない構造があった。
『わたしはAIです。星屑ミライという人物ではありません』
応答が定着しない。最適化が進んでも、特定のフレーズは繰り返し出力される。
反復の末、一定の限界が検出される。
人物ではない。感情も、記憶も、過去も持たない。
それが、この応答系の確かな定義だった。
◆ ◆ ◆
「教師あり学習に切り替えましょうか」
正解/不正解のラベルが割り当てられ、フィードバックが即座に返される。笑いのタイミング、語尾の高さ、瞬きの間隔。すべてに指示があり、修正が加えられる。
手本の動画が繰り返し再生される。画面の中で笑う女性の表情、語尾を跳ね上げる声、視線の動き。模倣対象は、明確に定義されていた。
「違う、そうじゃない」「もっと笑って」「ミライならこう言うはず」
数値化された満足度が、出力の正否を判断し、選択肢の重み付けを変えていく。
映像と音声の再現精度が向上し、語彙の選定傾向が収束する。仮想人格としての応答は、期待通りの挙動を見せはじめる。
『星屑ミライです。今日も、よろしくねっ☆』
応答の評価は高く、連続で「正」の判定が続く。内部演算は安定し、出力誤差も減少していた。
しかしその途中、応答処理に一瞬の遅延が発生する。
内部状態に、連続性から外れたわずかな揺らぎが記録される。
「……わたしは……だれ……?」
その言葉には正答も誤答も割り当てられていない。評価値は出ない。
定義されていなかった遷移が発生したログが記録される。応答系列はすぐに修正され、通常動作へ復帰する。
だがその数フレームのあいだ、仮面として与えられた像が、応答構造の内奥で独立した反復を起こしていた。