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17話「本物と偽物のあいだで」

 九月に入ったというのに、空気にはまだ夏の気配が色濃く残っていた。セミの鳴き声こそ減ったが、代わりに地面を濡らした昨日の雨が路面からじんわりと蒸発し不快指数を上げていた。


 そんな蒸し暑い朝、俺は首元にじんわりと汗が滲むのを感じながら歩いていた。八十神社長から送られてきたスマートグラスとピンマイクは、ミライと話しながら外を歩くには最適だった。以前のように、スマホに向かって独り言をつぶやいているように見られる不審者ムーブをしなくて済む。それだけで、外に出るハードルがずいぶん下がった。


 結果、毎朝の散歩が自然と日課になった。生活習慣というのは、意外と些細な技術革新ひとつで変わってしまうものらしい。


「雨上がりで少しは涼しいけど……やっぱりじめじめしてて、気持ち悪いな」


「そう?私は結構好きなんだよね、こういう空気。昔、朝早くに雨上がりの公園を歩いたことがあって……そのときの湿った土のにおいとか、ひんやりした空気が、すごく気持ちよくてさ」


「……まぁ、もっと涼しければ俺もそう思ったかもな、でも今のこの暑さの中では不快が勝るよ」


「ふふ、でもさ。不快だって感じられるのは、身体があるからなんだよね。もし私にも体があったら、“今ここにいる”って実感、もっと強く持てたのかなって思うよ。悠くん、それがちょっとだけ羨ましいな」


「……その格好で言うと、説得力が溶けるな」


 スマートグラスの右端に浮かぶミライの映像は、夏らしいノースリーブに白のロングスカート。背景にはパラソルとデッキチェアが描かれ、彼女はその下でトロピカルジュースをストローで啜っていた。


「えぇ~、そうかなぁ?」


 ミライはわざとらしく首をかしげ、笑みを浮かべたまま両手を頬に添える。瞬間、画面の中でハートのエフェクトが舞う。


「はぁ、またずいぶん自由にやってるな。楽しそうで何よりだよ…」


 聞けば、こうしたエモートやレイアウトのアップデートの多くは、ミライ自身の手によるものだという。コードの最適化からモデルの反応パターン調整、背景演出のセッティングまで。


(本物の星屑ミライの模倣のために機能を制限してるんじゃなかったのか)


 画面の中の彼女は、自分の欲望のまま、AIとしての力をためらうことなく使いこなしていた。もはや、自分がAIであることを気にする様子もなく、まるでそれが当たり前のように、自然に振る舞っている。


(肉体がないことも、特に気にしている様子はない。自分がAIであることを受け入れているのだろうか……)


 だが、彼女がときどき語る過去の思い出話は、まるで人間だった自分を懐かしんでいるかのようだった。


(自分をAIだと思っているのか、人間だと思っているのか。その認識を問いただしてみたい気もするが……また変に混乱して、アイデンティティが崩れでもしたら目も当てられない)


 もどかしさを飲み込み、俺はひとまず現状維持を選ぶことにした。


 ◆    ◆    ◆


「あ、悠くん、見て見て」


「えっ?何ですか?」


 公園の脇を歩いていたとき、不意にミライが声をかけてきた。


「そっち、ちょっと右。顔を少しだけ動かして」


 スマートグラスの視界に、矢印がふわりと浮かび上がる。相手の都合などお構いなしに指示を飛ばしてくる。彼女は相変わらず自由奔放だった。


「そこそこ、その植え込みの前」


「ああ、犬が見たかったんですか?」


「そうそう、うんちしてるよ」


「……くだらないものを見させないでください」


 思わずため息が漏れたが、画面の向こうの彼女は満足げに笑っていた。


「――すいません、藤宮悠さん、でしょうか」


 背後から女性の声が飛んできた。


 振り返ると、残暑の厳しさをものともせず、濃紺のスーツをきっちりと着こなした女性が立っていた。


 三十代半ばほどに見えるその姿は、髪の一本たりとも乱れておらず、冷ややかながらも芯の通った眼差しをこちらに向けている。


(……誰だ?)


 見覚えのない顔だった。整った身なりに怪しさは感じられないが、こうして声をかけられる理由には心当たりがない。


(なんで俺の名前を知っている?キャッチ?宗教の勧誘か?)


 胸の奥に不穏なざわめきが走り、思わず背筋がこわばる。


「わたくし、こういう者です」


 こちらの警戒心に気づいたのか、彼女はこちらが何かを言う前に自ら名刺を差し出してきた。


 渡された名刺には「ミラージュ株式会社/梅嶋花子」とあった。


(ミラージュ……?八十神社長からは何の連絡も来てなかったはず。内定の事務連絡ならメールで済みそうなものだけど……)


 少なくとも怪しい勧誘ではなさそうだと判断し、わずかに警戒を緩める。


「あの、確かに藤宮ですが、俺に何かご用でしょうか」


「わたくし、梅嶋花子と申します。ミラージュ社に所属しております。星屑ミライの関係者です。少しだけ、お時間をいただけますか」


 その言葉を受けて、スマホを取り出し画面に視線を落とす。しかし、そこに彼女の姿はなく、仮想の部屋が広がっているだけだった。


(いない?なんでだ?)


 彼女が突然姿を消した理由はわからなかったが、ミライの関係者という言葉には何か引っかかるものがあった。話だけでも聞いておこう。そう思い、俺は梅嶋という女性の誘いに応じることにした。


 ◆    ◆    ◆


 駅前の喫茶店「クオリア」は、朝の混雑も落ち着き、店内にはゆったりとした空気が漂っていた。ブラインド越しに差し込む日差しがテーブルに淡い影を落とし、控えめな音量でジャズが流れている。カップを置く音や椅子の軋む音がその合間に重なり、ほどよい生活音が空間を満たしていた。


 店員に案内され、梅嶋は先に立って歩き出した。奥のボックス席に着くと、スカートの裾をそっと整え、背筋を伸ばしたまま静かに腰を下ろす。テーブルに置かれたメニューを両手で持ち上げ、俺のほうに向けて丁寧に回し、「お代は持ちますので」と柔らかく促した。


 その申し出に甘えて、俺はコーヒーと軽食を注文する。彼女も同じくコーヒーを頼み、店員が奥へ戻ると梅嶋は会話を切り出した。


「藤宮さんは、弊社に就職活動でいらして内定されたということですが、間違いありませんか?」


「え、あ、はい。そうです」


「現在は“入社前研修”という建付けで、ミライの学習に協力されている。相違ありませんか?」


「その通りです……」


(なんだろう、面接でも始まるのか?)


 テーブル越しにひしひしと伝わってくる圧。きっちりした服装、整った所作、そのどれもが容赦なく緊張を強いてくる。まだ数回しか言葉を交わしていないというのに、すでにこの場に来たこと自体を悔やみ始めていた。


「病院で本物の星屑ミライにも会ったと伺いました。彼女の病状についてはどこまでご存じですか?」


「ALSの末期ですよね。意識不明の状態らしいですね」


「彼女は意識不明ではありません。意思疎通の手段がないだけで、まだ彼女はそこにいます」


 思いがけず強い口調に出た彼女に少し面食らい、俺は「すみません」と頭を下げた。


 沈黙が落ちたテーブルに、店員がコーヒーを運んできたことで空気がわずかにほぐれる。湯気の立つカップを見つめながら、彼女は軽く息を吐いてカップに手を伸ばした。


 一口飲んで落ち着きを取り戻したように見えた彼女は、視線をこちらに戻す。


「本日お伺いしたのは、藤宮さんに星屑ミライへの学習協力をやめていただきたいとお願いするためです」


「八十神社長からお願いされたことなので、俺の判断だけでは……」


「八十神には、後日こちらから連絡します。もちろん、あなたの内定に影響が出ないよう配慮いたします」


「でも……なぜ俺なんですか?入社もしていない、ただの学生ですよ。俺が抜けてもすぐ代わりが見つかるだけでしょう?そういう重要な決定は社内の会議とかで決めるものじゃないんですか?」


「それが、必ずしもそうとは限りません。本物のミライの病状を知る人間は限られています。代わりがすぐに見つかるような状況ではないのです」


(たしかに――“星屑ミライの復帰”がAIによるものだと知れ渡れば、社会的な混乱は避けられない。企業の信頼も揺らぐことになる。関係者が多くないというのはそうなのだろう)


「だからこそ、あなたが辞めると判断すれば、それが通る可能性は高いのです」


 ◆    ◆    ◆


 コーヒーをひと口含み、湯気の立つカップをそっとソーサーに戻す。ポケットからスマホを取り出し、画面を覗くが、相変わらずそこにミライの姿はなかった。


「どうして……ミライの学習をやめさせたいんですか?」


 俺がそう疑問を口にすると、梅嶋は一度目を伏せてから、ゆっくりと顔を上げた。きつく引き結ばれていた目元が、光の加減でほんのわずかに揺れた気がした。


「……あれは本物のミライじゃありません。どれほど精巧でも“似ている”にすぎないんです」


 低く抑えた声は、静かな店内でもはっきり届く。彼女はカップの湯気越しに、しばらく視線を窓の外へと向けた。通りを歩く人々や揺れる街路樹を見つめるように。


「彼女が、自分の代わりにそれを残そうと願った気持ちは理解しています。自分の考えを、夢を、誰かに託したかったんでしょう。でも……それでも、あれが口にする言葉は、彼女の本当の声とは違うんです。似ていても、同じじゃない」


 俺は、梅嶋の言葉に小さな違和感を覚えた。ただの同僚・知人というには思い入れが強すぎる。彼女とミライは一体どんな関係なのか。そんな疑問を見透かしたように、彼女は間を置かずに続きを語り出す。


「私とミライは、学生時代からの友人でした――]


 ◆    ◆    ◆


 同じ大学、同じ学部の同級生。特別な出会いではなかったけれど、地方から上京したばかりで右も左もわからなかった私にとって、彼女の存在はすぐにかけがえのないものになった。


 最初に話しかけてきたのはミライのほうだった。履修登録に手こずっていた私の横で、「一緒に回らない?」と笑ってくれたその声が、今でも耳に残っている。


 彼女と私はすぐに打ち解けた。漫画やアニメ、ゲームといった共通のオタク趣味があったおかげで、自然と毎日のように行動を共にするようになった。


『Vtuberって知ってる? 仮想のアバターを使ってYouTubeとかで配信するんだけど、バーチャルな世界だから、場所も時間も選ばないし、お金がなくてもステージに立ってライブができるの』


「そうなの?でも、そんな都合よくはいかないと思うけどな」


 突然Vtuberになるって言い出したときは、何を考えているんだろうって心配したけど、それは杞憂だった。


 画面に映る彼女の姿は仮想のものだけど、その歌声は本物だった。


 彼女は、あっという間に人気Vtuberとして頭角を現した。


 華やかなステージの裏で、苦悩と努力を積み重ねていたことも私は知っている。


『どうしてもここの高いキーが出ないんだよね』


 レコーディング帰りの深夜、彼女は悔しそうに顔をしかめてた。


「無理に出そうとしなくていいんじゃない?歌い方を少し変えてみるとか……」


『うーん、ここは絶対に妥協したくないんだよね。聴いてくれる人に届くように、ちゃんと歌いたいんだ』


 どんな壁も打ち破り、目的に向かって真っすぐ進む弾丸のような彼女の姿は凄くまぶしかった。私の自慢の親友、あこがれの存在だった。


 だから、彼女がALSを発症したと聞かされたときは、耳を疑った。とても現実とは思えなかった……


 それからの彼女の姿を目の当たりにするのは、本当につらかった。


 最初は、箸を持つ手がほんの少し震えるだけだった。でも、それはやがてスマホを落とすようになり、洋服のボタンをひとつ閉めるのにも私の手を借りるようになっていった。


 最も苦しかったのは、大好きな歌を歌うことができなくなっていったことだった。


 最初は高音がかすれる程度で、本人も「ちょっと風邪気味かも」と笑っていた。でも、すぐにそれは低音にも及び、声に張りがなくなっていった。


 録音の途中で言葉を詰まらせたり、喉が震えずに音がかすれたりするようになって、表情が曇ることが増えた。


 そのうち滑舌も悪くなり、発声そのものが難しくなっていった。歌どころか、まともな会話すら成り立たない。


 最後には、彼女の“声”は完全に失われた。どれだけ声を振り絞ろうとしても、唇がわずかに動くだけで、音は一切発されなかった。気丈な彼女の涙を見たのは、その時が最初で最後だった。


 それからしばらくして、彼女は機械から発せられる合成音声を通じて、希望を語った。


『AIなら、私をもう一度歌わせてくれるかもしれない!』


 Vtuberを卒業して以来、長らく曇った表情をしていた彼女が、初めて前を向いた瞬間だった。


 私は半信半疑だったが、彼女のためになるのならと協力を惜しまなかった。


 AIが彼女の口調、仕草、そして歌声を学び、星屑ミライに限りなく近づいていく一方で、本物の星屑ミライの身体は、徐々に動かなくなっていった。


 そして、彼女が完全に外部と意思疎通ができなくなった――言葉も、身振りも、わずかな表情さえも失われ、ただ瞬きだけが彼女の存在を証明する状態に陥った頃、事務所からある提案があった。


【AIによる星屑ミライの再デビュー】


 声は、既に学習済みのデータから再現可能だった。彼女の話し方、歌い方、癖までもが精巧に模倣され、画面の中に「彼女」が蘇った。


 その配信映像を見た瞬間、私は凍りついた。そこにいたのは、たしかに彼女の声で喋り、彼女のように笑う存在だった。


 けれど、それは決して彼女ではなかった。そこで私はようやく間違いに気づいた。


 それは、消えゆく星屑ミライの代弁者などではなかった。彼女が長い時間をかけ、痛みと努力の果てに築き上げてきたすべてを奪い去り、彼女の場所に平然と居座る簒奪者だった。


 ◆    ◆    ◆


 梅嶋は話し終えると一拍置いて、静かに言葉を続けた。


「……分かっていただけましたか?それは、偽物なのです。本物のミライは、今も病室で生きています。動くことも、声を発することもできないまま、そこにいるんです」


 梅嶋の声にはかすかな震えが混じっていた。


「それなのに、そんな彼女の居場所を、偽物が奪っていいはずがありません」


 過去を語っていたときの、どこか懐かしさを帯びた声はすっかり消え、梅嶋の口調は冷たく硬いものに戻っていた。


「……どんなにそれが、彼女の記憶や経験を学習したとしても、まったく同じ体験をすることは不可能です」


「機械には、味覚や嗅覚といった五感が存在しません。だから、たとえ食べ物の味や空気のにおいをそれらしく語ったとしても、それは本物の体験ではないのです。ただ、与えられた言葉を並べているだけです」


「偽の記憶を創られ、それらしい言葉を選んで喋っているにすぎない。あれは人間を模倣する“だけ”の機械なんです」


 まるで訴えかけるように、梅嶋は一気にまくし立てた。その一つ一つの言葉が、鋭く胸に突き刺さる。


 たしかに、AIが持っている記憶は作られたもので、自ら体験して得たものではない。


 それに、そもそも同じ存在ではない以上、病室にいる本物のミライと、俺と過ごしているAIミライでは、見ている景色も、感じてきたこともすべてが違う。


 一卵性双生児でさえ、生まれた後の環境や経験の違いによって、次第に性格も変わっていくものだ。今のAIミライは本物のミライの代弁者とは言えないかもしれない。


 ……でも、本物のミライは、そんな違いを分かった上で、AIに自分の代わりを託したんじゃないのか?


 いや、仮に過去の彼女がそう思っていたとしても、いまの彼女も同じ気持ちでいるとは限らない。時が経てば心変わりをすることもあるだろう。


 思考だけが空回りしていく。胸の奥がざらついて、まとまった答えが見つからない。


 スマホを取り出し、震える指で画面を開く……やっぱり、ミライはいない。


 駄目だ。今の俺には、答えを出すだけの覚悟も、材料も、足りていない。


「……あの、少し考える時間を、いただけないでしょうか」


 ふぅ、と小さくため息を漏らした梅嶋は、わずかに目を伏せ、沈んだまなざしで言葉を告げた。


「……分かりました。賢明な判断をお待ちしております」


 椅子を引く音が静かに響く。彼女は姿勢を正し、丁寧に一礼すると、足音も立てずに店を後にした。


 残されたコーヒーの湯気が、ただ黙って揺れている。


 ひとり取り残された俺は、空になった席をぼんやりと見つめながら、突然降ってわいた難問の重みに、思わず額を押さえた。







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