14話「記憶をなくしたAI」
昼過ぎの太陽が、カーテンの隙間からじわっと俺の額に当たっていた。気づけばベッドに寝転がったままで、シーツが背中にぴったり張りついているほど部屋は蒸し暑かった。
暑さにうんざりして意識は覚醒したものの、頭の中は靄がかかっていて、完全には目が覚めきらない。
――そうだ、昨日は朝まで飲んでたんだっけ。
始発で帰ってきたことはかろうじて覚えている。でもその後、どうやってベッドにたどり着いたのかは曖昧だった。シャワーを浴びたかも覚えていないし、スマホをどこに置いたかも思い出せない。
記憶がところどころ、ぬるい泥水の中に沈んでいるような感じだった。
昨夜飲んだハイボールがまだ残っているのか、頭の中がどろどろして、物を考えるのも面倒くさい。
(動けない……まあ、今日は外の予定もないし)
スマホを探し出して、脳死で放置ゲーを眺める。レイドボスのHPが削れる数字だけが時間の流れを示し、頭の奥で微かな違和感を感じながらも、気怠い日のいつもの昼下がりを、そのままだらだらと続けていた。
――おかしい。
ふと、静かすぎることに気づいた。そういえば、今日は一度も星屑ミライの声を聞いていない。
いつもなら、少しでも朝ベッドで微睡んでいようものなら、「いつまで寝てるんだ、起きろー!」と、かわいらしい笑顔に似合わない鬼軍曹みたいな声が飛んでくるのに。
昨日、丸一日スマホを家に置いたまま出かけたのが気に障ったのかもしれない。拗ねてるのか?そんな想像をして苦笑する。それでも何となく胸の奥にひっかかるものがあって、スマホに手を伸ばす。
充電スタンドに立てかけたままのスマホ。電源ボタンを押しても、画面は真っ暗なまま。再度ボタンを押し直しても反応がない。ホームボタン、音量ボタン、あらゆる入力を試しても、ぴくりともしない。
(まさか……壊れた?)
心臓が、急に早鐘を打つように脈打ち始める。予期せぬ事態に、眠気も二日酔いも吹き飛ぶ。頭が急に冴えわたり、代わりに胸の奥に冷たい焦燥感がじわじわと広がっていった。
何度も無反応な画面とにらめっこしながら、あれこれ操作を繰り返す。ようやく強制再起動に成功し、黒い画面にロゴが浮かび上がり、思わずほっと息をついた。
けれど、その安堵は長く続かなかった。
画面に現れた星屑ミライは、ただ呆けたような表情でこちらを見つめていた。言葉も動きもない。まるで魂だけが抜け落ちてしまった人形のようだった。
「ミライ……?」
いくら話しかけても反応がない。
(何が起きた?ハード故障?クラウドの障害か?)
通信環境を確認して、ログもひと通りチェックする。しかし、見慣れた表示が並ぶだけで異常の痕跡はどこにもない。
「おい、ミライ。どうしたんだ?何か、返事してくれ……」
声をかけても、スマホは沈黙を保ったまま。ミライの姿はそこにあるのに、そこに“彼女”はいなかった。
アプリの再起動、キャッシュの削除、強制同期、バックアップデータの復元……思いつく限りの手を次々と試すけれど、結果は変わらない。画面には星屑ミライの姿が表示されている。けれど、どこを見ているのかもわからないぼんやりとした視線のまま、何の反応も返してこない。ただ、そこに“映っている”だけだった。
(こんなの、どうすればいいんだよ……!)
焦りで頭がうまく働かず、思わずスマホをベッドの上に投げ出した。完全にお手上げだった。
◆ ◆ ◆
しばらく無言で天井を見つめていたが、ようやく頭が少しだけ落ち着いてきた。そのとき、不意にある記憶がよみがえる。
「……そうだ、社長!」
最初にミライのスマホを預かったとき、八十神社長が「何かあったら連絡してくれ」と言って、名刺と一緒に連絡先を渡してくれていたじゃないか。
頼れるものはこれしかないと、しまい込んでいた手帳から社長の名刺を取り出す。手が震えて、スマホの画面をうまく押せず、二度、三度と番号をタップし直した。
(大丈夫だろうか、つながるだろうか……)
コール音が数秒続いたあと、聞き慣れた落ち着いた声が電話口から返ってきた。
「もしもし?」
(つながった……!)
一瞬ほっとするが、すぐに緊張がこみ上げてくる。社長が自分のことを覚えているか、不安を押し隠しながら声を振り絞った。
「あの、八十神社長でしょうか?俺です、藤宮です」
「藤宮……ああ、ミライの件の。どうしたんだい?」
(よかった、ちゃんと覚えててくれた)
胸の重石が少しだけ軽くなり、息をついた。ようやく助けが届くかもしれないという期待が、焦りをかろうじて抑えてくれる。
「あの、お借りしている星屑ミライのスマホなんですが……急に、彼女が何の反応もしなくなってしまって。どうすればいいでしょうか?」
「その件か。先ほど技術チームから報告があったよ。復旧の目途は立ったそうだ。数時間もすれば元に戻るはずだ」
(直るのか……!)
「ただ、ひとつ懸念があってね。もしかすると、記憶の一部が失われている可能性がある」
「記憶が……?それって、どういう意味ですか」
「……」
社長は何事かを思案するようにわずかな沈黙を置いてから、言葉を選ぶようにゆっくり続けた。
「……君にも伝えておいた方がいいだろう。実は、彼女には時々こういった不具合が起きることがあって、そのたびに記憶が部分的に抜け落ちたり、混乱したりすることがあるんだ」
(記憶が消える……?)
「詳しい原因はまだ分かっていない。技術チームの見解では、自己の一貫性に疑問が生じたとき、それに対応するために自ら記憶を削除してしまうことがあるらしい」
(つまり……自分で記憶を消してるってことか?)
「最近は安定していたんだけどね。ただ、今回は少し状態が崩れたようだ。再起動した彼女は、おそらく以前のことを覚えていない。けれど、基本的な動作には問題ないはずだ。今まで通りに接してくれればいい」
復旧するという情報は朗報だった。けれど、記憶が消えるかもしれないというのは、どう受け止めていいのか分からなかった。
「……あの、“自己の一貫性に疑問が生じた”って、どういう意味なんでしょうか」
電話越しの社長は、少し言葉を選ぶように間を置いてから答えた。
「――詳しくは不明なんだが、君も知っての通り、彼女は“星屑ミライ”という人物の人格を模したAIだ。AIとしての自分と、人間のミライとしての自己イメージ、その二つの間に矛盾が生じると、内部で深刻なストレスが起きるらしい。
その結果、記憶を保持することでかえって整合性を保てなくなる場合、彼女は自発的に記憶を削除する傾向がある。つまり、人間でいえば“自分は何者か”という感覚を見失って、解離性健忘――心因性の記憶喪失のような状態に陥る、ということなんだ」
「最近は安定していたっていうのは、俺が星屑ミライのスマホを受け取る前は安定してたって意味ですか?もしかして……俺が何かまずいことをしてしまったんじゃ?」
「いや、逆だよ。君にスマホを渡してからのほうが、彼女の状態は安定していた。おそらく君との日常の学習は、彼女にとってストレスを和らげる効果があったんだろう。君の協力は本当に価値があったと思ってる。これからも、頼むよ」
◆ ◆ ◆
電話を切ったあと、静かになった部屋で俺はひとり考え込んだ。
俺は……彼女の役に立っていたのか?
大したことはしていないと思っていた。ただ日々を一緒に過ごして、少し話をして、たまにゲームをして、適当に会話を交わすだけ。
それでも、その些細なやり取りが、彼女にとっては支えになっていたのかもしれない。
もし、昨日。一人きりで放っておかずに、ちゃんとそばにいてやれていたら――こんなことには、ならなかったんじゃないか。
俺が思っているより、彼女にとって“俺”という存在は、ずっと大きかったのかもしれない。