13話「AIのいない日」
サークル棟に入り、いつもの部室へ向かう。シャツの裏を伝っていた背中の汗も、棟内に漂う冷房の風に冷やされて、徐々に引いていくのがわかる。
自分が所属しているサークルは、通称「LINUX」。正式名称は「Laboratory for Integrated Networks and Unified experiments(統合ネットワーク実験研究所)」という。まぁ、これは単なるこじつけで、昔の先輩方が先に「LINUX」という略称ありきのお遊びで付けた名らしい。
コンピュータを使って何かをする、という漠然とした趣旨のもと、絵を描いたり、プログラムを書いたり、ゲームを創ったり、各々が勝手に活動して、その成果や情報を持ち寄っては話す場……だったはずだが、気がつけばほとんど麻雀ばかりしている。別名「麻雀部」。
扉の向こうから、にぎやかな笑い声が漏れてくる。
「うぃーっす」
軽く挨拶をしながら片手でドアを押し開けると、室内の空気がひんやりと肌を撫でる。入るなり、俺の姿を見つけた誰かが、すかさず聞き慣れた声で呼びかけてきた。
「おぉ、藤宮さん。久しぶりじゃないですか」
声の主は情報工学部の後輩、山本だった。学部三年生で、第一印象はやや陰気に映るが、実際には場の空気を読むのが得意で、器用に立ち回る奴だ。
同じ学部ということもあって、過去問の融通や課題の相談を受けていた山本には、妙に懐かれている。後輩の中では、最も顔を合わせる機会が多いやつだ。部室には他にも二人、見覚えのある連中がいたが、名前が思い出せない。まあ、問題はない。
「珍しいですね。さっきまで姫島さんもいたんですよ」
山本が何気なく言った。だが、その口の端には微かににやけたような表情が浮かんでいた。
姫島が何度か俺にアプローチをかけているのを見ていたからかもしれない。自分ではさほど意識していなかったが、第三者から見ればからかいやすいネタには映るらしい。
「……マジで?」
今日のゼミでの一件が脳裏をよぎる。鉢合わせていたらどうなっていたか……間一髪のすれ違いに、思わず安堵の息を漏らす。
「俺ら四人で麻雀してたんですけど、突然姫島さんが来て田中を拉致って行ったんですよ」
「拉致?」
「なんか絵が描ける人を探してたらしくて、田中がうまいって話になって、そのまま連れてかれました」
なるほど。情報が断片的で、全貌はつかめない。けれど、特に深入りしたいとも思わなかった。気にならないと言えば嘘になるが、わざわざ追いかけて確かめたいほどでもない。
「そんで、麻雀やるには一人足りないんですけど……どうですか?」
山本が軽く手を上げて誘ってくる。
「じゃあ、ちょっとやってくかな」
予定もなかったし、暇を潰すにはちょうどいい。少し伸びしながら答えると、山本が嬉しそうに牌をかき集めはじめた。
◆ ◆ ◆
卓上には点棒と牌が整然と並び、空調の効いた部屋に、談笑の声が心地よく響いていた。誰かが牌を叩く音、その直後に漏れる「あっ」と「チー」の声。軽快なテンポで回る卓は、時間を忘れさせる熱気に満ちていた。
対面がツモった牌をそっと手元に加え、次に打つ手を考える。俺は手番が来るまでのつなぎにふと話題を振った。
「そういえば、前期のテストは大丈夫なのか?そろそろだったろ?」
学部時代のことを思い出し、テスト時期にもかかわらず遊んでいる山本たちの様子が気になって、近況を尋ねる。
「あぁ、もうほとんど終わってて、あとはレポートだけなんですよね」
山本が何気なく答える。どうやら他の二人も似たような状況らしく、テストから解放された開放感が漂っていた。
「そのレポートもAI使えば楽勝なんで、もう終わったも同然ですよ」
まるで夏休みに向けて何の憂いもないと言いたげな様子だった。
そのあまりに楽観的な姿勢に、俺は少しばかり不安を覚え、忠告代わりに以前あった話を切り出す。
「前にTAでレポートのチェックを手伝ったことがあるんだけど、AIを使ってでたらめなレポートを出したやつが単位落としてたぞ」
山本たちの表情が一瞬こわばる。
「AIが、それっぽい専門用語を実在するかのようにでっち上げてたのに気づかずに出したらしい。……ハルシネーションってやつだな」
AIは使いこなせば頼れるが、扱いを誤ればトラブルの種にもなる。まさに“道具は使いよう”だ。
「ははっ、まあ使うのはいいけど、ちゃんと使いこなせよってことだな」
軽口を放って笑う俺に対し、他の三人は目を見合わせながら、小さく笑みを浮かべた。
◆ ◆ ◆
麻雀を打ちながら、AIの話、単位の話、恋バナまがいのからかい──そんな他愛もない話題が行き交い、気づけば窓の外は茜色に染まり始めていた。部室に差し込む夕陽が卓上の牌に淡く反射し、空気が少しだけ静けさを帯びる。
腹も減ってきたし、そろそろ切り上げようか──そう思っていたところ、山本が手牌を伏せながら顔を上げる。
「このあと、飲みに行きません?」
ふいに投げかけられた誘いに、俺は数秒迷ってから肩の力を抜いて笑った。
「……まぁ、せっかくだし今日は付き合うか。たまにはとことん遊んでみるのも悪くないな」
部室を後にし、大学の裏手にある、24時間営業の居酒屋へと足を運ぶ。のれんをくぐると、まだ早い時間にもかかわらず数組の学生客で賑わっていた。
テーブルに並ぶ唐揚げやポテトの香ばしい匂いに胃が刺激され、ジョッキが交わる音が夜の始まりを告げる。山本たちはそれぞれの話に花を咲かせ、テンションも少しずつ上がっていく。グラスを傾けるたび、くだらないことで笑い合い、ふとした沈黙すら心地よい。
気がつけば終電もとっくに過ぎ、頼んだ梅酒の氷も二回目の継ぎ足しを迎えていた。重くなった瞼とふらつく足取りのまま、朝焼けに照らされる駅のホームで始発を待つ。
〈星屑ミライ〉の存在は、すっかり頭の片隅から消えていた。家に置きっぱなしのスマホのことなど、思い出しもしなかった。
それは俺にとっては、いつもと変わらない一日だった。けれど、彼女にとっては違った。
その違いに気づくこともなく、俺はただ、無邪気に日常を享受していた。