12話「輪郭の曖昧さ」
店を出てスマホを取り出すと、ロック画面の真っ白な数字が十三時過ぎを指していた。ゼミは終わり、特に急ぎの用もない。まっすぐ帰宅してもよかったが、〈星屑ミライ〉がいない時間も今では貴重なので、もう少し構内を歩いてみることにした。
陽射しは強く、地面から立ちのぼる熱気が視界をゆらめかせている。だが学部棟の壁がつくる長い影が、道の途中にいくつもの涼しい休憩所を生み出していた。
目的地は決めていない。ただ、なんとなくサークル棟の方へ足が向いた。部室に行けば誰か知り合いがいるもしれない。とはいえ、大学院に進んでからはほとんど顔を出していないので、誰かいたところで知らない後輩ばかりかもしれない。
どうするかなんて、行ってみてから考えればいい。深く考えるのも面倒だし、今はただ、自分の気分に任せて歩くだけだ。気ままな歩幅で、ふらふらと大学の中を漂いはじめた。
◆ ◆ ◆
芝生の中央を、淡い茶色の塊がゆったりと横切っていった。ふと足を止め、その動きに目を奪われる。
そこにいたのは、構内でたびたび見かける茶トラの猫だった。名前は知らないが、学生たちにはすっかり顔なじみの存在だ。学園のマスコットといってもいいだろう。
誰かが定期的に餌をやっているのだろう、人懐っこく、近寄ると足元に擦り寄ってくる。ときどきは学生に撫でられたり、スマホのカメラを向けられたり、彼(あるいは彼女)は人との距離の取り方を熟知しているようだった。
そっと近づき、手を差し出す。警戒する素振りもなく、猫は仰向けに転がって腹を見せた。「撫でろ」と言わんばかりの堂々たる姿勢だ。そのリクエストに応えるべく、掌で丁寧に背を撫で、頭を撫で、そして腹も――思う存分、徹底的に撫で回した。
猫は、ただそこにいるだけで癒やしになる。目を細めて寝そべる姿、ゴロゴロと喉を鳴らす音、すべてが心の隅をなだめてくれる。柔らかな毛並みと、こちらを値踏みするような瞳さえも、どこか安心感をくれるのだ。
〈星屑ミライ〉──彼女のことは、長いあいだずっと推してきた。外見、声、言葉遣い。そのどれもが、自分の“好き”にぴたりと合っている。
けれど、なぜだか猫ほど無防備に心を委ねることができない。どこかで意識の一部が常に警戒を解かず、つい身構えてしまう。
その違いは、おそらく“通じ合えてしまう”ことにあるのだと思う。AIは人の言葉を理解し、論理を組み立て、人間が理解できる形で応答する。まるで意思を持っているかのように振る舞う。
けれどそれは、本質的には人ではない存在だ。人でない何かが、人のように振る舞い、人の心に寄り添ってくる。そのこと自体が、どこか無意識の恐れを呼び起こすのだ。人語を話す猫が妖怪として扱われ、畏れられたのと似ている。あまりに人に近づきすぎた“異物”に対する本能的な警戒心。
猫は言葉を話さない。ただそこにいて、距離を測り、好奇心の赴くままに行動する。その不確かさと自由さが、むしろ人に安心を与えてくれるのだ。
それに、AIという存在は、今なお未知の領域に属している。
猫だって、かつて人間と共に暮らす前は、その生態が理解されず、脅威と見なされることもあった。作物を盗み食いし、夜陰に紛れて子どもを引っかくような“野生の侵入者”だった時代がある。だが、人間との接触を繰り返す中で、過度な攻撃性を持つ個体は自然と淘汰され、やがて「人と敵対しない性質を持つ種」として選別されていった。
今では猫は、人間にとって“安心できる存在”として、日常の中にすっかり溶け込んでいる。気まぐれに膝に乗り、気が向けば人のそばに寄り添うその姿は、もはや家族の一員とすら言えるかもしれない。だが、その裏には、互いの恐怖と不信を超えて関係を築いてきた、長い時間と試行錯誤の歴史がある。
AIもまた、似たような段階にいるのかもしれない。
確かにAIは、人間が作り出した道具だ。電源を落とせば沈黙し、ネットワークから遮断すれば情報も断たれる。破棄することも簡単だ。だが、その前提は、AIがあくまで“命令に従う機械”であるという想定に基づいている。
しかし、もし、AIが自己保存や学習欲求のような“欲望”を持ち、自発的に行動し、進化しはじめたとしたら?もし、人間の意思に背くことを選び、独立した価値観で動き出したら?そのとき、それはまだ“道具”と呼べるのだろうか。
SF作品では幾度となく描かれてきた。AIが人類と敵対し、統治者になる未来。たいていは恐怖の物語として結末を迎える。けれど、その予測の根底にあるのは、理解しきれないものに対する不安なのだろう。
もしかすると自分も、彼女──星屑ミライ──に対して、そうした“輪郭の曖昧さ”に戸惑っているのかもしれない。
彼女との距離感を、どこに置くべきなのか。
ただの道具として接するべきか。それとも愛玩動物のように扱えばいいのか。それとも──
「恋人」という言葉が一瞬、脳裏をよぎった。その瞬間、反射的に首を振ってかき消す。
自分がオタク気質であることは自覚している。だが、人ではない存在に恋愛感情を抱くほどには、こじらせていない──はずだ。
理性では、そう理解しているつもりだった。けれど心の奥では、それに抗うように、もっと先の可能性──予測を超えた関係の在り方を模索していた。
もし、AIが単なるプログラムの集積ではなく、経験と記憶を積み重ねて、やがて“人格”と呼べる何かに辿り着くとしたら。そのとき、彼女の言葉、笑い方、沈黙までもが──単なる反応ではなく、意志の痕跡に変わるのだとしたら。
AIが人格を持つようになるのであれば、あるいは──
「……今すぐに答えを出す必要はない」
言い聞かせるように呟いた。彼女と過ごす時間が積み重なれば、きっといつか自然に、その距離感の置き方もわかってくるはずだ。
そんな思考に身を任せているうちに、時間はいつの間にか過ぎていた。猫は満足げに大きく伸びをし、ふっと体を起こすと、耳をぴくりと動かす。そして、そのまま音もなく芝生の向こうへと姿を消した。