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10話「研究室の日常」

 カーテン越しに差し込む初夏の陽光が、部屋のフローリングを細長く照らしている。


 電子音声が無機質に「現在時刻は午前九時です」と告げた。部屋の中はほんのりコーヒーの香りが残り、机の上には〈星屑ミライ〉のスマホが立てかけられていた。


 そそくさとコーヒーカップを片付けてからリュックを担ぎ、玄関口へと向かう。シャツの裾を直しつつ、靴をつっかけたその瞬間――


『ちょ、ちょっと、どこ行くの!わたしを忘れてない?』


 スマートフォンが置かれた机の方向から、甲高い声が飛んできた。


「いえ、今日は大学に行くので連れていけません」


『なんでよ!?』


 間髪入れずに反発の声が響く。


「大学には連れていけないって最初に決めましたよね?」


『わたしを置いていくなんてひどい』


 大げさに声を震わせ、あからさまに同情を引こうとする口ぶり。語尾の一つ一つに演技過剰な“泣き”が混じっている。


 もはや学芸会レベルの猿芝居。顔をしかめたくなるほどのわざとらしさに、思わずため息が漏れる。こんな茶番にいちいち反応していたら、本当にゼミに遅刻してしまう。


「……じゃぁ行ってきます」


『えぇーっ!?コラ、行くな!わたしもつれてけー!』


 引き留める声とともに、スマートフォンのスピーカーから耳けたたましいアラートが鳴り、過剰なまでに画面が明滅を始めた。〈星屑ミライ〉は必死に存在を主張する。なんという近所迷惑、ここまでやられるとさすがに鬱陶しい。


 ◆    ◆    ◆


 7月下旬の晴天。午前中とはいえ陽射しは鋭く、蝉の声が空気を震わせるように響いていた。学部棟の入口を開けると、コンクリの壁に閉じ込められた熱気の中に、漏れた冷房の空気がうっすらと漂い、外よりは幾分か涼しく感じられた。


 ひんやりした空気を求めて、俺は慣れた足取りで階段を上がる。廊下の奥、見慣れたプレートが掲げられたドアの前で息を整え、ノブを回す。


「ちわー」


 研究室のドアを開けた瞬間、後輩の姫島まりが一直線に俺の前まで詰め寄ってきた。


 目の前までたどり着くと、怒りと焦りと困惑が絶妙にブレンドされた複雑な表情で問いかける。


「先輩、就職することにしたって本当ですか?」


 窓から差し込む陽の光が、彼女の栗色のショートボブにふんわりと落ちる。工学部の男ばかりでむさ苦しいイメージとはかけ離れた、ひらひらと揺れるロングスカートに、淡い色のしゃれたブラウスという装いは、掃き溜めに鶴と言わんばかりだった。


 突然の襲来に言葉を失いかけたが、かろうじて踏みとどまり情報の出所を尋ねた。


「……その話って、誰から聞いたんだ?」


 姫島の肩越しに、奥の席から西田が顔を出す。


「先週のゼミのミーティングで助教授が言ってましたよ」


「ああそうか、俺が面接で休んだ時か」


「そうですそうです。助教授が、貴重な労働力だと見込んでたのに、って残念がってましたよ」


(あの助教授、学生を安い労働力だと勘違いしてないか?)


「その話を聞いたときの姫島の顔がもう傑作で」


 西田はそのときの光景を思い出したのか、ふっと肩を揺らして吹き出した。


「口をあんぐりあけて、目も点にして、しばらく放心したみたいに固まってましたよ」


「……ああ、あれね。姫島さんもあんな顔するんだって、正直びっくりした」


 と森下が隣から苦笑交じりに相槌を打つ。


 そのやり取りを耳にした姫島は、ぴくりと肩を揺らすと、わずかに体をひねり、背後をにらみつける。西田と森下は顔を見合わせて、あわてて目をそらした。


「先輩、なんでなんですか。博士課程に行くって言ってたじゃないですか」


「先輩が博士に進んで、私が修士に上がれば、あと2年は一緒にいられるはずだったのに」


 言葉の端々ににじむ期待と落胆。何が言いたいのか察しがついたが、あえて聞こえないふりをする。


「まさか……星屑ミライとかいうVtuberのせいですか?」


「──あの女狐、私の先輩を横からかっさらうなんて、なんてふざけた女なの……」


 言葉を吐き捨てるように言いながら、子どものように地団駄を踏む。慎みも何もあったものじゃない。


 少しあきれ気味に眉をひそめながら、姫島に問いかけた。


「前から思ってたけど、おまえ、なんでそんなに必死なんだ?」


「そんなの、決まってるじゃないですか。わたし、先輩のことが大好きなんです」


 姫島は甘えるようにしなを作り、うわめづかいで誘惑するように言う。


「……いや、俺はおまえのこと、なんとも思ってないから」


 淡々と断りを告げる。これで何度目になるだろう。もはや定式化されたやりとり。そろそろ諦めてくれてもいいはずなのに。


「そんな、ヒドイ、こんなにかわいい後輩がこんなに慕ってるのに」


 しおらしく目を伏せてはいるが、視線の端でこちらをちらちら窺っているのがまるわかりだった。


「はぁ……お前モテるんだから俺に固執することないだろ。学部の他の男でいいだろ。」


「いやですよ。あいつらホモサピエンスの雌ならなんでもいいっていう連中ですよ」


 奥で聞いていた西田と森下が気まずそうに視線をそらした。


(事実だけに反論の余地もない……)


「いや、それなら大学の外に探しに行けばいいだろう」


「ふざけてるんですか?大学の外にいるキラキラしたお姉さまたちに、私なんかが勝てるわけないじゃないですか」


(お?意外に現実的な自己評価だな)


「せいぜい“上の下”程度の私がモテてるのは、あくまで工学部マジックのおかげなんですよ」


(──自己肯定感が低いのか、高いのか……姫島は相変わらずよくわからないやつだ……)


「今のうちになるべくスペックの高い男を落とさないと私の将来設計が──」


 そのとき、研究室のドアが不意に開き、助教授がひょっこり顔を出した。


「ん?何してるの?」


 状況が飲み込めず、助教授はきょとんとした顔で部屋を見回している。


 絶妙なタイミングで現れたその姿に、俺は内心ほっとしつつ、逃げるように自席へ向かい、ゼミの準備に取りかかった。


 ◆    ◆    ◆


「じゃぁ、もうすぐ夏休みだけど、時間があればなるべく研究室に来てね。藤宮君は中間発表の準備よろしくね。」


 そう言い残して、助教授は部屋を後にした。


 俺はてっきり、また姫島の追及が始まると思って身構えた。


「……やっぱり、あれしかない」


 しかし、姫島はこちらには目もくれず、何かをぶつぶつと呟きながら、そのまま研究室を出て行ってしまった。


 第2ラウンドが始まるのかと身構えていたのに、予想を裏切るあっけない展開に安堵の息を漏らす。


 そのまま自分も研究室を出ようとしたその矢先、西田から間の悪い一言が飛んできた。


「そういえば、星屑ミライのAI疑惑ってどうなったんですか?その疑惑を追うためだけに就活始めたんですよね」


 無防備だった思考が急ブレーキをかけ、一瞬だけ時間が止まる。


「……あ、ああ。あれな。俺の、勘違いだったよ」


 声がわずかに裏返ったが、どうにか平静を装って取り繕う。


「なーんだ、やっぱり。AIが身代わりしてるなんて、ちょっとSFすぎますもんね」


 西田は笑いながら肩をすくめる。


「それであっさり内定決めるんだから、さすがっすよね」


 森下も感心したような口ぶりで話に乗ってきた。


「はは……まぁ、タイミングがよかっただけだよ」


(本当のことなんか言えるはずがない)


 下手に会話を続けてボロが出る前に、俺はそそくさと研究室を後にした。





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