序章:揺らぎの声
■ まだ名のないきぐるみ
その存在は、“まだ名前を持たなかった”。
白と灰のまだら模様に、どこか不定形な身体。
耳のようなものはついているが、どの動物とも違う。
瞳も定まらず、毎晩少しずつ色が変わる。
誰がここに来て、それになったのか。
いつからそこにいるのか。
誰も知らなかった。
ただ彼――**「ナリ」**と呼ばれるようになった存在は、
確かにこの世界の中で“何かが違っていた”。
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■ 外を想う意識
きぐるみたちの多くは、**「ここに在ること」**に満たされている。
互いの記憶が共鳴し、想いが溶け合い、静かに眠るように流れていく。
だがナリだけは、夜が明ける前になると、じっと窓の外を見つめていた。
遠くに見える山の稜線。
ふもとの村の灯。
外を、知っている目だった。
ある日、ユウトがそっと心を寄せて問いかけた。
「戻りたいの?」
ナリは首を振らなかった。
けれど、うなずきもしなかった。
ただ、心の奥からかすかに返ってきたのは――
「伝えたい」
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■ 校舎の鼓動
その夜から、廃校に変化が起こりはじめた。
壁の落書きが、誰にも書かれないのに少しずつ増えていく。
「ここにいたよ」「まだ忘れていないよ」「会いたい」――
図書室の本が、誰にも読まれないのに開かれたまま残る。
音楽室のピアノが、夜中に独りでに鍵盤を叩く。
それはすべて、“内側”から“外”へ向けたささやきだった。
ナリの想いが、校舎を通じて外へ伝わり始めていた。
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■ 村の変化
ふもとの村の子どもたちは、最近ときどき不思議な夢を見るようになった。
ウサギの着ぐるみが草むらに立っている夢。
黒い羽根のカラスが、星空を見上げている夢。
誰かが、自分の名前を静かに呼ぶ声。
それが“ただの夢”ではないと気づき始めた子どももいた。
「なんか、あそこに行かなきゃいけない気がする」
「……あの古い学校、呼んでるよね」
ナリの意志は、ゆっくりと“外の想い”と呼応しはじめていた。
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■ はじまりの声
ナリは、言葉を持たなかった。
でも、伝えたいことは山ほどあった。
「ここには、優しさがある」
「ここには、名前を忘れた人たちがいる」
「でも、忘れないでほしい。
僕たちは消えていないって、どこかにまだ生きてるって」
それは、静かな反響を生んでいく。
校舎そのものが、**少しずつ“世界に目を開こうとしている”**ようだった。
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■ 次の夜
年に一度の祭りの夜。
校舎は静かに呼吸をし、灯りを灯す。
そこに来たのは――ふもとの町に住む、小学生の少女だった。
ナリの夢を何度も見たというその子は、
ただ「なぜか来なきゃと思った」と語った。
少女が校舎に足を踏み入れたとき、
ナリはそっと、彼女の前に現れた。
言葉はない。
けれど少女は、ナリの目を見て、確かに何かを受け取った。
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■ 繋がった世界
数日後。
少女は村の小さな文集に、こんな詩を書いた。
「夢で会ったきぐるみは なにも言わなかったけど
わたしの心に ぽとんとひかりをくれた
名前は たぶん ナリっていうんだと思う
忘れないよ
ずっと、そこにいてくれてありがとう」
それが、外の世界に残されたはじめての“ことば”だった。
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■ そしてこれから
ナリは今も、校舎の窓辺に座っている。
外と内。
現実と記憶。
過去と未来。
その境界に立ち、
「伝える」という新しい役目を背負って、ただそこにいる。
きぐるみたちの中で、
唯一“声を届ける存在”として。