幻想編:きぐるみたちの沈黙の交わり
着ぐるみの内側は、思っていたよりもずっと温かかった。
秋人の身体は、すでに布でも綿でもなかった。
意識はふわりと溶け出し、まるで夢と夢の狭間に浮かぶような、
**「言葉のいらない世界」**へと沈んでいく。
視界はなく、音もない。
けれど、“存在”がそこにある。
彼はひとりではなかった。
着ぐるみたちの“内側”で、無数の“想い”が流れていた。
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■ 意識の海の中で
最初に触れたのは、ユウトだった。
白い犬の姿をした彼の意識は、どこまでも柔らかく、懐かしかった。
言葉を交わさずとも、わかる。
「おかえり。待ってたよ、秋人」
その“想い”は、音ではなく、波のように秋人の胸に届く。
ユウトの想いに触れた瞬間、
秋人は彼が“自分の名前を覚えていた”ことに驚いた。
他の皆が忘れても、彼だけはずっと覚えていたのだ。
「あなたは、まだ途中だった。だから、帰ってきたんだね」
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■ 共鳴する記憶
次に流れてきたのは、ナナミ――かつてトラの着ぐるみだった少女の記憶。
鋭くて強いはずの意識は、どこか涙の匂いがした。
「私は、誰かの期待を演じるのが苦しかった。
でもこの姿なら、ただ“わたし”でいられる」
秋人の中に、彼女の幼い記憶がそっと流れ込む。
ランドセル。運動会。
誰かに褒められたかった、あのまなざし。
秋人は静かに、心で答えた。
「君は、そのままで充分だったんだよ」
その瞬間、彼女の意識がふわっと輝いて、
秋人の中を優しい風のように通り抜けていった。
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■ 幽かなつぶやき
ある意識は、名も言わなかった。
ただ、白く冷たい風のように吹き抜け、
断片的な記憶だけを秋人に預けていく。
一瞬見えたのは、海辺の町と、アザラシのぬいぐるみ。
年老いた手。
やさしく撫でるような気配。
「わたしはもう、ここで十分だったの」
その想いに触れ、秋人の目からひとしずく、涙がこぼれた気がした。
だが、もう彼にまぶたはなかった。
涙ではなく、ただの“想いの粒”が流れたのだ。
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■ “共鳴”と“溶解”
秋人の意識は、次第に広がっていく。
それぞれのきぐるみの中に宿る、“かつて誰かだった記憶”――
怒り、悲しみ、悔い、願い。
それが音もなく混ざり合い、重なり、溶けていく。
自分の中に他者が入り、他者の中に自分がしみ込んでいく。
それは恐ろしいことではなかった。
むしろ、安心だった。
「孤独が消えていく」
そう、はっきりと感じた。
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■ 秋人の想いもまた
秋人の記憶もまた、誰かに届いていた。
東京の駅のベンチ。
小さな娘が生まれた日のこと。
ひとりで夜道を歩きながら、ふとあの夜を思い出した瞬間。
その全てが、言葉ではなく“感情のかたち”として伝わっていく。
「ぼくは、ここに来てよかったんだよな?」
それに返るのは、数多の“声なき声”。
「うん」
「あなたの人生も、あなたの選び方も、全部ここに溶けてるよ」
「だから、もう大丈夫だよ」
秋人は、深く、深く息を吐いた。
まるで最後の名残のように。
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■ 境界の彼方で
今、廃校の中には、言葉のない会話が続いている。
それぞれのきぐるみの中に宿る、
声なき命たちの、記憶と記憶の響き合い。
朝が来れば、誰も動かない。
でも、たしかにそこには**“生きている関係性”**がある。
そしてまた次の夜。
誰かが訪れれば、
秋人もきっと、その“想いの海”から微笑むように寄り添うだろう。
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すべてが溶け合い、ただひとつの“夜”になる――
それが、きぐるみたちの世界。
言葉のない、やさしい交わりの時間。