第五話
夜が更けた頃、千春は先に部屋へ戻り、僕は一人で縁側に出た。庭の向こうで虫の声が響き、涼しい風が頬を撫でる。
ふと背後で戸が静かに開く音がした。振り返ると、母が湯飲みを手にして立っていた。
「まだ起きてたの?」
「うん、ちょっと考え事してた」
そう答えると、母は僕の隣に腰を下ろした。彼女は湯飲みを両手で包み込むように持ちながら、しばらく黙っていた。
その静寂が、今までのどんな会話よりも多くを物語っている気がした。
やがて、母がぽつりと言った。
「……私、千春さんにひどいことをしてたのかもしれないわね」
僕は驚いて母を見た。
「……どういうこと?」
母は少し視線を落とし、湯飲みの中の茶をじっと見つめた。
「さっき、……あなたたちの会話が少し聞こえてしまったのよ」
僕は息を呑んだ。母はそっと息を吐き、続けた。
「千春さん、本当は子供が欲しかったのね」
その言葉には、静かな衝撃が含まれていた。
「私、千春さんのことを誤解していたわ。彼女、ずっとあなたの答えを待っていたんでしょう?」
母の声には、後悔がにじんでいた。
「母さんはあなたのこと……高齢で産んで、色々と苦労があったの。だから千春さんが望んでるなら早い方がいいことを伝えたくて」
母は湯飲みを見つめたまま、小さく息をついた。
「でも、勝手な理想や期待を押しつけていただけだったのかもしれない」
僕は何も言えなかった。母は続けた。
「私、きっと今までも彼女を追い詰めていたわ……」
母の手がわずかに震えた。僕は静かに言った。
「母さんに悪気がなかったことは、千春もわかってると思うよ」
「ええ……でも、それでも私は……」
母は言葉を切り、そっと湯飲みを置いた。
「それに……あなたのことも、ちゃんと見ていなかったのかもしれない」
「僕のこと?」
「あなた、昔から何か大事なことを決めるのがすごく苦手だったでしょう? 強く望むことも、望まれることも、どこか避けていた気がするわ」
僕は何も言えなかった。それは確かに、自分の根本的な性格だったからだ。
母は続けた。
「千春さん、ずっと苦しかったでしょうね。でも、あなたも……迷っていたのよね?」
僕はゆっくりと頷いた。
「私は、子供を持つことが当たり前だと思っていたの。でも、あなたたちにとっての『家族』の形は、私が決めるものじゃないのよね」
「……母さん」
「ただ、どんな形であれ、あなたたちがちゃんと向き合ってくれるなら、それでいいのよ」
僕はゆっくりと息を吐いた。母は静かに微笑んだ。
「そろそろ寝るわね。おやすみなさい」
「……ああ。おやすみ」
僕は部屋へ戻った。千春の寝顔を見つめながら、そっと彼女の手に触れる。すると、彼女はまるでそれを待っていたかのように、僕の指をぎゅっと握り返した。
翌朝。
千春と並んで駅へ向かう道すがら、彼女がぽつりと言った。
「……あなたとこうして歩いてると、不思議な気持ちになるの」
「不思議?」
「昔も今も、私はあなたと一緒にいるのに、時々すごく遠く感じることがあった。でも、昨日のあなたは違った」
「違った?」
千春は微笑んだ。
「あなたが、ちゃんと私を見てくれてた」
僕は何も言えなかった。ただ、その言葉が胸の奥で温かく響いた。
しばらくして父の容体も落ち着き、僕らはゆっくりと日常に戻っていった。
しかし、それは以前とまったく同じというわけではなかった。僕は、これまで避けてきたことに向き合おうと決めた。
千春と何度も話し合い、彼女の想いを聞き、僕自身の気持ちとも向き合った。
すぐに結論が出るわけではなかったが、それでも僕らは「一緒に考える」ということを始めたのだ。