第四話
最近、実家に戻る回数が少し増えた。
父の容体は心配したほど重症ではなかったが、母の看病疲れも気になっていた。何より一人での生活は何かと不安も多く、僕と千春が様子を見にいくことをとても喜んでいるように思えた。
そんなある日。
実家で食事をしている際、母はテレビをつけた。昔はお行儀が悪いと見せてもらえなかったものだが、父の不在で寂しさを紛らわすためか習慣化しているようだった。
画面には、生まれたばかりの赤ん坊を抱いた若い母親が映っている。育児についての特集のようだった。母は箸を置き、楽しげに笑いながら言う。
「かわいいわねえ……やっぱり赤ちゃんっていいわ」
その言葉に、千春の指がわずかに止まるのを、僕は見逃さなかった。
彼女は静かに茶碗を持ち直し、何もなかったようにお味噌汁を口に運ぶ。でも、その仕草には、微細な緊張が滲んでいた。
「千春さんも、そろそろ考えてるんじゃない?」
その瞬間、空気が変わった。音が消えたかのように、食卓の周りの時間が静止した気がした。
千春はほんの一瞬だけまばたきをし、それから穏やかに微笑んだ。
「……まだ、考え中です」
母は、そんな二人の間に漂う静かな緊張に気づかないまま、無邪気に続けた。
「そう? でもね、私としては孫の顔が見られたら嬉しいわ。赤ちゃんがいると、家の雰囲気も明るくなるし、きっとあなたたちも幸せになれるわよ」
僕は息を詰めた。母は、心からの好意で言っている。でも、その言葉がどれほど千春を傷つけるかを、全く理解していなかった。それにその言葉は……まるで今の僕らが幸せではないようにも聞こえた。
「母さん」
僕は静かに言った。
「ん?」
「……その話、今するのはやめないか」
母は少し驚いた顔をしたが、気を悪くした様子はなかった。
「あら、ごめんなさい。でも、そんなに深刻に考えることじゃないのに。どうしたの?急に」
僕は返す言葉を見つけられなかった。千春はうつむいたまま、そっと箸を置いた。
夕食の後、食器を片付ける千春の後ろ姿を見ながら、僕は迷った。でも、今、何も言わなければ、また彼女を一人にしてしまう気がした。
「千春」
彼女は動きを止めたが、こちらを振り返らなかった。
「さっきのこと……ごめん」
彼女はゆっくりと振り返り、かすかに微笑んだ。でも、それは「大丈夫」と言いたいだけの笑顔だった。
「ごめんって、何か悪いことしたの?」
「いや、ほら、さっき母さんが」
「ああ。でも……それなら私、結婚してから何度か言われてきたよ。『子供のことは考えてる?』『欲しいなら早い方がいいわよ』とかって」
彼女の声は淡々としていた。でも、その奥にある感情の揺らぎを、僕ははっきりと感じ取った。
「別にそれが嫌だったわけじゃないの」
千春は少しだけ視線を落とし、それから僕をまっすぐに見た。
「……私ね、本当は、子供が欲しい」
心臓が跳ねた。
そんなこと、全然知らなかった。
「でも、あなたはそうじゃないでしょ?」
僕は息を呑んだ。ゆっくりと背中に冷たい汗が伝う。
「私はずっと、あなたがどう思っているのか聞けなかった。でも、何となくわかってたの。あなたは、子供がいなくても平気だって」
僕は否定しようとした。でも、できなかった。
「……僕は、真剣に考えたことがなかっただけだ」
それが、ただの言い訳であることは、僕自身が一番よくわかっていた。
「無神経だと、母さんだけを責めていた。でも……本当は……千春に一番つらい思いをさせてたのは、僕だったのか」
千春は驚いたように目を見開いた。
「……どうすればいいんだろう」
僕は正直な気持ちを吐き出した。千春が望むなら、とすぐ切り替えれるような器用さは僕にはない。
だいたい、僕が父親になれるのか? 今までこんな大事なことさえ目を逸らして向き合えなかった僕に。
千春は少しだけ考えて、それから小さく微笑んだ。
「私もわからないわ。でも、こうして話せただけでも、少し違う気がする」
千春は……僕を責めなかった。それが余計に苦しくなる。ここまで言わせて、我慢させたことに。
「これからは、ちゃんと考えるから」
僕はそう言って、千春の手をそっと握る。彼女は目を伏せ、それからぎゅっと僕の手を握り返した。
僕らはまだ答えを持っていない。でも、これまで避けてきた重たい扉を、ようやく開けられたのかもしれなかった。