表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/7

第四話

 最近、実家に戻る回数が少し増えた。


 父の容体は心配したほど重症ではなかったが、母の看病疲れも気になっていた。何より一人での生活は何かと不安も多く、僕と千春が様子を見にいくことをとても喜んでいるように思えた。


 そんなある日。

 実家で食事をしている際、母はテレビをつけた。昔はお行儀が悪いと見せてもらえなかったものだが、父の不在で寂しさを紛らわすためか習慣化しているようだった。


 画面には、生まれたばかりの赤ん坊を抱いた若い母親が映っている。育児についての特集のようだった。母は箸を置き、楽しげに笑いながら言う。


「かわいいわねえ……やっぱり赤ちゃんっていいわ」


 その言葉に、千春の指がわずかに止まるのを、僕は見逃さなかった。

 彼女は静かに茶碗を持ち直し、何もなかったようにお味噌汁を口に運ぶ。でも、その仕草には、微細な緊張が滲んでいた。


「千春さんも、そろそろ考えてるんじゃない?」


 その瞬間、空気が変わった。音が消えたかのように、食卓の周りの時間が静止した気がした。  

 千春はほんの一瞬だけまばたきをし、それから穏やかに微笑んだ。


「……まだ、考え中です」


 母は、そんな二人の間に漂う静かな緊張に気づかないまま、無邪気に続けた。


「そう? でもね、私としては孫の顔が見られたら嬉しいわ。赤ちゃんがいると、家の雰囲気も明るくなるし、きっとあなたたちも幸せになれるわよ」


 僕は息を詰めた。母は、心からの好意で言っている。でも、その言葉がどれほど千春を傷つけるかを、全く理解していなかった。それにその言葉は……まるで今の僕らが幸せではないようにも聞こえた。


「母さん」


 僕は静かに言った。


「ん?」


「……その話、今するのはやめないか」


 母は少し驚いた顔をしたが、気を悪くした様子はなかった。


「あら、ごめんなさい。でも、そんなに深刻に考えることじゃないのに。どうしたの?急に」


 僕は返す言葉を見つけられなかった。千春はうつむいたまま、そっと箸を置いた。


 夕食の後、食器を片付ける千春の後ろ姿を見ながら、僕は迷った。でも、今、何も言わなければ、また彼女を一人にしてしまう気がした。


「千春」


 彼女は動きを止めたが、こちらを振り返らなかった。


「さっきのこと……ごめん」


 彼女はゆっくりと振り返り、かすかに微笑んだ。でも、それは「大丈夫」と言いたいだけの笑顔だった。


「ごめんって、何か悪いことしたの?」

「いや、ほら、さっき母さんが」

「ああ。でも……それなら私、結婚してから何度か言われてきたよ。『子供のことは考えてる?』『欲しいなら早い方がいいわよ』とかって」


 彼女の声は淡々としていた。でも、その奥にある感情の揺らぎを、僕ははっきりと感じ取った。


「別にそれが嫌だったわけじゃないの」


千春は少しだけ視線を落とし、それから僕をまっすぐに見た。


「……私ね、本当は、子供が欲しい」


 心臓が跳ねた。

 そんなこと、全然知らなかった。


「でも、あなたはそうじゃないでしょ?」


 僕は息を呑んだ。ゆっくりと背中に冷たい汗が伝う。


「私はずっと、あなたがどう思っているのか聞けなかった。でも、何となくわかってたの。あなたは、子供がいなくても平気だって」


 僕は否定しようとした。でも、できなかった。


「……僕は、真剣に考えたことがなかっただけだ」


 それが、ただの言い訳であることは、僕自身が一番よくわかっていた。


「無神経だと、母さんだけを責めていた。でも……本当は……千春に一番つらい思いをさせてたのは、僕だったのか」


 千春は驚いたように目を見開いた。


「……どうすればいいんだろう」


 僕は正直な気持ちを吐き出した。千春が望むなら、とすぐ切り替えれるような器用さは僕にはない。

 だいたい、僕が父親になれるのか? 今までこんな大事なことさえ目を逸らして向き合えなかった僕に。


 千春は少しだけ考えて、それから小さく微笑んだ。


「私もわからないわ。でも、こうして話せただけでも、少し違う気がする」


 千春は……僕を責めなかった。それが余計に苦しくなる。ここまで言わせて、我慢させたことに。


「これからは、ちゃんと考えるから」


 僕はそう言って、千春の手をそっと握る。彼女は目を伏せ、それからぎゅっと僕の手を握り返した。


 僕らはまだ答えを持っていない。でも、これまで避けてきた重たい扉を、ようやく開けられたのかもしれなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ