第三話
僕らの日常は、ゆっくりと、しかし確かに変化しつつあった。
食卓の会話は依然として少なかったが、沈黙が以前ほど重く感じられることは減っていた。
千春は僕に気を遣うように、けれど過剰にならない程度に話しかけてくれた。僕も、無意識のうちに彼女の言葉を拾おうとしている自分に気づいた。
そんなある日。
久しぶりに親友の圭吾と飲みに行くことになった。圭吾とは大学時代からの付き合いで、彼はいつも飾り気のない言葉で僕の内面を鋭く突いてくる。
「最近、お前ちょっと変わったな」
「そうか?」
「なんつーか、前はもっと無頓着だったというか、ある意味鈍感だったんじゃないかって思うけど、最近は妙に周りを気にしてるように見える」
僕はビールの泡をじっと眺めた。確かに、自分の内面に変化が生まれているのを感じていた。以前は千春の態度に無関心を装っていたが、今は彼女のちょっとした仕草や表情に目が向く。
そう話すと、彼は笑った。
「まあ、夫婦ってのはそんなもんじゃないの。いきなり劇的に変わるもんじゃなくて、ゆっくりすり合わせていくしかないんだろうな」
その言葉が妙に心に残った。
翌日、僕が仕事を終えて帰宅すると、千春が電話をしていた。珍しく、穏やかな声で話している。僕はリビングのソファに座り、なんとなくその会話を耳にした。
「ううん、大したことじゃないの。ただ、最近ちょっと気持ちが変わったというか……うまく言えないけど、前より肩の力が抜けた気がするの」
彼女はどこかホッとした様子で話していた。僕は、その言葉の意味を考えながら、そっと視線を落とした。
そんな穏やかな日々が続くと思っていた。
しかし、ある日、母からの電話がその空気を変えた。
「お父さんの体調があまり良くなくてね……」
父は数年前から高血圧や糖尿病を患いながらも、特に大きな問題もなく生活していた。
しかし、最近になってめまいや倦怠感がひどくなり、検査を受けることになったという。
「詳しい結果はまだだけど、念のためあなたも一度帰ってきてくれない?」
電話を切った後、僕はしばらく無言で立ち尽くした。千春はキッチンで食事の準備をしていたが、僕の様子に気づき、手を止めた。
「どうしたの?」
「父さんの体調が良くないみたいだ」
「……大丈夫なの?」
「検査次第だけど、念のため週末に実家へ帰ろうかと思ってる」
千春はしばらく考えるように視線を落とした後、静かに言った。
「私も一緒に行こうか?」
正直、驚いた。千春は僕の実家とはそこまで親しくはなかったし、義理の両親との関係に距離を置いていた部分があったからだ。しかし、彼女の目は真剣だった。
「いいのか?」
「うん。私も……お義父さんのこと、ちゃんと知りたいし、あなたが心配だから」
それだけ言って、千春は再び料理に向かった。その後ろ姿を見ながら、僕の中で何かが少し変わった気がした。
数日後、僕らは父の入院している病院へと向かった。父は思ったより元気そうだったが、やはり以前よりも衰えが見えた。母は気丈に振る舞っていたが、細かいところで疲れを隠せていなかった。
「千春ちゃん、久しぶりね。来てくれてありがとう」
母の言葉に、千春は少しぎこちなく笑いながら「お義母さん、お久しぶりです」と答えた。
その夜、千春は母と並んで台所に立っていた。僕はふと、これまでこんな光景を見たことがなかったことに気づいた。
二人の会話は断片的にしか聞こえなかったが、千春が母の手伝いをしながら、少しずつ打ち解けようとしているのがわかった。
帰り道、千春がぽつりと呟いた。
「家族って、難しいね」
「……母さんと、何かあった?」
「ううん、別に。ただ、この間ボウルビィの論文を読んでたんだけど、人の愛着スタイルは生まれた家庭環境で決まるって言ってたの。でも、愛着は修正もできる。私、ずっとあなたの家族との距離の取り方がわからなかったけど、それは『よく知らないから』だったのかもしれないって思って」
「……それで、一緒に行こうと思ったのか?」
「うん。お義母さんとも、今まで表面的な会話しかしてこなかったけど、私なりにもう少し関わりたいなって」
僕は千春の横顔を見た。彼女がこんな風に自分の心境を話すのは珍しい。
「ありがとう」
「……どういたしまして」
僕らは並んで歩いていた。以前よりも、肩を寄せ合うように。
未来はまだわからない。でも、確かに何かが変わり始めていた。