第二話
あの日から、僕らは互いに探るような視線を送り合いながら過ごした。
会話は途切れがちで、どこかぎこちない。千春は時折僕の顔を見て、何か言いたげに口を開きかけるが、結局何も言わずに視線を逸らす。
こんな毎日が続くのは耐えられない。休日の午後、僕は思い切って千春を散歩に誘った。
僕らは近くの公園まで歩いた。公園には珍しく誰もいなかった。ベンチに座ると、僕はようやくあの話を切り出した。
「「ノートのことだけど」」
重なった声に、僕は思わず目を見張る。千春もビクッとしたように方を震わせてこちらを見た。
「……読んだのか?」
「ごめんなさい。でも全部じゃないの、たまたま一部だけ見えちゃった」
「そっか」
会話が途切れ、再び気まずい沈黙が訪れる。先に口を開いたのは千春だった。
「ねえ、あなた。あなたは今、幸せ?」
「えっ」
予想外の質問に、思考が止まる。いくつか考えていたはずの言葉が一瞬で霧散した。
「あなたなりに幸せで満足してると思ってたの、今までの結婚生活」
「もちろんだよ、平穏で不満なんて特にない。そりゃ新婚の頃に比べたらその、違うかもしれないけど。そういうものだろ、結婚生活なんて」
僕は思わず早口で答えながら、何故こんなに必死に否定するのかと自分でも不思議だった。まるで痛いところを、ふいに突かれたかのようだ。
千春は少し笑いながら、首を横に振った。
「違うよ、そういう話じゃなくて。ただ、あのノートを見て、少しだけ感じたの。あなたが何を考えているのか」
「……そっか」
「うん。それに、見えない壁は私も何となく感じてた事だったから」
千春の声は静かで穏やかだった。僕は張り詰めていたものが少しずつ緩んでいくのを感じた。
僕らは公園のベンチに腰掛け、春の風に包まれた。
「僕らは今の状況から変われると思う?」
「わからない。でも、変わりたいと思う」
帰り道、僕らはどちらからともなく手をつないだ。互いの温もりを確かめるように。
その夜は、久しぶりに二人で食事を作ることになった。
千春が冷蔵庫を開け、野菜のかごを覗き込みながら言った。
「何か食べたいものある?」
「うーん……そうだな。久しぶりに、一緒に何か作ろうか」
千春は少し驚いたようだったが、すぐに微笑んだ。
「いいね。じゃあ、野菜炒めと味噌汁、それから焼き魚にしようか」
僕は包丁を手に取り、玉ねぎの皮を剥き始めた。
千春は横で人参を切りながら、「覚えてる? 昔はよくこうやって一緒に料理したよね」と笑った。
ふっと結婚当初の思い出が蘇る。
包丁の音、鍋の煮える音、静かに響く笑い声。かつての生活の断片が、少しずつ戻ってくる気がした。
「覚えてるよ。包丁の使い方が下手で、いつも君にダメ出しされてた」
「そうそう。でも、今はちゃんと切れてるね」
彼女の言葉に、思わず笑みがこぼれた。フライパンが温まり、油がじゅっと弾ける音が台所に響く。
僕らは無言で炒める手を動かしながら、その音を聞いていた。
千春が味噌汁の味見をして、少し考え込む。
「うん、ちょっと薄いかも」
「じゃあ、味噌を足そうか」
「ううん、もう少し煮込めば、ちょうどよくなると思う」
僕は頷き、火加減を調整した。そのやりとりが、まるで僕らの関係を映しているような気がした。
すぐに答えを出すのではなく、じっくりと時間をかけて調整する——そんな関係を築いていくことが、今の僕らには必要なのかもしれない。
食卓に並んだ料理を見て、千春が満足そうに微笑む。「なんだか、こういうの久しぶりだね」
「そうだな」
僕らは箸を取り、味噌汁を口に含んだ。ふわりと広がる出汁の味に、どこか懐かしさを感じた。
「うん、ちょうどいい」千春が微笑む。
僕はただ、その横顔を静かに見つめていた。
寝る前に、僕はあのノートに続きを記した。
未来のことは、まだわからない。
でも、僕はそっとペンを走らせた。
「今日、僕らは壁の存在を認めた。もしかしたら、それは壊すための第一歩なのかもしれない。」