プロローグ
朝焼けが静かに部屋の隅を染めていく。カーテンの隙間から差し込む光が、ゆるやかに揺れる。
外では鳥のさえずりが微かに響き、昨夜の雨が残した湿り気が空気に滲んでいた。
僕は、まどろみの中でゆっくりと目を開ける。
隣では妻の千春がまだ眠っている。
寝息は、寄せては返す波のように穏やかで、その横顔は静寂の中に溶け込んでいた。わずかに開いた唇、寝返りとともに揺れるまつ毛。
その姿を見つめながら、僕はふと、心の奥に沈んでいた何かが微かに揺れるのを感じた。
この風景は、何年も変わらないはずだった。
けれど、僕らの間には確かに、目には見えない亀裂が広がっていた。
どこから歪み始めたのか、正確には思い出せない。
ただ、気がつけば沈黙が増え、交わす言葉が減っていた。
それでも、まだここに千春はいる。
その事実が、心の奥で鈍く響く。
やがて千春が目を開けた。
「……おはよう」
声は眠たげで、どこか遠い。
僕は微笑みながら、「おはよう」と返した。
この瞬間を、これからも守っていけるのだろうか。
答えのない問いを抱えながら、僕は静かにベッドを抜け出した。
キッチンへ向かい、コーヒーメーカーのスイッチを入れる。低い機械音が室内に広がり、やがて豆の香ばしい香りが漂い始めた。
窓の外では、夜の名残を抱えた空がゆっくりと朝へと変わっていく。細い雨がまだ音もなく降り注ぎ、濡れた舗道がぼんやりと光を反射していた。
千春と結婚して、もうすぐ七年になる。
僕らの関係は、傍目から見れば理想的だと思う。
互いを尊重し、穏やかに日々を積み重ねてきた。でも、それは表面的なことにすぎないのかもしれない。
フロイトは人間の心を氷山に例えた。見えているのはほんの一部で、本当の問題は水面下に沈んでいる。
「おはよう」
振り返ると、千春が目を覚ましていた。いつの間にか着替えを終え、髪を軽く束ねている。
「おはよう。コーヒー、できてるよ」
「ありがとう」
彼女はマグカップにコーヒーを注ぎ、窓の外を見た。
その横顔を眺めながら、僕は思う。
僕らが見ている景色は、本当に同じものなのだろうか? と。