『前世の誓い』
『前世の誓い』
「隆介が最近よく眠れない日が続いていた。
特に理由がない。仕事は順調で、健康状態も悪くないのに、夜になると妙にそわそわして、なかなか寝付けない。
深夜までスマートフォンをいじったり、テレビを眺めたりしているうちに、気がつけば朝になっていることもしばしばだった。
大手不動産会社のビル管理マネージャーとして、隆介は都心の複数のオフィスビルを担当していた。
法定点検のスケジュール管理から、テナントとの調整、日々の運営管理まで、休む暇もないほど忙しい毎日を送っている。
特に今月は、新規テナントの入居が重なり、例年以上に業務が煩雑になっていた。
その中の一社が、人材派遣会社のクリエイティブスタッフだった。
入居に際して、総務担当者として現れた渚菜緒子との初対面は、隆介にとって何とも言えない印象的な出来事となった。
「はじめまして。クリエイティブスタッフの渚菜緒子と申します。これからお世話になります」
清楚な紺のスーツに身を包んだ彼女は、きちんとした物腰で挨拶をした。
その瞬間、隆介の胸に何かが響いた。それは懐かしさのような、切なさのような、形容しがたい感覚だった。
しかし、プロフェッショナルとしての自分を保ちながら、淡々と業務の説明を続けた。
それから数週間が経過し、菜緒子との仕事上のやり取りは増えていった。
エアコンの温度調節や照明の不具合など、些細な案件でも丁寧に対応する隆介に、菜緒子は常に礼儀正しく接していた。
時折、廊下ですれ違う際の会釈や、エレベーターホールでの短い立ち話も、隆介にとっては密かな楽しみとなっていた。
オフィスビルの中で、菜緒子の存在は静かな輝きを放っていた。
彼女は決して目立つタイプではなかったが、周囲の人々を優しく包み込むような雰囲気を持っていた。
朝一番に出社して、フロアの空気を入れ替えるために窓を開け、観葉植物に水をやる姿が日課となっていた。
その仕草は、まるで古くからの習わしを守るように自然で優美だった。
同じフロアで働く人々は、菜緒子のさりげない気遣いに、知らず知らずのうちに癒されていた。
来客用のお茶は、相手の好みに合わせて何種類も用意され、急な来客にも柔軟に対応できるよう、常に準備が整えられていた。
社内の誰かが体調を崩せば、さりげなく温かい飲み物を差し入れ、書類の整理を手伝っていた。
「渚さんって、本当に素晴らしい方よね」と、同じビルに入居している他社の女性社員が隆介に話しかけてきたことがあった。
「先日も、私が締切に追われて残業していた時、さりげなくお菓子を置いていってくれたの。疲れていた私に『いつもありがとうございます』って。むしろ、こちらこそお礼を言いたいくらいなのに」確かに、菜緒子の要望は常に控えめだった。
ビル管理に関する要望も、「もしご都合が悪ければ、別の方法を考えますので」と、必ず相手の立場を思いやる言葉が添えられていた。
時には自分で解決できることは、人に頼ることなく黙々とこなしていった。
ある雨の朝、隆介は早めに出社した際、フロアの廊下で掃除をする菜緒子の姿を見かけた。
前日の夕方、急な雨で来客が床を濡らしてしまったのだという。
誰かが拭き取りはしたものの、菜緒子は丁寧に床を磨き上げていた。
「朝一番にお客様をお迎えするので」と微笑む彼女の姿に、隆介は胸が締め付けられるような思いを感じた。
社内の若手社員たちからも、菜緒子は信頼されていた。
新入社員が仕事に慣れずに戸惑っているときには、さりげなくアドバイスを送り、失敗したときには「私も以前、同じような経験がありました」と、自分の経験を交えながら励ましの言葉をかけていた。それは決して上から目線の指導ではなく、まるで古くからの友人のような温かみのある支援だった。
昼食時、彼女は社員食堂の片隅でいつも一人で食事をとっていた。周囲から声をかけられれば柔らかな笑顔で応じるものの、自分から輪に加わることは少なかった。
その姿は、どこか儚げで、隆介の保護欲を誘った。
時折、食堂で視線が合うと、さりげない会釈を交わすだけだったが、その瞬間の心の高鳴りを、隆介は誰にも打ち明けることができなかった。
彼女の机の上には、いつも小さな花瓶が置かれていた。季節の花を一輪だけ活けるその趣味は、彼女の繊細な美意識を表していた。
「お花を見ていると、心が落ち着くんです」と語る菜緒子の横顔は、まるで日本画に描かれた美人画のように凛としていた。
隆介はその時、自分の心の中で静かに膨らんでいた感情の正体に気づいた。
机上の一輪の花に目を落とす菜緒子の姿に、これほどまでに心を奪われている自分がいることを、はっきりと認識したのだ。
夜な夜な続く不眠の原因も、きっとこれだったのだろう。
帰宅後のベッドの中で、ふと思い出す彼女の立ち姿や、柔らかな物腰、そして時折見せる儚げな表情。
それらが頭から離れず、心をそわそわとさせ、眠りを遠ざけていたのだ。
だが同時に、菜緒子は遠い存在のように感じられた。
まるでガラスケースの中の美しい人形か、舞台の上で輝くアイドルのように。
近くにいながら、どこか手の届かない場所にいる人のように。
彼女が社員食堂で一人、静かに昼食を取る姿を見かけるたびに、隆介は声をかけたい衝動に駆られた。
しかし、その一歩が踏み出せない。仕事上の会話以外で、どんな言葉を交わせばいいのか。
ビル管理マネージャーとしての自分と、テナント企業の一社員である彼女との間には、越えられない線が引かれているような気がしてならなかった。
それでも、エレベーターホールでばったり出会った時の彼女の「お疲れ様です」という言葉は、一日の疲れを癒すように心地よく響いた。
些細な設備の不具合を報告に来る際の申し訳なさそうな表情も、妙に心に残った。
ある時など、終業後に彼女の部署を通りかかると、残業する同僚たちに温かい飲み物を配っている姿を目にした。
誰かのために、さりげなく尽くす。その姿に触れるたびに、隆介の胸は切なくなった。
自分の中で大切に育んでいるこの想いは、おそらく永遠に片思いのまま終わるのだろう。
そう思うと、どこか安堵する自分もいた。現実の関係に発展することのない、遠い憧れだからこそ、純粋な想いとして心に留めておける。
夜、自宅のベッドに横たわりながら、隆介は時折、今日も菜緒子の机に、どんな花が活けられていたかを思い出していた。
季節を映す一輪の花と、その傍らで微笑む彼女の姿は、まるで一枚の絵のように美しく、そして儚かった。
ある日、ビルの非常階段で思いがけない出来事が起きた。
定期点検のため階段を上っていた隆介は、そこで震えながら座り込んでいる菜緒子を見つけた。
「渚さん!大丈夫ですか?」
「あ、野村さん...すみません。急に目まいが...」
隆介は咄嗟に菜緒子を支えようとした。その瞬間、二人の手が触れ合い、まるで電気が走ったような衝撃が走った。
同時に、二人の脳裏に同じ光景が浮かんだ。古い和風の庭園、着物姿の二人が寄り添って座っている。
しかし、その映像はすぐに霞んで消えてしまった。
その後も、不思議な出来事は続いた。
菜緒子が使う茶器からする音色が、どこか懐かしく感じられたり、彼女の髪から漂う桜の香りが、遠い記憶を呼び覚ますような感覚に襲われたり。
隆介は時々、自分が見知らぬ場所にいるような錯覚に陥ることもあった。
しかし、隆介は自分の感情を抑えていた。ビジネスの場で芽生えた好意は、あくまでも一線を越えてはいけないものだと心に決めていた。
それでも、菜緒子の細やかな気配りや、真摯な仕事ぶりに、日に日に心惹かれていくのを感じずにはいられなかった。
「野村さんって、昔からビル管理の仕事をされていたんですか?」ある日、菜緒子が不意に尋ねた。
「いいえ、以前は建築設計の仕事をしていました。
なぜか、人々の日常を支える仕事に魅力を感じて、この道に転職したんです」
「そうなんですね。私も不思議なんです。この仕事を選んだ理由が。でも、なぜかここに来るべきだという強い直感があって…」
菜緒子の言葉に、隆介は静かに頷いた。二人は言葉にできない何かを共有しているような気がしていた。
それは前世での絆なのか、それとも単なる偶然なのか。
答えは分からないままだった。
しかし、不眠に悩まされていた日々は、いつしか遠い記憶となっていた。
代わりに、明日また彼女に会えるという期待が、隆介の心を満たすようになっていた。
それは、まるで長い旅の途中で、ようやく立ち寄るべき場所に辿り着いたような、穏やかな安堵感だった。
ある静かな昼下がり、隆介は菜緒子が一人で食堂の窓際に座っているのを見かけた。
彼女の前には、手作りのおにぎりが置かれていた。何気なく声をかけた隆介は、思いがけない会話に導かれることになった。
「手作りのお弁当なんですね」
「はい。なぜか最近、お米の味が特別美味しく感じられて」菜緒子は少し照れたように微笑んだ。
「実は私も同じなんです。スーパーで普通に買えるお米なのに、それだけで贅沢な気持ちになることがあって」
その言葉に、菜緒子は意外そうな表情を見せた。
「私もです。時々、お米を研いでいると、まるで大切な宝物を扱っているような...」
二人は思わず見つめ合った。そこには言葉にできない共感があった。
「最近、変な夢を見るんです」菜緒子が静かに語り始めた。
「古い木造の家で、配給のお米を大切そうに研いでいる夢を。でも不思議と、その夢の中では私、着物を着ていて…」
隆介黙って聞いていた。
「私の夢の中では、いつも空襲警報のサイレンが鳴り響いていて…」
「戦争中……」
「でも、家の中には誰かがいて、その人と一緒にお米を炊いている。不思議なことに、その時の匂いまでハッキリと…薪で炊いたお米の香り…」
菜緒子が呟くように言った。
「私の夢の中では、」菜緒子は少し躊躇いながら続けた。
「隣組の人たちと食料を分け合って、少ない材料で工夫して料理を作るんです。大根の葉まで無駄にしないように…」
「乾燥させて保存食にする…」隆介が突然、言葉を継いだ。
「はい、その通りです、よくご存じで…」菜緒子の目が驚きで広がった。
隆介と菜緒子の間に、さらに不思議な出来事が続いた。
ある日の終業後、ビルの非常階段で話し込んでいた二人は、急に停電に見舞われた。
周囲が暗闇に包まれる中、隆介はすぐに非常灯の確認を始めようとしたが、その時菜緒子がぽつりとつぶやいた。
「この感覚、前にもあったような気がします。」
その言葉に足を止めた隆介は、菜緒子の顔を見つめた。
「どういうことですか?」
「分からないんです。でも、今みたいに突然暗くなって、誰かと二人で肩を寄せ合っている光景が浮かんで…その時も私は、あなたのような人と一緒にいた気がするんです。」
隆介の心に不思議な既視感が湧き上がった。暗闇の中、彼女の言葉が妙にリアルに響いた。数秒の沈黙の後、彼もまた口を開いた。
「僕も似たような記憶があるんです。提灯の明かりだけが頼りの薄暗い夜…僕はあなたの隣にいて、何か大切なことを約束していた。」
その言葉に菜緒子の目が驚きで大きく開かれた。「どうしてそんなことを…。」
「自分でも分からない。ただ、今までこんな記憶を思い出すことなんてなかったのに、菜緒子さんと会うようになってから、何度も似た光景が頭をよぎるんです。」
会話が途切れた瞬間、非常灯が点灯し、二人の間に薄明るい光が戻った。互いに視線を交わすと、その場での沈黙が、暗闇以上に重く、そして深く感じられた。
数日後、二人は別の不思議な体験をすることになる。
その日は、空調設備の不調があって、緊急処置を隆介が行った。その時、菜緒子に立会を依頼した。
点検の合間、ふと目を上げた菜緒子が、満月に近い月を見上げて呟いた。
「なんだか、懐かしい気持ちになります。この月を見ていると…」
隆介も彼女の視線を追い、月を見上げた。ふいに、胸の奥にしまい込まれていた感情が押し寄せるように溢れ出した。
「菜緒子さん、僕たち…こんなシーンを体験したような気がしますが…」
その言葉に菜緒子は驚き、少しの間、無言で月を見つめていた。しかし、次に口を開いた時、声はかすかに震えていた。
「そうかもしれませんね。実は、最近不思議な夢を見るんです。古い庭園で、誰かと一緒に月を眺めている夢を。その隣にいるのが、どうしても隆介さんのような気がして…。」
隆介は、彼女の言葉を聞きながら胸が締め付けられるような思いに駆られた。
その感覚は、理屈では説明できないが、どこか心地よい懐かしさでもあった。」
その夜、二人は不思議な同じ夢を見た。
それは夢というより、むしろ記憶の扉が開かれたかのようだった。
昭和20年3月10日の夜。東京の下町で、二人は防空壕の中にいた。
激しい空襲警報のサイレンが鳴り響く中、女性は男性の手を握りしめていた。
「私、怖くないの」女性は震える声で言った。「あなたと一緒にいられるから」
男性は女性を強く抱きしめた。「僕たちはきっとまた会える。必ず探し出すから」
空からは焼夷弾が雨のように降り注ぎ、街は炎に包まれていった。二人の周りでは、悲鳴や叫び声が響き渡っていた。
「次の人生でも、必ずあなたを見つけます」女性は男性の胸に顔を埋めながら言った。
「どんな形であっても、私の心はあなたを覚えているから」
「約束するよ」男性は女性の頬に優しく手を添えた。
「どんな時代でも、どんな場所でも、必ず出会おう」
その時、近くに焼夷弾が落ち、防空壕が激しく揺れた。
天井から土埃が降り注ぐ中、二人は最後の言葉を交わした。
「愛しています」
「愛しています」
崩れ落ちる壁の下で、二人は固く抱き合ったまま、静かに目を閉じた。
現代のオフィスビル。エレベーターの中で、隆介と菜緒子は偶然二人きりになった。
窓の外には、あの日と同じような満月が輝いていた。
二人は言葉を交わすことなく、ただ穏やかな空気の中に佇んでいた。
お互いの心の中では、かつての誓いの言葉が静かに響いていた。
隆介は菜緒子の横顔を見つめながら考えた。
彼女が机に活ける一輪の花も、お茶を入れる仕草も、すべてが懐かしく、そして愛おしい。けれど、その想いを口にすることはなかった。
菜緒子もまた、隆介の優しい物腰に、前世からの温もりを感じていた。
でも、それは心の奥深くにしまっておく、大切な宝物のような気持ちだった。
二人は黙ったまま、それぞれの階で別れていく。
しかし、その沈黙の中には、深い絆と確かな愛が静かに息づいていた。
まるで、八十年の時を超えて、やっと果たされた約束のように。
夜空に輝く満月は、かつての誓いを優しく見守っているかのようだった。
二人の心の中で、愛の記憶は、永遠に生き続けていく。