9 大本寺のスキャンダル
胡麻博士によって、驚愕の事実を知ったふたりであった。
胡麻博士によれば、仏身を傷つけることは、仏教においては「五逆の罪」の一つに当たり、無限地獄に落ちると決まっている大罪だという。
そのような仏像破壊を、江戸時代に、大本寺の僧侶たちが意識的に行ったとしたら大変なスキャンダルだろう。また、現在の大本観音が、悪意のある模像であるということが知れ渡れば、大本村最大の観光資源にケチがつくことも事実だ。あの良順和尚が頑なに調査を拒んだのも頷ける話なのである。
「しかし一体、なぜ千手観音像全体を完全に削ってしまわなかったのでしょう」
と祐介は尋ねた。
「せめてものの仏への配慮でしょう。当時はまだ明治の廃仏毀釈の前でしたし、そういう仏像破壊は恐れ多く、やはりタブーだったのです。また、それだけの手間を費やす余裕がなかったのだとも思えますな」
「ひとつ分からないのは大本寺の僧侶たちはなぜ、平安時代中期に千手観音の模像を作ったのでしょう……」
「それは大本寺と慈光寺の小競り合いが関係しているとわたしは考えております。
平安時代以降、僧兵の出現により、仏教勢力は武装化し、互いに抗争を繰り広げていました。南都北嶺や園城寺の僧兵たちは、まさに武力をもって仏法を打ち立てようとしたのです。
わたしたちの目の前にある十一面観音磨崖仏は、かつて慈光寺の寺領の中にありました。それに対抗して、大本寺の僧侶たちは、千手観音の模像を作って、これこそ伝承に語られ、今昔物語集にも記されている真の千手観音磨崖仏だと喧伝したのです。そうした中、戦国時代にはライバルの慈光寺が、戦火に巻き込まれ焼失してしまう。大本寺にとってはまさにチャンス到来というわけです。江戸時代になり、観光寺のムーブメントが訪れると、僧侶たちはこの本物の千手観音磨崖仏の千手の彫刻部分を削り落として、十一面観音に作り変えてしまったのです」
胡麻博士の説明は、とてつもないリアリティに満ちていたので、祐介と根来は感心し、しきりに頷きながら、時々、鞄の中からジャスミンティーのペットボトルを取り出し、喉の渇きを潤していた。
「それはなかなか大それたことをやってくれたよな。千手観音を十一面観音にねぇ……」
根来は分かっているんだか分かっていないのだか判別つかない呑気な口調で言いながら、磨崖仏に歩み寄った。
「その事実は史料に残されているのですか?」
と羽黒。
「ええ、鎌倉時代の史料を読むと、大本では大本寺と慈光寺の両方で、千手観音の磨崖仏が祀られていると記されているのです。史料が少ないのでその詳細は不明ですが、現在まで慈光寺の千手観音磨崖仏は見つかっていませんでした。この十一面観音像がそれだとすれば、すべて辻褄が合うのです」
と胡麻博士は胸を張った。
「ううむ。しかしそれを学会に発表すると、本当に大本寺の名を汚すようなことにならねえかな……」
と根来はいかにも心配そうな声を上げた。
「だってさ、今、大本寺は観光寺としてすごく人気なんだぜ? もしも、あの千手観音に変なケチがついたら、それこそ客足が途絶えるというか……宿坊に泊まったって良い心地はしねえし……大本寺は、社会から倫理的な批判を受けてしまうわけだろう?」
「ただ歴史が覆るというだけです……歴史的な事実であるならそれを明らかにすべきです。それが歴史学というものではないですか」
と胡麻博士がいつになく硬いことを言うので、根来は腕組みをして唸ってしまった。
「いずれにしても、この十一面観音磨崖仏が奈良時代の造立で、以前は千手観音であったことが証明されたら、それこそ本当に胡麻博士の説は立証されると思うのですが……」
と祐介は言い出した。
「慈光寺の千手観音の史料が少ないというのは、計画的に史料が破棄されたということでしょう。江戸時代の藩がそんなことをするわけがないし、戦国時代に戦火に巻き込まれて消滅したもの以外は、大本寺の僧侶が暗躍して破棄したのだとしても不思議ではない」
「うーむ。ところで、ちょっと思ったんだが、この歴史的なスキャンダルと二ヶ月前の殺人事件ってなんか関連があるんじゃねえのか。だって殺されたのは史学科の学生だったんだろ?」
と根来が言い出したので、祐介と胡麻博士は顔を見合わせた。
「もし、史学科の学生が、このスキャンダルを嗅ぎつけたとしたら……」
口封じのために大本寺の関係者に殺された、という想像がすぐに根来の頭をよぎったのであった。
「すると次の被害者は……」
と祐介ははっとして、根来の顔をじろりと見つめる。根来は深く頷いて、低い声でこう呟くように言った。
「胡麻博士……」
(やめとくれッ……!)
胡麻博士は心の中で叫んだ。