8 十一面観世音菩薩覚醒する
羽黒祐介とその仲間のふたりは、僧坊を後にすると、本堂の前を横切り、昼食をとった蕎麦屋の前をも素通りして、今ではハイキングコースへとなっている裏山へと入っていった。
あたり一面、奇岩や巨岩の並ぶ神域である。栃木県の大谷観音の奇岩群を彷彿とする霊妙な眺めであった。
羽黒祐介が行きがけに、大宮駅の本屋で購入した観光ガイドブックによると、この山には、貴重な石仏が無数に彫られ、祀られているということである。
なんでも古代に民間信仰が発生した場所の多くには、巨木や奇岩といったものがあるのだという。それが古代人の自然信仰であり、山岳信仰となって、後に仏教と結びついて、このような霊場を生んだのだろう。
「和尚さんは洞穴に入るな、と仰ったが、わたしたちは洞穴に入ります。わかったかね……」
と胡麻博士がとんでもないことを言い出したので、根来警部がすぐに眉をひそめ、
「だってさっき立ち入り禁止だって……」
と喉が渇き、しゃがれた声でボソボソとなにか言っている。
「調査に立ち入り禁止という概念は存在しない。いいかね……」
胡麻博士は、鬼のような形相でそう述べると、道の端に地蔵菩薩像が十数体並んでいるところで、踵を返して道から抜けたと思うと、蜥蜴のように岸壁をよじ登り、奇岩の上に仁王立ちとなった。
「その道で本当に合ってますか……」
と祐介は不安になって博士を見上げている。
「我々は常に道なき道をゆくのだ。構わずついてきたまえ……」
胡麻博士は、奇岩から奇岩へと飛び移り、まるで野生のオランウータンのようだった。羽黒祐介と根来警部は、はぐれないように思って急いで、岩に跳び乗る。
「どうも胡麻博士は人間じゃねえみてえだな……」
と根来は、すっかり呆れた声を上げる。
しばらくして、ふたりは胡麻博士を追い、ひとつの岩窟に入っていった。とは言っても入って十メートルも進むと壁に突き当たる小さな洞穴である。そこには胡麻博士が立ち尽くし、岩の間から差し込む光によって照らし出された磨崖仏を見上げているのだった。
「胡麻博士。これは……」
「十一面観音像ですな」
と胡麻博士が言った通り、それは九メートルあまりの観音像であり、頭の上にはさらに十一の観音の面が彫り込まれていたのである。
「制作年代は……」
と祐介が尋ねると、キッと大きく目を見開き胡麻博士。
「奈良時代……」
「奈良時代? するとあの大本観音よりも…….」
「三百年は昔に彫り込まれた磨崖仏です。わたしはこれを発見した時に衝撃を受けた。まず第一に、奈良時代の密教仏で、これほど状態のよいものはなかなかお目にかかれません。そして平安時代の大本寺の建立よりも遥か以前から、この大本の地では、仏教信仰が行われていたという決定的な証拠でもあるのです」
「それならば、早く論文にして、学会に報告すればよいのに……」
「非情なことを申されるな。というのは、この地にはかつて慈光寺という寺がありました。しかし戦国時代、戦国大名、武田信玄と北条氏康の争乱に巻き込まれ伽藍が焼失、以後、完全に姿を消したのです。ここにはそういう寺がかつてあったことを理解してよくお聞きなさい」
「はい」
「わたしがこの十一面観音磨崖仏を調査したところ、光背に当たる部分が人為的に削られて、平らに修正されているのです。わたしはそれを見てすぐにピンっときました。この十一面観音は、かつては千手観音だったのです……」
「なん……なんなん、なんですって?」
と祐介は驚いて聞き返してしまった。
「十一面観世音は、十一の顔を頭の上に持つ観音菩薩です。しかし千手観音も同様に十一の顔を頭の上に持っているのです。すなわち、磨崖仏の千手の彫刻を削ってしまえば、千手観音が十一面観音になってしまうのです」
恐るべき仏像トリックであるが、そんな手間のかかることを一体誰がしたのだろう、と祐介は首を傾げた。
「一体、誰がいつ頃そんなことを……」
「彫り方から鑑定して、おそらく江戸時代。わたしの推理によれば、当時の大本寺の僧侶たちです。彼らはこの磨崖仏を抹消したかったのですよ」
「仏像を抹消するとなにか利益があるのですか?」
「大いにあると言えるでしょう。何故ならば、大本観音は平安時代中期の作とみて間違いがない。それならば、奈良時代からの伝承に登場し、今昔物語集にも記されている千手観音とは、一体どれをことを差すのか……」
「まさか……」
「そのまさかである。ええ、羽黒さん。そして疲れて岩に座っているそこの根来さん。おふたりともよくお聞きください。伝承にある、真実の大本観音とは、この岩窟の十一面観音磨崖仏のことだったのです!」
その時、太陽にかかった雲が、神風に吹き飛ばされたのだろうか、岩の隙間より差し込んでいる一条の光が、霊妙な眩しさとなって十一面観音の顔を照らしたのであった。その微笑みは、奈良時代より呪術的な存在として崇められ、忘却されていった御仏の覚醒を思わせた。見上げている三人は、あまりの神々しさに、息を呑み、合掌せざるを得なかった。