7 自殺用の宝刀
「和尚さん、ひとつ僕たちの前で観音の舞を踊ってみせて頂けませんか」
と出し抜けに羽黒祐介がとんでもないことを良順和尚に言ったので、根来はひやりと肝を冷やしたらしく、
「羽黒。お前いきなりなんて失礼なことを言うんだ!」
と怒鳴った。
「どのような踊りか一度見てみたくなったものでして……」
「観音の舞は、仏に成り切り神変を再現する神聖なものです。このようなところで準備もなしに舞うわけには参りません」
「簡単な動きだけでも披露していただけませんか」
「お断りします」
「わかりました。非礼をお詫び致します。それで、八月の観音祭りは刻一刻と近づいてきているわけですが、準備は進んでいるのでしょうか」
「ええ。しかし当山では、かように二件もの殺人事件が起こったわけですし、もしかすると今年の観音の舞は実施しないかもしれません」
と良順和尚が言い出したので、それまで黙っていた胡麻博士がえっと悲痛な声を上げた。
「それでは、今年の観音祭りは中止なのですか……。それは勿体無い。たとえ境内で殺人事件が起こったとしても、観音の神通力に祈願する心を忘れてはいけないでしょうに……」
八月のこの日、観音祭りの開催日は二週間後に迫ってきていた。今から中止を宣言するのはあまりにも急ではないか。すでに観光ホテルの予約も観光客で埋まっているだろうに……。
「観音祭りを中止にするとは申しておりません。観音の舞だけを中止にして、観音祭り自体は執り行ってよいという考えです」
「観音の舞を披露しないということですか……」
良順和尚がどうも頑なに観音の舞を拒むので、祐介は違和感を抱いたらしく、彼の脳内で一つの推理が組み上がってきている風であった。
(これはまずいぞ……)
良順和尚は、羽黒祐介に追い詰められている焦燥感を抱いた。
「しかし和尚さんも毎年のこととなりますと大変ですなぁ、もう七十歳だというのに。観音の舞を踊るのは、大本寺の住職と決まっているのでしょう?」
と胡麻博士は、完全にいらない質問をしてくる。
(余計なことを言いおって……)
「まあ、まだ若者には負けませんよ。観音の舞を踊れなくなった時が、住職引退の時というのが当山の伝統となっております。観音の舞の際は、宝刀を帯に差して舞うのです。建前は、煩悩を裁断する法具でありますが、実のところそれは、自殺用の宝刀なのです」
と良順和尚は、真教に小刀サイズの宝刀を持ってこさせた。まるで文殊菩薩の利剣を模したような外見をしている。祐介はまじまじとそれを観察している。
有名な比叡山の千日回峰行も、途中でギブアップができないものらしく、中断する際には自殺をしなければならない。そこで、そのための小刀を持って苦行に励むのである。
「すると、和尚さんも観音の舞をやめる時に、自殺をなさるおつもりですか」
と胡麻博士が真顔で尋ねてくるので、良順和尚は、
(そんなわけないだろうッ……!)
と思った。
「それはあくまでも江戸時代までの風習です。山形県の出羽三山で、僧侶が土中入定し、即身仏になる風習があったのと同時代の話ですよ……。それに当山の歴代の住職は、寿命が果てるまで、観音の舞のつとめを果たしたもので自殺した者は一人もおりません。何故わたしが観音の舞をやめる時に自殺しなければならない……」
と良順和尚は、自分で言い出しておいて無性に腹が立ったらしく、ふうっと深く息を吐いた。
「わたしは、いいと思いますよ……」
と胡麻博士は、励ますように呟いた。
(いいって……何がいいんだ……)
良順和尚は、胡麻博士を一瞥すると、羽黒祐介の方に向き直った。
「ところで、良順和尚。寺の裏道を下って石仏群を拝観してもよいでしょうかね」
と胡麻博士が尋ねた瞬間、良順和尚はギョッとして、背筋を鉈で目一杯切り裂かれたような生々しい感覚があった。
(なんだって……)
良順和尚はしばらく放心して、埴輪のような表情でぽかんと胡麻博士の顔を見つめていたが、冷静さを取り戻そうと作り物めいた微笑みを浮かべた。
「おおー、石仏群ね。いいんじゃないですか? ねえ、好きなだけ調べたらいいと思いますよ。しかし山林の奥に洞穴がございますが、あそこは調査とはいえ立ち入らない方がいいですね。なにしろ、足場が悪くて危険なのです。そのために現在は立ち入り禁止になっております」
「わかりました。それじゃ、洞穴には入らないことに致しましょう」
と胡麻博士が言ったので、良順和尚はほっと胸を撫で下ろした。
(これでひとまず安心だ……)
三人は良順和尚に御礼を言うと、そそくさと立ち上がり、白檀の間から出て行った。
満面の笑顔で三人を送り出した良順和尚は、彼らの姿が見えなくなるとしばらくの間、黙然として畳の上に座っていた。
五分も経ったろうか、良順は突然立ち上がり、ゆっくりと床の間に歩み寄った。
その刹那、
「キエエエエエエイッ!」
という鳳凰の鳴き声のごとき叫び声と共に、和尚は、宝刀を振り下ろしていた。たちまち、飾られていた備前焼の壺が真っ二つに割れ、粉砕された破片が舞い散った。
音を聞きつけた真教が、白檀の間に走り込んできた。
「お、和尚。ど、どうなさった……」
良順和尚は、額に汗を浮かべ、呼吸を大きく乱しながら、龍のような目で、粉砕された備前焼の壺を見下ろしていた。
「壺が……」
「壺が?」
真教は、良順の言葉を繰り返す。
「壺が気に入らなかったのよ……」
良順和尚は、殺気の漲った声でそう言うと、僧衣をひるがえし、今度は物思いに耽っている様子で、白檀の間から亡霊のように歩み出て行ったのだった……。