5 怪僧良順登場
僧坊の奥座敷に腰掛けていた大本寺の住職良順は、妙な気配を感じて思わず立ち上がった。
(何だ……。いや、気のせいかもしれぬ。そうだ。真教を呼ぼう……)
直観を非科学的なものだとする科学があったとしても、この時、良順和尚が感じたものは確かに存在していたのである。それは森羅万象のたとえば循環する大気の一つの変化の現れであったことだろう。それはすなわち自然界の動物的な直観に似ている。大空を滑空する鷹が扇ぎ出す僅かな空気の波動が、うさぎの五感に響いて精神感応に似た第六感を生じさせるのと同様の原理なのである。
「真教! 今日、来客はあったか」
呼び出された真教は、まだ三十歳の若輩者ながら、すでに大本寺の実力者であった。座敷の隅に腰を下ろすと、物静かな彼は節目がちに低い声をゆっくりと床に這わせる。
「例の刑事でございます……。二ヶ月前の事件の捜査で現在、観音堂を捜査中とのことです」
「あの愚か者め。また来おったか!」
「今度は、池袋の名探偵羽黒祐介と天正院大学の胡麻博士もご一緒とのこと……」
「なにっ、羽黒祐介だとッ!」
良順和尚は鋭い声で怒鳴ると、畳をわっしわっしと踏みしめながら、真教に歩み寄った。
「羽黒祐介とは、あの羽黒警視の息子の……。ええい。それで羽黒は今どうしておる……」
「間もなくここに参られます。通しますか」
「なに……。いや、ここはまずい。わしのプライバシーが侵害される恐れがあるからだ。僧坊の白檀の間に通したまえ。すぐに迎え討つ……いやお出迎えするので、せいぜい念仏でもして待っているように伝えよ……」
真教は、ははっと平伏してから、そのままあまり体勢を変えずにずりずりと奥座敷から膝を擦って退出した。
(妙だな、羽黒警視の息子が探偵になって、すでにいくつもの難事件を解決したと聞いている。そのような人物が何故、この寺に……)
あの根来という刑事が呼び出したのだろう、という想像はすぐについた。しかし良順和尚は、すぐに僧衣を正すと、羽黒祐介たちが案内されるであろう白檀の間に向かって歩き出した。
(なに、所詮は探偵。寺のことはわかるまい……)
良順和尚が、白檀の間に到着すると、そこにあの金剛力士のような根来警部と並び、閻魔大王のような胡麻博士と、知的な文殊菩薩のような美貌の羽黒祐介が座っていたのであった。
(あの一番若いのが羽黒だな。うむ。彼奴め、できるぞ……!)
そう思いながら良順和尚は、作り物めいた微笑みを浮かべ、三人の前に現れた。
「遠いところ、ようこそおいでになりました。わたくしが当山の住職、良順でございます……」
三人は、緊張している様子でお辞儀をした。そして次々と名乗る。やはり羽黒祐介というのは一番若い男であった。
「あれは本当に大変な事件でしたな。もう二ヶ月になりますか。いえ、警察の方には本当にご尽力頂いて、亡くなった本居もさぞ本望でしょう。こうして皆様に捜査していただいて、おかげさまでもう成仏されたように思います……」
と良順和尚は言いながら、三人の腹のうちを探るのであった。
「成仏は、和尚さんの領域ですから、我々にはなんとも言い難いのですが……。本日は、この私立探偵の羽黒を呼んだので、捜査が一気に進展するのではないかとわたしも期待しているんですよ……」
と根来警部が嬉しそうに言うので、良順和尚の内部ではにわかに闘争心が湧いてきていた。
(それほどの男なのか、貴様は……。羽黒祐介!)
羽黒祐介は、にこにこ笑っているばかりであったが、根来が一通り語り終えると、祐介がずりっと膝で歩み寄ってきた。
(わっ、近寄ってきた……)
「和尚さん。あの日、宿坊には史学科の大学生が数人泊まっていたのですね。殺された国貞さんもその一人だった。その生徒たちから何か質問を受けましたか?」
「受けましたよ。まあ、一般の観光客に語っていることと同等の話しか致しませんでした。史学科の学生とはいえ、二十歳そこそこの童集団にすぎません。わたしにかかれば、ひとたまりもない……」
と良順和尚が学生相手に喧嘩腰なのが、あきらかに不自然であったが、祐介はにこにこしているばかりで気に留めている様子もない。
「和尚さんは観音堂にこもっていらしたのですね。六時過ぎから……」
「ええ。そのことはすでに警察にお話ししている通りです」
「これは僕の仮説にすぎませんが……被害者の学生は、和尚さんに会おうとして観音堂に向かっていたのではないでしょうか……」
と羽黒祐介は言って、良順和尚の目をじろりと見透かすように見つめたのだった。
(こやつ……わしを挑発する気か……いや、その手には乗らぬ)
良順和尚は、ふははっと笑うと、
「探偵さんはおかしなことをおっしゃいますな。観音堂にいて舞を練習する時、わたしは誰の訪問も受け付けない決まりとなっております。それに宿坊に宿泊していたあの学生が、なんだってあんな夜遅くにわたしを訪問するというのです?」
と言って、羽黒祐介の目を睨み返した。
「あの学生の足跡は、観音堂に向かっておりました。わたしの見たところ、観音堂以外にあのぬかるみを横断する必要のある目的地は一つもありません。本堂にゆきたいのなら舗装されている道を辿ったはずです。それに放射状に掘られた溝のうち一本が、まっすぐ観音堂に伸びておりました。そこには元々、彼の足跡が続いていたのではないでしょうか」
良順和尚は、その言葉ににやりと笑った。
「そうかもしれぬし、そうでないかもしれませんな。しかし仮にもしそうであるなら、彼は途中で引き返したことになる。そしてあのぬかるみの中で往生したというのは、どう説明なさる。彼が観音堂に向かっていたかどうかなんてどうだってよいことでしょうに……いずれにしても彼は観音堂に到達していない。すると観音堂にこもっていたわたしとは接触しておらぬ。すなわち無関係というわけですな」
そう言って良順和尚は、羽黒祐介を煙にまいたのだった……。