3 観音の舞
「そもそもあの観音祭りというのは何なんだ……」
と根来が胡麻博士に尋ねる。胡麻博士は鋭い表情を崩さず、
「八月のお盆に行われる夏祭りの一種ですな。特殊な装束に、観音の面をつけて、演舞をするのです。それは毎年、この寺の住職、良順和尚が担当している……」
「和尚は確か、御年七十だと言いますが、それでもまだ観音の舞をご自分で担当されているのですか……」
と祐介は、根来よりは多少詳しく知っているので胡麻博士にそんなことを尋ねた。
「さよう。寺の決まりで和尚しか舞うことができぬのです。代々、住職のみが舞うことのできるのが観音の舞なのです」
それも大変な話だな、と祐介は思った。そうこうしているうちに三人の注文した料理が店員たちによって運ばれてきた。
「かたじけのうございます……」
と胡麻博士は店員に頭を下げると、今度は天地の精霊に呪文を唱えてから、山盛りの蕎麦を啜り始めた。
「なかなか美味えな。どれ、お前の蕎麦はどんな味だ……」
と根来が祐介の蕎麦に箸をつけたので、祐介はジロリと睨んだ。
「いいじゃねえか。ちょっとぐれえ」
「そんなに蕎麦が食べたいなら、まう一枚注文したらいいじゃないですか」
「それじゃ三人前になっちゃうだろう」
「食べれるじゃないですか、根来さんなら」
とふたりが口喧嘩をしているうちに、窓の外の雨は降りやんだようだった。雲の切れ目から一条の光が差し込んでいる。しばらくして、三人は殺人現場と言われている本堂と観音堂とをつなぐ道の前方に広がる山林のぬかるみへと向かった。
「事件当夜、午後八時頃、宿坊に宿泊していた男子学生の国貞忠がどうしてこんなところに歩いてきたのかはよくわからない。しかし、ぬかるみの中にある靴跡は、彼の靴と完全に一致していた。彼は背後から紐のようなもので首を絞められた。それが死因だ。彼の周囲五十センチ内は踏み荒らされていたが、その周囲には六条の溝が彫られている」
「なるほど……」
「この二十メートル先の「空洞の大銀杏」には、寺の女性従業員本居さきなの死体が体育座りの形に折りたたまれて収納されていた。死体発見時、ぬかるみの中に彼女の足跡はどこにも見られなかった……」
と根来は、説明を開始したが、よくわからないので、図を書いてもらうことにした。
「この図をみると、あきらかに「空洞の大銀杏」怪しいじゃないですか……。犯人は女性従業員の死体と共にここに隠れていたのではないですか」
と祐介は根来の描いた図を見ながら言った。
「いや、それがその空洞の銀杏ってのを実際に見てもらえば分かるんだけど、人ひとりしか入れない程度のスペースなのよ……」
と根来が無意味に何度も頷きながら言うので、三人でその「空洞の大銀杏」を見にゆくと、大銀杏の幹が真ん中から縦に避けて、内に空洞ができている。それは確かに、人ひとり入ると、もう空間に余裕はないようだった。
「この空洞の銀杏の周囲には、足跡はひとつもなかったのですね」
「宿坊から駆けつけた観光客たちが、男子学生の死体を発見して駆け寄った時、その「空洞の銀杏」の方向を見ると、地面に足跡らしいものはまったく見えなかったようだ。すると騒ぎを耳にした良順和尚が観音堂から飛び出してきてな。それで、集まった人々のうち、まっさきに「空洞の大銀杏」に近づいた良順和尚が、わっと叫んだので皆が向かうと、その空洞の中に本居さきなっていう女性従業員の死体があったそうだ……」
「するとその銀杏の周囲には、良順和尚の靴跡だけが残っていたわけですね……」
こういう状況を耳にすると、推理小説好きとしては当たり前の話だが、どう考えても、良順和尚が怪しいのだった。しかし祐介はそんな感覚だけで事件を憶測したりはしなかった。
「とにかく現場周辺に犯人らしき足跡はまったくなかったということですね。あったのは、被害者男子学生の国貞忠の足跡と、銀杏へと向かう良順和尚の足跡だけです。しかも後者は、男子学生の死体を発見した段階では、宿坊に宿泊している人々の証言で、銀杏へと向かう足跡はまだ無かったということが分かっているのですね」
「相変わらず、状況の理解が素晴らしいな、その通りだ……」
と根来に褒められて、祐介も嬉しくなる。
「ありがとうございます。それでは、雨が降り止む前に犯行が行われたというのはどうでしょう。それであれば、足跡はつかないのではないですか?」
「それがそうもいかねぇみてえだぁ。まず、雪と違って、雨の場合、まだ降っているからといって、雨が降り積って足跡が消えるってものでもねえし。それに雨が降りやんだのは午後七時だから、事件発生の一時間も前のことだ……。二人とも死亡推定時刻は、午後八時で、死体発見の直前というところまで分かっているんだぜ」
祐介は、足跡トリックの謎を解くために、深く考え込んだ。