2 胡麻博士
山門横の駐車場に車を停めたふたりは、傘を差し、右手の毘沙門天像を少し眺めてから、石段を登って行った。そして二十メートルはあると思われる奇岩を背にした本堂のあるところへゆくと、ようやく傘を片手に立ち尽くしている胡麻博士に再会したのだった。
胡麻博士というのは、天正院大学の民俗学教授である。専門は、仏教民俗学であった。ブラウン色のゆったりとしたスーツ姿で、灰色の髪の毛、顎はモジャモジャの髭に包まれていて、金縁の丸眼鏡の中に、小さくも鋭い目を光らせている。巷では、妖怪博士などと呼ばれていた。
「おお、羽黒さん。そして根来警部。おふたりともお久しぶりですな」
「ええ、今日、先生をお呼びしたのは他でもない。例の千手観音殺人事件に関するもので……」
「その話は後回しで、早速、ご本尊、千手千眼観世音菩薩のお参りを済ませなさい」
胡麻博士がそう言うと、常日頃、不信心なふたりもおっかない気持ちになり、言われるがままに本堂の入り口をくぐって、薄暗く蝋燭の灯がともった堂内の正面を見上げた。
崖の岩肌が露わになっていて、そこに全長九メートルもの石仏が彫られている。頭の上にさらに十一の顔を待ち、光背の後光のように千本の手が拡がっている姿が表現されている観音像である。
「何度見てもすげえな、こりゃあ!」
と根来警部の幾分、調子外れの声が響いたので、胡麻博士はじろりとその顔を睨んだ。
「平安時代中期の作と鑑定できますな。寺伝によると、奈良時代のものらしいが……おそらく伝承や今昔物語集にある観音像はこれよりもさらに三百年は昔に彫られたものでしょうな」
と胡麻博士は説明する。
ふたりは、胡麻博士に言われるがままに、賽銭箱に賽銭を放り込んだり、合掌したり、真言を唱えたりした。
「しかし不謹慎なことを言うようだが、犯人はずいぶん酔狂な真似をした。千手観音の観光寺で、千手観音みてえな殺し方をしたんだからなぁ」
と根来はどこか嬉しそうに言うので、祐介はやれやれと思った。
「わたしが事件の捜査に協力したのは、根来警部たってのお願いということでもありましたが、実は、この千手観音をめぐってある新しい学説を打ち立てようと思っているのでありますよ……」
と胡麻博士は妙にもったいぶった言い方をする。
「なんです。その学説とは……」
「しかしこれはこの寺の僧侶に聞かれると具合が悪いので……」
と御守りを販売したり、御朱印の受付をしている若い僧侶がふたり座っているのを、胡麻博士は横目に見つめて言ったのだった。
「それでは後で伺いましょう……」
と根来警部。
「奈良時代から平安時代の移り目というのは、仏教においては大変な革命期でありました。それまでの奈良を中心とする仏教勢力に対して、平安京に新たなる仏教勢力が誕生したのです。それが比叡山であり、高野山であります。またこの時代は、関東地方への民間仏教の伝播があった。それは比叡山延暦寺座主の円仁という高僧の偉業であったわけです」
と胡麻博士は説明しながら、千手観音像の前をゆっくりと練り歩く。
「この寺も、円仁の創建と伝えられます……」
「すると奈良時代からの伝承というのは、眉唾……」
と祐介が言いかけると、胡麻博士はJBLの大型スピーカーをボリュームマックスした時のような音量の咳払いをした。
「羽黒さん。声が大きいですぞ……。とにかくそのことについては後で、この山の裏手にある洞穴へとご案内しましょう」
と胡麻博士の声には凄まじいものがある。自分で語り出す癖に相槌をミスると恐ろしい鉄槌を下す、閻魔大王のような博士である。
「お参りも済ませたわけだし、このまま現場に向かうのもいいが、そこの茶屋で蕎麦かかつ丼でも食べねえか。俺、腹ぁ、減っちまってよ……」
と根来が言うので、祐介が腕時計を見ると十二時をまわっていた。
本堂を後にした三人は、舗装された山道を下って五分ばかり、境内の茶店というが立派な店構えの蕎麦屋に入った。
胡麻博士は毎度のことながら、ざる蕎麦の大盛りを頼み、根来はかつ丼ととり天の冷やしうどん、祐介は海老の天ぷら付きのざるそばを注文した。
「雨が少しでも止んでくれればよいのですが……」
と胡麻博士は、蕎麦茶を啜りながら言う。気持ちがあらたまったり講義をする時、彼は敬語になる。
「しかし二ヶ月前に殺人事件が起こったというのに観光客の賑わいがありますね」
「ふむ。裏手にハイキングコースがあるとはいえ、大した観光資源もないのに大したものです」
という胡麻博士は、あの千手観音を観光資源としてはあまり評価していないようだった。
祐介ものんびりと背筋を伸ばして、店内に飾られている、日本間に丸まってくつろいでいる猫の油絵などを眺めている。
この三人で集まると、殺人事件の捜査もどこか馬鹿馬鹿しく、呑気で、落語家や漫才師のノリになってしまう。