12 龍虎の争い
「被害者本居さきなが裸足だったことについて、ひとつだけ有力な説があります。死体から放射状に掘られた六本の溝を思い出してください。これはどんな道具で掘られたものですか?」
と羽黒祐介が尋ねる。
「おそらく自分の靴で泥を擦って、硬い地面まで抉り出したのだろう」
と答えているのは根来警部である。
「なるほど。そうなりますと、犯人の靴は泥だらけだったわけです。ぬかるみを歩いたという程度のものではなく、すっかり泥にまみれてしまったような状態となったことでしょう。犯人は、おそらくその靴を交換したかったことでしょう。自分が犯人だということが周囲から見て明らかですからね。そこで犯人は、本居さきなの靴を奪って、自分で履いたのではないでしょうか」
「しかし、それだと犯人は女性ものの靴を履いて逃げたのか……。犯人の足のサイズも相当小さかったことになるのじゃないか?」
根来は、羽黒祐介もたまにはトンチンカンな推理をするものだなぁ、という表情で、まじまじと祐介の顔を見ているのだった。
「被害者の身長は……?」
「確か、157センチという話だったな……」
「157センチ……。良順和尚はぱっと見、確かそれくらいの身長でしたよね」
「な……! お前、まさか良順和尚が犯人だというのか!」
根来は羽黒祐介が突然、そんなことを言うので心の準備が出来ておらず、驚愕の声を上げた。
「ええ、実はその通りです。今から良順和尚と対決をしに僧坊へゆきましょう。このトリックが正しければ、良順和尚の他に殺人を犯せる人物はいません」
祐介はそう言うと、根来警部を連れて、胡麻博士を観音堂に取り残したままで、ふたりで僧坊へと向かったのだった。
羽黒祐介は、自分の推理が正しいという実感を持っていた。
間もなく、良順和尚を白檀の間に誘い出したふたりは、並んで和尚を囲むようにして、睨みつけている。
「なんですかな、突然、お話とは……」
「和尚さん。殺人事件の犯人はどうやらあなたようですね」
「なに……。貴様ら、何を申しておるか。証拠があるのか、証拠が……」
「今から説明する足跡トリックが実行できるのは実際あなただけなのですよ、和尚さん……」
「な、何……ふはは。それならば、勿体ぶらずにそのトリックとやらを話してみるがよい」
「ええ。それでは、早速、ご説明しましょう!」
こうして、羽黒祐介対良順和尚の対決の火蓋が切って落とされたのだった。畳と古木の香り漂う美しい白檀の間を舞台に、双者は互いに睨み合い、立ち尽くして、しばらく一言も発することがなかった。龍虎の争いというのは、いつの時代もこの睨み合いから始まる。ふたりの殺気が白檀の間に充満し、天を押し上げ、地を揺るがし、人の心を惑わすのである。
「そろそろ、説明を開始したらどうだ……」
と良順和尚がしびれを切らして言った。
「わかりました。いつまでもこうして黙っていては仕方がありませんよね。まずはこの根来さんが描いた図をご覧ください」
「下手だな……」
「うるさい」
良順和尚の感想に、根来が突っ込んだ。
「それではトリックを説明しましょう。まず国貞忠は、本居さきなをおぶって、ぬかるみを渡ってゆきました。おぶっていたので、ぬかるみには国貞忠の足跡しか残っていなかったのです。次に、本居さきなはワイヤーのようなもので、国貞忠の首を後ろから締めて彼を殺害しました。国貞忠は、ぬかるみにうつ伏せに倒れます。本居さきなは自分の靴で泥を擦って、放射状の六本の溝をつくりました。そしてこの溝を通って、空洞の大銀杏の中に隠れたのです。宿坊の三人の学生が、国貞忠の死体に気付き、騒ぎ出したので、一旦隠れようと考えたのです。
あなたは観音堂で舞を練習していましたが、生徒たちの声を聞きつけて、ぬかるみへと向かいました。その途中で、空洞の大銀杏の中に隠れている本居さきなの姿に気付いたのです。あなたはすぐに事実を悟りました。殺人犯である本居さきなを生かしてはおけない……。そう考えたあなたは他の人に内緒で、空洞の大銀杏へと歩み寄った。そして空洞の大銀杏の中に隠れている彼女の首にワイヤーのようなものをかけて、絞殺してしまったのです。そして、あの宝刀で洋服を切り、靴も脱がせた。そしてそれを空洞の大銀杏の凹みに隠して、死体を発見したばかりのように振る舞い、生徒たちを呼び寄せたのです……」
その話をじっと聞いていた良順和尚は突然、笑い声を上げた。そして、にんまりと微笑みを浮かべると祐介にこう言った。
「実に見事だよ、羽黒探偵。それならば足跡の謎も一応説明がつくというものだ。しかしながら、それだとわたしは本居さきな一人を殺したというだけ。それも本居さきなは国貞忠殺害の真犯人だということになるね。わたしは、独善的ではあっても、殺人犯に鉄槌を下した人物ということになる。それで本当に良いのかね。それに本居さきなの服は何故、脱がされていたのかね。その謎がまったく解明されておらぬではないか。また、わたしが空洞の大銀杏に隠れている人物を見かけたというだけで、殺人犯だと決めつけ、正義感から突然、ワイヤー状のものを取り出して絞殺したというのはあまりにも衝動的で不自然ではないかね。それでは、根来警部にお尋ねしよう。国貞忠と本居さきな殺害の凶器は、同じものだったのかね?」
「ああ……本居さきなの首に残されたワイヤー状の痕から、国貞忠の血痕や皮膚の一部が発見されている。つまりふたりは一つのワイヤー状の凶器によって絞殺されているようだ」
という根来の説明に、良順和尚は嬉しそうに何度も頷いていた。
「ありがとう。根来警部。それでは、本居さきなは、空洞の大銀杏の中でもそのワイヤー状の凶器を持っていたわけだ。すると君は、わたしがその凶器を本居さきなから奪い取って、反対に本居さきなを絞殺したというのかね。しかし君の言うとおりなら本居さきなも相当、他者を警戒していたはずだから、そう簡単にゆくはずがないだろう。まあ、わたしを逮捕するのならばするがよい。しかし今の状況なら証拠不十分になってもおかしくない上、わたしは本居さきな一人を殺したということになり、国貞忠は殺していないということになってしまうが、君はそれでも良いのかね?」
羽黒祐介は、この挑発的な言葉にヒヤリとしたのかハンカチで額を拭いた。
根来の目にも、羽黒祐介は敗れたように見えた。それもそのはずである。良順和尚は被害者のふたりを直接、手を下して殺していたのだから……。
羽黒祐介は、龍虎合戦に敗北してしまったのだろうか、彼は言い返す言葉もなくて、しばし黙り込んでしまった。