1 千手観音の磨崖仏
作中登場する大本寺は、実在していない架空の寺院であり、ここで述べられるところのものは史実ではないことをあらかじめ明記しておく。またモデルの寺院については、読者の想像にお任せするものとする。
作者
天然の岸壁に彫られた石仏を磨崖仏と云う。全国に多くの優れた作例が見られるが、群馬県の大本観音と呼ばれる千手観音像は、九メートルもの大きさの磨崖仏で、奈良時代からさまざまな伝承があり、今昔物語集にもその記述が見られるほどで、最近ではその御仏を一度お参りしようとする参拝客が詰め掛け、大本村の大本寺は、知る人ぞ知る観光地と化していた。
名探偵羽黒祐介は、二ヶ月ほど前に大本寺で起こったという二件の殺人事件の捜査で、根来警部に誘われて、群馬県へと急行した。
背後から絞殺された男子学生国貞忠のうつ伏せの死体が、境内裏の雨上がりのぬかるみの中に横たわり、その周囲には光背の後光のような形状で、六本の長い溝が掘られていたのである。その外見は、まるで多面多臂の変化観音を彷彿とさせるものであった。
不可解なことはそればかりではなく、殺人現場には、死体発見時、被害者の足跡しか見られなかったということである。
被害者は、都内の大学に通う史学科の学生で、その日は大本寺の宿坊に宿泊していた。警察の捜査によると、この学生は、大本寺の住職が観音の面をかぶって観音祭りの舞の練習を一人でしているという観音堂へと向かっている最中に何者かに背後から襲われ、絞殺されたようであった。
殺害時刻は、午後八時前後。
宿坊に宿泊していた観光客や、僧侶たちが駆けつけたのも午後八時前後であるから、死体発見は殺人の発生後間もなかったことになる。
ところが発見された死体は一つではなかったのである。
被害者が倒れていた位置から二十メートルのところに、江戸時代、落雷を受けて、真ん中から縦に避けている「空洞の大銀杏」があった。
この空洞の大銀杏の中に、寺の女性従業員が体を折り曲げた状態で、絞殺されて亡くなっていたのである。
彼女も絞殺であった。
奇妙なことに彼女の遺体は肌着姿で、洋服を着ていなかったが、絞殺以外の暴行を受けた形跡はまったく見られなかった。
そして長髪の髪の毛が根本から、刃物のようなもので、ざんぎられていたのである。
卍
この恐ろしく不可解な事件の解決のために、今、羽黒祐介は高崎駅に到着したのであった。ここから根来警部の車で二時間。大本村へと向かう。
「死体を大本村の千手観音に見立てるとは、犯人もひどく罰当たりなやつですね」
と二十九歳の絶世の美青年、名探偵羽黒祐介は助手席で呟くように言った。
「まあな。しかし、人殺しをする時点で罰当たりもクソもねえだろう」
群馬県警の鬼警部、根来拾三は吐き捨てるように言った。そりゃそうだな、と祐介は思った。
ふたりは車を走らせながら、大本村がひどく山奥にあることを実感した。六月初めのこの時、梅雨前線の影響で、天から雨が降り注いで、霊験あらたかな山々は灰色の霧に包まれていたのであった。
「六月にしちゃ冷えるな……。山の冷気というやつか……」
「ここに胡麻博士がいれば、神仏の霊気だなんておっしゃるのでしょうね」
と祐介は冗談のつもりで言った。
「ところが今、大本寺にはその胡麻博士がいるんだ」
「なんですって……不吉だな」
胡麻博士とは、天正院大学の民俗学教授である。本名を胡麻零士という。度々、仏教民俗学の因習めいた事件の捜査に関わってくるのであった。
「ああ、まったく不吉な妖怪博士だよ。しかし今度の捜査には、民俗学のアドバイザーがいた方が良いと思ってな。俺が電話で呼んだんだよ……」
「確かに千手観音に見立てた殺人事件ですもんね……」
根来は、うぉおおっと雄叫びを上げた。というのも車のスピードを出し過ぎて、急カーブで崖から転落しそうになったのだった。ギリギリのところで道を曲がり切ると根来はさらに加速した。
「気をつけてくださいね……」
「今のは危なかったな……。千手観音に見立てた殺人……。それどころじゃねえ、現場には犯人の足跡がなかったんだ。あの湿地のぬかるみの中に死体がぽつんと……」
「被害者本人の足跡はあったんですよね。それが実は犯人の足跡だったんじゃないですか?」
「いや、その足跡は、被害者の靴と完全に一致しているし、ひとり分しかなかった。また足跡をぴったり重ね合わせて、往復の足跡を、片道の足跡に見せかけるトリックがあるじゃねえか。あれもできるか調べたら、どうやら不可能そうだった。つまりあまりにもぬかるみの足跡は綺麗すぎるんだ……」
と根来は言いながら、反省していないらしく、山道を勢いよく曲がる。
(いつものことながら、運転が荒いな……)
祐介がそう思っていると、山道の中途に荘厳な檜皮葺きの山門がそびえているのが見えてきた。石柱には「大本寺」と彫られている。
「おお、着いたぞ。よかったな。崖から転落しなくて……」
と根来は呑気な声で、まるで他人事と思っているようなことを言った。