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「はぁ……。なんてことだ……」
お兄さまの重いため息が聞こえる。
「アレンディード殿下……。どうして……ティアに……」
え……?
足音が遠ざかってゆく。
私は呆然としてドアを見つめた。
「殿、下……?」
◇*◇
「な……なに、これ……」
店の前にできている大行列に、開いた口が塞がらない。
えっ!? な、なにこれ!? 幻覚!?
「お……お嬢さま……。私、幻を見ているのかな……?」
リリアが震える手で、私の袖を引っ張る。
「だとしたら、私も見てるわ。その幻……」
「オレも見てる……」
マックスも、呆然と呟いた。
お兄さまがトースターの試作品を持ってきてくださった日から、一週間が経過していた。
アレンさんはというと、次の日には戻ってきて、無事に信頼する大神官さまに報告できたこと。そしてその大神官さまより、『よい判断だと思います。三百年前にはそうしていたというのが、現在においても最善である保証はありません。なによりもまず、精霊たちの聖女への想いを汲んで差し上げるべきでしょう』とのお言葉をいただいたこと。そして――デミトナ辺境伯領で耳にした噂の真偽について、聖都と王都でアレンさんなりに調べた結果を報告してくれた。
アリス・ルミエス嬢は本当に聖都にある離宮に住んでいて、クリスティアン王太子殿下はそこに足繁く通っているのは紛れもない事実らしい。
あとは――陛下の身辺を知ることなんかできないから、陛下が王太子殿下に失望しているだとか、公務から遠ざけているだとか、それについてはわからないままだけれど、そういった噂があること、民の間で王太子殿下の評判が下がりつつあることは間違いないみたい。
『聖騎士ですから、基本は質素倹約。贅沢は敵なのですが……ティアのパンが恋しかったです』
すべての報告を終えたあと、そう言って少し恥ずかしそうに笑ったアレンさん。
それがとても嬉しくて、笑顔も本当に綺麗で――結局私は、彼に身元については尋ねなかった。
ただ、前日にお兄さまがトースターの試作品を持ってきてくださったこと。私のパンを爆発的に広めるためのアイディアをたくさん出してくださったことを報告するに留めた。
もちろん、気にならないわけじゃない。だって『殿下』だよ? 王族にのみ使われる敬称だよ?それがつくって――気にならないわけがないよ。知りたいよ。
だって、国王陛下の御子は、クリスティアン王太子殿下ただ一人のはず。
陛下には弟がいらっしゃって、その――王位継承順位第二位の王弟殿下はご結婚はされていない。当然、御子もいらっしゃらない。
ゲームの設定と違っていたら困るから、神殿で王室の系図を再度確認したけれど、間違いない。
じゃあ、クリスティアン王太子殿下より少し歳上の『殿下』の敬称で呼ばれる御方って誰よ? ゲームのキャラクター設定にも、王室の系図にも、そんな人物は存在しないのよ。
だから、気になる。知りたい。
でも、それを尋ねてしまったら――きっともうこれまでのような関係ではいられないんだろう。
それは、嫌!
だったら、これまでどおりでいい。
彼は、聖騎士のアレンさん。それ以上でも、以下でもない。真面目で、誠実で、とても優しい。この世のものとは思えないほどの超絶美形だけど、それをまるで意識することなく行動するから、ときどきものすごい破壊力を発揮する無自覚タラシ。
魔法と神聖力の両方を使うすごい聖騎士で、イフリートが一目置くほど強い。
それなのに、私の「土下座しますよ」ってわけのわからない脅しに困っちゃう、可愛い人。
私を、私のパンを、大好きだって言ってくれた人。
傍にいて守りしますと言ってくれた人。
私の迷いを取り払ってくれた人――。
それでいい。
それだけで充分だ。
これ以上を知る必要なんてない。
だから――訊かないことに決めた。




