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生きるために食べる――。
ああ、そうだ。この世界のモデルは十九世紀半ばのヨーロッパだ。二十一世紀の世界とは違う、ヨーロッパとはいえまだまだ発展途上。
日本では江戸時代後期。黒船が来航したころよ。もちろん、飽食なんて言葉すらなかった時代だ。
この国の民の多くは、心が満たされる食事をまだ知らない――。
「でも、このパンで変わるよ。民は、おいしいものが腹だけではなく心も満たすことを知るだろう。そして、このパンがこの国のスタンダードになれば、それが当たり前になるんだ」
「おいしいものでお腹だけではなく心も満たすのが……当たり前に……」
「そう。そして、食に対する意識が変わるのは平民だけじゃない。我々貴族もだ。『美食イコール高価』という概念がまず崩壊する。美食を楽しむために金を積む必要なんてない。なんてったってティアのパンは、平民が日常的に買うことができる値段なんだからね。そうだろう?」
お兄さまが、ワクワクが止まらないといった様子でニヤリと口角を上げる。
「おそらく、ティアのパンが皮切りになる。さまざまな食の概念が覆るよ。貴族なら、調理工程が多い料理が上品だ。地を這う動物よりも空を飛ぶ動物のほうが上等で食べる価値がある、とかね。つまりだ」
お兄さまはそこで言葉を切ると、私を見つめて満足げに目を細めた。
「ティアのパンは、平民・貴族関係なく――みんなの食事に対する意識を変える。そしてそれは、間違いなくこの国を変えるよ」
鼓動が早くなる。
私のパンで、心を満たす食事を知ってもらえる?
私のパンが、人々の日々の喜びになるの?
そして、私のパンが食の概念を変える?
国を――変える?
「そんなこと……考えたことありませんでした……」
ただ、罰ゲームパンに耐えられなかっただけで……。おいしいパンが食べたい一心で……。
「…………」
高鳴る胸を、両手で押さえる。
悪役令嬢でも、人々を幸せにできるの? 国に貢献できるの?
バグのせいで設定やシナリオが狂ってしまったからではなく、それによってヒロインから聖女の立場や役割を奪ってしまった結果でもなく、アヴァリティアのままで?
どうしよう! 嬉しい!
そして、すごくドキドキするし、ワクワクする! やってみたい!
「怒られる覚悟で告白するけれど、ティアがなにをやろうとしているにしろ、失敗すればいいって思ってたんだ。大失敗すればきっと家に戻ってきてくれるだろう?」
お兄さまがやれやれと肩をすくめる。
その思いがけない言葉に、目を丸くした。
「えっ……?」
「だから、あえて知ろうとしなかった。知るのを避けてきた。知ったら、手伝ってあげたくなってしまうから。もちろん、ティアを無視することなんてできないから、君のお願い――注文どおりに魔道具や道具を作る手伝いはしたけれど、応援する気持ちなんて微塵もなかった。それどころか、失敗することを望んでやってたんだ」
「ええっ!?」
「金を湯水のごとく使って作ったんだ。ああ、もちろん、我がアシェンフォード公爵家にとっては微々たる額さ。懐はまったく痛まない。でもその費用を回収できるほどの利益を上げられなければ、それは間違いなく失敗だろう?」
「あ……」
「それは、僕にとってチャンスだ。君を家に連れ戻す口実になる」
お兄さまは「でも……」と言って、参ったとばかりに微笑んだ。
「これほどのものを作り上げていたなんてね……」
愛しさに溢れた優しい眼差しに、トクンと心臓が鳴る。
「僕のティアはすごいなぁ」
「っ……お兄さま……」
「もう少し早く向き合うべきだったな。そうしたら、もっとバックアップできたのに」
はぁ~っとひどく残念そうにため息をつく。




