I Will Say Goodbye
二階の職員室の窓から、正面に古い団地が見える。
毎晩同じ部屋にだけ明かりが灯る。灯ったと思っていたら実は筒抜けで向こう側の建物の明かりだったという部屋もある。あとは暗闇。時間の経過とともに生命を失っていくようなそれは、航に対して目に焼き付けろと訴えかけているような気がする。
「掛塚先生、仕事…こっそり持って帰ってくれませんかね。毎晩遅くまで校舎の明かりがついているって、近隣の方から電話がありましてね。」
これ以上ブラックな職場だと思われたら困るんですよ…。
教頭の高沢が航に近寄ってきて穏やかな口調で諭す。気をつけます、と答えながら航は高沢と視線を合わせず、手にした書類をデスクの端に放る。
高沢は表情を崩さぬまま舌打ちし、無言で自分のデスクに戻る。それが四時間前。
新卒で赴任した中学では、これ程のことは無かった。四年間務め二校目となる今の学校に来てから酷い状況になった。
「担任の掛塚先生が対応しなくてどうするんです。クラスのことを一番知っているのは貴方でしょう。」
教頭も学年主任も全く頼りにならなかった。不登校、いじめ、家庭でのネグレクト、出会い系サイトのトラブルで誘拐されそうになった女子生徒もいた。日本の教育問題のフルコース。同じように全てを丸投げにされた同僚は休職に追い込まれた。
自分もいつまで持つのか、不安を感じて眠れぬ夜も多い。心が壊れるのが先か退職を決意するのが先か…。
日々、それを考えながら教壇に立っている。
午後十時になると航はラジオのスイッチを入れた。自分の他は誰もいない職員室に、その声は響き渡る。
「From the night broadcasting room 夜の放送室から。こんばんは、南崎結です。木曜夜のひと時を一緒にお過ごしください…。」
あいつ、頑張ってたんだな…。
高校の同級生だった。もっといえば付き合っていた。そう言っていいよな。
「…をお送りしました。それではまた明日のお昼の放送で。本日の担当は三年七組の南崎でした。」
放送部にいた頃から、その心地良い声と話しぶりにファンが多かった。リクエストに応えて流す曲も流行りのJポップだけでなく、通好みのブラックミュージックや知る人ぞ知るバンドの隠れた名曲など、彼女が担当する木曜日は他の曜日と一線を画していると評判になった。
「若いのに、よくそんな曲知ってるなあ…。」
三十代のジャズ好きの国語教師から問われた時、リクエストしてくれたの航です、と自分の名前を出されたことがあった。何も準備していなかった航は、うちの親父が好きな曲で…と上手くその場を逃れた記憶がある。
地方テレビ局のアナウンサーになり、気が付いたらFMのパーソナリティを務めていた。プロになっていった過程を航は知らない。お互いに多忙で、大学二年生の頃には殆ど会うこともなくなっていた。自然消滅に近い形でけりを着け、それ以降は近況を知らせる年賀状のやり取りを除けば一度も連絡を取っていない。
「頭の中にこんな音楽が流れている人って…私はすごく羨ましいなって、思います。お送りしたのは…。」
資料を作る手が止まっている。彼女の声を聴いている間に作業がはかどったためしは無い。それでもいいと思って毎週聴いてきた。
「さて、ここで大事なお知らせです。わたくし南崎結は、本日をもちましてこの番組を卒業させていただくことになりました…。」
バックに流れるピアノの音色だけが、数秒間の空白を埋める。
「…本当は、もっと続けたかったです。ラジオが大好きで、私からラジオの喋りを取ったら何も残らないというような人間です。けれども…けじめは着けなければ、そう思って卒業することにしました。」
声が微かに震えているのが分かる。悔しいんだろうな、と思った。
スキャンダルは彼女の落ち度だ。そしてそれを許さないのが今の時代だ。だが…。
「最後に、ここまで聴いてくれたリスナーの皆さんには感謝してもしきれない思いです。そして…もう一人だけ、どうしてもお礼を言いたい人が…。」
予感など全く無かった。もういいよ聴いている方が辛い、と思い始めていた矢先だった。
「高校の同級生で、私がこの世界に入るきっかけを作ってくれた…当時付き合っていた航君、ありがとう。もし聴いてくれていたらうれしいな、聴いていないよね…。」
ふふ、と結が笑った。高校生の頃と同じ、笑い方だった。
「航君は今、学校の先生をしていて、遅くまで大変な思いで働いているはず。だから私からのお礼として、最後にサプライズを送らせてもらいます…。」
呆然とした思いで航はラジオの前から動けない。名前を出されたからだけではない。こんな言葉を残してあいつは…。
好きな曲でも、かけてくれるのだろうか…。脳の一部に微かな冷静さが残っていて、航はそんなことを思う。
「最終回のこの放送は、スタジオからではなく、ある場所から生放送でお送りしています。察しのいいリスナーの皆さんなら、たぶんもうお分かりですよね…。」
完全に予想を裏切られた。それって、まさか…。
「南崎が自殺を図ったらしい。病院に搬送されたそうだが、その後の容態は分からない。」
高校時代の友人から回ってきた情報だった。今から二日前。「夜の放送室」は事前収録だから、最終回を録り終えた後、大量の睡眠薬を飲んだことになる。
生放送という言葉が真っ赤な嘘になることは彼女自身覚悟していたのだろうか。それともその時点では、そこまで思い詰めてはいなかったのだろうか。
車で十五分も走ればその場所に着く。航は職員室を飛び出し階段を駆け下りると、駐車場に止めてあった自分の車に飛び乗りエンジンを吹かす。
行ったところで何があるとも思えない。だが、呼ばれている。航はそう思った。
結、待ってろ…。
そこに何があるのか、どんな結がいるのか、懐かしさと恐怖と哀しさとがごっちゃになった感情のまま、航は車を走らせる。
暗闇に立つ県立高校の校舎には、一室だけ明かりが灯っていた。
開いているはずのない昇降口は無施錠で、航は靴を脱ぐことも忘れ、すぐ隣の階段を二階へと駆け上がる。暗い廊下の先、職員室に隣接する放送室から明かりが漏れ、そこを目指して走れと結が言っているような気がする。
「結の声が好きだ、いやそれはたぶん俺だけじゃなく、みんなが結の声はいいって言うと思う。だからさ…。」
昼の放送の反響がまだ少なかったころ、彼女は自分の喋りがどうなのかを気にしていた。
放送室のドアノブに手をかける。一瞬ためらってからそれを手前に引く。暗闇に突然現れた眩い空間に視界を奪われ、慣れるのに少しの間を要した…。
放送ブースの電源が入ったまま、むかし航がリクエストしたジャズ・ナンバーが流れている。九月の初旬にしては気温の低い、静かな雨の日のラストナンバーだったと記憶している。
「訳すると“さよならを言うよ”って意味なんですよね。しっとりとした…ちょっと切ないこういう日に、私は結構あっていると思います…。」
今、マイクの前には誰もいない。そして手前に置かれた原稿の最後に、付箋紙で、ありがと…と書かれていた。
それは間違いなく、結が書いた文字だった。