ある皇帝の追憶③
私は帝国に帰ってすぐ、彼女に礼状を書いた。
まだ、母国語である帝国語の読み書きも満足にできず、王国語を理解するマクエス卿に代筆してもらったわけであるが。彼に勧められるまでもなく、幼心に、彼女とのつながりを保ちたいと思った。
そこですかさずマクエス卿は、誰に見られてもよい内容にする重要性を私に説いた。よほど信頼が置けて、能力の高い影の者でも手に入れない限り、秘密の遣り取りなどできない。むしろ、身内にこそ用心しなければならないのだと。
本当は、彼女に教わり、さっそく実行した(祖母に僕の魔法を見せた)ことを報告したかったのだが、結局、当り障りのない礼状を送ることになった。
二週間後、彼女から返事が届いた。
これもまた当り障りのない、季節の話題からはじまって、こちらの健康を祈る、常識的な礼状に対する返礼で、それでも私はうれしかったのだが。
「おっ! これはカイラス殿下の似姿ですな」
単調な線で描かれていながら、それは確かに鏡で見る私とよく似ていて、あどけなさの中にも凛々しさを際立たせてあるのは、エリス嬢のやさしさであろう。
「追伸。カイラス殿下の健やかなる成長を願って描きました。海神様に祈りを捧げる際に灯すという、蝋燭の火に翳していただきたく存じます。紙に火が燃え移っては大変なので、どうかカイラス殿下、もう少し体がご成長されるまでは、マクエス侯爵にお願いしてください」
書き添えられていた文章を翻訳しつつ読み上げていたマクエス卿の声が、私にあえて聞かせるような独り言へと移行する。
「我が国の風習が誤って伝わっているのであろうか? いや、しかし、彼の方に限って…」
もともとは女たちが、海に出る夫や恋人の無事を願って、木片にその似姿を描き、海に投じたのがはじまりと言われている。女神である海神に、男たちが召されないようにするための身代わりだ。
時が経つにつれ、男女に関係なく、自分自身や、家族をはじめ親しき者の似姿に願い事を書き添えて、素焼きの鉢の中で燃やすようになった。木片だったものも、紙に代わった。
「あらためて見ると、妙に行間が空いるような、そして、そこが少しごわごわと」
「なんなのだ?」
「いえ。とりあえず、やってみましょう」
エリス嬢こそ、僕にとっては夢のような力を持った魔法使いだ。
私は子供心に、何かまたすごいことが起こるに違いないと、わくわくしながら待った。
その時のマクエス卿は、いつもであれば、魔力のない私を気遣って火打石を使うところ、それも忘れて、魔法で蝋燭に火を灯した。当然「早く、早く」と言うばかりの私が、そんなことを気にするはずもない。
立ち上がった炎の先に、熱による揺らぎが見える。そこにエリス嬢の手による私の似姿が翳される。正確にはそれに添えられた文章の部分だが。
「わぁ…」
「なんと!」
何かあると予測していたはずのマクエス卿も、私に負けず劣らず感嘆の声を上げる。
彼が不自然だと指摘した行間に、焦げ茶色に浮き上がった文字。
王国語だ。読めはしないけれど、私を感動させるには十分だった。
「…これは、レモンの絞り汁をインク代わりにして書きました。あぶり出しという魔法です。絵を描いて遊んでも楽しいです。カイラス殿下も、ぜひ、お試しください」
すぐに描きたい、遊びたいとねだる私に、マクエス卿は苦笑して、侍女に紅茶を用意するよう命じ、多めに添えさせたレモンを手ずから絞ってくれた。
十分に新しい遊び、いや魔法を堪能し、それでも次の一枚を狙っていると、諭すようにマクエス卿が語りかけてくる。
「カイラス殿下。殿下も、この手紙と同じように工夫をすれば、お祖母様にご協力いただけるようになったことも、一部の畑にさっそく貝の粉を撒いたことも、バーランド嬢に伝えることができますよ」
三歳児に、どこまで理解できたかと思うだろう?
この時、私は、急激にものごとを理解した。それほどの衝撃だったのだ。
いや、下地は十分にできていた。幼い身で長い旅をし、無関心とはまた違う人の悪意に晒され、疲れ切っていたところに、船を模した乗り物にはしゃぎ、はじめて見る家具や、衣類を心地よく感じ、これまた初めて目にする玩具や食事を堪能して、既存の魔法とは違う、未知の現象を目の当たりにしたのだ。二度も!
そして、この手紙である。
私は、まんまとマクエス卿に乗せられて、三歳児としては驚異的な速さで、帝国語の読み書きを習得し、次いで王国語も習いはじめた。
いまでは、あぶり出しにするまでもなく、言質を取らせない、迂遠な言い回しで遣り取りすることができる。
皇室付きの影を使えるようになったことも大きい。
しかし、この影は、フカラス帝国皇室に忠誠を誓いながら、どこぞの国の暗部とも密かに繋がっているらしく、自分たち独自の信念でもって動いている節がある。それでも、技術的に大変優秀ではあるので、これを使いこなしてこその皇帝といったところか。
なってみて初めてわかることだが、皇帝などお飾りだ。政治は貴族たちがする。
しかし、難しい顔をして座っているだけの飾りでも、なければ国がまとまらないのだから不思議だ。
皇帝位に座る私は、私ではない。
その権威が絶対であるからこそ、けして無茶はできないが、手順さえ間違えなければ、そこにわずかに私の色を混ぜて、話すことも行動することもできる。
私は、成長するに従って、感性だけで好き嫌いを言っていたことを、論理的に考えられるようになった。
私の頭の中で、エリス嬢は当然、好意の最上位に置かれている。
彼女の凄さは、目新しいことを次々に示せることだけではない。
幼子といえども、すべてを悟られていると感じたら、私のような立場の人間は、脅威を感じずにはいられないはずなのに、まるきり恐れなど抱かせず、むしろ安堵させられてしまう。
この存在に従っていれば、何の問題もない、すべてがうまくいくと思う。
未熟な私の手本となるべく、すべてを委ねたくなる、その誘惑に、必死で抗っていたマクエス卿。さすがに他国の王家に嫁ぐ者が、まったくの好意から行動することなどあり得ないからだ。
にもかかわらず、エリス嬢は、その当たり前に当てはめて考えることが、とても難しい。
立場上、彼女ははっきりとものを言わないし、書かない。それを貴族らしいと言ってしまえばそれまでだが、彼女のそれにはどこか余裕というか、遊び心が感じられる。
多くのことを示唆しているその一節を、相手が理解しようとしまいと、気にも留めない大らかさ。それが、無関心という冷たさにつながらないのはなぜだろう。
彼女の意図することを正確に理解するためには、一定の水準に達した教育を受けるのと並行して、多くの無駄とも思える経験をし、感性をも養う必要がある。
私は、一つの事象に対していくつもの原因を探し、一つの言葉からいくつもの意味を感じ取り、一つの問題についていくつもの解決方法を模索するようになった。