リリアーナ
「今日は会えなかったな…」
スペートは筆耕の仕事を終え、落胆しながら家路をとぼとぼと進む。想い人であるリリアーナに今日は会えなかったのだ。乾燥した土の地面を蹴とばすようにして土を巻き上げながら歩く。
今している筆耕の仕事は体が悪いスペートが自分でもできる仕事はないものかと、必死になって文字を覚え、町の看板やチラシに書いてあるカリグラフィーの特徴を暗記しては、木の棒と土の地面で練習し、得たものだった。筆耕業なぞというたいそうな名前をひっさげてはいるが、やっていることは読み書きができない者のための手紙と遺書の代筆が大半であった。たまに店の看板の筆耕の依頼なども来るのだが、露店でしがなくやっているスペートのもとにやってくるものは往々にして金に余裕のない者ばかりだ。自身困窮しているスペートも、余裕のない中自分の店を持つために奔走する彼らを見て思うことがないわけではない。値切り交渉に困り顔で応じてしまう彼はあまりに人が良すぎると言えるだろう。
リリアーナと出会ったのは筆耕業を始めてからしばらく経ち、みすぼらしい露店ながらも、腕は確かだとスペートの噂が広まり始めた頃であった。少し赤みを帯びた茶色の髪を持ち、そばかすを顔に付けたその少女が、代筆屋のペンのマークを確認するように凝視して、戸惑いながらも「手紙を書いてくれますか」と、おずおずと依頼してきたのはまだ記憶に新しい。読み書きができない者を客とする性質上、看板には文字ではなく、ペンのマークを書くのだ。
「構いませんよ。どなた宛ですか。」
明らかにまだ十四・五の年齢である彼女は金を持っているのだろうかと訝しみ、「お金はありますか」といつものように訊ねることをしなかったのは、その日新しい色のインクが手に入って上機嫌だったからだろうか。
「お父さん。お父さんに書きたいの。」
何と健気なことであろうか。話を聞くと、王都に一人住む父のために手紙を書きたいのだという。
「紙やインクの色によって値段が違うんですが、どれにしますか?この半紙が最も安価です。代筆一枚当たり鉄貨2枚です。色紙は一枚当たり半銅貨1枚、こちらの柄ものとなると銅貨二枚と、ちょっとかかりますね。黒以外のインクを使用なさりたければ、追加で半銅貨一枚お願いします。」
「では、この薄桃の色紙に紺のインクでお願いします」
見栄を張りたかったのだろうか、或いははじめての手紙をきちんとしたものにしたかったのであろうか、結局彼女が色紙と色インクを選んだのはその最初の一回だけであった。
手紙の代筆という性質上、彼女の性格や人柄、暮らしぶりや交友関係なども自然と知ることになる。端的に言えば、彼女は相当な箱入り娘のようだった。純粋で世間知らずなのだ。しかし、どうも聞く話では読み書きを教えぬほど貧乏で無教養な家庭とは思えない。なぜだ、なぜ私に代筆を頼むのだ、と一度聞いてみたことがある。
「字はある程度読み書きできるんだけど、わたし、馬鹿だからよく字を忘れたり、間違えちゃったりするの。それに、あなたに書いてもらった方がきれいだわ。」
と言われた。自分のことをほんとうに馬鹿と思っているわけではないことはすぐにわかったので、ただ、「ありがとう。これからも頑張って書くよ」とだけ返した。
三年が経ち、当時14歳だったリリアーナは17歳に、17歳だったスペートは20歳になっている。お互い、華奢で薄っぺらい体だったのが、肉も付き、大人に近づいたが、二人とも同世代と比べると細身だ。よく、スペートはリリアーナのことを、まるで猫のようだ、と思う。十に届かぬ童の持つような、すらりとした肢体でしゃらりと歩くのだ。わずかなふくらみだったリリアーナの胸だって、たいして成長せず、お椀型のままだ。
彼女の不思議なところは、口調は尊大なくせに性根が真逆なことだ。少し偉ぶったような、少し突き放すような、そんな喋り方をいつもする。初めの方はその喋り方に戸惑ったりもしたのだが、慣れてくるといじらしいとさえ思えるようになった。要するに、自分を大きく見せたい子供なのだ。他人とのかかわり方がよくわからないだけの子供なのだ。
「ちっ…!」
思い出に浸っていると、かついでいた代筆の台に使う木の板を道具袋を取り落としてしまって、悪態をつく。背中に負担をかけないように不自然な角度でゆっくりと膝を曲げながらそれらを拾い、再び担ぐ。背骨を襲う痛みに耐えながら、老人のように丸めた背中の上に道具を担いで、みっともなく縮こまりながら、家に向かって歩き出す。――スペートは側弯症なのだ。
この奇妙に歪んだ体のせいで、「ヘビ人間」だとか「くねくね」だとか、よくわからないあだ名で幼いころはよくからかわれた。不便も多い。自分の境遇を呪っては、「自分などまだまだだ、世の中にはもっと苦労をされている方もいる」と自分に言いきかせ、意味のない比較をしたことは数知れない。ただ、「もっと苦労をしている人間もいる」という事実に対して、自分が全く何の感動も、感情も、抱いていないことは明らかであった。だって、もしそうなら、何度も自分に言い聞かせるなんてことはしていないはずだから。そして、そもそも自分がこのような思考をしていることに気づいてこう思うのだ。――ああ、自分はなんと卑しい人間なんだろう、死んでしまえばいいのに、と。
スペートにとっては途轍もなく長い帰路がようやく終わり、家にたどり着いた。インクの瓶が割れてしまわないように慎重に荷物を下ろし、部屋の隅から毛布を引き摺り出してきて何もない床に寝転がる。
――静かだ。天井や壁がやけに遠く感じられる。今日はこのまま寝よう。食事は明日の朝でいい。目を閉じ、毛布の感触に集中する。外気に触れているところが寒く感じられて、頭まですっぽりとかぶさるように引っ張り上げる。それでも何だか足りないような気がして、少し離れたところに転がっていた大きめの薪を抱きしめると、その硬い表面に頬を摺り寄せて眠りにつくのだった。
筆耕……書家が頼まれた文章や文字を書いて金銭を得ること。
側弯症……背骨が左右に弯曲している状態。場合によっては手術を要する。