プロローグ
処女作です。楽しんでいってください。
どれくらいそうしていたのだろう。男は濡れそぼって表面がてらてらと光っている革のフードを目深にかぶり、長らく酷使して鉛のようになった股関節から下の部分を規則的に回転させ、ただひたすらに斜面を登る。
「急がねば。」
時間は夜明け前、まだ薄明にもなりきらぬころ。逸る気持ちを抑え道を急ぐ。時間は残り少ない。今日を逃せばまた数十年単位で待たなければいけないのだ。しかし、焦ってはいけない。霧雨で濡れた石の表面に足を取られないように足をまっすぐ下すのだ。
「…右足、左足。…右足、左足。…右足、左足。……」
繰り返しの動作をするうち、特定のリズムが出来上がる。右足の方が力が強く余力があるので、右足をまず上の方の足場に持っていき、太ももを力ませて体を持ち上げると同時に右足の隣に左足を着地させる。
少しの達成感とそれに伴って起こる疲労感を感じながら、ようやく尾根の上まで登りきった。雨に濡れて顔に張り付いた長い髪を手で横に払い、一息つく。辺りが少し明るんでいる。薄ぼんやりと白み、発光する灰色の空の下、遠山の峰々が黛青色に塗りこめられてどうと横たわっている。
よし、少し時間はかかってしまったがこの光量ならまだ間に合いそうだ。溜息一つだけつくと、右側の尾根の上に沿って歩を再開する。
標高は植生が変わるほど高くなく、尾根の上といえど広葉樹が生い茂る。狭い尾根の上を木々の幹を避けながらしばらく登り進むと、山頂には似つかわしくなく広い平地に出た。辺りは深い霧に包まれ、視界がきかない。
「間に合った…!」
フードを脱ぎ去り、下を向いたまま、両の手で顔をごしごしと擦り、土が混じって赤茶けた雨粒と汗をぬぐい落す。目を見開いたかと思うと、にやり、と顔をゆがめてゆっくりと顔を上げた。
何か――巨大なものが横にうねり動いている。轟轟と、まるでその場だけ雨音がなくなってしまったのではと錯覚するほどの大きな音を静かに上げながら、シュルシュルと力強く木々の間で翡翠色の何かがうごめいている。音なのか、振動なのか、区別のつかぬモノが地より、空気より、次々と体を襲い、嬲り退っていく。
ふと、その何かの動きと共に対流していた霧の隙間より、巨大な眼と目が合った。
鳴動が、――止んだ。不自然な静けさの中、全身の血管が、溶かした鉄を流し込んだかのように熱く脈打ち、皮膚はぞわり、と泡立つ。雨の湿気とはまた違う、生き物特有の生温かな湿気を含んだ空気によって霧が払われ、“彼”の全体像が露わになった。――雨竜である。雨と水を司る気高き古き竜である。豊穣と循環の象徴。それが今、目の前に在った。
彼に翼はない。彼は雨そのもの。そんなものなど必要ない。ただただそこに泰然と大きく在って、四本の足で地面を鷲掴み、こちらを見下ろしている。何秒であろうか、永遠とも思える間、見つめ合った後、彼はゆっくりと瞬きをすると、徐に顔を背け、霧の奥へと戻っていった。
「…っああ、なんと美しいんだ!」
茫然と、自分が息をするのも忘れていたことにすら気づかぬまま、感嘆のつぶやきを漏らす。何と、偉大。何と及ばぬことか。「竜」とは、あれほどのものなのか。――すさまじい。
男にはやるべきことがあった。しかし動けなかった。感動や畏怖からではない。まるでマラソンを終えた後のように、心臓がバクバクと拍動し、少しでも動こうものなら心臓がその機能を停止してしまいそうで、動けなかったのだ。アドレナリンで体と脳が鋭敏になっている。
自分のものではなくなってしまったような体を無理やり動かして深呼吸を繰り返し、気を落ち着かせる。もう霧は晴れ、薄明の時は過ぎ、世界はオレンジ色に染まり始めている。彼は去ったのだ。自分を安心させるように言い聞かせ、ぐるぐると二三周、円を描いてゆっくりと歩く。
気が落ち着いたころ、ふう、とひとつ大きな溜息をつき、男は地面を見ながら、何やら探し出した。見落としがないように、同じところを何度も行ったり来たりしながら。岩の陰や木の根の裏も確認しながら。やがて、男は濡れて柔らかくなった落ち葉の合間にエメラルドに輝くそれを見つけた。本来、有形無形の彼らが残すただ唯一の物質体。存在が損なわれないように、恭しく両手で持ち上げると、男は大事そうにそれを抱きかかえ、来た道を帰って行った。
黛青色……遠景の中の山々にみられるような黛のような深い青色。