九十八話
百雷。北西の空に幾筋もの雷が落ちたのが見えた。それは遥か遠方での光りであるにも関わらず、蒼龍ノ國の〈龍流亰〉の大門をも照らし、数呼吸置いて地を叩くほどの音がやってくる。周囲の者は身をすくめて衿を寄せるのに、サンは光のあった方を視界に収めただけで歩調を速める。
一刻も早く蒼龍将と会い、話し合いの心を持たせねばならない。カゲツがどんな扱いを受けるかもわからない元老院側に命を懸けて、交渉しに言ってくれたのだから。
前線が張られた港に入ると、兵士達はサンを見るなり、烈刀士だ! と叫んだ。笠を被り、黒い烈刀士の戦装束に身をやつした者が野営地に現れたのだから、強襲だと思っても仕方がない。サンは自分を狙ったものかもわからない白刃の銀光を幾つも躱し、河に躍り出た。すでに体には気が満ち満ちており、河に足が着く前には白緑の炎じみた空気を纏い肌は雪花石膏のように白く、そこに鮮血色の隈取りを浮かび上がらせていた。羽衣を完全な状態で纏ったサンは、しかし河に沈むことなく水面を駆ける。空をも駆けることができる羽衣は、衣と大鎧を合わせたような姿をもってサンを対岸へと運ばせた。
しかし、サンが烈刀士が潜んでいるであろう河岸に近づいたところ、上空から落ちてくる物に気がついて足を止める。自分が進んでいたでろうその水面に、黒い矢が飛沫をあげて落ちた。
サンは水の上でしばし止まり、対岸の森を睨む。そこに一人の人影が出てくるのを見て自分の肩が強張るのを感じた。
——ヴィアドラ最強の男。
臆するな。そう言い聞かせるも、立ちはだかる者が蒼龍将であり、また羽衣を完全に纏った姿であることに恐怖を感じずにはいられなかった。
蒼龍将が初めて見せる羽衣は、自分のものとよく似ていた。白緑で、狩衣と大鎧を合わせたようなもの。だが、サンの面頬とは似ても似つかぬ鴉の嘴をもった厳しい形相の仮面をかぶっており、手には到底片手では持てない長さを誇る大太刀を軽々と握っていた。引き絞った弓矢を相手に無防備に立っている、そんな気分にさせられた。
蒼龍将は静かに河の上を歩いてきた。話すには遠すぎる、そんな距離で足を止め、河の波の畝りの上で二人は向き合った。
「久方ぶりよな、龍人」
「久しぶりです、蒼龍将」
「怒りに惑い、鬼を追い行方知れずであったと聞いておったが、生きておったとは。吉兆吉兆」
蒼龍将らしい明朗快活な声音に、快晴な空を呼びそうな笑い声。懐かしく、サンは思わず綻んだ。
「ライガは連れ戻しました。鬼とのことでもあなたと話したいことがたくさんあります。だけど、蒼龍将」
蒼龍将は片手を前に出した。
「皆まで言うな。それよりも訊こう。おぬしは白蟻か」
白蟻。烈刀士になり、砦の迎陽で蒼龍将と話したときに聞いた言葉だ。家を支える柱を喰い散らかす者のことだ。そして、蒼龍将が意味するものは私腹を肥やす大名や元老院のことだ。
サンは答えられなかった。俺は白蟻なのだろうか。鬼との共存の可能性を見た唯一の者として鬼との戦いをやめさせたい俺、守るべき人達の暮らしと未来を守るために、元老院と烈刀士の衝突を止めたい俺。
「あなたの言う白蟻ではない」
「しかし、それがしと肩を並べる気もないのであろう」
サンは悲しげに目を細めた。
「そんな顔をするな。戦をするのは間違いかも知れぬ。しかし、それも己が為であればの話。それがしの刀はヴィアドラを想ってのこと、廉潔なる初志他ならぬ。ヴィアドラの剣たるおぬしが味方につけば、ヴィアドラに残った僅かなモノノフの魂を返り咲かせることができよう。なにゆえ、おぬしはそこに立つ」
「蒼龍将。俺は、この戦争に意味を見出せません。あなたは長年元老院へ不満を募らせてきた。そして今、氏族を束ね、古に成立していた民と烈刀士の互いに尊敬し合うヴィアドラを取り戻そうとしている。それが血を流すことで手に入れられると、本当に思っているんですか?」
「龍人よ」蒼龍将は大太刀を握った手の力を緩めた。長い鋒が水面に触れる。「元老院、それ自体はなくてはならぬもの。しかし、私腹を肥やす議員が増えてきた以上、天星命様の慧眼も失われたとみる。もはや、ヴィアドラに神はおらぬ。戦神がおぬしのような若者を選んだことも、もはや誤りとしか思えぬ。やり直すには大きな力が必要になったのだ。これも定めの道、突き進むまでのこと」
「そうならない道があっても、それを選ばずに突き進みますか? 同胞を斬りますか」
蒼龍将は己の刀の刃を見つめる。
「それ以外に道はない。病を断つ。断つことが苦しくないとは言わぬ。だが、やらねばならぬのだ。たとえ穢れた所業であっても、未来を切り拓くためには必要ゆえ」
サンは拳を握り深呼吸をする。この分からず屋。そう言いたい気持ちを抑え込む。
「ならば訊こう。龍人、おぬしはどうする」
この際言ってしまおう。だけど、そうすればきっと気が触れたと思われるかも知れない。それでも真実を告げなければならないだろう。
「蒼龍将、俺が見据える先はヴィアドラの本当の未来、鬼と人の共存です。数千年も続く人と鬼の戦いの連鎖、それを終わらせることです。それには対話が必要。それなのに、人同士で争っている。人同士が手を取り合わないかぎりその先はない。元老院と、漣豪雹と話し合ってください。過去の因縁は捨てて、民のために、あなたが守ろうとしているヴィアドラ、蹤いてきている氏族のためにも、どうか話し合いを」
サンは首を曲げて願った。しかし答えはない。
「おぬしが正直に腹を割って話したのだ。それがしも応えよう」
蒼龍将は羽衣を揺らめかせながら、西——ヴィアドラの空を見た。
「戦乱渦巻く十年も前のこと。それがしの兄は、蒼龍軍総士であった。誰もが認める軍師であり熱い漢であった。その右腕があやつよ」
声に含まれる嘲笑が誰を指しているのか、漣豪雹だとすぐにわかった。
「荘園との戦に終わりが見えない日々の中、あやつの公刀衆――軍の規模のこと。大きい順に、連合、衆、組、班、公刀衆となる――からとある情報がもたらされた。それは荘園の連合が話し合いの場を設けると言うものだった。情報の真偽を問う声こそあったものの、兄は豪雹の言葉を信じた。そして死んだ。今でも忘れぬ。話し合いの場として選ばれた山で、それがしらは待ち伏せにあったのだ。過去にも見たことがないほどの荘園と軍の熾烈な戦。両陣営甚大な被害を被った。荘園は連合の長達を、軍はそれがしの兄と重鎮を。荘園側はすぐさま次の長を選び、軍は豪雹を総士に立てた。そうして行われた対談で平和が訪れた。それがしは多くの部下を失った。兄に続く者のほとんどがその待ち伏せで命を失ったのだ。なにかがおかしい。裏切った荘園主どもをなぜそうも受け入れられるのか。それがしは受け入れられなかった。だが、その理由はすぐにわかった。死んだはずの、兄の部下がそれがしの元へやってきたのだ」
蒼龍将は真実と言うものを語った。
蒼龍将の兄、風斬海風の部下が命を危険に晒してまで蒼龍将の元にやってきて、今際の言葉に遺したのは〝海風様は漣に討たれもうした〟という言葉だった。つまり、蒼龍将の兄である風斬海風は、豪雹の裏切りによって討たれた。豪雹は海風の右腕でありながら、水面下で荘園主の別の勢力と手を組み、蒼龍軍総士である海風と邪魔な荘園主を消し去ったのだ。
漣豪雹が、戦場で同胞を討つのは現実的ではないような気がした。今、蒼龍将が話してくれた真実というものも証拠がない。真が父親は殺されたと言っていたが、正直なところわからない。確かめる術がないのだ。
「風斬家とそれに連なる武家の報復を恐れた豪雹は、それがしが気づくよりも早く刺客を放っていた。兄の部下がそれがしの元で事切れて間も無く、それがしは刺客に襲われ、同時に家族の危険を悟った。だが、時すでに遅し。唯一の幸いは、兄の忘れ形見である真を助けられた、ただその一点のみよ。居場所のないそれがしは、烈刀士になる他なかった」
豪雹のやったことは、確かに正しいとは言えない。だけど、間違いだとも言えないのではないだろうか。戦乱の世の正しき終わり方なんてものはないのかも知れない。だからこそ、豪雹は同胞を討つ覚悟を貫いたのだ。しかも、敵と手を組んで……。
サンは己のやろうとしていること、蒼龍将に望む話し合いの場を求めることがただの理想論に思えて、蝋燭の火のように心の芯が揺れる。
「龍人よ。豪雹は仲間を裏切るような痴れ者。そんな者が、そんな嘘の塊を土台にヴィアドラが築けるか? 否。ゆえに、それがしはすべきことをする」
鬼との共存、元老院と烈刀士の協和。ただの夢なのだろうか。俺は己の命欲しさにライガを一度見捨てた。そんなのが嫌で本当の強さも求めた。だけど、根は卑怯者なのだ。そんな俺が言うことは偽物でしかない。
サンは自分の羽衣が薄くなっていくのに気付きながら目を瞑った。偽物だとわかっているから、本物を目指して進んでいるじゃないか。理想論だろうが、理想を目指さずどうしてそれに辿り着けるだろうか。子供だと言われてもいい、甘いと嗤われてもいい。俺はそれを貫くと、それが大切なものを守ることに繋がると信じているのだから。
サンの蝋燭は焚き火となり、炎の柱となり、山の口で煮え激る岩漿となった。同時に羽衣の濃さが増し、一層鎧を思わせた。
蒼龍将が腰から瓢箪を取り口を手刀で切った。大太刀の長く冷ややかな抜き身に瓢箪の中身をかける。酒の匂いが漂い、やはり信心深いと感じる。戦神は戦いの神ではあるが、同時に天下の酒好きだったらしい。酒は神と繋がる力があるらしい。戦う前の、蒼龍将の儀式のようなものなのだ。それならば、もはや言葉は不要というものだろう。
「蒼龍将、あとは剣で語る。そういうことですね」
「さよう。して、おぬしも廉潔なる初志を試すがよい」




